最近、生きる気力が萎えてきた。
 また「うつ」な話がはじまるのか、と警戒した方は、そうでもないので安心してほしい。

 生きたくないと、死にたいは、イコールではない。
 大事なことなのであらかじめ言っておくが、私は「死にたいわけではない」のだ。

 発作的な状況には、いまのところない。
 しかし、ふんわりと「萎え」ている。

 それに合わせ、ちょっとした断食をしてみた。
 食うことは生きること、という観点からいえば、消極的に生きることを拒否している感じが、断食にはある。


 いちばん楽な死に方は凍死だ、と聞いたことがある。
 が、最近読んだ本には餓死が楽だ、と書いてあった。

 論理的に考えて、なるほどと思う。
 なぜなら事実、人類史上かなり多くがそれを体験してきて、相応の耐性ができていてしかるべきだからだ。

 万人に説得力があるのかはともかく、理屈としては正しいような気はする。
 あらゆる生物に、いろいろな生きざまがあってしかるべきだ。

 ──ナマケモノという生き物には、いくつか名高い伝説がある。
 食事は一日葉っぱ一枚とか、食事をしても消化が間に合わなくて餓死とか。

 そんななか気に入っているのが、天敵に襲われたときは抵抗せずに全身の力を抜く、というものだ。
 おしなべて生物は「必死に生きる」ものと考えがちだが、なかには「生きることをあきらめる」という基本プログラムを組み込まれている種も、あるはずだ。


 そんなことをしばらく考えていると、すこしずつ正気の波がもどってきてくれる。
 いや死ぬつもりはないよ、これは健康のためのダイエットだから、というもっともらしいロジックが生起される。

 体重がみるみる落ちるのは、まあ食わないので当然だろう。
 血圧が下100を上回っていたものが、おかげさまで上100を下回った。

 断食は食わないことなので、飲むのはいいだろうと、大量の水分を摂取してみた。
 すると脈拍数が、静座中も100近くなった。

 数値は正直だ。
 肉体は生存するために最適なパラメータを目指し、自動的に調節することがよくわかった。

 考えてみれば、この飽食の時代においては、断食は健康にいい側面もある。
 「萎えることは健康に役立つ」という逆説さえ、成り立つかもしれない。


 せっかくなので細かい数値が知りたいと思ったが、ご家庭で簡単に測定できるのはその程度だ。
 くわしい血液検査がしたければ、やはり献血が手っ取り早いだろう。

 献血カードを見たところ、前回からあまり時間がたっていないので、すぐには全血献血できなかった。
 そこで、あまり好きではない成分献血(血小板)を、ひさしぶりにやることにした。

 芦田さんが献血を宣伝していたので、こんど会ったら恩を着せておきたいと思う。
 ……べつに知り合いじゃないが。

 結論からいえば、たいした変化はなかった。
 考えてみれば数値自体もともと正常範囲なので、劇的な変化があるはずもない。

 断食のおかげで、むしろ健康になって、身体が軽くなった。
 これまで食いすぎていたことがわかったので、食事量を減らしていまは安定している。


 さて、もちろん肉体の健康は大事だが、私にとっての問題は心の健康のほうだ。
 一般には、メンタルヘルスケア、自己啓発、精神修養あたりが考えやすい「対策」だろう。

 伝統的なものでは、やはり「宗教」。
 これに頼る人々が多いという事実は、人類を理解するための役に立つ。

 そもそも宗教自体、人間がかかえる生き死にの不安につけこんで生み出されたものだ。
 素人なりに研究した結論としては、重視も軽視もすべきではないもの、それが宗教だと思っている。

 個人的には、軽い会話ではめんどくさいので「無宗教」で通すことにしている。
 ちゃんとしたひと(という表現もどうかと思うが)と話すときは、「不可知論者」であると自己紹介する。

 ──無神論者は、海外ではアナキストやテロリストのようなものと解釈され、ギョッとされることがある。
 もし問われたら、アセイスト(無神論者)ではなく、アグノスティック(不可知論者)と答えたほうが無難。

 と、最近読んだ数学者の本に書いてあった。
 示唆的だと思った。

 アメリカでも、上院議員などではアンケート調査で無神論と答えるひとはいない。
 神はいるかもしれないし、いないかもしれない──不可知論のほうが「政治的に正しい」のだ。

 神はいないと言った時点で、倫理観のない人間だとみられる。
 その段階で、ある種の人々には「敵と認定」されうる、ということだ。


 不可知論は19世紀のイギリス人ハクスリーの造語だが、よく似ている懐疑主義は紀元前4世紀ごろからあった。
 アレクサンドロス大王の東征に従ったピュロンにちなみ、ピュロン主義ともいわれる。

 すべてを疑い、いかなる判断も保留して、断定を避ける。
 ルネサンス期に復興し、モンテーニュやヒュームなどに受け継がれる。

 疑いの果てに残るのは唯一、自分自身、というデカルトの「コギト・エルゴ・スム」は有名だ。
 ハクスリーをくわしく研究したわけではないが、哲学史の本やwiki先生を読むかぎり、彼の言っていることは正しい気がする。

 不可知論と無宗教は、本質的に異なる。
 無宗教者は文字どおり、宗教と呼ばれるものを、いっさい信じていない、もしくは関心がない。

 この世をつくったのがシスティナ礼拝堂の天井にいるヒゲを生やしたカミサマだ、などと信じる必要はさらさらない。
 が、絶対的な存在を信じないというスタンス自体が「良識」までも疑わせることにつながりかねないリスクは、理解しておいたほうがよい。


 日本人は無宗教と言われることもあるが、どうかと思う。
 神のようなものを信じるひとは、意外に多い気がするからだ。

 そうでなければ人口より多い「信者」数は出てこないし、クリスマスを祝い、寺で葬式をし、初詣に行くことを説明できない。
 特定の宗教を信じてはいないかもしれないが、これは無宗教ではない。

 神の存在や、超自然的な認識について、日本人は明確な立場をもっていない。
 しかし宗教的なものに「関心はある」わけだから、すくなくともその状態を説明するには、不可知論者がいちばん近いのではないかと思う。

 だれも鳥居に小便をひっかけないし、墓石を破壊しないし、十字架に唾を吐かない。
 そんなことは「罰当たり」だからだ。

 すくなくともその点において、われわれは超自然的なものに注意を払っている。
 定量化できないリスクに無関心で、あえて火中の栗を拾いに行かないだけ、という言い方もできるかもしれないが。


 不可知論と無宗教との差は、そんなわけで理解しやすい。
 もう一歩、無神論とのちがいに話を進めよう。

 無宗教において、無神論は必要条件だが、十分条件ではない。
 いわゆる「唯一の神」はいなくても、精霊や妖怪や先祖霊のようなものを信じる宗教は、いくらでもあるからだ。

 もちろん一神教に限定する必要はない。
 仏教のホトケや道教の星辰、ヒンドゥーの精霊たちも、神といえば神である。

 そこで無神論者は、そのような「神はいない」と積極的に主張する。
 いるかいないかは認識できない、という不可知論者とは、大きく異なる立場といってよい。


 懐疑論者というものもあるが、これは不可知論者に似ている。
 人間の認識力が不確実で不十分であることはどちらも認識しており、これらを使い分けるのはすこしむずかしい。

 そんなことを考えながら哲学の本を読んでいると、なんとなく生きる理由が見えてくる……ことはないが、まあ昔の人もたいへんだったんだなという程度の共感は得られる。
 人間は一定割合でペシミストであり、ストイックであり、シニカルだ。

 抑うつの対策は、それなりに積み上げている。
 私には、神はいらない。