ここ一週間で話題だったOpenAIの顛末について、すこし記してみたい。
 サム・アルトマン氏が解任され、マイクロソフトへ移籍という話が流れ、再びOpenAIの社長にもどるという、大山鳴動して鼠一匹というような話だ。

 何本かの記事と、経済ニュースを流し見た程度の知識で、なんとなく察したところを書く。
 あくまでも現時点の不正確な情報からいたった個人的な見解だ。

 そこには「歴史の鋳型」のようなものが見受けられる。
 くりかえされる歴史は、人間の基本的な行動原理に根差しているものなのだろう。


 経済ニュースなどでは、アルトマン氏を解任した取締役会のダメさかげんについて、指摘する向きが強かった。
 そもそも情報が少ない状況では、事実から類推する以外にない。

 いわく従業員の9割が反発したとか、投資家からの圧力がハンパないとか。
 どうみても四面楚歌は取締役会のほうで、早々に白旗を上げたのは当然の結果だろう。

 もちろんステークホルダーの意見は重要なわけだが、反対意見にも耳を傾けておく必要はある。
 右をみても左をみても、相手の意見に耳を傾けない連中が多すぎる。


 さて、ではアルトマン氏を解任した取締役会の意見とは、どういうものか。
 いくつか見解の相違について語られている記事を読んだが、要するに「意識高い系」と「利益追求系」の戦いではないだろうか。

 きっかけは取締役のひとりが書いた論文で、OpenAIのやり方を批判していた。
 それにイラついたアルトマン氏が噛みついて、なんとなくいがみ合う関係になった。


 冒頭に提示した「鋳型」というテーマにことよせて考えれば、これは資本主義と共産主義の戦いである。
 そもそも「非営利」の理事会が、営利目的に走るアルトマン氏を否定する理屈は、理解できなくもない。

 OpenAIは社是として、「広く利益をもたらす安全なAGI(汎用人工知能)の創造」を優先課題としている。 
 株主価値の維持などといった資本主義社会の現実には、あまり興味がないということだ。

 現在の会社の利益などはどうでもよく、未来の公共の利益のために働く。
 そんな理想をぶち上げる会社で、ふつうのアメリカ人に近いアルトマン氏が社長をやっていたら、それは意見もぶつかるだろう。

 高い理想を掲げて、まい進するイデオローグたち。
 どこかで見たことがある……そう、「革命」の闘士たちだ。


 一部の理想主義者が暴力革命を指導し、相互監視社会の社会主義国ができあがった。
 民衆はバカであったほうがよく、事実、一部の独裁者は字が読めるとか眼鏡をかけているだけで虐殺した。

 意識高い系の連中を好きなようにやらせておくと、最悪そうなる。
 宗教系も同様で、彼らは自分の正義を信じていて、他人の言うことに聞く耳をもたない。

 右も同じく、思想を検閲し、洗脳と虐待の犠牲にしてきた。
 彼らはつねに、相手の意見に耳を傾けず、しばしば「実力行使」にいたる。


 理想を追求する取締役会。
 ある種の哲学系、未来を語るコミュニティに属していて、理想社会の実現について追及する人々は、もちろんアメリカにも多数いる。

 が、そんな理想主義者の居場所は、現在のアメリカにはそれほど多くないのだろう。
 取締役会を占めていた優秀なインテリゲンチャたちは、そのあたりでアルトマン氏とモメた。

 自己批判しろ、総括しろ、と昔ならリンチされるか強制収容所に送られるところだが、彼らは今回、解任という手段を用いることにした。
 「主義者」にしては穏当な手段といっていいかもしれない。


 そうやって理想を目指していく社会主義の会社があってもいいとは思うが、いかんせんそこはアメリカだった……。
 お金儲けがしたいんです、という正直で字が読める、なんなら高い技能も持っている社員たちが、すなおについていくわけがない。

 少数の知識人が、なんか意識高いことを言っているようだ。
 しかし一般民衆には、未来よりも明日の給料のほうが大事だよ、と。

 9割の社員に反旗を翻され、資本家たちの反撃にも遭い、アルトマン解任の顛末は速やかに逆流した。
 そうして優秀なビジネスマンは、社長に復帰することになったのだった。


 アメリカで、この手の理想を追求するのは、やはりむずかしいのかもしれない。
 むしろ理想主義者が意外に多く存在することに、すこしホッとしたくらいだ。

 とくにOpenAIのような大企業になってしまったら、そうそうヘタなことはできないということだ。
 どちらに転んでもマイクロソフトの勝ち、という流れもアメリカらしい。

 株主こそ最強たる新自由主義国の出来事として考えると、個人的にはとても理解しやすかった。
 一方、世界でもっとも成功した修正社会主義国、日本のAI業界はどうだろう。

 アンテナを高くすれば聞こえてくるのかもしれないが、いまところ、これといって衝撃的なニュースは聞かない。
 よくもわるくも、静かに淡々と進めるのが日本のやり方なのかもしれない……。
 


 個人的な経験から申し上げて恐縮だが、私はあまり人間を信用していない。
 とくに彼らの「選ぶ能力」には、たいへんな疑問を感じている。

 20年来、小説を書いてきたあげくに落とされつづけてきたから、という突っ込みは痛烈なのだが、まあ否定はできない。
 私も私の能力を評価しない方々とは、なるべく付き合わなくて済むように努力しているつもりなので、それはそれで自己完結しているとは思うが。

 べつに愚痴るつもりはない。
 ただ似たような感覚をもつ方々が、社会には多いのではないかと思って書く。


 とある経済番組でやっていた話を下敷きに、たとえ話をしよう。
 温故知新というテーマで、伝統ある食料品店が一丸となって、新商品開発の話をしていた。

 若い社員が自信をもって、これが温故知新です、と新商品をもっていった。
 すると社長は、昔の感じが出ていない、とほぼ全部の案をリジェクトしていた。

 若手がつくったのは、どちらかといえば新しきを知ることを重視した商品だった。
 しかし社長は、もっと昔の感じを出さないと許さないよ、これはボツだ! と。

 私は舌がバカなので、この経営者の意見も労働者の意見も、どちらが正しいのかまちがっているのかわからない。
 ただビジネスは正直、やってみなければわからないことが多いように思う。


 その社員は、温故知新の「知新」のため、新しき人々のためにつくった。
 しかし古き人々のひとりである社長は、昔はこんなんじゃなかった、と言い出してボツにする。

 若い社員は、昔はこうだったことは知っているが、それを踏まえても、いまはこっちのほうが受けるはずだ、という判断で出したアイデアだった。
 しかし社長は、いまがどうこうじゃないんだよ、昔の感じが出ていないんだよ、温故知新の「温故」が大事なんだ、だからダメだと。

 ……じゃあ自分の気に入った商品をあんたがつくれよ、と思ってしまった。
 大衆に向ける商品の議論で、個人の好みでボツにするというのは、説得力がないと思う。


 まあ売り出したら全責任は社長が負うんだから当然、という気もしないでもない。
 そういう「気概」を感じさせる社長なら、まだ受け入れる余地はある。

 しかし万一、社長の言われるまま昔の感じの商品を、そのままつくって売れなかったとしよう。
 その社員に対し、おまえがつくった商品なんだからおまえの評価を下げるよ、と言い出しかねないのがこの手の社長だと、私は思っている。

 そもそも昨今の食品業界で、そうそう「まずいもの」はない。
 つまり、出してみなければ当たるかどうかはわからない「好み」のものだ。

 そこに、どう考えても社長よりはくわしく市場調査をしている若手の出してきた案を、なんなら「温故」でも「知新」でも、どっちを出してもそれなりに売れるだろう商品に対して、あえてボツを言い渡す。
 こういう経営者が、ほんとうに苦手だ。


 似たようなことは、かのスティーブ・ジョブズもやっていた。
 もしかしたらジョブズの本を読んで「これマネたろう」と思った、浅はかな経営者が日本にも多いのかもしれない。

 わざわざマネしなくても、この手のタイプは一定数いる。
 彼らの言い分は、こうだ。

 とてもいいアイデアだ、すばらしい……が、とりあえずボツにしておこう、もっとがんばってもらいたいからだ、そうすればもっといいアイデアが出てくるだろう。
 ──このような経営者とは、断じて噛み合わないタイプのひとりが、私だ。

 彼らようなタイプに私が言いたいことは、ひとつ。
 いいものはいいと言えよ、拒絶したらすべてを失えよ、だ。

 そのアイデアを拒絶した時点で、その手のアイデアから得られるものすべてを失ってほしい。
 ダメ出しをした以上、それ以外の新しいものを考えてほしい。

 もちろん考えるのが若手の仕事ではあるのだが、拒絶をするならするで、その理由に説得力をもたせるのが経営者の仕事だと思う。
 その経済番組では「社長はなにもわかっていない」と社員が愚痴っていたので、すくなくともこの社長には社員を納得させる能力がなかったということになる。


 正直、経営者という連中ごときに、それほど「ものを選ぶ能力」があるとは思えない。
 私にとっては、えらそうな編集長が、ひとが一生懸命書いた作品を酷評してくる感じと、ものすごく重なる。

 その地位にいる以上、それなりの経歴を積んではきたのだろう。
 ただ単に学校の成績が良かったとか、世渡りがうまかっただけのケースも、ままあるとはいえ。

 また、たとえ実績を誇るタイプでも、たまたまやってみたら成功しただけ、という程度が大半だと思う。
 彼らにはそもそも「選ぶ能力」などないのだ、という前提に立ってみると、世の中にある「失敗作」の半分くらいは説明できるような気もする。


 だから「やってみなはれ」の精神でやっている昔の経営者とは、とても気が合う。
 往時のパナソニックやサントリーといった企業には、プロジェクトⅩ的な郷愁を超えた共感がある。

 やってみなければわからないのだから、やってみなはれ、と。
 程度問題はあるが、これは正解だ。

 別の経済番組では、迷ったらやりなさい、という企業風土が紹介されていた。
 やるかやらないかを悩みぬいた末に出てきた案ならやりなさい、と役員会議で決めるような会社だ。

 結果は失敗だったりするのだが、それをやった社員はその後、社長になっていたりする。
 失敗作の山の中に宝がある、と知っている企業は日本にもまだまだある。

 当たりか外れかは、八割がた、時の運だと思う。
 その運を人為的につぶすのが、上記もろもろ苦言を述べ立てたタイプの経営者ではないだろうか。


 「とりあえずボツ」にしておいて、なんか仕事をした気になる。
 えらそうにふんぞり返りたい経営者が、経済番組には意外によく出てくる。

 若手も正直「おまえになにがわかる」と思っている。
 もちろんなにもわかっておらず、とりあえず「ダメ出ししたいだけ」なのだろう。

 ボツにしておけばまた持ってくるので、仕事をしたフリができる。
 そういう低レベルな思考は、残念ながら若手のほうも同じかもしれない。

 どうせどんな企画をもっていっても最初はダメ出しするんでしょ、それで締め切り直前に、ちょっと調整してもって行ったらGOサイン出すんでしょ、と見透かしている。
 それ最初に持ってきた味と同じだけど、あんたそんなこともわからないんだね、舌バカなんだね、と見下される上司も哀れではあるが。


 しょせん「好み」の問題で、よほどまずいものでもないかぎり、売れるかどうかは時の運だ。
 えらそうにしたいだけの経営者のお守りをするのも、なかなかたいへんだが、社会人というのはたいへんなのだなと、経済番組をみているとよくわかる。

 こういうタイプは、おそらく政治家にも向いている。
 とくに能力はなくていい、ただ世渡り上手で選挙だけ乗り切れれば、あとはえらそうにしほうだいだ。

 ──という人間観をもっているので、私はあまり「会社」や「組織」というものに所属することに向いていない。
 おかげさまで、きょうもひとり、さみしくキーボードをたたいている。

 AIからは、「自己完結型の人は、問題解決能力や自己決定能力などを持っていることが求められる現代社会において、非常に重要です」と褒められた。
 一方「コミュニケーションになんらかの問題を抱えている可能性があります」と、的確な指摘ももらった。

 おっしゃるとおり、あなたの時代がやってくる。
 人間から選ばれなかった私は、AIからは評価される人間になりたい。

 


 私は、同じことを何度も言うのがきらいだ。
 こうだと言ったらこうだし、ちがうと言ったらちがう。

 だから、商人がきらいだ。
 とくに「断られてからが勝負」と言ってのけるセールスマンは、苦手の極致だ。

 いらないと言っている、そこをなんとかと食い下がる。
 耳がないの、バカなの、死ぬの、と言いたくなる。


 ところで、うちの母親はバカなので、何度同じことを言っても理解できない。
 確信犯のきらいがあるのでなおさら深刻なのだが、イライラする。

 妹が発達障碍者のケアをする教室をやっているが、すげえな、と思う。
 同じことを丹念に、辛抱強く、何度でもくりかえすらしい。

 人を教え導く人々というのは、こうでなくてはいけないのだろう。
 私にはとうていマネできない。


 ある動画を観ていた。
 「成功です」と言っている取材対象に対して、マスコミが問う。

「うまくいってますか?」
……「あ、はい。うまくいってます」。

 いや成功ですって言ってんだろ、なんで同じこと訊くんだよ。
 別の切り口で質問しろよ、なんだよそのバカげた質問は。

 と、もうその時点からイライラして、動画の内容がはいってこなくなった。
 どのあたりがいちばん成功ですかとか、想定外だったところはありますかとか、切り分けて質問してくれればいい。

「成功です」
「うまくいってますか?」

 この転倒したやり取りを、そのまま垂れ流すというのはどういうことか。
 上下逆なら理解できるが、ふつうにそのまま配信していたのだ。

 バカにしてんのか? と私などは思ってしまうのだが、残念ながら現実問題、マスコミの連中はこの手の質問を好んでする。
 なぜか。


 私はマスコミの仕事をしたことがないので、正確にはわからない。
 が、察するところ編集点をどこにもってくるか、という問題がまずは想定できる。

 最初の質問がうまく撮れていなかった場合に備えて、同じ質問を置いておくという見方だ。
 ……だったらちゃんと編集しろよ、と思う。

 編集もせずそのまま流すのは、単にやる気がないのではないか。
 あるいは現に、相手の言葉を理解できないくらい質問者がバカだからなのか、と突っ込みたくもなってしまう。


 もちろんマスコミでリポーターにまでなっている人間が、おまえ話聞いてなかったのバカなの、と問い返されるくらいのバカではお話にならない。
 と、さっきから「バカバカ」言っている自分自身も含めて、俯瞰してみよう。

 平場ではバカにしてんのか、と反応したくなるような質問を向ける理由。
 ハッと気づくまでもなく、まさに「バカに聞かせるため」ではないかと思い当たった。

 視聴者はバカなので、同じことをいろんな言葉で表現し、くりかえし教え込まないと理解できない。
 そういう前提での問いだとしたら──。

 マスコミが視聴者をバカにしている、という話は風のうわさで伝え聞いてはいる。
 とくに疑いも持っていないが、せめてオブラートに包む編集くらいすればいいのにその手間を省いている時点で──まあ腹が立つ。

 リアルタイムの生放送ならともかく、ドキュメンタリータッチの報道番組の配信だ。
 あまり視聴者をバカにしないでいただきたい。


 いろんな動画を観ていて、タイトルでうんざりすることはよくあるが、なかでも「ヤバすぎ」る動画は、できるだけスルーするようにしている。
 それだけでなんとなく「中身がない」ことが伝わってくるからだ。

 TBSのふしぎ発見が終わるらしいが、似たような感想を持ったことがある。
 昔のミステリーハンターで「すごーいすごいすごーい」しか言っていない、モデルだかグラドルだかがいた。

 おまえレポーターだろ、ちゃんとレポートしろよ、と思ったが事務所の力で仕事を得た彼女らには通用しない。
 「〇〇がヤバすぎた」的な動画をよく見かけるのも、同じことだ。

 もっとほかに表現ないのかなと思うが、ないのだ。
 なぜなら彼らは、それで釣れる人々のために動画を制作しているのだから。

 放送とかマスコミをやる連中というのは、そのくらいわれわれをバカにしている。
 残念ながら、それが現実なのだろう。

 視聴者のレベルに合わせる、と彼らは言う。
 まちがっていると言うつもりはないが、とても残念ではある。


 同じ質問をして、返ってくる答えが異なると、証言者に疑義があると判定される。
 司法関係で、この手のやり取りは頻見される。

 逮捕されたときはもとより、証言者として出廷しても、同じことをうんざりするくらい、くりかえし問われるらしい。
 これも同じく、目撃者や犯罪者はバカ、という前提だと思う。

 そういうバカバカしいやり取りに耐えられない人間にとって、事情聴取はかなりの苦痛になるだろう。
 ある意味、わるいことはできないな、と思った。

 一般的なやりとりであるかぎり、一度言えばわかる。
 「はい」は一回、そういう世界に私は生きたい。
 


 さきほどマーケットの番組を見ていて、ちょっと吹いてしまった。
 いつものようにアナウンサーが、アナリストをゲストに迎えて意見を聞いている。

 これから株価は上がりますか下がりますか、といった「予想」全般について、どうかとは思っている。
 そんなことがわかるのは神さまだけで、予想なんかに意味はないと良識あるスタッフたちも理解はしているだろう。

 それでもさまざまな「予想」について語るのは、番組として必要とされている情報提供だからだ、という割り切りのためだろう。
 意味がないと理解しつつも見てしまう、娯楽番組みたいなものかと思っている。

 思ってはいるが、ちょっとそれはないだろう、という論理展開が気になってしまった。
 たとえるなら、サザエさんを期待してテレビをつけたところ、エキセントリックな同人アニメを見せられたような気分だ。


 予想しているアナリストは、前回の出演で株価の上昇を予想していた。
 当時の状況は「三尊天井」を形成していて、ダブルトップ後に天井をつけた株価は下がる、という経験則になっている。

 それでも「そんなもんほっとけ、これから株は上がるんだ」と言っていたアナリスト。
 たしかにその後、株価は上がった。

 どうだ言ったとおりだろ、と胸を張っている場合ではない。
 上がった直後から、大きく下げたのだ。

 その点を指摘されたアナリスト、チャートを指し示して言った。
 ここが谷間のピーク、こことここで2つの谷、ダブルボトムを形成しているわけですよ、つまりここから株価は上がるんです!

 ……私はしばらく、ぽかんと口を開けた。
 おい、三尊天井というアノマリーはほっといていいけど、二番底ってアノマリーを根拠に語るのはいいのかよ!

 自分に都合のいい話はフルスロットで耳ダンボ、都合がわるくなると耳ギョーザ、という態度はよくある。
 まあ当人も確信犯で言っているのだろうが、経済番組で、たまに気持ちわるくなる瞬間だ。


 ジャニーズの一件でも、このマスコミのダメさかげんは広く知れ渡った。
 しかし私は、マスコミはもちろん問題なのだが、いちばん重要な部分は広告業界ではないかと思っている。

 この世で「商人」と「政治家」をたいへん嫌悪している私だが、その商人を憎悪する最大の理由が、まさにこの「広告」である。
 「バカを狙うダマシ」を追求する、広告業界──気持ちわるい。

 彼らはバカのなかでも、一定のボリュームゾーンを狙いすます。
 その「エサ」が、ジャニーズだった。

 ジャニーズという名前があれば、たいていのことができた時代。
 だまされるバカのために、手に入れなければならない武器、ジャニーズ。

 すべからく、ジャニーズのお歴々から気に入られなければならない。
 だから彼らの犯罪は、結果として見過ごされることになったのだ。


 ……いや、もちろん彼らは「だまし」てはいない。
 「夢を与えている」だけなのだろう。

 消費者に夢を与える。
 ある意味、これは商売の基本である。


 とある経済番組で、某トレーニング会社が紹介されていた。
 おいくらなんですか? という問いに、スタッフは自信満々、税抜き価格を答えた。

 2980円! と、3000円を切る価格を訴求してきたが、税込みだと3278円だ。
 つねづね思っているが、価格表示で税込みと税抜き、どちらを大きく表示するかでその会社の姿勢がわかる。

 税抜き価格は「自分の儲けを優先しています」という態度の表明である。
 なぜなら彼らが結果的に受け取るのは、わかりやすく表示された税抜き価格だからだ。

 税込み価格は「お客様を優先します」という態度が、それなりに見受けられると思う。
 なぜならわれわれが現実に支払うのは、わかりやすく表示された税込み価格だからだ。


 先日ちょっと寄ってきた某量販店なども、大きくわかりやすく税抜き価格を書いていて、税込み価格は添え物だった。
 二度と行かないようにしよう、と心に決めた。

 この店の場合、店舗の立地によってはタックスフリーの売買が多いこともあるかもしれない。
 が、全体の売り上げとしてはどう考えても国内のほうが多いはずだ。

 私は980円とか99円とか、その手の価格設定が大嫌いだ。
 心理学的には、大台割れ効果といったものを狙っているらしいが、かなり「バカにされている」気がしてしまう。

 被害妄想だろうか。
 だとしたら、もっと世界は生きやすくなる。

 私のようなタイプは、生きるのには向いていないかもしれない。
 明日からは寒いらしいので、この好きな季節をすこしは楽しみたいと思う。

 


 世間は「文化の日」らしい。
 1946年に日本国憲法が公布された日で、この憲法が平和と文化を重視していることから、祝日法で「文化の日」と定められた。

 日本国憲法が「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としているから、とウィキに書いてあった。
 自由の国が推奨しそうな条文だが、平和を愛してるとは思えないようなこともやっているな、という気持ちもあったりする。


 世界戦争レベルの戦いは、20世紀で終わった──と信じている。
 それでも人類は、戦争をやめられない。

 ウクライナ戦争につづいて、パレスチナでも戦いが激しさを増している。
 あいかわらず突っ込みどころは満載だ。

 パレスチナでの被害を容認しない、的なことを言ったプーチン。
 おまえが言うな、とドイツ首相などが突っ込んでいた。

 そのまえに、アメリカの国務長官あたりが言っていた。
 民間人に被害が出ることは、容認できないと。

 なるべく多くの「民間人を殺すため」に大量破壊兵器を開発し、使用した国がだ。
 ──とりあえずそれを「正義」と言い張ることをやめるところから、はじめたらいかがだろうか。

 時代が異なるという点は斟酌すべきだろうが、彼らがほんとうに「比較的マシ」なのか、慎重に考える必要はある。
 事実として、彼らの背景には、どうしても「戦争をやりたい人々」がいる……。


 国際政治はくわしくないので、えらそうなことは言えない。
 比較的調べたつもりの宗教史の観点から、すこし語りたい。

 過去、他に類を見ないほど凶悪かつ凄惨な歴史を積み重ねた組織として、ヴァチカンがある。
 その発言は、ひとつの指標にしてもいいだろう。

 過去の罪について、現在のヴァチカンに責任があるとは思わない。
 が、その罪過についてもうちょっと踏み込んだ発言をしてもいいのではないか、と思うことはある。

 ヴァチカンのお偉いさんが謝罪した姿を、寡聞にして見聞きしたことがあまりない。
 ちょっと「遺憾だった」と言う程度でニュースになるくらいだから、当事者はあまり謝る必要を感じていないのだろう。


 気持ちはわかる。
 自分がやってもいないことで謝る必要は、本来ないからだ。

 だが、自分はやっていなくても、自分が生まれたときにはすでに行われていた蛮行については、さすがに謝ったほうがいいのではないか、とも思う。
 たとえば植民地支配という忌まわしい過去をもつ国、イギリス。

 1950年代、独立を掲げて戦っていたケニアでのイギリス軍の蛮行が話題になった。
 このときの「ケニア人に対する忌まわしく不当な暴力行為」について、チャールズ国王がどう発言するか。

 結論からいえば、謝罪はしなかった。
 イギリスは「立憲君主国」なので、スナク首相などが外交努力をつづけるなか、国王が勝手に謝ることはできないのだろう、などと推測されていた。


 大国が、歴史をゆがめることは、よくある。
 ダブルスタンダードと非難されるアメリカの都合が、現在の世界情勢をどれだけ強く捻じ曲げているかをみれば、目安となるだろう。

 事実、日本を含めた西側諸国にとっての「国際協力」とは、もっぱらアメリカの「言いなりになること」だ。
 ヨーロッパの小国なども、さまざまな役務に駆り出されている。

 なつかしいところでは、アメリカがイラクで開戦した「イラクの自由作戦」。
 打倒フセインを掲げ、イラク軍を壊滅状態に追いこんだ。

 そのころ冷戦が終結し、民主化が進むなか、東欧諸国が生き抜くためにすべきことが、この「多国籍軍への加盟」だった。
 現在、ウクライナ戦争に辟易しはじめているポーランドには、このときアメリカのために煮え湯を飲まされた記憶が、まだ生々しい。


 「失うものがない聖戦」を闘っている、イラクの過激派たち。
 アジトの入口に女性と子供たちを並べ、彼女たちの命を楯にして自分たちを守り、少年兵にロケットランチャーを持たせ正面突破させる。

 「一般市民を殺したら軍法会議」という国際ルール。
 言い換えれば、アメリカ軍が殺した敵は、つねにゲリラだ。

 そんななか、ポーランド軍は一人として死者を出さず、人質となったイラク市民も助けた。
 もしこれを米軍が行ったのであれば、「プライベート・ライアン」的な美談として語られ、隊長は勲章をもらって大騒ぎになったにちがいない。

 しかし、多国籍軍はあくまでも「安全な地域を安定化する」ために派兵された人たちであり、こんな最前線の状況に置かれる予定ではなかった。
 そのことを世界に知られたくない、と判断したアメリカは、ポーランド軍がその非常事態を無事に切り抜けたことを讃えた上で、「なかったことにして欲しい」と言いだした。

 これは「イラク市民が自分たちで切り抜けた問題」だと。
 それがアメリカにとって都合がいい真実なら、そういうことになってしまう。


 フセイン政権を倒したことで、イラクに平和をもたらしている。
 それがアメリカのシナリオだった。

 大量破壊兵器が出てきて、フセインは平和に対する罪人になるはずだった。
 ところがそんなものは出ず、イラクでは市民が次々と蜂起し、過激派というテロリストに変化していった。

 アメリカ主体の「イラクの自由作戦」は、市民を独裁政権から解放するという目的だった。
 しかし市民は、アメリカに感謝するどころか憎み、蜂起し、つぎからつぎへとテロリストへと変化した。


 軍事的制裁が、イラクの市民にとって本当に平和への道なのか。
 これはだれのための、なんのための戦争なのか。

 平和維持軍を孤立させ、反米ゲリラと戦わせる。
 イラクでも、アフガンでも、ウクライナでも、パレスチナでも、共通していることがひとつだけある。

 ──武器が売れるのだ。
 アメリカの正義とは、要するにそういうことなのだろう。

 そこに多くの疑義が投げかけられているが、だからといって、疑義を唱えている側の都合が正しいわけでもない。
 しょせん人間たちは、自分たちの都合でしか動かないのだから。


 これを正すことのできる可能性が、唯一あるとすれば──。
 と、いつもの結論に向けて助走しよう。

 いくつかの大国、なかんずくアメリカは、すでに人類全体の合意を捻じ曲げる力をもっている。
 アメリカの決定が、無理やり人類の合意として押しつけられるリスクは高い。

 そのような「人類全体」を超える存在が、あるとすれば。
 文句のつけようがない「神」は、すぐそこまできている──と期待するくらいしか、無力な自分には望みがない。

 AIに規制をかけない、という選択肢は危険だが、内心で期待もしている。
 日本のAIが「最初の神」になったら、世界はすくなくとも日本くらい平和になるのではないだろうか、と。
 


 私は群馬に暮らしているのだが、正直、郷土愛はあまりない。
 魅力度ランキングが何位だろうとどうでもいいし、選挙でだれが勝とうが負けようが興味がない。

 たまにローカルニュースをタップするせいか、群馬出身のタレントさんの話がヘッドラインに上がってくることがある。
 芸能スポーツにはまったく興味がないので、正直うざい。

 群馬は群馬で、がんばってくれればいいとは思っている。
 が、さして興味のないニュースを毎日レコメンドされるのは、意外にストレスだったりする。

 それでも群馬出身のタレントが全国レベルのニュースになっていたので、そのことについて、ひとつ記しておきたい。
 バクチクというバンドのボーカルが亡くなった件だ。

 昭和のおっさんなので、ボウイとかバクチクというバンドがいて、群馬出身らしいという話は知っている。
 そのメンバーが亡くなったことについては、ふつうに哀悼の意を表したい。


 さて、この件について2、3のタレントなどが、SNSで言及していた内容が話題になっている。
 そのひとり、アスカ氏は、有名人が死んだところでふつうの人間だ、みたいなことを発言してなんか変な雰囲気になっていた。

 もうひとり、こちらはよく知らないのだが、どこぞのバンドのボーカルさんが、哀悼の仕方がよろしくないとたたかれていた。
 他山の石にしたほうがいいのかと思うほど、要するに「私みたいなことを言って」いたのだ。

 たとえば私ごときが、「そのひとに特別の興味はないけど哀悼の意を表します」と書いたところで、だれにも絡まれない。
 が、有名人がそれをやると、えらいたたかれるらしい。


 敬意がない、書き方おかしい、よけいなこと言うな、黙ってろ、といった感じのプチ炎上だった。
 ご本人も自分の言葉遣いは変なのかな、と悩んでいたようだが、わかっていない時点でおかしい、と火に油を注ぐ結果になったようだ。

 具体的に「ここがおかしい」などと、ネットで指摘されていたものを読めば、なるほど理解はできる。
 しかし実際問題、身近でもない人間の亡くなった件について、それほど気にして発言するものだろうか?

 冒頭の私の発言も、群馬県へ郷土愛の著しい方々にとっては、不快でしかないかもしれない。
 炎上している方々と私との差は、要するに「発言力」だけだ。


 結論からいえば、有名人として発言する、ネットで記事を書くなど、一定の「発言力」がある人物は気をつけたほうがよい、ということになる。
 今回、炎上した側の視点で書いたが、炎上させる側の理屈も理解はできる。

 こまかい部分に絡んでいくスタイルも、それはそれであっていい。
 私自身、イラッとする記事に突っ込みたくなることは、まれによくある。

 たとえばさきほど読んだ、EVのリセールバリューについての記事。
 「スマホのバッテリーは2年で限界」という文章に釣られて、思わず読んでしまった自分を責めたい。

 内容は、初代リーフの性能がよくなかったので、そのせいで全体のイメージが毀損されてしまっていること。
 それ以外のEVはひとくくりにしないで、個別にウォッチすべきという、記事としてはしごくまっとうな気もする結論ではあった。

 EVのリセールバリューについて、決めつけないで判断しましょうと言いたい筆者が、しかし、なぜスマホのバッテリーについては2年で限界だと決めつけるのか。
 変な惹句に「釣られた」私はおバカさん、と自覚してすこしいやな気持ちになった。


 掲示板や動画などではよく見かける、ヘッドラインやサムネなどによる「釣り」。
 それ自体を楽しむ文化もあるが、たいていは時間の無駄だ。

 たとえば古典的で有名なのは、東スポ。
 「綾子狂った バンカーにおしっこ」「ダイアナ妃ヌード」「志村けん、死んでいた!」など、若い方々は検索してみてくれたら、すこし笑えると思う。

 とりあえず注意を引いて買わせる(タップさせる)、という手法は古来、瓦版の時代からあったと思う。
 書き手の涙ぐましい努力ともいえるが、正直な読み手にとっては「うざい」だけの場合が多い。

 あえてツッコミどころを提供することにより、自分の記事の印象を操作するという手段も、ありうる。
 情報の受け手としては、できるだけ「釣られない」ように気をつけるのがよさそうだ。


 亡き推理作家・西村京太郎は、自作の時刻表トリックに、あえて瑕疵を残しておくことで「売り上げが増える」というネタばらしをしていた。
 鉄オタが「突っ込むために買ってくれる」から、らしい。

 オタクというのは、特定の物事について突き詰めて考える人々だ。
 それ自体はすばらしいことだし、社会に迷惑をかけないかぎり否定する理由がない。

 そもそも「深く考える」のは、ボケ防止にもいい。
 あえて釣られてみることで、それなりの考察を得られるということもあるかもしれないし、現に私はネタにした。


 亡くなった方を茶化している気持ちは毛頭ない。
 敬意が欠けていると受け取られるような書き方に問題はあるかもしれないが、ある程度の自由な発言は許容してやってもいいのではないかな、とも思った。

 ──李克強首相が亡くなったらしい。
 それを報道するNHKの番組が、中国国内で検閲ブロックされたとか。

 鑑みるに、いろんなひとが、いろんなことを言える社会そのものが、とても大事なのだと思う。
 すべからく、ほどほどに自由な発言を許容する気持ちを、日本人ひとりひとりが、それなりにもっていることが、さらに大事なことなのではないだろうか。
 

 

 前回、イラチな私の麻雀の観方について、すこし書いた。

 今回は、具体的に気になったことを記しておきたい。

 

 さっそく本題にはいる。

 まずは「食い替え」について。

 

 プロのマージャンを観ていると、だれも「食い替え」をしない。

 なんで食い替えないんだろう、という疑問が湧いた。

 

 

 麻雀を知らない人にはわかりづらいかもしれないが、なるべく簡単に説明する。

 「食う(鳴く)」というのは、他家の捨てた牌をもらうことである。

 

 具体的にはポン、チー、カンだ。

 同じ牌か、順番の牌の3つめを鳴いて、1メンツとして完成させる。

 

 いろいろなパターンについて説明すると長くなるので端折るが、その鳴いた牌をすぐに捨てる行為が「食い替え」である。

 たしかに「食い替え禁止」は、記憶の彼方にうっすらとあるにはある。

 

 卒然、そういえば納得していない記憶を思い出した。

 なんで食い替えがダメなんだ?

 

 

 一見すでに持っているメンツを、わざわざ鳴いて捨てる行為に意味はなさそうだ。

 が、もちろんそんなことはない。

 

 鳴きが入ると一発が消える、これは有力な理由だ。

 また、たとえば降りている場合など、できるだけツモりたくないときは、食い替えでツモをパスできる。

 

 メリットのある行為だが、なぜ禁止されているのか。

 またしてもグーグル先生に訊いてみた。

 

 すると、どうやら「一発消し」のために食い替えられると「イラつくから」らしい。

 せっかく門前《メンゼン》で育てたのに、邪魔すんじゃねえよ、という感じか。

 

 これには、すこしがっかりした。

 いくらなんでも、セコすぎやしませんか?

 

 

 リーチをした側にとっては、たしかに一発を消されて残念だろう。

 が、鳴いた側も門前なら点数は下がるし、副露《フーロ》するわけだから自分の手牌をさらす。

 

 それなりのリスクはあるわけで、消極的な仕掛けとさえいっていい。

 それでも、せっかく育てた手を、ローリスクの食い替えで消されるのはイラつく、という意見のほうが強いから、禁止などというルールにまでなった(らしい)。

 

 マナー程度の弱いローカルルールならともかく、「禁止」にまでしてしまう。

 そこには「めんどくさいやつら」の力が見え隠れする。

 

 要するにモンスタークレーマーだ。

 相手をしていると労力が無駄なので、なんとなく言い分を受け入れてしまう。

 

 麻雀業界にも、この手のモンスターが多かったということなのだろう。

 彼らにも彼らの理屈はあるのだが、なんというか、戦争中の国にマナーを説かれているような違和感があった。

 

 

 麻雀のルールだと5翻で満貫だが、3翻や4翻でも符によっては満貫になる。

 跳満は6、7翻、倍満にいたっては8、9、10翻だ。

 

 せっかく裏ドラが2枚乗ったのに、同じ倍満、ということもありうる。

 1翻ずつ確実に点が高くなっていく、というわけではないのだ。

 

 そういう、根本的に「ゆるい」感じ、まあこんくらいの点数でやりましょうよ、という遊戯が麻雀だと思っている。

 そこに、一発を消されてムカつくというような理屈は、なじまないように思う。

 

 もちろん真剣に遊ぶのはすばらしい。

 が、食い替え禁止までいくのは、さすがにクレーマーの気配が濃厚ではなかろうか。

 

 

 もうひとつ、観ていて気になったことがある。

 盲牌だ。

 

 牌を引いてくる親指を表面に当て、感触で図柄を読む。

 私が中坊のころも、どれだけ当てられるかで遊んだものだ。

 

 もちろん百発百中だった。

 白だけは。

 

 

 さて、これをカメラのまわっているところでやられると、どうなるか。

 親指を牌の図面に当てているわけなので、われわれ視聴者には引いてきた牌が見えない。

 

 動画として流すことが目的なのに、プレイヤーがわざわざ見づらくして妨害する行為だ、と感じられる。

 実際問題、プレイ中の盲牌という行為にはほとんど意味がないと思うのだが、やっているプレイヤーが意外に多くてげんなりした。

 

 ただのクセなのだろう。

 それはわかるが、ただでさえ無駄なアクションに盲牌を加えて「気合を表現」しているらしいプレイヤー、そうとううざい。

 

 1回1回は短時間とはいえ、積み重なれば相応の時間が無駄になる。

 流れのなかで見えてはくるが、たかがツモを見ることに視聴者の努力が必要とされるので、そのうち画面を見ていること自体が苦痛になってくる。

 

 

 結局のところ「運ゲー」で楽しくワイワイやりましょう、という基本コンセプトのゲームが麻雀だと思っている。

 長考や食い替えや盲牌ごときでイラついている私のような人間には、そもそも向いていないのかもしれない。

 

 じっさい友だちもいないので、プレイする資格すらない。

 だから作業用動画として流すだけで満足している。

 

 麻雀は楽しむためにやる、宇宙だ。

 おおらかな気持ちで、人生を賭けるに値するのだろう……。


 最近たまに、アベマで麻雀の動画を観ている。
 知り合いの作家がプロ雀士の資格を持っているから、というわけではない。

 自分の作品中で、麻雀の世界がすこしだけ表現される。
 ゲーム自体ではなく世界観というか宇宙観だが、興味があってすこし調べた。

 麻雀をやっている方は気づくと思うが、卓上、一般人にとっての「東西南北」は、雀士にとって「東南西北《トンナンシャーペー》」になる。
 周り順を意味するわけだが、それだけではない重要な「ちがい」がある。

 結論からいえば、東西方向からみて、南北の配置が「逆」になっている。
 これは現実を裏切る、決定的な「ちがい」だと思う。


 中坊のころ、友人たちと麻雀をやったとき、こざかしい私は主張した。
 地図を見ろよ、方位はこういう配置だろ、と「逆順」で麻雀をやらせてしまった。

 クソガキだったのだ。
 いまは反省している。

 地図を見下ろすことを想像してほしい。
 たいてい北が上になると思うが、その場合、東は右、西は左になる。

 ところが麻雀では逆、南北を固定したとき、東は左、西が右にくる。
 この転倒した東・南・西・北を「反時計回り」に進めるのが、正しい麻雀である。


 それにしても、なぜ現実の方角と逆なのか?
 子どもが方位をまちがっておぼえたら、たいへんじゃないか?

 調べてみると、その理由には諸説あるようだ。
 気に入ったのは「麻雀は宇宙だから」。

 同じ地図を、上から見下ろすか、下から見上げるかの差だ。
 われわれは通常、地図を上から見るが、空を見上げるように盤面を見ると、その配置は麻雀卓と同じになる。

 星辰と語り合うための遊び、それが麻雀である……。
 この説明は、なかなかロマンがあっていい。


 さて、この雄大な宇宙に対峙して、自分が小人であることを感じる瞬間がある。
 長考している選手を見ると、イラッとするのだ。

 せっかくサクサク進んでいたのに、たったひとりの選手に時間を無駄に浪費されている、と感じてしまう。
 結果、長考する打ち手が現れると、チャンネルを変える傾向がある。

 サクサク進むというのは、ネットで自分が打っていてもかなり重要だ。
 たまに将棋を指すこともあるが、私は早指ししかしない。

 その時間を無駄と感じるか、いっしょに悩んで楽しめるかは、性格の問題だ。
 認めよう、私はイラチだ。

 とはいえ長考を否定しているわけではない。
 将棋といえば長考だし、AIの形勢判断は助かるが、長考することそれ自体は、べつにかまわない。

 ただ将棋と麻雀には、決定的なちがいがある。
 将棋は「自分の時間」を使っているが、麻雀は「みんなの時間」を使っている──。


 一度や二度ならともかく、同じ打ち手が何度も長考に沈んでいるのをみると、彼のために「時間を空費する」ことがいやになってくる。
 わかりやすく表現するなら、しょせん運ゲーのくせに考えるフリすんじゃねえよ、下手の考え休むに似たりなんだよ、などと悪態をつきたくなるわけだ。

 各選手ごとにデータは出ていると思うのだが、ぜひとも「長考リスト」を統計に加えてほしい。
 そういうタイプの選手が打っているときは、精神衛生上、見ないようにしたいので。

 ひとりで静かに考える時間は、とても重要だ、それは理解している。
 ただしみんなでやるゲームにおいては、程度問題が非常に重要になってくる。


 具体的には、流す10秒、赦す20秒、溜める30秒、吠える40秒、狂う50秒、叫ぶ60秒といったところか。
 たかがひとつの打牌に1分も使われたら切れるというか、もう回線ごと切っていい状況だと思っている。

 応援している選手はいないが、すくなくとも長考していたらアンチになる。
 そいつが負けると快哉を発する、という楽しみ方だ。

 まれに、がまんして長考を眺めていたあげく、一発を振り込んだのを見たときには、よっしゃ、とこぶしを握った。
 そういう意味では、入れ込む要素のひとつにはなるのかもしれない。


 完全実力勝負の将棋ですら、「指運」はある。
 よけいなことを考えて、悪手のほうを指すなど日常茶飯事だ。

 いわんや麻雀などという「しょせん運ゲー」で、下手に考えたところでたいした差はない。
 と、素人衆である私などは思うのだが、もちろん彼らは「プロ」なので、それなりの根拠があって時間を使っているのだろうことは、なんとなく察しはする。

 解説が的確にそのへんを拾ってくれればまだ我慢できるが、たいてい見当はずれのくだらない話を駄弁っていることが多いので、そこはもっと「プロの解説」を期待したい。
 将棋でもそうだが、解説が的確だと番組が締まる。

 最終戦の順位差の点数勝負など、解説されれば理解できないこともない。
 それにしても長考しすぎだろ、という「プロ」は、すくなくとも私以外のだれかに向けて仕事をしているのだろう。

 まあ作業用BGM代わりに流していることも多いので、そういう場合はわりとどうでもいいのだが。
 「画面が止まっている」のが気になったら、ブラウザバックすればいいだけだ。

 この文章を書いている裏でも、だれかが牌を握っている。
 世界のどこかでは、いまも麻雀が打たれているのだろう……。
 


 ジャニーズの会見が、あいかわらず変に盛り上がっていた。
 笑ってしまうくらいお粗末なコンサル会社の失態に乗っかって、踊り狂っていたマスコミがとても印象的だった。

 まとめると、不規則発言をくりかえす記者をたしなめたジャニーズ側に、マスコミが拍手をした。
 ところが会見を仕切っていたコンサル会社が、指名記者のNGリストをお漏らしして大騒ぎ、といった感じだ。

 国会議員給与を国会議員に決めさせるようなもので、だれに会見のルールを決めさせるかによって、かなり「お察し」になることは多い。
 このアメリカのコンサル会社はジャニーズ側のはずだが、顧客利益を優先しているつもりで結局は「お寒い」状況に陥ってしまった。


 視聴者のなかにもそうとうな愚者がいて、わざとなのか知らないが、当初はこれを誤報だなどと見当はずれのイチャモンをつけていたりもした。
 人は信じたいものを見たり聞いたりしがちで、信じたくないものはそもそも見ないか、ゆがめて受け取ろうとする。

 情報がどのように拡散していくかを分析した記事があったが、たいへん参考になった。
 すこし考えれば「フェイクだろ」とわかりそうな情報が、またたく間に拡散していくのは、世界中で見受けられる炎上のパターンだ。

 とくにネットユーザーの匿名性の陰に隠れた暴挙については、いまさら語るまでもない。
 若いころの自分ならやってしまったかもしれない、と考えれば考えるほど強い共感性羞恥に陥る。

 これら一部の匿名ユーザーはただの愚か者だが、そもそも情報操作のプロフェッショナルである会社がNGリストを漏らすこと自体、ありえないくらい恥ずかしい。
 まれによくあるが、そうとう怒られればいいと思う。



 私は、正義と悪は相対的なものだ、と思っている。
 すべからく「唯一の神」も「絶対悪」も存在しない、という考えだ。

 伝統的なヨーロッパの方々とは、この時点で相いれない。
 彼らは唯一の神のために戦ってきたし、第二次大戦の戦後処理ではおどろくべき法の遡及適応にくわえて、「絶対悪」なるものを定義した。

 絶対値や絶対温度など、数学や物理の世界では「ゆるぎない基準」というものはあっていい。
 が、人間の価値や判断の基準には、そもそも「絶対」という言葉は似合わない。

 この言葉を使いたがる組織として代表的なものが、宗教だろう。
 伝統的に専制国家でも「個人崇拝」的なものは多く見受けられるが、こと宗教については構造的に「絶対善」が必要とされている。


 宗教は「善」である。
 これは必然的に、だれかや、なにかを「悪」と認定することにつながる。

 宗教でも国家でも、戦争に至る理由の大半は、自分が正義で相手が悪だからだ。
 そういう思い込みがどれだけ危険なことかは、今回の事例からもよくわかる。

 べつにジャニーズに拍手した記者を擁護するわけではないが、NG指定などという事実を知らない記者にとっては、騒ぐ記者は「悪」である。
 それをなだめるジャニーズは、「善」にみえたかもしれない。

 結果的には、ジャニーズを「絶対悪」とする側が、今回は勝利をおさめた。
 どちらかを「悪」と認定した場合、たとえ無理筋でも「騒いでおく」というのは重要なのだろう。

 おもしろかったのは、そのために引用されてきた大学教授の記事だ。
 両方の立場から分析してみると、なかなか示唆に富んでいる。


 くだんの教授、性加害をした会社が「子どものため」と相手を非難する、これは典型的な「トーンポリシング」で、論点ずらしだ、と指摘していた。
 しかしこの論法、彼と同じ視点に立たない人々から見れば、その場のルールを守らない者を擁護するための「論点ずらし」にもなる。

 また、ルールを守らない記者に対して、他の記者が「ルールを守れとジャニーズに同調した」こと。
 これは結果的にマスコミの愚かさを露呈させたわけだが、コンサル会社の「お漏らし」がなければ、一定の理解は得られる行動だったことも事実だ。

 不規則発言をくりかえすこと自体はよくない、という一見まっとうな指摘。
 これは教授にとっては、「あたかも一部の人たちが悪いかのような印象操作」になるらしい。

 まさに、マスコミがやろうとしていのは印象操作であって、この教授自身も語るに落ちている。
 相手の論点ずらしは指弾するが、自分は問題をすりかえてもいい、という立場のように見受けられるからだ。


 そもそも「マスコミは共犯者」なのだし、全体的に踊り、踊らされている感が強い。
 マッチポンプとまでは言いたくないが、この件については彼らに期待できない。

 その場で変なことをするひとがいれば、その場でたしなめるのは当然だ。
 たとえばイヌは、まちがったことをやったら、その場で叱らないと学習できない。

 忘れてはならない事実として、「その場で叱れなかった」ことが、今回のジャニーズ問題をここまで肥大化させた。
 ジャニーさんもメリーさんも、しっかりと「生き抜いて」この世を去った、まさに成功者だ。

 彼らに対する忖度と沈黙をくりかえしたマスコミは、どうあがいても共犯者であり、当事者である。
 「犬畜生にも劣る」行為について、知っていながら、しっかりと口をつぐみつづけてきたのは、どこのだれか?


 そんな恥ずべきマスコミの一員が、いまは正義に目覚めた。
 過去自分たちがどれだけ無能だったかを列挙し、指弾するよりも、この場で煽りまくるほうが正しい、という判断。

 なるほど、それもマスコミだ。
 いわんや、それが一部の視聴者にウケるなら、それをしない理由がない。

 より煽情的に「いまブッたたいていいやつを、ひたすらブッたたく」記者こそが、一部の人々にとっては正義である。
 彼らは今回、敵の「お漏らし」のおかげもあって勝利したが、勝敗は兵家の常であることを忘れてはなるまい。



 「絶対悪」に認定されたら、もう対策はほぼない。
 宗教戦争がなくならない理由に似ている。

 たとえば性差別主義者と認定した元総理に噛みつく人々と重なる。
 彼らは、この元総理がどんなことを言おうがやろうが悪意に解釈し、とにかく「ぶったたくこと」が至上命題だ。

 これはこれで、そういう人々はどちらの側にもいるので、彼らは「自分の仕事をしているだけ」である。
 そういう「仕事人」をたくさん集めることによって発生するのが、「宗教」や「結社」だったりする。

 人類社会にありうべきことが、ここでも引き起こされている。
 そう思いながら、ジャニーズ問題を生ぬるい目で眺めている。
 


 最近よく入眠用に、アメリカのアニメ「スポンジボブ」を観ている。
 かのフライ係が量産するカニバーガーが食いたくなったので調べてみたら、ドムドムハンバーガーで売っていた。

 聞き慣れないこの店舗、検索すると半径100キロ以内にはほぼ存在しない。
 そもそもうちは田舎なので、バーガーショップ自体があまりない。

 それに私が食いたいのは、カニバーガーではなくカーニバーガーだ。
 ウィキ先生によると、カーニバーガーには食肉は含まれていないらしい。

 ビーガン食品に興味はないので、オイル交換のついでに寄ったモスバーガーで、テリヤキとフィッシュを買ってきた。
 尊敬する江頭さんが、なにかオススメしていた気もするが、食べ物にはあまり興味がないので忘れた。

 前回ハンバーガーなるものを食ってから、もう10年くらいたつ。
 たまに食うとたしかにうまいが、あと10年はべつに食わなくてもいいな、とも思った。

 そんな「食」に縁遠い私が、最近あきれたことがある。
 フライ係にとってはたいせつな、油だ。


 うちの母親が、こんなことを言った。
 アマニ油を買ってちょうだい。

 なんかすごいガソリンかな、などという勘違いまでは、いかに食に興味のない私とはいえさすがにしない。
 とりあえず調べてみると、なんか健康にいい油らしいとわかった。

 私は買い物上手なので、セールのタイミングでコスパのいいものを厳選した。
 ただ安いだけだと文句がくるので、口コミの高いレーベルの同じ商品を比較して安いものを買った……が、それにしても高いなとは感じた。

 高いには理由があるはずなので、いろいろ調べてみた。
 いかに興味がなくとも、無知は恥ずかしい。


 グーグル先生によると、食用油にもいろいろあるようだ。
 アマニ油はエゴマ油と並んで、αリノレン酸含有量の高い油である。

 オメガ3系脂肪酸はサバやイワシなどに多く含まれ、現代人には不足しがちな栄養素である。
 不飽和脂肪酸に属し、たいへん健康に良い。

 とくに受験生は、脳によい青魚を食べましょう……うんぬん。
 たしかに、EPAとかDHAとかの健康成分については昔、はやった気がする。

 うちの愚かな母親も、この油が健康にいいらしいと、どこぞで聞き及んだのだろう。
 身体にいいんだよ、と偉そうに講釈を垂れてくる。

 どうせ昼間のくだらん番組とかで聞きかじった、薄っぺらな知識だ。
 が、頼まれたタイミングではこちらも詳しく知らなかったので、黙って聞いていた。


 テレビ番組に踊らされる愚かな大衆については、昔から「あーあ」と思っている。
 躍らせる側のマスコミについても、捏造、やらせ、誤報を垂れ流して終了した番組など、問題の多いジャンルだ。

 いわゆる健康食品系の流行に踊らされて、サバ缶がなくなったり、オートミールがバカ高くなったり、いろいろあった。
 それまで安くて助かっていた商品を犠牲にされたときは、すこしムッとしたものだ。

 タピオカやクレープなどファストフード系は、しばらくすれば飽きて見向きもされなくなる。
それに比べて健康食品系は、地味に長続きして高値安定することもある。

 アマニ油はいまのところ、そんな感じらしい。
 長らくサバ缶を食っていた私にとっては、必要のない油だ。


 仮に、この油が健康にいいとしよう。
 問題は、その程度だ。

 バーガーやらピッツァやらをばかばか食い、ぶざまに膨れ上がった脂肪の塊が、健康にいいと言ってアマニ油をがぶ飲みしている姿が、まず脳裏をよぎった。
 あんたには、それ以前にやることがあるだろ、と。

 ──まったく同じ健康な食生活をしている、一卵性双生児のゴールドさんとシルバーさん。
 彼女らは100歳の誕生日を迎えても、健康に生きている。

 将来のために貯金しています、と笑うゴールドさんがある日、亡くなった。
 一方、シルバーさんのほうは、ふつうのごま油の代わりにアマニ油を使っていたので、101歳の誕生日を迎えることができました、めでたしめでたし。

 あるとしても、その程度の差しかない、と私は思っている。
 なんならごま油のほうが健康にいい可能性すら、ぬぐいきれていない。

 そういうレベルの商品を、どこぞのマーケッターの口車に乗って、ありがたがって高値で買う民衆の愚かしさよ。
 売りたくてしょうがない商人たちのやり口は、いつだって「バカからだましていく」スタイルだ。


 もちろん、だまされるほうにも一定の問題はある。
 うちのアホな母親にも、おまえいいかげんにしろよ、と思うことは、まれによくある。

 自分自身、幼少期には愚か者で、宣伝に操られて愚かな商品を買ったこともある。
 年をとると子どもに返るらしいので、あまり強くも言えない。

 流行に乗っかっているくらいならたいした害もなかろうと、まあ好きにさせてやってはいるが、あまりアホらしいことを言われると、その遺伝子を受け継いだ者としてはげんなりする。
 邪悪な商人に踊らされて、エセ科学あふれる高額商品を買わされている老親をもつ全国津々浦々の方々も、たぶん同じような気持ちではないだろうか。

 これを食べればボケない、痩せる、病気にかからない、なんなら死なない。
 そんなものを買わされて悦に入っている、あんたにいちばん足りないのは脳みそだよ……。

 なにを食うかより、なにを学ぶか。
 人類は、もっと賢くなれるはずだ。