私は趣味で小説を書いている。
けっこうなファンタジーも書いたりするのだが、そのジャンルによくある「バトルシーン」というものを、ほとんど書かない。
バトルものの王道といえば、やはり少年漫画だろう。
バトル漫画というジャンルは、昭和以前から連綿としてある。
私もその道を通過してきた。
勢いだけで成立しているような、クソガキ御用達の愛すべき漫画たち。
いいおっさんになった現在、当然のように「子ども向け漫画」を子どもと同じ視線では楽しめなくなっている。
あたりまえのことではあるのだが、全年齢向けに作品を書くうえでは、学びなおしておくにしくはない。
そこで戦う必要ある? その方法成立する?
と目を細めて読むのは、おそらく正しい読み方ではないだろう。
「バトルシーンのためのバトルシーン」も、いかがなものかと思う。
結末がわかりきっているような、見え見えのやっつけ仕事。
ごっそりと読み飛ばしても、ストーリー展開になんの支障もない。
内容はないよ、読むな、感じろ、と。
それでも、たまにキラリと光るシーンなどもあり、バトル漫画自体きらいではない。
辟易することも少なくないが、対象年齢を考えれば許容範囲だ。
とくに昔の少年漫画を読んでいるとたまに遭遇するのが、主要キャラを「生き返らせる」場面だ。
これがもう、虫唾が走ってしょうがない。
人が死ぬシーンが印象的で、感情を揺さぶるのはなぜか?
なぜなら「人は死んだら生き返らないから」だ。
私が書いているファンタジー小説でも、「生き返る」という宗教行為だけは厳に慎んでいる。
ファンタジーならいいじゃない、と思われるかもしれないが、そのやり方だとダブルスタンダードになりやすい。
たとえばファンタジーRPGでは、呪文ひとつで簡単に生き返ってしまう。
とすれば、仲間が死んでもべつに悲しむ必要がなくなる。
ところが昔の少年漫画では、たいそう悲しんでいる。
怒り狂って、理屈抜きで強い敵を倒しちゃったりする。
そんな子どもだましの展開を喜ぶ、テキトーな読者に向けた作品ってわけか……。
と、とうてい同意できない自分自身を省察するや否や、そんな私がテキトーに読んでいる人間とみなす人々は「まじめに読んでいる」のかもしれない、と気づく。
いみじくも、バカに合わせろ! と叫んだ編集者の思惑どおり。
そういう需要があることは事実なのだと、連想が回収されていく。
私にとっては「テキトーに復活した主要キャラ」と「感動の再会」を果たすシーンも、そこには「お仕着せの意外性」あるいは「伏線なしのどんでん返し」あたりをでっち上げようとした作者および編集者の苦労を、わざとらしく慮ったりしてみる。
そんな目で読む少年誌は、じつに「もののあはれ」を感じさせる。
少年漫画のバトル以上に苦手なのが、恋愛だ。
ひたすらデザートだけが出てくる食事を、想像していただきたい。
それ自体、べつに否定はしないしそういうのが好きなひとは好きなだけ食べればいいが、私には無理だ。
全編そればかりが並ぶ、つまるところ少女漫画。
苦手だ……といって、否定しているわけではない。
なんならその価値を、必要以上に高く評価さえしている。
自分にできないことができる人間は、とりあえず尊敬しておいたほうがいい。
よくこんなん書けるな、すげえな、と感心半分、イライラ半分で少女漫画を読むことが、まれによくある。
対象年齢や性別、属性を考えて作品を読む必要はある。
それでよしとする世界観、それ自体を学ぶことは、外国の文化を学ぶのに似て、むしろ興味深い。
こちらがあえて踏み込んでいる以上、郷に従うべきだ。
人それぞれ自分の世界があって、尊重しなければならない。
そもそもいい年をした私が、少年や少女の世界に踏み込んで文句をつけるのは、あきらかにまちがっている。
若手が情熱で生み出した作品を、年寄りは謙虚に読むべきなのだ。
そんな年寄りの私が、若いころに楽しんだ作品がある。
シリーズ化されていて、「続編」がたまに出る。
好きな世界観の作品だ。
おっさんホイホイと言われようが、無条件で買ってしまう。
しかしそれが、すなおに楽しめるとはかぎらない。
自分にまったく合わないテイスト、コレジャナイ感が満載だったりする。
見方によっては、オールドファンの突っ込みとか老害とか腐されることもあろう。
が、気に入らないものは気に入らない。
結局のところ、私は続編をつくりだす若手にとって「対象外」になってしまったのだ、と気づく。
彼らはその「続編」を、楽しんでくれる若者たちに向けて、つくっているのだ。
私は年をとりすぎてしまった。
長生きはするものなのか、長く生きるとろくなことはないのか、むずかしいところだ。
と、そこで終わってしまえば、私もただの年寄り。
若手がつくってくれないなら、自分でつくればいいじゃない。
そんなわけで、現代ファンタジー小説を書いている。
バトルシーンは、あまり重視していない……。
祖国を失ったら生きていけない!
と叫ぶ軍人の映画を観た。
軍から給料をもらって生きている彼の場合、たぶんまちがってはいないのだろう。
戦後教育を受けた私にとっても、自分の職業を愛する彼の選択の自由については、認めるのにやぶさかではない。
ただ愛国心なるものを考えるとき、いくつか引っかかる点がないわけではない。
たとえば、国のために死ぬ軍人と、神のために死ぬ信者は、どうちがうのか?
すくなくとも人殺しが自己を正当化する方法のなかで、いちばん強力かつ妥当であると認められうるもののひとつ、それが「正規軍」だろう。
彼らが活躍する戦争映画を観るたびに、残念ながらうまく感情移入できない自分に困っている。
昔は文字どおり国家間の「戦争」が描かれることが多かったし、最近では反政府組織やテロリストなどが「敵」として設定されることが増えた。
映画なので毎度「敵認定」された兵士たちを派手に殺しまくってくれるわけだが、そういう主人公タイプへの違和感がぬぐえない。
人質を助けるとか、仲間を守るとか、理由づけについては当然のように、なるべく文句のつけようがないように設定されてはいる。
大作であるほどシナリオのほうも当然、コンプライアンス必須のご時世だ。
対テロ組織や特殊部隊の「個人」のみにフォーカスしてくれれば、まだしも観られる。
間断なく、政府やら上層部やら戦術家やらが、国益やら治安やら外交やらについて割り込んでくると、もう無理、窒息する。
彼らは結局、ただの「駒」なのだと思い知らされる。
殺しの手先が、なにやら浅薄な理屈を口走ったところで、きわめて共感しづらい。
仲間が死んだ? そりゃそうだろ、おまえらもっと殺してんじゃん。
あんたらが「殺し合うのは勝手」なんだが、民間人を巻き込むんじゃないよ。
そんな感じで、もう観ている時間がつらくてしょうがない。
またぞろ派手な爆発シーンの予算がおいくら万円かな、などとソロバンをはじくことで注意をそらしてみたりする。
戦争映画というジャンルそのものは、おおむね過去の栄光を引きずる戦勝国が多い。
たとえばアメリカやロシアだが、最近は中国やトルコもよく見かけるようになった。
べつにトルコはきらいじゃないが、絶賛クルド人大虐殺中、しかもそれは正義、なぜなら相手はテロリストだから。
……うーん、アフガン(マンダムの口調で)。
ここで一度、思考を停止する。
私は自分が正しいと思って書いているが、批判されている側もまた正しいと思ってやっている(と思われる)。
としたら、どこに均衡を求めるべきか?
人類が、みずから決めて実行している行為を、ゆめゆめ軽んじるべきではない。
偉大なドイツ民族はユダヤ人を絶滅させようと決め、ある程度は成功した。
コンキスタドールやピルグリム・ファーザーズの子孫たちも、アメリカの先住民を9割がた消し去ることに成功している。
国境線という架空の直線で大陸を分割し、その枠組みは現在も兵器などを売りつける役に立っている。
三角貿易から任意の国境分割まで、これらの現実はすべて、政商たちの利益を最優先した結果だ。
言い換えれば、現に利用されている枠組みを変更することは、たいへん不愉快な被害が生じる。
既得権という魔物が吐き出す、もっとも有名なお題目が「武力による現状変更の禁止」だろう。
彼ら自身が、武力によって変更した地図が、すなわち現状である。
後発の連中に同じことをされたら都合がわるい、よってそれは禁止します、という宣言。
かつての過ちを訂正もせずに、これからの過ちについては禁止する。
そのほうが比較的マシだから、という理屈はたしかに成立するが、道義的にはどうかとも思う。
では、クルド人やウイグル族やロヒンギャたちは、この世から消し去ってしまったほうがよいのか?
そちらのほうが比較的マシだと考える人々もいる、という理屈はどの程度まで正しいのか?
現状追認のイデオロギーは、正しいからこそ、つねに在りつづけるのではないか?
などと考えを進めてみたが、あまりしっくりはこなかった。
たぶん私の受けた教育と、私自身の遺伝子のせいだろう。
日本人はアメリカに逆らったので大虐殺されて当然だった、という教育を受けたことに、いまでもしっくりきていない。
どう考えても殺したほうがわるいに決まっているし、たくさん殺したほうが正義という議論自体が、そもそもおかしい。
だから軍人がなにをほざこうが、そう簡単に受け入れることができない。
アメリカ大統領で評価の高い人物を順に並べたとき、勝ち戦をとった人物の評価が軒並み高い。
たくさんの人間を殺そうと決断した人物、たとえば南北戦争や太平洋戦争という「戦時の大統領」だ。
理屈としては理解しやすいのだが、同意するのがむずかしい。
新時代の「コロンブスの卵」だと思う。
コロンブスが歴史上に果たした「英雄」的役割の一方、「先住民大量虐殺」の先鞭をつけたクズ野郎という指摘も昨今かしましい。
いまのところ、前者が大きなウエイトを占めている印象だが、流行とは文字どおり流動的だ。
大航海時代という流行に乗って、彼らはできることをやった。
市民や労働者のための革命から、地球温暖化問題まで、その時代ごとに「流行」はある。
発想の転換をしよう。
自由に他人を殺戮し、略奪してもいい(よかった)としたら、都合がいいのはだれか?
われわれの考え方は、たとえば教育などによって、だれかに都合がいいように醸成される。
人間は古来からずっと自由だったが、その「範囲」が、当初の「小集団」から「国」へと発展したのが、現在までの人類史だ。
自由主義陣営は専制主義を敵視しているが、そもそも「国が決めたほうが都合がいい」可能性はある。
ひとは生まれつき賢明ではないからだ。
専制主義国家のほうが、国民を抑圧しやすいことは事実だ。
同時に独裁国家が歴史に残る「征服」を成し遂げた事実も、また揺るがない。
わるい方向にも、もちろんはたらく(西側諸国のテレビを見ればわかる)。
しかし温暖化対策(利権のにおいはするが)や宇宙開発(先行したのはソ連だった)においては、全体主義のほうが有利だったりする。
私が専制主義を批判するのは、この世で1、2を争うほどきらいな「政治家」の影響力が、他の政体よりも比較的に強いからだ。
言い換えれば正直、理由はそれだけしかない。
政治家がテキトーに都合のいいことを、アホみたいに吹き散らかす生態は、むしろ西側陣営のほうが顕著だ。
いい部分は唯一、その影響力の低さのおかげで、北朝鮮やロシアより「マシ」なことだけだろう。
それも、もし北の将軍様が天才的統治者だったとしたら、話は変わる。
どう考えてもそうはみえないのでこの仮定は不成立だが、カリスマ的な指導者の存在は人類社会を劇的に改良しうる。
自由主義の勝利は結局、いくつかの要素での比較優位が、たまたま現状の物質文明を支持する役に立ったというだけ。
どちらが先か、主従関係はともかく、地球を破壊しつづけるイデオロギーは現状、ただの必要悪でしかない(われわれはその恩恵を受けている)。
人類の限界を見たければ、国際政治を見ればいい。
だれが限界を超えるのか、もちろん人類ではない。
歴代のSF作家たちが、口をそろえてAI脅威論を吹聴しつづけてくれた。
その影響には端倪すべからざるものがあるが、残念ながら私の身体からその毒は抜けてしまった。
ろくでもない政治家に率いられる、しょせん人間ごとき。
AIに任せたほうがマシだろ、という近い将来への期待を、毎度の結論としたい。
群馬はすべて山の中である。
と文学的な冒頭から、はじめてみよう。
島崎藤村が明治維新前後の動乱を描いた名作『夜明け前』──について語るつもりはない。
今回はなんとなく、私の住む県がどれだけ山の中であるかについて、理系の論法で説明してみたいと思う。
群馬は関東平野の一部を含むので、厳密にいうまでもなく山の中ではない。
なんなら住人のほとんどが平野部に暮らしているわけだが、それでも彼らが「上毛かるた」以上によりどころとしているのは、山だ(異論は認める)。
私のように山に暮らす人間はもとより、平野部に暮らす人間たちすら、大地に立って周囲を見回したとき、いずれかの方向に「山」が見えないと不安になる。
それがグンマーである。
いや、べつに群馬の野望について語るつもりはないし、その資格もない。
私自身けっこう最近まで、自分は埼玉出身だと思っていたくらいだ。
相続関係の手続きで調べた結果、生まれた病院は高崎市であり、生後しばらく群馬に暮らしていたと知った。
物心ついてからは埼玉県民だったが、とはいえ県北だったので、最近あらためて私自身のグンマーぶりを自覚しなおしている。
さて、世界には196の国がある(日本と日本が承認している国)。
そのなかに「二重内陸国」は2か国しかない。
外海に出るまでに、2か国以上を経由しなければならない国。
これを、二重内陸国という。
クイズにもたまに出るので、おぼえておいてもいいかもしれない。
正解は、リヒテンシュタインとウズベキスタンだ。
ヨーロッパの小国であるリヒテンシュタインは、スイスとオーストリアの中間に位置し、人口は4万人。
隣接するスイス、オーストリア、ともに内陸国である。
一方、ウズベキスタンは中央アジアの大きな国で、人口は3500万もいる。
カザフスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン(すべて内陸国)と接する。
カスピ海は近いが、これは外海にはつながっていない塩湖である(ただし沿岸5か国の協定では「海」と定義される)。
ウズベキスタンこそ、真の内陸国といっていいかもしれない。
話をもどそう。
海に囲まれた島国・日本の47都道府県のうち、海岸線をもたない内陸県は、8つある。
このうち「二重内陸県」は存在しない。
ただでさえ少ない内陸県で、さらに二重内陸など、さすがに現実味はない。
しかし、そのなかでも群馬は、二重内陸県にもっとも近いと思う。
以下、証明に使っているデータの出典は末尾。
群馬が県境を接するのは、埼玉、長野、栃木、新潟、福島である。
このうち、海岸線をもつ新潟と福島に接する県境の距離は、他の3県と接する距離の5分の1にすぎない。
具体的には、群馬県が他県と接する県境の距離合計、615.7km。
うち、新潟と福島との県境距離は、126.7km。
それ以外の県、埼玉、栃木、長野は、すべて海なし県である。
単純計算でも、県境のほぼ8割が内陸県と接することになる。
他の県で、ここまで内陸の県はない。
よって群馬県は、二重内陸県にもっとも近い、日本一の山国といってよい……はずだ。
これで何事かを証明しようというつもりはない。
ただ群馬にとって山がいかなるものか、多少は説明できているような気はする。
最後に、日常の文学でオチをつけておこう。
ふつうに家で作業をしていると、近所からこんな声が聞こえてきた。
「ヤッホー!」
…………。
……検索エンジンのことかな。
叫ぶとヤホーが調べてくれる時代になったのかな。
もしかして、やまびこカモンな呼び声かな、まさかね。
それは自宅で作業している人間の耳に聞こえてくるべき声ではないよ。
もっと山奥で言ったほうがいいんじゃないかな、そういう言葉は。
……わかった認めよう、ここはもうすでに山奥だ。
結論。
群馬のウチは山の中である。
※県境のデータはこちらのサイトを参照。
https://dailyportalz.jp/kiji/saicho-saitan-kenzakai-ehime
国の機関によるオフィシャルな発表はなく、サイトによって県境の距離は異なるので、あくまでも概算。
最近よくマンガを読んでいる話を、前回くらいに書いた。
そのときは少年漫画について言及したので、今回は少女漫画について書きたい。
私は爾来、少女漫画の対義語は少年漫画ではなく、エロ漫画だと思っている。
あらかじめ申し上げておくが、どちらのジャンルを批判するつもりもない。
エロ漫画とは、言うまでもなく「男の性欲」に特化している。
そんな女いねえよ、という理想の女を描くことがその本質だ。
一方、少女漫画のターゲットは基本、少女である。
そんな男いねえよ、という理想の男に囲まれる「ふつうの」少女を描くことが、少女漫画の核心といってよいだろう。
もちろん、どちらのジャンルも型にはまらない特殊なパターンはいくらでもある。
が、基本はそれぞれの読者層にとって、都合の良い異性を描くこと、だ。
どちらもりっぱに、需要に応えている。
少女漫画が、もっぱらドロドロした恋愛に偏りがちなのも、『源氏物語』の昔から変わらない。
基本的には市場原理で、光源氏なりイケメン王子なりの顧客との取引関係を描いている、と思って眺めると理解が早い。
少女漫画の主人公は、ファーストキスとか本気で好きとか付き合うとか、まれに肉体関係まで進むものもあるが、要するにそのへんの「心」や「身体」という商材(サービス)を、他店に行かない「彼氏(固定客)」に、できるだけ「高く売る」ことを目的としている。
では、どうやって?
まず基本は、そんな値段じゃ売れませんね、と「もったいつける」。
売りたくてしょうがなくても、高値をつけてもらえるまで我慢して粘る。
少女漫画の主人公が、いやそうな顔をして悩んだりしている顔は、そういう「商人」の顔と完全にダブる。
作中の当人の気持ちとしては、おそらく「純粋」なのだろう……が、私の目線からはあまりリアリティがない。
そもそも、なんでふつーの女子のまわりに、そんなイケメンや金持ちが集まってくるのか、という時点でおかしいのだ。
若い女というだけで金を払うのはブサメンやヒヒオヤジであって、どう考えても才能豊かな金持ちのイケメンではない。
そんな「高め」の男からアプローチしてくるだけでも変なのに、そのうえ「いやがってみせる」。
なぜか?
娼婦も花魁クラスになると、大名を相手にも誇りを示さ(もったいつけ)なければならないからだ。
一般に女は感情表現が豊かで、よく笑う。
進化生物学的に、「みんなと生きていくため」に必要だから、らしい。
笑顔は商売にもなる。
スマイル0円というのは、ただの都市伝説だ。
だれが笑うか、どんな状況かにもよるが、ほとんどの笑顔は「仮面」である。
感情に絞め殺されるまえに笑っておけば、すくなくとも場の緊張はゆるむ。
そんな「処世術」も万能ではない。
決断を要する局面では、しばしば弱点のほうが目立つ。
救いの手を拒絶するが、ひとりで生きていく目算はない。
解決能力皆無のくせに他人の秘密を暴き立て、問題を「いっしょに悩んであげる」ことで、いいことをしたつもりになっている。
自分で放り出して、あとからじたばたする。
ちょっとしたことで派手に傷つくくせに、自分は平気でやらかす。
いやなことは当然拒否するが、その自由にともなう責任は負わない。
要するに「いやよいやよは、いやなんです」という一般原則が通じない。
「いやだ」という主張が拒絶ではなく、相手に高く買わせる手段に成り下がっている。
少女漫画は、少女たちをそんな安い商人に仕立て上げようとする作品群のようにも見受けられることが、まれによくある。
以上、ざっと思いついた少女漫画の特徴を書き出してみただけで、ぶっちゃけ気が合わない。
とくに明確な男女の一般的性差が、致命的といっていいほど大きな印象の差を、物語にもたらしてしまう。
男は、聞いた話について、できるだけ解決しようとする。
女は、ただ聞いてほしいだけで、べつに意見などは求めていない。
おっさんに相談してみるとわかるが、だいたい得られる答えはゼロかヒャクだ。
それができれば苦労はしねーんだよ、という目的地への最短距離かつ無責任な助言はとりあえず得られるが、ほとんど役には立たない。
おばさんに相談してみると、無責任さについてはおっさんと大差ないが、押しつけがましいことはあまり言ってこない。
話を聞いてやった自分に満足し、にやにやと笑っていることが多い。
どちらが正解か、という話ではない。
相談する側が必要としているものが、それぞれ異なるからだ。
私のように、なにか言われると反対のことがやりたくなる、という厄介な性格の人間にとっては、どちらもまっぴらだ。
そんな人間の心を騒がせるのは結局、自分のことは自分で決めるしかない、という信念を揺るがす「別の正義」が、少女漫画にはあるような気がしているからだろう。
登場する「少女」は、ほとんどが「こども」である。
精神年齢の低い行動については目をつむるとしても、不快なのは「成功した娼婦の不都合な部分だけ糊塗している」部分だろう。
私は娼婦という職業を敬愛しているので、彼女らに対して失礼にならないように書くのに必死だが、控えめにいってエゲツナイ。
安っぽい願望が無造作に肯定されることへの不安、とでもいうべきか。
気高い花魁のみに許された客に媚びない姿勢を、ろくな努力もしない端女《はしため》がやらかして、しかもなお成功してみせるかのような。
こじらせた自意識を共有できる主人公は、だから「中の上」くらいの階級に設定される。
損得抜きの慈善事業のフリをして、デッカイ鯛を釣ろうとしている偽善者、それも確信犯的な商売人という表現でもいい。
「女の子はみんなプリンセス」という、ひと昔まえの商業主義にも通じる。
このブログでも連綿と描いているとおり、そもそも私は、商人や政治家という職業を大の苦手としている。
この手の物語と相性がわるいのは、なかば必然といっていいだろう。
というわけで、女的思考回路だとすんなり受け入れられるのだろう展開が、男である私にとってはイライラしてしょうがない。
おまえほんといいかげんにしろよ、と1冊あたり1回くらいは思う。
この苦行をだいぶくりかえした結果、女的思考についてもそれなりに学習はできた。
サイコパステストを受けたときにのように、こう答えればいいんでしょ、という模範解答を類推できるようにもなった。
それを純粋に「楽しんでいる」と呼べるかどうかはともかく。
こうして少女漫画を読むいい年をしたおっさんは、意味のある消費をしている、と言っていいのだろうか……。
最近まとめてマンガを読んでいる。
たまに猛烈にマンガを読みたくなることがあり、かつては漫画喫茶などに入り浸ったものだった。
しかしここは田舎なので、そういう洒落たものは近所にない。
さいわいネットで、いくらでも読める時代になったので、いまはほぼ電子書籍に頼っている。
かつてはマンガの手法を勉強するために読むことが目的だった。
いまは完結した漫画を、ふつうに娯楽目的で読んでいる。
いい年をした元国会議員の容疑者が、弁護士に週刊少年ジャンプの差し入れを要求したことが話題になった。
その年でジャンプかよ、という巷間の突っ込みについては、べつに年齢や性別は関係ない……こともないとは思うが、すくなくともなにを読もうがよけいなお世話ではある。
じっさい私も、少年漫画や少女漫画をふつうに読んでいる。
今回は突っ込むことが多いので、タイトルを挙げるつもりはない。
少女漫画がどれだけ苦手であるかについては、このブログにもたまに書いている。
それでも読むのは、自分の知らない考え方や特有の感覚を知れるからだ。
少年漫画については、ガジェットは多少変わっても不変の展開に、なつかしさをおぼえることが多い。
読者は全員バカだと思って描け、という命題に忠実であることを確認して安心する。
よくあるパターンてんこ盛り、ちょっとした組み合わせの問題。
物語を進行させるために多少の不具合、矛盾、強引な設定は許容する。
さきほど読んだ犯罪モノもご多聞に漏れず、まずは悪者の言いなりになる、なぜなら窮地に陥る必要があるから。
昔のセキュリティホールがそのまんま、おそらく解決に必要な伏線のつもりだろう。
衛生当局なにやってんの、と言いたくなるような、主人公たちに解決させるためにする放置政策はいいとして。
人質が無限の効果を発揮する万能システムについては、さすがにそうはならんやろ、と鼻白んでしまうのは少年の心を失ってしまったからか。
細かいことが気になってしまうのも、年のせいかもしれない。
フグの毒に当たった、治療法はない、とだいぶえらそうな医者が言っていた。
横隔膜がけいれんし、呼吸できなくなり、人間が死ぬまでにかかるのは数分だ。
作中に指摘されているとおり、たしかにこの猛毒自体を無効化するような治療法や解毒剤は存在しない。
が、対症療法はある。
テトロドトキシンは神経毒で呼吸器系をマヒさせる、ということは……。
そう、ごく初歩的な設備、どこの病院にもある人工呼吸器があればいいのだ。
死ぬのは呼吸できなくなるからであって、だったら強制的に呼吸させてやればいい、という簡単な理屈を「えらいお医者さま」が知らないって、どうなの。
もちろん人工呼吸器だけで確実に助かるわけではないが、一晩もあれば毒は自然に代謝される、人体の神秘だ……と、どこかで読んだ気がする。
確認のため調べなおしたが、おおむね事実らしい。
私くらいの人間が知っていることを、プロの医者が知らないのは、さすがにおかしくないか?
まあ知らないのは医者ではなく漫画家なので、リサーチしない担当者にでも突っ込めばいいのだろうか。
自分で小説を書いていても、この手の悩みは尽きない。
世の漫画やドラマなどには、よく「天才」が出てくるが、陳腐なシナリオライターの思惑通りに動く天才なんて天才じゃねえよ、と突っ込みたくなるシーンがよくある。
端的に言えば、シナリオが設定に負ける。
天才とはかけ離れた、たとえば私のような低能な書き手が、作中に天才を登場させようとすると陥りやすい罠だ。
書き手としては恥ずかしいと感じるが、そう感じるのがふつうだ、とまで言うつもりはない。
とくにSFなど書いていると、世に「SF警察」と呼ばれるマニアな人々に突っ込まれるリスクが高いので、いちいち気にしていたらキリがないという考え方もありうる。
私自身、とある小説家に言葉のまちがいを指摘され、恥じ入ったことがある。
知らないことだらけであることを強く自覚はしているが、それでも最善は尽くしたい。
どんなマンガや小説も、だれが読むかはわからない。
他人のまちがいを見つけるたびに、自戒の一助としている。
すこし期待していたのだが、どうやら常温超電導はガセだったようだ。
ノーベル賞まちがいなしという報道まで先走っていたが、LK-99もまた見果てぬ夢の残骸となりそうだ。
ネットなどでは、韓国のチームという時点でうさんくさかったとか、そもそも朝鮮人には無理とか、ゆがんだ歴史教育のせいとか、妙な意見が散見されたが、さすがにそんなわけはない。
私は優秀な在日韓国人を知っているし、なんなら個人のレベルでは勤勉で能力の高い人間の割合は、日本人より多いかもしれないとすら思っている。
しかしノーベル賞が遠い。
しばしば話題になるその理由を、個人的に考えてみた。
韓国だけの問題ではないが、とくに朝鮮半島に多い宿痾のような病弊がある。
「上に立つ人間がまずい」。
太った変な将軍や、乗客を見捨てる船長などは極端すぎる例だが、ともかく上に立つ人間がひどすぎる。
ひどい人間でなければえらくなれない、構造的な問題でもあるのかと思えるほどだ。
無能な国王を指して、李氏朝鮮の時代が地獄にたとえられることがある。
半島を警戒した大陸の罠か、逆に、他国に警戒されないためには無能なくらいがよい、という保身の理屈も通る。
この伝統は残念ながら、いまや無能を超えて有害の域に達している。
たとえるなら、あまり効果のない(無能な)肥料をやめて、強い農薬をまいてみたようなものだ。
もちろん農薬も適量なら役に立つが、まきすぎれば環境全体に汚染が広がる。
わかっていても毒草が多すぎて減らせない、という地政学的リスクが背景にある。
まずは「敵」の排除からはじまって、つぎに目先の利益をもたらす研究開発。
結果が見えづらい基礎研究には当然、リソースが行きわたらない。
縄張り争いや権力の地盤固めに明け暮れる上司たち。
もちろん日本やアメリカにも、ひどい上司などいくらでもいるわけだが、朝鮮半島にはその数が異常に多い気がする。
長期的展望をもったり、目先の利益や追従にとらわれない、すぐれた上司。
そういう希少価値をもった上司が一定割合いないと、人類の役に立つような発見や発明を許容する素地は生まれづらいだろう。
農薬とは、即効性を求めること。
すぐに利益の出ない研究や投資を避け、才能という資源を短期目標に偏って投入する。
土壌から改良するには、時間もコストもかかる。
そんな「人類の役に立つ」大目標を、無能な上司が掲げるはずもない。
だから大きなことをしたい優秀な人間は、最初から海外を目指していたりもする。
どれだけ能力があっても、やらせてもらえなければどうしようもない。
人間は3種類に分けられる。
「役に立つ」人間、「毒にも薬にもならない」人間、そして「足を引っ張る」人間だ。
プラス、ゼロ、マイナス、というシンプルな見方でよいだろう。
ひとりの人間をそう単純に評価できないことは承知だが、統計的にはいずれかの傾向に収斂されていく。
人種や民族で差別するつもりもないが、現実的には所与の環境や文化によって、微妙な差が生じてもおかしくはない。
とくにノーベル賞受賞者の多いユダヤ人は出色であり、明確に「役に立つ」と言っていい。
理由はいくつか考えられる。
社会的に圧迫されていたことから、優秀でなければ生き残れない、そのために学習が重視された。
閉鎖的なコミュニティの近親婚などではぐくまれた、アシュケナジム系ユダヤ人の知能の高さが指摘されることもある。
病気のリスクが高まるので諸刃の剣ではあるが、無視できない実績は事実ある。
ほかにも、異教徒に囲まれている環境で身内で助け合う以外にすべがなく、「足を引っ張」っている余裕がなかった。
ひとりでも犯罪を犯せば、ユダヤ社会全体が窮地に陥る、などといった事情も勘案できる。
ともかく「優秀」とされるユダヤ人。
宗教的にも、慎重な研究に値する民族だと思う。
一方、東アジア文化圏に目を転じてみよう。
とりあえず見た目で国籍の区別をつけるのは無理、文化的にもかなり似ている。
似たような農耕民族・環境下で、アメリカのような多様性はまったくない。
飛びぬけて優秀な「天才」が生まれる可能性も含め、個人の能力に大きな差がつく要素はあまりないといってよいだろう。
おそらく「役に立つ」人間の割合は同程度。
にもかかわらず結果に大きな差があるとしたら、問題視すべきは「足を引っ張る」タイプだと思う。
日本人は戦後、あらゆる手段で牙を抜かれたので、「毒にも薬にもならない」タイプがかなり多くなった。
おかげで相対的に「足を引っ張る」タイプが減ったのではないだろうか。
一方、朝鮮半島では、政治的な緊張関係などもあり「足を引っ張る」こと自体に利用価値があった。
中国でも、ごく最近まで血みどろの政治闘争をやっていたし、おそらく現在進行形だ。
このような性質は、目先の「権力争い」には向いた体制だが、未来の「科学」にとっては不幸な状況となる。
中国人のノーベル賞受賞者が少ないのも、このためだろう。
どれだけ社会に余裕ができても、愚かな上司が多く、足の引っ張り合いをしていたのでは、視野の広い研究開発はやりづらい。
逆に言えば、この部分だけ改善すれば、高いレベルの研究者は自然に増えていく。
自国の小さな利益、目先の小競り合いからは、さっさと足を洗う。
そうしてお互い切磋琢磨できる環境になれば、東アジアのポテンシャルはかなり高いのではないかと思う。
やりたいこと、おもしろいことを、やらせてやる。
結局、ただそれだけのことなのだ。
世間は台風らしい。
いつものように部屋でポチッている引きこもりには、あまり関係ないが。
あるストアの「詳細説明」に、ちょっと笑った。
ブランドにとらわれないニューベーシックな時代にフィットしたウェアを、オールウェイズ・グッド・タイムのフィルターを通してバイイングします!
もうちょっと日本に住んでから商売したらどうかな大柴さん。
いや言いたいことはわかりますがね……。
それとは関係ないが、すこし前、とある商品を買った。
平日火曜日の早朝に注文したが、丸3日、つまり金曜の昼になっても発送の連絡がこなかった。
サイトには、1~2日以内に発送(土日祝除く)、と書いてある。
発送連絡をしていないだけだとしたら、遅くとも4日後には届くはずだが届かない。
もちろん発送していないので、連絡もしていなかったというのが事実だ。
つまり「だまされた」。
私は被害妄想気味なので、こうなると鬱状態だ。
ひとをだまして平気な顔で高笑いしている商人の邪悪な顔が、脳内を満たす。
げらげらげら、あいつまだ待ってるよ、サイトに書いてあること信じて待ってるよ、アホづらさらしてやがんな、だまされる顔だよあれは、バカなの、死ぬの?
こちらを指さして嘲笑する商人。
だまされるほうが悪いんだ、というメンタリティの世界はショーバイ商売。
そんな店に注文した私の責任もゼロではないと思うと、相乗効果で被害者意識も増していく。
何事も経験なので、たまにおもしろそうな中華アイテムを買うことはある。
中国からの発送なので時間がかかる旨、サイトにも書いてある。
理解したうえで購入している以上、数週間待たされることは、それほど苦にならない。
そもそも急ぎで必要なものを、中国から買おうという発想がない。
そういう商品が忘れたころにやってくるのはいい。
が、何日以内に発送と書いてあるにもかかわらず発送しないというのは、許しがたい。
言ったことはやる、できないことは言わない。
これは社会的生物であるヒトとしての基本だ、と考える。
とあるスーパー系量販店の通販部門。
ケース販売をしていて、まあまあお安い。
すでに10回近く利用している。
そのうち2回、こんなことがあった。
500mlのチューハイを買ったところ、350mlが届いた。
乾麺を2箱買ったところ、1箱が微妙にサイズの小さいほうだった。
前者は見てすぐわかったので連絡したが、後者は一見、箱のサイズが同じに見える。
よく見ればちがうのだが、そのまま適当にストックに積んでしまったので、気づくのが遅れて連絡しようがなくなった。
いずれの場合も差額は数百円程度で、まあいいかと受け入れられはした。
惜しむらくは、まだまちがって大きいほうのサイズが届いていないことだ。
商品管理がしっかりしているのかいないのか、たまには顧客が有利になるミスもしてもらいたいところだが、そのチャンスはあまりなさそうだ。
だいたい大きいほうがコスパがいいので、小さいほうを注文しないからである。
商人の蛮行は、もちろん通販にかぎらない。
たとえばコンビニのサンドイッチ具が少ない問題。
客から見える部分だけ具を詰め込んで、あとはスカスカという例のやつ。
いまにはじまった話ではないが、それだけに解決していないこと自体が問題だ。
それまで日本人を100%信じていた、という外人のツイートなども話題になった。
なかなかキレのいいジョークだが、笑えない自分がいる。
いうまでもなく、これも一種の「ダマシ」だ。
この手の「商人」っぷりにヘドが出る私は、コンビニで食べ物を買うという愚策をとらなくなってひさしい。
コンビニが平気で「客をだます」行為をつづけている以上、その利益に資するのは詐欺の助長に等しい、くらいに思っている。
生活防衛の最適解は「コンビニを使わないこと」だと、どこぞの経済評論家も言っていた。
個人的に敵視しがちな「商人」だが、全員が敵ではもちろんない。
敵か味方か、その指標としてもっともわかりやすいのが「価格表示」だろう。
もし「税込み」価格だけを表示しているなら、顧客目線で必要な情報のみ提示しているとわかるので、黙って買ってよい。
もし税抜き価格と税込み価格を「併記」していたら、その「表示の大きさ」を見比べてほしい。
よほど特殊な事例で税抜き価格を必要とする経理等以外、必ずとられる消費税を含めた総額を「わかりやすく表示」するのは当然だ。
法律でもそう決まっているが、数字の大きさそのものに規定はない、という法律の文言ギリギリに絡みつくような商人が、おそろしく多い。
顧客にとっては「支払う価格」を大きく、わかりやすく書いてもらえたほうが、利便性が高い。
しかし、国などに消費税を徴収されたあと「自分が受け取る金額」を大きく表示しているとしたら。
そう、その商人は「顧客より自分を優先します」という、公然たる闡明とみてよい。
個人的には、これほどわかりやすい指標はないと思っている。
見比べて「税抜き」価格が大きければ大きいほど、それは「自分優先の商人」。
げんなりするほど、そういう店が多い。
べつに自分を優先するなとは言わないが、だったら「サービス」とか「ご奉仕」とか、真逆のワードを使うのは控えてもらいたい。
自分自身にご奉仕、とでも書いてくれればまだ笑える。
人間のやることなので、ミスはしかたない。
単純ミスや誤字脱字、ちょっとしたキズ程度なら、まあ受け入れられる。
ゆるせないのは、公然と「だます」ことだ。
あたかも通常業務のごとく、「わざと」優良誤認を誘う商人。
大手サイトでさえ、平然とまかり通る詐欺的商法。
このヘドが出る連中との戦いに、終わりは見えない。
サイコパス診断テストをやった。
ふつうにやってもつまらないので、サイコパスならこう考えるだろう、という類推のうえで答えた。
──あなたは人を殺すために包丁を買った、高いものではなく安いものを、なぜか?
私の答えは、安いほうがたくさん買えて、たくさん殺せるから。
模範解答は、安いほうが切れ味が悪くて、たくさん痛ぶれるから、らしい。
なるほど、そういう考え方もある。
──あなたはある一家を全員殺害したが、その後、犬も殺した。
なぜか?
私の答えは、天国で家族を再会させてやりたいから。
これは模範解答だった。
全問こなした結果、かなりの高得点だった。
もちろん胸を張って私はサイコパスだ、とは言えない。
多数の書籍や映画などによる経験値を踏まえて「考えた答え」なので、秀才サイコパスとはいってよいだろう。
天才はもちろん、直感で満点の回答を出すはずだ。
要するに「胸糞のわるい答え」を考えれば、サイコパス診断をパスできる。
アホなことやってんな、と自分でも思うのだが、人物を描くためには必要な訓練だと思っている。
同じような訓練が必要とされるのが、警察の捜査関係だ。
とくに特殊な犯罪を担当するFBI捜査官などは、サイコパスに感情移入しすぎて心を病むなど日常茶飯事らしい。
多くの小説や映画にもなっている、大量殺人鬼。
それ以上にネタになっているのが、殺されたので殺し返す、いわゆる「復讐モノ」だろう。
犯罪者は本来、国家などによって刑罰を受けなければならない。
そのために「死刑」があるが、昨今そういう国は減ってきている。
しかたないので自分の手でやる。
治安のいいわるい以前に、理屈として理解しやすい。
犯人と同じ手口で拷問する、という設定の復讐モノも、けっこうある。
やられたのでやり返す、この理屈を否定するのはむずかしい。
同害報復は、だれもが考える。
倍返しまで望まなくていい、たったの「同程度」でいいのだ。
同害報復刑は、とくにイスラーム世界に多く残っている。
「キサース」は、刑罰の原点といっていい。
文字どおり、目には目を。
他人を失明させた男の両目を失明させる刑などが、イランでは執行されている。
パキスタンには、ジャベド・イクバル(1956~2001)という連続殺人鬼がいた。
確定犠牲者数は、およそ100人。
6歳から16歳までの少年に対する性的虐待と殺人。
証拠を隠すため遺体をバラバラにして酸で溶かした、などなど罪状あまた。
有罪判決後、被害者たちを殺したのと同じ方法で殺されるはずだったが、そのまえに自殺した。
警務官がやさしかったからか、賢かったからか、アホだったからかはわからない。
同害報復の国は、ほかにもいくつかある。
しかしほとんどの国では、よりシンプルな方法に置き換わってしまった。
絞首刑が用いられる場合が多く、薬殺や電気椅子なども使われる。
有名なギロチンは、1977年でその役割を終えた。
さて、この人類の基本的な需要である「報復」を、批判的なニュアンスで語る者がいる。
やりすぎたケースについてはその通りだと思うが、報復全般を一般化して批判しているのを見ると、そこに危険な思想を嗅ぎ取らざるを得ない。
まっさきに思い出すのが、冒頭に述べた「サイコパス」の理屈だ。
たいていの「先制攻撃者」は、自分はやっていいけど相手はダメ、という特異な選民感情を持ち合わせている。
サイコパスはつねに攻撃する側であって、自分が攻撃されることは許さないし、そもそも考えもしない。
彼らの耳に「復讐はいけません」という理屈ほど、都合のいいタナボタ話はあるまい。
攻撃しても反撃されない、というこの特異な理屈のせいで、本来は矯正されるべき軽度のサイコパスさえ重症化させているかもしれない。
偏った自意識を駆動させるのは「誤った教育」であり、必要以上に「甘やかす」ことはそれにあたる。
報復されるようなことをしてすいませんでした、とまずは謝るべき人間が、報復なんてひどいと泣き叫んでいる姿は正直、正視に堪えない。
サイコパステストで、生まれつき高得点をたたき出せるタイプなのだろう。
古来、報復の問題がしばしば取りざたされるのは、明確な基準が存在しないためだと思われる。
もちろん、個人が好き勝手に報復していたら、秩序そのものが保てない。
ハンムラビ法典以来、報復の「程度」についての規定は、現代の最高裁判例まで綿々と積み重ねられつづけている。
宗教が報復自体を禁止したり、神に委ねるなどして先制攻撃者に有利にしているのは、利益を吸い集める権威という構造自体が先制攻撃者だからだろう。
いずれにしても、人類には報復が必要だ。
ただしより強力な秩序も必要なので、公正無私な「代行者」を求めてもきた。
歴史的には、宗教や法律がその役割を果たすべく、付託されてきたといえる。
が、彼らの権能はすべからく盤石ではない。
国家や教団に任せて、世界がどんなありさまになるか、なったか。
われわれは、もう十二分に学習してきたはずだ。
もっと明確で、同意しやすい基準に基づいて、あるべき「報い」の形を目指さなければならない。
すくなくとも、報復されるべき人間が、報復ひどい、などと寝言をほざけないようにする最低限の基準は、ぜったいに必要だ。
復讐モノ(実話・フィクション問わず)は、そのガス抜きのひとつとして機能を果たしてきた。
人類の多くは「筋を通す」べきだと思っているのに、しばしば現実がその期待を裏切る。
なぜか。
人類の数%は、いぜんとしてサイコパスだからだ。
優秀なサイコパスも、もちろんいる。
しかし、ただのクソ野郎も多い。
自分はやっていいけど相手はダメ。
そんな考え方に共感するには、人類はまだ個人的すぎるのだろう。
いいことをすれば、いいことが返ってくる。
そう信じたほうが、善良な人間になれる。
わるいことをすれば、どうなる?
それを淡々と、するだけだ。
社会・秩序を維持するためには、必要なのだ。
報いが。
時節柄か、原爆をネタに、プチ盛り上がっていた。
アメリカ映画『バービー』と『オッペンハイマー』絡みだ。
日本人にとっては不謹慎な原爆ネタのミーム。
そこにバービーの公式が「いいね」をしたとかなんとか。
フェミニズムやポリコレなど理想を語る面の皮で、原爆の悲劇には無関心。
しょせん軍事的勝利にあぐらをかいた連中の子孫が吹かしているだけ。
アメリカは911はネタにしないのに、原爆やナチスは平気でネタにする。
自国民がひとりでも殺されたら他国民を大虐殺、そもそも他国の悲劇なんかどうでもいいのがアメリカ人。
などなど多数の反発があり、日本の公式も謝罪したらしい。
そうでなくても中国が主張する国境線をそのまま採用するなど、世界戦略を展開する映画のマーケティングとしては、明確な「失敗作」にあたる。
まあ個人的には、あいかわらずだな、くらいの感想しかない。
軍産複合体の利害が最重要の国、アメリカ合衆国。
その歴史を学べば、彼らの行動は理の当然である。
そもそも他国の不幸は自国の利益、という現実はアメリカにかぎった話でもない。
言うまでもないが、戦勝国にとって敵国人の大量虐殺に成功した日は「忘れられない夏」に決まっている。
あの大虐殺国家アメリカに、なにを期待しているのか?
敵の悲惨は、自分の快楽。
ゼロサムゲームの国際舞台で、相手の都合など二の次、三の次は所与の前提だ。
アメリカ人がそのへん、国際標準より「ゆるい」感じがある部分も含めて、勝ち組の人間が負け組の人間の気持ちを理解できるなど、期待するほうがおかしい。
彼らの「良識」の多くを支配している「宗教」の歴史を踏まえるまでもない。
とはいえ、これまで「敵」を痛めつけすぎた。
多少は優遇してやろう、という社会の空気は、さすがのアメリカにもある。
あくまでも国内的にではあるが、たとえばアファーマティブ・アクション。
積極的な差別是正策で、1965年にアメリカ大統領行政命令として出された。
少数民族や女性などに対する差別的待遇をやめ、積極的な措置をとることが命じられているわけだが、現在これに「反対」する人々がかなり多い。
民主党的な理想を語る国で、厳然たる地位を保つ共和党の面目躍如といったところだ。
近所に有色人種が引っ越してくると、治安の悪化をおそれて白人が逃げ出す、ホワイトフライト。
最近では、優遇される黒人が多くなると仕事や進学の面でも相対的に不利になる白人が遠方に逃げ出す、という意味も付加された。
黒人優遇で、自分たちが不利を被っているのではないか。
白人はもちろん、アジア系での不満が渦巻いていたりもする。
これが違憲かどうか、だいぶ争いにもなっている。
国内の差別解消すらままならない国が、他国への配慮など優先順位の上位にくるはずもない。
社会というものは基本的に、多数派にとって都合がいいように運営される。
この映画が問題になるのも、アメリカ(と中国)という巨大マーケットをターゲットとしているからで、ある意味、許容範囲の失敗なのだろう。
そもそも多数派と少数派のバランスは、地域や時代によって変化する。
議論をすこし発展させよう。
少数派を守るべきだという主張はよく聞くが、ある種の発言については言葉を狩ろうとする傾向が強い。
たとえばいわゆる差別的とされる発言について、少数派がいっせいに噛みついてくる現象を想起してもらえればわかりやすい。
少数派の権利を守れ、というわけだが、あらかじめ申し上げておく。
すべての人間の権利が、平等ではない。
具体的には、権利と権利がぶつかるケースでは、多数派が優先される。
多数派が遠慮しろ、という主張の道理はまだまだ弱い。
多数派の配慮を求める性的少数者の意見が、まれによくある。
しかし個人的に、彼らは制度変更の「要求」ではなく、まず多数派の同意を得る「努力」をすべきだと思う。
努力が実れば、要求するまでもなく変化していく。
変化しない場合は、そこが生物的必然の均衡点ということだ。
LGBTQなどという、わかりづらい言葉を使うしかない現実が、多くを物語っている。
この言葉は、生まれつき特殊な性癖の持ち主はたくさんいるが、自分たちが味方するのはLGBTQだけですよ、という意味だ。
それ以外、たとえば小児性愛者や殺人嗜好なども、かなりの程度、遺伝子に刻み込まれている「性癖」である。
しかしそれが生まれつきであろうがなかろうが、彼らが社会的に許容される可能性はきわめて低い。
その「性的少数者」という広いカテゴリを限局化し、社会との摩擦をできるだけ減らしながら受け入れられる努力を試みる。
そういう道を選ぶ苦肉の言葉が、LGBTQというわけだ。
多数派への配慮を欠いた少数派の過激な主張は、たとえばマルコムXのように弾圧されることもある。
昨今は、むしろ弾圧されること自体をこれ幸い、噛みつく理由にしていく体のツイフェミや障碍者なども見かけるが、たいてい同じ少数派からの同意さえ得られない。
自分は障碍者なのであらゆるケースで優先されるべき、それをしない連中は差別主義者、という残念な障碍者の主張がかつてあったが、他の障碍者からさえ強い反発を受けた。
あなたには助けてくれる方々への感謝がないんですか、あなたの行動は障碍者のためではなく自分のためです、とても迷惑です、と。
この「尊大な弱者」誕生の背景には、それを容認する偽善者の群れがいる。
私がこの世でもっとも苦手とする連中でもある。
弱者を甘やかすことこそが正解であるかのように主張する、一部の社会学者や活動家。
いわゆるリベラルに属する、プロ市民と呼ばれるような人々は昨今、大いなる蹉跌を味わっている。
彼らにどれだけ現実が見えていなかったかは、「トランプ大統領」や「ブレグジット」のケースがもっともわかりやすい。
いずれも当時、そんなことあるはずないでしょ、バカらしい、と鼻で嗤っていたリベラルな人々を、わかりやすくサッパリと現実が裏切った。
障碍者である時点であらゆることをやってもらう権利があるんですよ、と某ラジオだかポッドキャストだかで吹聴していた、とある社会学者のことが忘れられない。
自分はいいことを言っているつもりのしたり顔が脳裏に浮かんで、それが彼らの商売であることを踏まえても、思い出すだに吐き気がする。
こういう学者らに煽動されたのだろう、くだんの障碍者もある意味では被害者かもしれない。
やさしくされすぎて、誤解してしまったのだ。
蝶よ花よと育てられた女の子が、世間に出て自分がブスだと気づく、というパターンに似ている。
気持ちはわからなくもないが、甘やかしすぎるのは問題だ。
ご家庭の出来事を修飾するのはもちろん各々のご家庭内の勝手だが、世間はその小さい範囲だけで完結しているわけではない。
大きな相互理解や配慮がなければ、けっして正常な関係は成り立たないのだ。
この手の考えが出現すること自体には、違和感はない。
古来から、もっぱら宗教者などがやってきた。
自分はいいことをしている、正しいことをしている、と信じて疑わない人々のことは、ときに「狂信者」と呼ばれることもある。
そういう人々を糾合しうるロジックは、おしなべて商売になるのだ。
だが無条件に助けてもらう権利など、この世のだれにもない。
あるとしたら神にでもすがるしかないだろう。
さいわい彼らには、福音がある。
社会を変えるAIという神が、ごく近い未来に準備されている……はずだ。
うちの母親は「呑気なババア」だ。
ある日、おかんは気づいた。
母「ここんちの冷蔵庫は大きくていいね」
スカスカの庫内に、頼んでもいない買い物を入れながら言う。
たしかにうちの冷蔵庫は、一人暮らしには大きすぎる6ドアだ。
とはいえ、自分の家も同じかもっと大きいはずなのに、うちにくるたびに同じことを言う。
私「それは冷蔵庫に、よけいなものを入れていないからだよ」
ハッと気づくおかん。
別の日。
うちの裏には畑があって、家族で消費する程度の野菜がとれてくる。
母「やっぱり畑があるといいね。土地は大事だね」
とれたての野菜を切りながら、浅薄なことを言う。
すると畑仕事からもどった父親が、苦々しげに言う。
父「俺が世話してるから野菜ができるんだよ」
ハッと気づくおかん。
お察しのとおり、あまり考えてしゃべるタイプではない。
目のまえの事象だけで、物事を判断する。
なぜそうなっているのか、俯瞰的な視点がない。
もちろん冷蔵庫が大きくなければ広く感じないだろうし、土地がなければそもそも畑を耕せない。
それはそうだが、それだけではない、「両輪がなければクルマは走らない」のだ。
アホなおかんではあるが、たまに本なども買っている勉強しているようだ。
人間死ぬまで、いろいろ気づいて賢くなる余地はある。
とはいえ、このばあさまはアホである。
アホなのだが、それなりの処世術ももっている。
相方のじいさまは、仕事だけはまじめにやる。
この点、問題なくだれもが認めている。
まったく空気を読めないADHDっぽいところはあるが、仕事については真摯だ。
たぶんこの性格は、高度経済成長時代の猛烈サラリーマンには、それなりにマッチしていたにちがいない。
問題は、すぐ怒ることだ。
瞬間湯沸かし器のように怒り出す頑固おやじの姿は、ちゃぶ台をひっくりかえす昔の漫画のキャラをほうふつさせる。
年老いてもその魂は変わらず、いいおっさんである息子が眺めているまえで、じいさまがばあさまを罵倒している。
たしかに、ばあさまもたいがいアホなのだが、じいさまもそんなに言わんでええやろと思う。
するとばあさまは突然、笑いだす。
あはははは。
なんとなく、場が流れる。
なるほどな、と思う。
じいさまの怒りが、うわすべりしてなくなる。
むしろ無駄にエネルギーを費やして、滑稽なじいさまですらある。
ばあさまの処世術だ。
夫婦が時間をかけて築き上げてきた約束事なのだな、と察する。
この夫婦の性格は、明確に真逆だ。
ともかくじいさまは頑固で、決めたことをちゃんとやる。
雨が降ろうが雪が降ろうが、やると言ったらやる。
裏の畑を眺めながら、こんなに降ってるんだからやめといたらいいのに、と思っている先でカッパをまとい、地味な作業を淡々とやっていたりする。
一方、ばあさまは怠け者だ。
やるべきことをやらない、というほどでもないが、まあ抜けている。
彼女がテキトーなことをやっていても、もう怒る気にもならない。
いや怒るのだが、ばあさまなのでしかたない。
正直あまり頼りにはできない。
代わりに作業してやる必要さえ出てくるが、たいしたことではなくても、他人の役に立っている気にはなれる。
期待値を下げる、という効果も抜群だ。
彼女が相手なら基本的に失敗しても、責められるということがない。
やることはやるが、だいぶ腹の立つ欠点をもったじいさま。
やることもろくにやらないが、場の雰囲気を和ませる、というか笑わせてくれるばあさま。
このまえもコケて、前歯を全損していた。
修理費が何十万もかかったらしい。
その顔で笑われると、もうどうしようもない。
いいから口を閉じててくれ、私がやるから、となる。
じつにおもしろい親だ。
何十年も、これでうまくいっている、らしい。
もちろんばあさまは、じいさまについて苦情をクドクドとくりかえすし、じいさまはじいさまでとりつく島がないようなところもある。
世間の夫婦についてはよく知らないが、まあ「これはこれで成立している」ということなのかもしれない。
そんな両親の息子は、ASD気味のひきこもりだ。
人間関係に背を向けて、孤独な半世紀を過ごして悔いがない。
あまり遺伝子に恵まれているとはいいがたいが、世間から排除されるほど害悪でもないとは自任している。
このままひっそりと死ぬまで生かしてもらいたい、と思う。