最近たまに、アベマで麻雀の動画を観ている。
知り合いの作家がプロ雀士の資格を持っているから、というわけではない。
自分の作品中で、麻雀の世界がすこしだけ表現される。
ゲーム自体ではなく世界観というか宇宙観だが、興味があってすこし調べた。
麻雀をやっている方は気づくと思うが、卓上、一般人にとっての「東西南北」は、雀士にとって「東南西北《トンナンシャーペー》」になる。
周り順を意味するわけだが、それだけではない重要な「ちがい」がある。
結論からいえば、東西方向からみて、南北の配置が「逆」になっている。
これは現実を裏切る、決定的な「ちがい」だと思う。
中坊のころ、友人たちと麻雀をやったとき、こざかしい私は主張した。
地図を見ろよ、方位はこういう配置だろ、と「逆順」で麻雀をやらせてしまった。
クソガキだったのだ。
いまは反省している。
地図を見下ろすことを想像してほしい。
たいてい北が上になると思うが、その場合、東は右、西は左になる。
ところが麻雀では逆、南北を固定したとき、東は左、西が右にくる。
この転倒した東・南・西・北を「反時計回り」に進めるのが、正しい麻雀である。
それにしても、なぜ現実の方角と逆なのか?
子どもが方位をまちがっておぼえたら、たいへんじゃないか?
調べてみると、その理由には諸説あるようだ。
気に入ったのは「麻雀は宇宙だから」。
同じ地図を、上から見下ろすか、下から見上げるかの差だ。
われわれは通常、地図を上から見るが、空を見上げるように盤面を見ると、その配置は麻雀卓と同じになる。
星辰と語り合うための遊び、それが麻雀である……。
この説明は、なかなかロマンがあっていい。
さて、この雄大な宇宙に対峙して、自分が小人であることを感じる瞬間がある。
長考している選手を見ると、イラッとするのだ。
せっかくサクサク進んでいたのに、たったひとりの選手に時間を無駄に浪費されている、と感じてしまう。
結果、長考する打ち手が現れると、チャンネルを変える傾向がある。
サクサク進むというのは、ネットで自分が打っていてもかなり重要だ。
たまに将棋を指すこともあるが、私は早指ししかしない。
その時間を無駄と感じるか、いっしょに悩んで楽しめるかは、性格の問題だ。
認めよう、私はイラチだ。
とはいえ長考を否定しているわけではない。
将棋といえば長考だし、AIの形勢判断は助かるが、長考することそれ自体は、べつにかまわない。
ただ将棋と麻雀には、決定的なちがいがある。
将棋は「自分の時間」を使っているが、麻雀は「みんなの時間」を使っている──。
一度や二度ならともかく、同じ打ち手が何度も長考に沈んでいるのをみると、彼のために「時間を空費する」ことがいやになってくる。
わかりやすく表現するなら、しょせん運ゲーのくせに考えるフリすんじゃねえよ、下手の考え休むに似たりなんだよ、などと悪態をつきたくなるわけだ。
各選手ごとにデータは出ていると思うのだが、ぜひとも「長考リスト」を統計に加えてほしい。
そういうタイプの選手が打っているときは、精神衛生上、見ないようにしたいので。
ひとりで静かに考える時間は、とても重要だ、それは理解している。
ただしみんなでやるゲームにおいては、程度問題が非常に重要になってくる。
具体的には、流す10秒、赦す20秒、溜める30秒、吠える40秒、狂う50秒、叫ぶ60秒といったところか。
たかがひとつの打牌に1分も使われたら切れるというか、もう回線ごと切っていい状況だと思っている。
応援している選手はいないが、すくなくとも長考していたらアンチになる。
そいつが負けると快哉を発する、という楽しみ方だ。
まれに、がまんして長考を眺めていたあげく、一発を振り込んだのを見たときには、よっしゃ、とこぶしを握った。
そういう意味では、入れ込む要素のひとつにはなるのかもしれない。
完全実力勝負の将棋ですら、「指運」はある。
よけいなことを考えて、悪手のほうを指すなど日常茶飯事だ。
いわんや麻雀などという「しょせん運ゲー」で、下手に考えたところでたいした差はない。
と、素人衆である私などは思うのだが、もちろん彼らは「プロ」なので、それなりの根拠があって時間を使っているのだろうことは、なんとなく察しはする。
解説が的確にそのへんを拾ってくれればまだ我慢できるが、たいてい見当はずれのくだらない話を駄弁っていることが多いので、そこはもっと「プロの解説」を期待したい。
将棋でもそうだが、解説が的確だと番組が締まる。
最終戦の順位差の点数勝負など、解説されれば理解できないこともない。
それにしても長考しすぎだろ、という「プロ」は、すくなくとも私以外のだれかに向けて仕事をしているのだろう。
まあ作業用BGM代わりに流していることも多いので、そういう場合はわりとどうでもいいのだが。
「画面が止まっている」のが気になったら、ブラウザバックすればいいだけだ。
この文章を書いている裏でも、だれかが牌を握っている。
世界のどこかでは、いまも麻雀が打たれているのだろう……。