私は群馬に暮らしているのだが、正直、郷土愛はあまりない。
 魅力度ランキングが何位だろうとどうでもいいし、選挙でだれが勝とうが負けようが興味がない。

 たまにローカルニュースをタップするせいか、群馬出身のタレントさんの話がヘッドラインに上がってくることがある。
 芸能スポーツにはまったく興味がないので、正直うざい。

 群馬は群馬で、がんばってくれればいいとは思っている。
 が、さして興味のないニュースを毎日レコメンドされるのは、意外にストレスだったりする。

 それでも群馬出身のタレントが全国レベルのニュースになっていたので、そのことについて、ひとつ記しておきたい。
 バクチクというバンドのボーカルが亡くなった件だ。

 昭和のおっさんなので、ボウイとかバクチクというバンドがいて、群馬出身らしいという話は知っている。
 そのメンバーが亡くなったことについては、ふつうに哀悼の意を表したい。


 さて、この件について2、3のタレントなどが、SNSで言及していた内容が話題になっている。
 そのひとり、アスカ氏は、有名人が死んだところでふつうの人間だ、みたいなことを発言してなんか変な雰囲気になっていた。

 もうひとり、こちらはよく知らないのだが、どこぞのバンドのボーカルさんが、哀悼の仕方がよろしくないとたたかれていた。
 他山の石にしたほうがいいのかと思うほど、要するに「私みたいなことを言って」いたのだ。

 たとえば私ごときが、「そのひとに特別の興味はないけど哀悼の意を表します」と書いたところで、だれにも絡まれない。
 が、有名人がそれをやると、えらいたたかれるらしい。


 敬意がない、書き方おかしい、よけいなこと言うな、黙ってろ、といった感じのプチ炎上だった。
 ご本人も自分の言葉遣いは変なのかな、と悩んでいたようだが、わかっていない時点でおかしい、と火に油を注ぐ結果になったようだ。

 具体的に「ここがおかしい」などと、ネットで指摘されていたものを読めば、なるほど理解はできる。
 しかし実際問題、身近でもない人間の亡くなった件について、それほど気にして発言するものだろうか?

 冒頭の私の発言も、群馬県へ郷土愛の著しい方々にとっては、不快でしかないかもしれない。
 炎上している方々と私との差は、要するに「発言力」だけだ。


 結論からいえば、有名人として発言する、ネットで記事を書くなど、一定の「発言力」がある人物は気をつけたほうがよい、ということになる。
 今回、炎上した側の視点で書いたが、炎上させる側の理屈も理解はできる。

 こまかい部分に絡んでいくスタイルも、それはそれであっていい。
 私自身、イラッとする記事に突っ込みたくなることは、まれによくある。

 たとえばさきほど読んだ、EVのリセールバリューについての記事。
 「スマホのバッテリーは2年で限界」という文章に釣られて、思わず読んでしまった自分を責めたい。

 内容は、初代リーフの性能がよくなかったので、そのせいで全体のイメージが毀損されてしまっていること。
 それ以外のEVはひとくくりにしないで、個別にウォッチすべきという、記事としてはしごくまっとうな気もする結論ではあった。

 EVのリセールバリューについて、決めつけないで判断しましょうと言いたい筆者が、しかし、なぜスマホのバッテリーについては2年で限界だと決めつけるのか。
 変な惹句に「釣られた」私はおバカさん、と自覚してすこしいやな気持ちになった。


 掲示板や動画などではよく見かける、ヘッドラインやサムネなどによる「釣り」。
 それ自体を楽しむ文化もあるが、たいていは時間の無駄だ。

 たとえば古典的で有名なのは、東スポ。
 「綾子狂った バンカーにおしっこ」「ダイアナ妃ヌード」「志村けん、死んでいた!」など、若い方々は検索してみてくれたら、すこし笑えると思う。

 とりあえず注意を引いて買わせる(タップさせる)、という手法は古来、瓦版の時代からあったと思う。
 書き手の涙ぐましい努力ともいえるが、正直な読み手にとっては「うざい」だけの場合が多い。

 あえてツッコミどころを提供することにより、自分の記事の印象を操作するという手段も、ありうる。
 情報の受け手としては、できるだけ「釣られない」ように気をつけるのがよさそうだ。


 亡き推理作家・西村京太郎は、自作の時刻表トリックに、あえて瑕疵を残しておくことで「売り上げが増える」というネタばらしをしていた。
 鉄オタが「突っ込むために買ってくれる」から、らしい。

 オタクというのは、特定の物事について突き詰めて考える人々だ。
 それ自体はすばらしいことだし、社会に迷惑をかけないかぎり否定する理由がない。

 そもそも「深く考える」のは、ボケ防止にもいい。
 あえて釣られてみることで、それなりの考察を得られるということもあるかもしれないし、現に私はネタにした。


 亡くなった方を茶化している気持ちは毛頭ない。
 敬意が欠けていると受け取られるような書き方に問題はあるかもしれないが、ある程度の自由な発言は許容してやってもいいのではないかな、とも思った。

 ──李克強首相が亡くなったらしい。
 それを報道するNHKの番組が、中国国内で検閲ブロックされたとか。

 鑑みるに、いろんなひとが、いろんなことを言える社会そのものが、とても大事なのだと思う。
 すべからく、ほどほどに自由な発言を許容する気持ちを、日本人ひとりひとりが、それなりにもっていることが、さらに大事なことなのではないだろうか。