私は趣味で小説を書いている。
けっこうなファンタジーも書いたりするのだが、そのジャンルによくある「バトルシーン」というものを、ほとんど書かない。
バトルものの王道といえば、やはり少年漫画だろう。
バトル漫画というジャンルは、昭和以前から連綿としてある。
私もその道を通過してきた。
勢いだけで成立しているような、クソガキ御用達の愛すべき漫画たち。
いいおっさんになった現在、当然のように「子ども向け漫画」を子どもと同じ視線では楽しめなくなっている。
あたりまえのことではあるのだが、全年齢向けに作品を書くうえでは、学びなおしておくにしくはない。
そこで戦う必要ある? その方法成立する?
と目を細めて読むのは、おそらく正しい読み方ではないだろう。
「バトルシーンのためのバトルシーン」も、いかがなものかと思う。
結末がわかりきっているような、見え見えのやっつけ仕事。
ごっそりと読み飛ばしても、ストーリー展開になんの支障もない。
内容はないよ、読むな、感じろ、と。
それでも、たまにキラリと光るシーンなどもあり、バトル漫画自体きらいではない。
辟易することも少なくないが、対象年齢を考えれば許容範囲だ。
とくに昔の少年漫画を読んでいるとたまに遭遇するのが、主要キャラを「生き返らせる」場面だ。
これがもう、虫唾が走ってしょうがない。
人が死ぬシーンが印象的で、感情を揺さぶるのはなぜか?
なぜなら「人は死んだら生き返らないから」だ。
私が書いているファンタジー小説でも、「生き返る」という宗教行為だけは厳に慎んでいる。
ファンタジーならいいじゃない、と思われるかもしれないが、そのやり方だとダブルスタンダードになりやすい。
たとえばファンタジーRPGでは、呪文ひとつで簡単に生き返ってしまう。
とすれば、仲間が死んでもべつに悲しむ必要がなくなる。
ところが昔の少年漫画では、たいそう悲しんでいる。
怒り狂って、理屈抜きで強い敵を倒しちゃったりする。
そんな子どもだましの展開を喜ぶ、テキトーな読者に向けた作品ってわけか……。
と、とうてい同意できない自分自身を省察するや否や、そんな私がテキトーに読んでいる人間とみなす人々は「まじめに読んでいる」のかもしれない、と気づく。
いみじくも、バカに合わせろ! と叫んだ編集者の思惑どおり。
そういう需要があることは事実なのだと、連想が回収されていく。
私にとっては「テキトーに復活した主要キャラ」と「感動の再会」を果たすシーンも、そこには「お仕着せの意外性」あるいは「伏線なしのどんでん返し」あたりをでっち上げようとした作者および編集者の苦労を、わざとらしく慮ったりしてみる。
そんな目で読む少年誌は、じつに「もののあはれ」を感じさせる。
少年漫画のバトル以上に苦手なのが、恋愛だ。
ひたすらデザートだけが出てくる食事を、想像していただきたい。
それ自体、べつに否定はしないしそういうのが好きなひとは好きなだけ食べればいいが、私には無理だ。
全編そればかりが並ぶ、つまるところ少女漫画。
苦手だ……といって、否定しているわけではない。
なんならその価値を、必要以上に高く評価さえしている。
自分にできないことができる人間は、とりあえず尊敬しておいたほうがいい。
よくこんなん書けるな、すげえな、と感心半分、イライラ半分で少女漫画を読むことが、まれによくある。
対象年齢や性別、属性を考えて作品を読む必要はある。
それでよしとする世界観、それ自体を学ぶことは、外国の文化を学ぶのに似て、むしろ興味深い。
こちらがあえて踏み込んでいる以上、郷に従うべきだ。
人それぞれ自分の世界があって、尊重しなければならない。
そもそもいい年をした私が、少年や少女の世界に踏み込んで文句をつけるのは、あきらかにまちがっている。
若手が情熱で生み出した作品を、年寄りは謙虚に読むべきなのだ。
そんな年寄りの私が、若いころに楽しんだ作品がある。
シリーズ化されていて、「続編」がたまに出る。
好きな世界観の作品だ。
おっさんホイホイと言われようが、無条件で買ってしまう。
しかしそれが、すなおに楽しめるとはかぎらない。
自分にまったく合わないテイスト、コレジャナイ感が満載だったりする。
見方によっては、オールドファンの突っ込みとか老害とか腐されることもあろう。
が、気に入らないものは気に入らない。
結局のところ、私は続編をつくりだす若手にとって「対象外」になってしまったのだ、と気づく。
彼らはその「続編」を、楽しんでくれる若者たちに向けて、つくっているのだ。
私は年をとりすぎてしまった。
長生きはするものなのか、長く生きるとろくなことはないのか、むずかしいところだ。
と、そこで終わってしまえば、私もただの年寄り。
若手がつくってくれないなら、自分でつくればいいじゃない。
そんなわけで、現代ファンタジー小説を書いている。
バトルシーンは、あまり重視していない……。