祖国を失ったら生きていけない!
と叫ぶ軍人の映画を観た。
軍から給料をもらって生きている彼の場合、たぶんまちがってはいないのだろう。
戦後教育を受けた私にとっても、自分の職業を愛する彼の選択の自由については、認めるのにやぶさかではない。
ただ愛国心なるものを考えるとき、いくつか引っかかる点がないわけではない。
たとえば、国のために死ぬ軍人と、神のために死ぬ信者は、どうちがうのか?
すくなくとも人殺しが自己を正当化する方法のなかで、いちばん強力かつ妥当であると認められうるもののひとつ、それが「正規軍」だろう。
彼らが活躍する戦争映画を観るたびに、残念ながらうまく感情移入できない自分に困っている。
昔は文字どおり国家間の「戦争」が描かれることが多かったし、最近では反政府組織やテロリストなどが「敵」として設定されることが増えた。
映画なので毎度「敵認定」された兵士たちを派手に殺しまくってくれるわけだが、そういう主人公タイプへの違和感がぬぐえない。
人質を助けるとか、仲間を守るとか、理由づけについては当然のように、なるべく文句のつけようがないように設定されてはいる。
大作であるほどシナリオのほうも当然、コンプライアンス必須のご時世だ。
対テロ組織や特殊部隊の「個人」のみにフォーカスしてくれれば、まだしも観られる。
間断なく、政府やら上層部やら戦術家やらが、国益やら治安やら外交やらについて割り込んでくると、もう無理、窒息する。
彼らは結局、ただの「駒」なのだと思い知らされる。
殺しの手先が、なにやら浅薄な理屈を口走ったところで、きわめて共感しづらい。
仲間が死んだ? そりゃそうだろ、おまえらもっと殺してんじゃん。
あんたらが「殺し合うのは勝手」なんだが、民間人を巻き込むんじゃないよ。
そんな感じで、もう観ている時間がつらくてしょうがない。
またぞろ派手な爆発シーンの予算がおいくら万円かな、などとソロバンをはじくことで注意をそらしてみたりする。
戦争映画というジャンルそのものは、おおむね過去の栄光を引きずる戦勝国が多い。
たとえばアメリカやロシアだが、最近は中国やトルコもよく見かけるようになった。
べつにトルコはきらいじゃないが、絶賛クルド人大虐殺中、しかもそれは正義、なぜなら相手はテロリストだから。
……うーん、アフガン(マンダムの口調で)。
ここで一度、思考を停止する。
私は自分が正しいと思って書いているが、批判されている側もまた正しいと思ってやっている(と思われる)。
としたら、どこに均衡を求めるべきか?
人類が、みずから決めて実行している行為を、ゆめゆめ軽んじるべきではない。
偉大なドイツ民族はユダヤ人を絶滅させようと決め、ある程度は成功した。
コンキスタドールやピルグリム・ファーザーズの子孫たちも、アメリカの先住民を9割がた消し去ることに成功している。
国境線という架空の直線で大陸を分割し、その枠組みは現在も兵器などを売りつける役に立っている。
三角貿易から任意の国境分割まで、これらの現実はすべて、政商たちの利益を最優先した結果だ。
言い換えれば、現に利用されている枠組みを変更することは、たいへん不愉快な被害が生じる。
既得権という魔物が吐き出す、もっとも有名なお題目が「武力による現状変更の禁止」だろう。
彼ら自身が、武力によって変更した地図が、すなわち現状である。
後発の連中に同じことをされたら都合がわるい、よってそれは禁止します、という宣言。
かつての過ちを訂正もせずに、これからの過ちについては禁止する。
そのほうが比較的マシだから、という理屈はたしかに成立するが、道義的にはどうかとも思う。
では、クルド人やウイグル族やロヒンギャたちは、この世から消し去ってしまったほうがよいのか?
そちらのほうが比較的マシだと考える人々もいる、という理屈はどの程度まで正しいのか?
現状追認のイデオロギーは、正しいからこそ、つねに在りつづけるのではないか?
などと考えを進めてみたが、あまりしっくりはこなかった。
たぶん私の受けた教育と、私自身の遺伝子のせいだろう。
日本人はアメリカに逆らったので大虐殺されて当然だった、という教育を受けたことに、いまでもしっくりきていない。
どう考えても殺したほうがわるいに決まっているし、たくさん殺したほうが正義という議論自体が、そもそもおかしい。
だから軍人がなにをほざこうが、そう簡単に受け入れることができない。
アメリカ大統領で評価の高い人物を順に並べたとき、勝ち戦をとった人物の評価が軒並み高い。
たくさんの人間を殺そうと決断した人物、たとえば南北戦争や太平洋戦争という「戦時の大統領」だ。
理屈としては理解しやすいのだが、同意するのがむずかしい。
新時代の「コロンブスの卵」だと思う。
コロンブスが歴史上に果たした「英雄」的役割の一方、「先住民大量虐殺」の先鞭をつけたクズ野郎という指摘も昨今かしましい。
いまのところ、前者が大きなウエイトを占めている印象だが、流行とは文字どおり流動的だ。
大航海時代という流行に乗って、彼らはできることをやった。
市民や労働者のための革命から、地球温暖化問題まで、その時代ごとに「流行」はある。
発想の転換をしよう。
自由に他人を殺戮し、略奪してもいい(よかった)としたら、都合がいいのはだれか?
われわれの考え方は、たとえば教育などによって、だれかに都合がいいように醸成される。
人間は古来からずっと自由だったが、その「範囲」が、当初の「小集団」から「国」へと発展したのが、現在までの人類史だ。
自由主義陣営は専制主義を敵視しているが、そもそも「国が決めたほうが都合がいい」可能性はある。
ひとは生まれつき賢明ではないからだ。
専制主義国家のほうが、国民を抑圧しやすいことは事実だ。
同時に独裁国家が歴史に残る「征服」を成し遂げた事実も、また揺るがない。
わるい方向にも、もちろんはたらく(西側諸国のテレビを見ればわかる)。
しかし温暖化対策(利権のにおいはするが)や宇宙開発(先行したのはソ連だった)においては、全体主義のほうが有利だったりする。
私が専制主義を批判するのは、この世で1、2を争うほどきらいな「政治家」の影響力が、他の政体よりも比較的に強いからだ。
言い換えれば正直、理由はそれだけしかない。
政治家がテキトーに都合のいいことを、アホみたいに吹き散らかす生態は、むしろ西側陣営のほうが顕著だ。
いい部分は唯一、その影響力の低さのおかげで、北朝鮮やロシアより「マシ」なことだけだろう。
それも、もし北の将軍様が天才的統治者だったとしたら、話は変わる。
どう考えてもそうはみえないのでこの仮定は不成立だが、カリスマ的な指導者の存在は人類社会を劇的に改良しうる。
自由主義の勝利は結局、いくつかの要素での比較優位が、たまたま現状の物質文明を支持する役に立ったというだけ。
どちらが先か、主従関係はともかく、地球を破壊しつづけるイデオロギーは現状、ただの必要悪でしかない(われわれはその恩恵を受けている)。
人類の限界を見たければ、国際政治を見ればいい。
だれが限界を超えるのか、もちろん人類ではない。
歴代のSF作家たちが、口をそろえてAI脅威論を吹聴しつづけてくれた。
その影響には端倪すべからざるものがあるが、残念ながら私の身体からその毒は抜けてしまった。
ろくでもない政治家に率いられる、しょせん人間ごとき。
AIに任せたほうがマシだろ、という近い将来への期待を、毎度の結論としたい。