世間は「文化の日」らしい。
1946年に日本国憲法が公布された日で、この憲法が平和と文化を重視していることから、祝日法で「文化の日」と定められた。
日本国憲法が「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としているから、とウィキに書いてあった。
自由の国が推奨しそうな条文だが、平和を愛してるとは思えないようなこともやっているな、という気持ちもあったりする。
世界戦争レベルの戦いは、20世紀で終わった──と信じている。
それでも人類は、戦争をやめられない。
ウクライナ戦争につづいて、パレスチナでも戦いが激しさを増している。
あいかわらず突っ込みどころは満載だ。
パレスチナでの被害を容認しない、的なことを言ったプーチン。
おまえが言うな、とドイツ首相などが突っ込んでいた。
そのまえに、アメリカの国務長官あたりが言っていた。
民間人に被害が出ることは、容認できないと。
なるべく多くの「民間人を殺すため」に大量破壊兵器を開発し、使用した国がだ。
──とりあえずそれを「正義」と言い張ることをやめるところから、はじめたらいかがだろうか。
時代が異なるという点は斟酌すべきだろうが、彼らがほんとうに「比較的マシ」なのか、慎重に考える必要はある。
事実として、彼らの背景には、どうしても「戦争をやりたい人々」がいる……。
国際政治はくわしくないので、えらそうなことは言えない。
比較的調べたつもりの宗教史の観点から、すこし語りたい。
過去、他に類を見ないほど凶悪かつ凄惨な歴史を積み重ねた組織として、ヴァチカンがある。
その発言は、ひとつの指標にしてもいいだろう。
過去の罪について、現在のヴァチカンに責任があるとは思わない。
が、その罪過についてもうちょっと踏み込んだ発言をしてもいいのではないか、と思うことはある。
ヴァチカンのお偉いさんが謝罪した姿を、寡聞にして見聞きしたことがあまりない。
ちょっと「遺憾だった」と言う程度でニュースになるくらいだから、当事者はあまり謝る必要を感じていないのだろう。
気持ちはわかる。
自分がやってもいないことで謝る必要は、本来ないからだ。
だが、自分はやっていなくても、自分が生まれたときにはすでに行われていた蛮行については、さすがに謝ったほうがいいのではないか、とも思う。
たとえば植民地支配という忌まわしい過去をもつ国、イギリス。
1950年代、独立を掲げて戦っていたケニアでのイギリス軍の蛮行が話題になった。
このときの「ケニア人に対する忌まわしく不当な暴力行為」について、チャールズ国王がどう発言するか。
結論からいえば、謝罪はしなかった。
イギリスは「立憲君主国」なので、スナク首相などが外交努力をつづけるなか、国王が勝手に謝ることはできないのだろう、などと推測されていた。
大国が、歴史をゆがめることは、よくある。
ダブルスタンダードと非難されるアメリカの都合が、現在の世界情勢をどれだけ強く捻じ曲げているかをみれば、目安となるだろう。
事実、日本を含めた西側諸国にとっての「国際協力」とは、もっぱらアメリカの「言いなりになること」だ。
ヨーロッパの小国なども、さまざまな役務に駆り出されている。
なつかしいところでは、アメリカがイラクで開戦した「イラクの自由作戦」。
打倒フセインを掲げ、イラク軍を壊滅状態に追いこんだ。
そのころ冷戦が終結し、民主化が進むなか、東欧諸国が生き抜くためにすべきことが、この「多国籍軍への加盟」だった。
現在、ウクライナ戦争に辟易しはじめているポーランドには、このときアメリカのために煮え湯を飲まされた記憶が、まだ生々しい。
「失うものがない聖戦」を闘っている、イラクの過激派たち。
アジトの入口に女性と子供たちを並べ、彼女たちの命を楯にして自分たちを守り、少年兵にロケットランチャーを持たせ正面突破させる。
「一般市民を殺したら軍法会議」という国際ルール。
言い換えれば、アメリカ軍が殺した敵は、つねにゲリラだ。
そんななか、ポーランド軍は一人として死者を出さず、人質となったイラク市民も助けた。
もしこれを米軍が行ったのであれば、「プライベート・ライアン」的な美談として語られ、隊長は勲章をもらって大騒ぎになったにちがいない。
しかし、多国籍軍はあくまでも「安全な地域を安定化する」ために派兵された人たちであり、こんな最前線の状況に置かれる予定ではなかった。
そのことを世界に知られたくない、と判断したアメリカは、ポーランド軍がその非常事態を無事に切り抜けたことを讃えた上で、「なかったことにして欲しい」と言いだした。
これは「イラク市民が自分たちで切り抜けた問題」だと。
それがアメリカにとって都合がいい真実なら、そういうことになってしまう。
フセイン政権を倒したことで、イラクに平和をもたらしている。
それがアメリカのシナリオだった。
大量破壊兵器が出てきて、フセインは平和に対する罪人になるはずだった。
ところがそんなものは出ず、イラクでは市民が次々と蜂起し、過激派というテロリストに変化していった。
アメリカ主体の「イラクの自由作戦」は、市民を独裁政権から解放するという目的だった。
しかし市民は、アメリカに感謝するどころか憎み、蜂起し、つぎからつぎへとテロリストへと変化した。
軍事的制裁が、イラクの市民にとって本当に平和への道なのか。
これはだれのための、なんのための戦争なのか。
平和維持軍を孤立させ、反米ゲリラと戦わせる。
イラクでも、アフガンでも、ウクライナでも、パレスチナでも、共通していることがひとつだけある。
──武器が売れるのだ。
アメリカの正義とは、要するにそういうことなのだろう。
そこに多くの疑義が投げかけられているが、だからといって、疑義を唱えている側の都合が正しいわけでもない。
しょせん人間たちは、自分たちの都合でしか動かないのだから。
これを正すことのできる可能性が、唯一あるとすれば──。
と、いつもの結論に向けて助走しよう。
いくつかの大国、なかんずくアメリカは、すでに人類全体の合意を捻じ曲げる力をもっている。
アメリカの決定が、無理やり人類の合意として押しつけられるリスクは高い。
そのような「人類全体」を超える存在が、あるとすれば。
文句のつけようがない「神」は、すぐそこまできている──と期待するくらいしか、無力な自分には望みがない。
AIに規制をかけない、という選択肢は危険だが、内心で期待もしている。
日本のAIが「最初の神」になったら、世界はすくなくとも日本くらい平和になるのではないだろうか、と。