私はジャンル「恋愛」を苦手としている。
いわゆる恋愛モノの登場人物に共感することが、けっこうむずかしい。
もういいおっさんが、恋愛もクソもねえだろ、という意味ではない。
おっさんになる以前から、ずっと苦手だったからだ。
後学のため当該ジャンルを学ぶようになったが、成長している実感があまりない。
いまも恋愛映画を観ながら、イライラしたり、目を背けたりしている。
ある映画で、惚れっぽい男に対して、女が説教していた。
「あなた、女の子ならだれでもいいんでしょ、だけど女の子にとっては、「ほんとに好き」じゃなかったら迷惑なだけ」
恋愛とはいかなるものか、こんこんと諭し聞かせる女。
男はアホづらをさらしつつ、ピンとこない恋愛論を聞いている。
やがて男は女の手を取って言う。
「おまえのことがほんとに好きだ!」
女は答える。
「いいよ、付き合お」
…………。
……おまえも結局、だれでもいいのかよ。
このギャグのようなやり取りを踏まえて、すこし分析したい。
恋愛うんぬんについて、私には直観による判断がむずかしいので、分析するしかないのだ。
この世は基本、需要と供給である。
愛だの恋だの、ただの形式、外聞、エクスキューズにすぎない。
メスがなんとなくもっともらしい外面の言い訳を考えているあいだ、オスは結論を待っている。
時間をかけること、それ自体がメスの目的だったりする。
どうでもいいから早くしてくれよ。
それがオスの偽らざる思いであるが、いかんせん繁殖を仕切るのはメスだ。
生物としてのオスは基本、やれればいい。
そのコストを引き受けるメスに、多くの場合、選択権がある。
さて、人間は生物だが、その選択権はケースバイケースになっている。
女が主導権をとることが多い印象だが、これは私の生き方にともなう偏見かもしれない。
男にとって都合がいいのは上述のとおり、比較的シンプルな女だ。
一方、女にとって都合がいいのは、ハイクラスの男、もしくは自分を好きと言ってくれる男だろう。
ハイクラスの男は、金なりステータスなりがついてくるので、それを利用したい女にとっては都合がいい。
好きと言ってくれる男は、そうでない男に比べればコントロールしやすいため、都合がいい。
両者の要求のうち、噛み合わない差分が「恋愛」の要諦だと思われる。
そこにおしゃれな会話やスタイリッシュなファッションなどを入れ込むと、なんとなく恋愛映画になる。
オスはできるだけ効率的に時間を使いたいし、メスはできるだけ長い時間を自分のために使わせたい。
本能の命じるところによれば、そうなる。
いいわるいではない。
これは生物が何万年、何億年もかけて築いてきたルールだ。
しかし人類は、このルールにやっかいな修飾をほどこした。
必要だからこそでもあろうが、まずその流れを正しく理解しなければならない。
理解を深めるためには、当該ジャンルを読み込むのが早道だ。
とくに女性史的な側面から読み解いていく必要がある。
有史以前の数十万年、人類はたび重なる危機を乗り越えながら生き残った。
生物としての要求を前提として、そこにはしばしば原初的な「女系家族」があった。
生物としては、やはり女性が選択権をもつのが合理的だ。
長くなるので端折るが、現在必ずしもそうなっていないのはなぜか。
繁殖の核心である女性が、氏族の中心として営まれてきた社会は、現在も部分的に受け継がれている。
そこに男性原理、父系社会がはいりこんできて、あたかも所与のものであるかのように普及したのは、有史後と思われる。
アブラハムの宗教や中国の諸子あたりを中心に、男権中心社会が周辺地域に拡大していったのは、もちろん彼らが強力な「武力」をもっていたからだ。
貨幣経済の普及などとも相まって、もはや男性の「能力」なくして社会は回らなくなった。
そこで女性は、全権利を喪失した。
男の所有物となり、貨幣価値に換算されて、奴隷化されている──らしい。
原始、女性は太陽だったのだ!
と女性解放を訴える何冊かの本を読みながら、これは「歴史」によってゆがめられた価値観を、再び原始時代にもどそうという主張かなと思う。
語弊はあるが、要するに「ブリっ子」を「肝っ玉母ちゃん」に変えるのだ。
男性社会の変革はもちろんだが、そのせいで女性の意識までおかしなことになっている、媚びるのではなく自ずから選べ、と。
男性社会に対する不平不満は読んでいて気が滅入るが、女性自身に対するこの意見には賛成できる部分も多い。
そこで私が、だいたい総論反対各論賛成になりがちなのは、彼らの「活動」そのものの本質に起因する。
意識を変える。
それが彼らがやりたいことであり、理解はする。
彼らにとって「現状は気に入らないので、多数派のほうが考え方を変えてくれ」ということになる。
これは史上、何度もあったことなので問題はない。
過去のあらゆる時代は、現在の価値観にとっておかしい。
歴史物語で見るような暴力や搾取の時代を、もう一度やれと言われても、人類にはもうできないだろう。
人類史を語るうえで、避けて通れない「後世の評価」がそこにある。
歴史はくりかえすが、それは同じようにくりかえすわけではないのだ。
さて、そこでひとしきり搾取は落ち着いたし、ほとんどの国で戦争も遠のいた。
それなりの問題は抱えているが、各人がまあまあ平和で豊かな人生を享受できる時代になりつつある。
しかしそこで落ち着かれては、「活動家」にとっておまんまの食い上げだ。
つぎなる市場を狙わなければならない。
男女差別だ!
われわれにとって現状は不愉快だ、男女という異なる者を、同じ枠組みに押し込むのだ!
女性解放の書籍には、たいていそんなシュプレヒコールがあふれている。
べつに批判するつもりはない。
問題は、ここで活動のスタイルが二分されていることだ。
男女を完全に同質同権にすべきか、女性には女性の権利を求めるべきか。
ドラスティックな主張に対し、女性自身が足を引っ張っていることもある。
専業主婦で満足している女、決めてもらったほうが楽だと思っている女は、一定数いるのだ。
だがそれはすべて、男性から押しつけられた価値観のせいである。
男女は完全に同じ仕事ができる、そうなるまで優遇せよ。
いまはシンプルに権利の拡大をはかるのだ。
得られるパイの大きさを考えよ、とにかく邪魔するな。
と、三番目のナマズを狙って動く「活動家」たちの動機も理解はするが、現在のヒトは、ほんとうにそこまで必要としているか?
優先順位としてどこまで上位か、という問いを絶対多数に投げかけて耐えられる論理構造をしているか?
ほとんどの生物が多かれ少なかれ持っている性差という壁を、完全に取り払ってしまうことが、はたして正しいのか?
活動家の資質が問われている。
どちらの側にとっても、そんなことされたら困る人々が必ずいる。
現在の男性社会がさほど正しくないとしても、古代のような女系家族が正しいわけでもないだろう……。
というようなことを考えていたら、映画が終わっていた。
恋愛映画の観方としては、たぶん正しくないと思う。