ジャニーズの会見が、あいかわらず変に盛り上がっていた。
笑ってしまうくらいお粗末なコンサル会社の失態に乗っかって、踊り狂っていたマスコミがとても印象的だった。
まとめると、不規則発言をくりかえす記者をたしなめたジャニーズ側に、マスコミが拍手をした。
ところが会見を仕切っていたコンサル会社が、指名記者のNGリストをお漏らしして大騒ぎ、といった感じだ。
国会議員給与を国会議員に決めさせるようなもので、だれに会見のルールを決めさせるかによって、かなり「お察し」になることは多い。
このアメリカのコンサル会社はジャニーズ側のはずだが、顧客利益を優先しているつもりで結局は「お寒い」状況に陥ってしまった。
視聴者のなかにもそうとうな愚者がいて、わざとなのか知らないが、当初はこれを誤報だなどと見当はずれのイチャモンをつけていたりもした。
人は信じたいものを見たり聞いたりしがちで、信じたくないものはそもそも見ないか、ゆがめて受け取ろうとする。
情報がどのように拡散していくかを分析した記事があったが、たいへん参考になった。
すこし考えれば「フェイクだろ」とわかりそうな情報が、またたく間に拡散していくのは、世界中で見受けられる炎上のパターンだ。
とくにネットユーザーの匿名性の陰に隠れた暴挙については、いまさら語るまでもない。
若いころの自分ならやってしまったかもしれない、と考えれば考えるほど強い共感性羞恥に陥る。
これら一部の匿名ユーザーはただの愚か者だが、そもそも情報操作のプロフェッショナルである会社がNGリストを漏らすこと自体、ありえないくらい恥ずかしい。
まれによくあるが、そうとう怒られればいいと思う。
私は、正義と悪は相対的なものだ、と思っている。
すべからく「唯一の神」も「絶対悪」も存在しない、という考えだ。
伝統的なヨーロッパの方々とは、この時点で相いれない。
彼らは唯一の神のために戦ってきたし、第二次大戦の戦後処理ではおどろくべき法の遡及適応にくわえて、「絶対悪」なるものを定義した。
絶対値や絶対温度など、数学や物理の世界では「ゆるぎない基準」というものはあっていい。
が、人間の価値や判断の基準には、そもそも「絶対」という言葉は似合わない。
この言葉を使いたがる組織として代表的なものが、宗教だろう。
伝統的に専制国家でも「個人崇拝」的なものは多く見受けられるが、こと宗教については構造的に「絶対善」が必要とされている。
宗教は「善」である。
これは必然的に、だれかや、なにかを「悪」と認定することにつながる。
宗教でも国家でも、戦争に至る理由の大半は、自分が正義で相手が悪だからだ。
そういう思い込みがどれだけ危険なことかは、今回の事例からもよくわかる。
べつにジャニーズに拍手した記者を擁護するわけではないが、NG指定などという事実を知らない記者にとっては、騒ぐ記者は「悪」である。
それをなだめるジャニーズは、「善」にみえたかもしれない。
結果的には、ジャニーズを「絶対悪」とする側が、今回は勝利をおさめた。
どちらかを「悪」と認定した場合、たとえ無理筋でも「騒いでおく」というのは重要なのだろう。
おもしろかったのは、そのために引用されてきた大学教授の記事だ。
両方の立場から分析してみると、なかなか示唆に富んでいる。
くだんの教授、性加害をした会社が「子どものため」と相手を非難する、これは典型的な「トーンポリシング」で、論点ずらしだ、と指摘していた。
しかしこの論法、彼と同じ視点に立たない人々から見れば、その場のルールを守らない者を擁護するための「論点ずらし」にもなる。
また、ルールを守らない記者に対して、他の記者が「ルールを守れとジャニーズに同調した」こと。
これは結果的にマスコミの愚かさを露呈させたわけだが、コンサル会社の「お漏らし」がなければ、一定の理解は得られる行動だったことも事実だ。
不規則発言をくりかえすこと自体はよくない、という一見まっとうな指摘。
これは教授にとっては、「あたかも一部の人たちが悪いかのような印象操作」になるらしい。
まさに、マスコミがやろうとしていのは印象操作であって、この教授自身も語るに落ちている。
相手の論点ずらしは指弾するが、自分は問題をすりかえてもいい、という立場のように見受けられるからだ。
そもそも「マスコミは共犯者」なのだし、全体的に踊り、踊らされている感が強い。
マッチポンプとまでは言いたくないが、この件については彼らに期待できない。
その場で変なことをするひとがいれば、その場でたしなめるのは当然だ。
たとえばイヌは、まちがったことをやったら、その場で叱らないと学習できない。
忘れてはならない事実として、「その場で叱れなかった」ことが、今回のジャニーズ問題をここまで肥大化させた。
ジャニーさんもメリーさんも、しっかりと「生き抜いて」この世を去った、まさに成功者だ。
彼らに対する忖度と沈黙をくりかえしたマスコミは、どうあがいても共犯者であり、当事者である。
「犬畜生にも劣る」行為について、知っていながら、しっかりと口をつぐみつづけてきたのは、どこのだれか?
そんな恥ずべきマスコミの一員が、いまは正義に目覚めた。
過去自分たちがどれだけ無能だったかを列挙し、指弾するよりも、この場で煽りまくるほうが正しい、という判断。
なるほど、それもマスコミだ。
いわんや、それが一部の視聴者にウケるなら、それをしない理由がない。
より煽情的に「いまブッたたいていいやつを、ひたすらブッたたく」記者こそが、一部の人々にとっては正義である。
彼らは今回、敵の「お漏らし」のおかげもあって勝利したが、勝敗は兵家の常であることを忘れてはなるまい。
「絶対悪」に認定されたら、もう対策はほぼない。
宗教戦争がなくならない理由に似ている。
たとえば性差別主義者と認定した元総理に噛みつく人々と重なる。
彼らは、この元総理がどんなことを言おうがやろうが悪意に解釈し、とにかく「ぶったたくこと」が至上命題だ。
これはこれで、そういう人々はどちらの側にもいるので、彼らは「自分の仕事をしているだけ」である。
そういう「仕事人」をたくさん集めることによって発生するのが、「宗教」や「結社」だったりする。
人類社会にありうべきことが、ここでも引き起こされている。
そう思いながら、ジャニーズ問題を生ぬるい目で眺めている。