先月、ついに日銀が十年債の金利上限を引き上げた。
 0.25に張り付いていた長期金利が、0.5へと上昇、イールドカーブのゆがみがほんのすこし修正された。

 ついに過ちを認めたな日銀、とばかり調子に乗った海外勢。
 さらなる政策修正を煽るべく、またしても国債売りを仕掛けた。

 そこで日銀がくりだした新たな秘策が、「共通担保資金供給オペレーション(共担オペ)」である。
 あいかわらず、とくにヘッジファンドに対して、日銀は笑っちゃうくらいコワモテだ。

 大金をぶち込んでいたハゲタカどもはびっくり仰天、文字どおり驚嘆《きょうたん》して資金を引き揚げた。
 結果的にイールドカーブは、より正常に近づいてしまった。


 ……海外勢、もう日銀と戦うのやめたらいいのに。
 勝つまでやりたい気持ちはわかるが、相手がわるすぎる。

 共担オペは、日銀が民間に一定の適格担保で低利の資金を供給し、国債などの購入を促すことで、日銀の国債大量購入による流動性低下を防ぐ効果がある。
 要するに今回は日銀だけでなく、国内の金融機関を巻き込んで海外勢を追い払った、という構図だ。

 日銀だけでも手ごわいのに、民間の銀行まで引っ張り出されたら、それはもう鉄壁すぎる。
 大量の資金供給が約束されたようなもので、さすがのヘッジファンドも驚いてケツまくった。

 二十年以上もまえから、このパターンがくりかえされている。
 日銀砲に吹っ飛ばされた恨み骨髄の金融屋たちによる復讐は、まだしばらくは達成されそうにない。


 日本国債の売り越しそのものは、市場原理ではある。
 実態よりも高い、という判断はたしかに正当な売り材料だ。

 問題は、海外勢による空売りである。
 ハゲタカファンドの短期決戦という図式があまりにも明確なので、そのような「輩」には屈しない、という毅然とした態度は必要だ。

 昨年はロシアのデフォルトなども騒がれたが、通貨危機というものは定期的にくりかえされるものだ。
 ギリシャ以降、高すぎる南欧国債が標的になったとか、一昨年はオーストラリアの中銀に対しても「仕掛け」があった。

 国際金融資本による空売り。
 日本においても、彼らとの戦いの歴史は日常茶飯事ではあるが、いまのところ全勝というのがすごい。


 あきらかに借金が多すぎる=国債が高すぎる。
 どうみてもそう判断されるので、バブル以降、たびたび売り仕掛けはあった。

 そのたびに日銀やメガバンクが買い支えているので、国債暴落という憂き目には遭っていない。
 日本の借金はほとんどが国内向け、という話の真意はこのあたりにある。

 あるときは「日銀砲」という悪魔の兵器で吹っ飛ばされた、外国のヘッジファンド。
 2004年当時は円高対策であったが、これによって倒産した「ハゲタカファンド」は2000以上にのぼったといわれている。

 昨年も「原資は無限」という「怒りの為替介入」があった。
 最近あまり成績のよくないミセスワタナベも、このときばかりは神田さんに乗っかって儲けたひとが多かったらしい。

 量的緩和、指値オペ、ETF買取、口先介入など、日銀がくりだしてきた武器はあまたあるが、今回そこに共担オペという必殺技がくわわった。
 新たな総裁とともに、無敗の日銀伝説、これからも見守りたい。
 


 番犬が逃げ出して、通行人を噛んだ、という事件があった。
 飼い主は暴力団関係者で、被害者は何人もいるという。

 ネットで大勢を占めるのは当然ながら批判的な意見で、反社会的勢力というステータスも影響していただろう。
 ちゃんとしつけをすべきだ、管理がずさんだ、などなど基本的にはたたかれていた。

 で、任同したのだろう警察で、反社の男はこう言ったという。
「番犬だから噛むのはしかたない」

 たたく理由としては、このあたりの発言も寄与していたと思われる。
 一方で、彼はこうも言った。

「逃げたイヌが噛んだことについては、弁解の余地がない」
 全面的にその責任を認め、罪を償う姿勢らしい。

 この流れ、正しい、と思ってしまった。
 暴力団なんだから、管理してたのは自分じゃなくて舎弟だとか、身を守らなかったやつがわるいとか、無理無体なことを言いだしてくれれば、むしろ責め立てる好機だった。

 しかし彼は、自分の責任を認め、かつ、主張も通した。
 逃げたイヌが噛んだのは申し訳ないが、訪問者を噛むのは(ある程度)しかたない、それが番犬の仕事だからだ、と。

 これ、正しくないだろうか。
 もちろん、やたらに噛むのは問題ではあるが、番犬である以上、戦闘力が高くなくては話にならないことも事実だ。


 私はイヌ派である。
 イヌについては全般的に、好意的な見方をしている。

 なかでも戦闘力や仕事力の高い中型以上の「役に立つ」イヌがとても好きだ。
 一方、ミニチュア系の小型犬については、正直どうかと思っている。

 高いポテンシャルをもって「人間の役に立つ」イヌこそ、彼らの本来あるべき姿ではあるまいか。
 なんの役にも立たない小型犬など、ぶっちゃけ「イヌとは認めない」まである。

 そもそもオオカミだったイヌが「イヌになった」のは、まさにその高い能力による。
 理屈のうえでも、イヌは忠実かつ高性能であって当然なのだ。


 さて、ところで妹の家では、その小型犬とやらを飼っている。
 わかりやすいカリカチュアよろしく、なんとこのイヌっころ、どうやら家から一歩も出ないらしい。

 散歩なんてもってのほか、外に連れ出そうとするとぶるぶる震えるという。
 やたら臆病で、見知らぬ人物が現れると、ひたすら逃げ出す。

 エサをくれる家族にのみしっぽを振り、厳しくしつけるタイプの家族は無視、あるいは吠えさえする。
 弱いイヌほどよく吠えるというが、害はないと認めた家族にのみ、わがまま放題を通すという体たらく。

 宅配便など見知らぬ相手が現れると逃げ出す。
 つまり番犬にもならない。

 クソの役にも立たない小型犬。
 この手のイヌには、イライラせざるをえない。

 トイプードルの警察犬などはもちろん認めるが、大半の小型犬は無能だ。
 とくに妹の家のバカ犬。

 おまえは、いったいどんな役に立つというのか?
 なんのために生きているのか?


 ……もちろん理解はしている。
 愛玩犬というカテゴリもあるわけで、このイヌが与えてくれるのは、癒し、なのだろう。

 納得はしないが、理解はする。
 しかしそれよりも、くだんの暴力団の意見のほうが、私にとっては理解しやすい。

 基本的に、戦え。
 だが誤射については、全面的に謝る。

 問題をきっちりと切り分け、主張すべきを主張する。
 過ちは正し、カタギの衆には迷惑をかけない。

 この手の古いタイプのヤクザには、共感しうる部分が少なくない。
 任侠ものの映画が一定の人気を保っているのも、そのせいだろう。


 私は、聖人君子のフリをして悪事を働く人間・集団が、心の底から苦手だ。
 味方ぶって近寄り、大事なところで裏切ったり逃げ出したりする連中には、ほんとうにヘドが出る。

 さきほど観ていたマフィア映画でも、オメルタ(沈黙の掟)はなにより重視されていた。
 仲間だけは、裏切ってはならない。

 もちろんマフィアがファルコーネやボルセリーノ判事を殺した件については、断固として批判する、とうてい許されるべきではない。
 そもそも元マフィアのブシェッタが裏切ったのも、「マフィアが本来あるべき姿ではなく、殺人集団に成り下がったことに幻滅した」からだという。

 マフィアやヤクザという時点で当然、悪事は働くだろう。
 だが守るべき最低限の理屈、筋だけは通すという人物が、かつてはそれなりにいた。

 そういう「人物」は、わるくない。
 いや、わるいかもしれないが、いい人間のフリをした悪人よりはマシだ。


 かわいい面構えで、媚を売り、愛される価値があるかのようなフリをするイヌっころ。
 自分においしいエサをくれる者にしか懐かず、いざというときは卑劣にもまっさきに逃げ出して顧みない。

 なんだよこのイヌ! 腹立つな!
 という本音については、妹には伝えないでおこう。

 うちのバカな母親が、妹の家を訪ねるたびに餌付けしているのも、批判はするが制止はしない。
 ペット用牛タン皮とやらをアホほど買い込んで、せいぜい猫かわいがりすればよい。

 余裕のある社会では、無駄な穀潰しのお荷物も許容されやすい。
 人類がもたらした、この「いびつな進化」の行き着く果てを想像すると──ゾッとする。

 私自身、自分に生きる価値があるのかどうか考えるとき、そうとうの危険水域を自覚している。
 その私が見下すほどの無能が、地球にあふれる未来……。
 


 私は引きこもりなので、キャンプというものをほぼしたことがない。
 するつもりもないし、なんなら軽んじている気配すらある。

 しかし、いわゆるキャンプ動画的なものは好きで、まれによく観る。
 なんだよ、ほんとはやりたいんだろ、という指弾は甘んじて受けよう。

 思うに、このような動画は、いざというときサバイバルするために必要な知識と覚悟のために有用だ。
 しゃべりゼロで、自然のなかで「淡々と生きる」動画は、とくに役に立つ。

 少ない道具で火をおこすところから、ある程度の道具があってそれなりの小屋を建てるもの。
 さらに本格的な重機を使って、ガチのログハウスを建てるものまで。

 基本的にはほぼ「ひとりで、全部やる」。
 人間の可能性を感じられて、けっこう好きだ。


 さて、そんななか、まずはゴミ拾いからはじめるキャンパーがいた。
 十数分、ゴミ拾いをしただけで、両手で抱えるくらいのゴミの山ができた。

 残念な状況だと、その外人は語っていた。
 ひどいでしょう、これが現実ですよ、と。

 さて、キャンパーはその後、それに火をつけて燃やしていた。
 缶詰やペットボトルや各種包装など、分別もクソもなく山積みして、文字どおりキャンプファイヤーしていた。


 私は悪人ではないが、善人でもない、というスタイルで生きたいと思っている。
 尊敬される必要はないが、罵られるおぼえもない、という体だ。

 この動画を観て、まさにこれだ、と思った。
 彼こそが、善人と悪人の中間だと思わないだろうか?

 いうまでもなく、ゴミを捨ててそのまま帰る連中が「悪」だ。
 議論の余地はない、このような小悪党は単純否定でよい。

 「善」は、そのゴミを集めてまとめ、分別してリサイクルする人々だ。
 とても正しい行動をしていると思う、がんばっていただきたい。

 さて、そこまでやりたくはないが、まわりをゴミに囲まれているのも不快なので、集めて燃やす。
 これは「プラマイゼロ」といっていいのではないか。

 廃棄物の野焼きは「悪」だろ、と思われる向きはあるかもしれない。
 しかし彼は、ゴミだらけの山を掃除する、という「善」をも為している。

 延焼して山火事、という最悪のケースも考えられるので、消して埋めるまでを前提にはすべきだ。
 それでも私は山で「ゴミを燃やす」という選択肢を提唱したい(推奨はしない)。


 私は山に住んでいるのだが、たまに近所を散歩をしたり、墓掃除に駆り出されたりする。
 そんなとき、あちこちに転がるゴミをみるにつけ、おまえら(捨てたやつら)山くんなよ、と思うことが、まれによくある。

 観光産業で生計を立てている人々の意見は、また異なるのかもしれない。
 しかし、ただ引きこもっているだけの私にとっては、観光客は「うるさい」「ゴミ捨てる」「邪魔なやつら」になりがちだ。

 とくに休日など、峠にむかう観光客のエンジン音に悩まされない日はなかった。
 さすがにもう慣れたが。

 そんな連中が捨てていったゴミとなると、よけいに腹立たしい。
 なぜそこに捨てるかな、というところにペットボトルが転がっていたりする。

 たまに拾って裏庭で野焼きしているが、くだんのキャンパーによって、この行為は正当化されたような気がした。
 ガスや余燼の影響は生じるが、そのまま放置するよりはマシ、という考え方を支持する。

 いうまでもなく「個人でやれる範囲」だ。
 業者がらみの違法な産廃の山を発見したので火をつけた、などは論外である。


 褒められたくも、けなされたくもない。
 ちょっと拾って燃やすだけ。

 なんならその火を利用して飯を炊いてもいいだろう。
 プラスチックは熱量が高いので、いいご飯が炊ける。

 食材に直接触れるような調理には、おすすめしない。
 持ち帰れる余裕があるひとは、持ち帰られるがよろしかろう。

 ついでに自分の出したゴミを燃やしてもいいが、集めたごみよりも少ない量という程度のバランス感覚は必要だ。
 そのかぎりにおいて、あなたは褒められも貶されもしない。


 そんな危ないこと(野焼き)されるくらいなら、そのままゴミを残してもらったほうがましだ。
 と思うひとが多い土地においては、この件は撤回しよう。

 そういう人々が、ゴミだらけの山をどうにかしてくれるはずだ。
 もしくは、どうにもしないけどやめろと言いたいだけの人々なのだろう。

 ただ行って、ただ帰ってくるだけのプラマイゼロが、正しい姿であることは私も最初から知っている。
 しかし現に、そこには積み重ねられたマイナスの山がある。

 キャンプ地などで近くにゴミ箱があるなら、べつに無理して燃やす必要はない。
 集めて分別して持ち帰るためにコストが高くつく場合の「新しいプラマイゼロ」を提唱しているだけだ。

 ゴミを見つけたら、集めて燃やせばよい。
 だれかに支持してもらう必要のない、ただのキャンプファイヤーとして。
 


 前回、知障に反撃した罪でつるしあげられた、小学生の話を書いた。
 今回は、現代「社会」が、ある種の「宗教」化している可能性について書きたい。

 SDGsという「流行」が、どうやら勢いを増している。
 マスコミなどでも、あたかもそれが「正解」であるかのように喧伝されている。

 一方、私はより穏当な「中立」でありたい。
 SDGsに正しい部分があることは認めるが、そうではない部分もけっこうあると思うからだ。

 長くなるので細かい指摘は別途に譲るが、最大限の違和感をひとことで表すなら「独善」だろう。
 そこに違和感をおぼえる人間が、あたかも陰謀論的な対立軸として決めつけられることが多いのは、とても残念だ。


 ヨーロッパでは、障碍者も健常者の社会に受け入れられている、という。
 日本は遅れている、らしい。

 が、その方向に進むことは、ほんとうに正しいのか?
 その場の感情に流されていないか、薄っぺらな理屈によらず正当な自己批判を乗り越えているのか、おのおのに問いたい。

 ヨーロッパの先進福祉国家とやらは、おしなべてキリスト教圏である。
 そこで私は今回、『ヨナ書』を指針として用いる。

 聖書を使ってキリスト教徒と戦う。
 相手の自己矛盾を突くというのは、ある意味、古典的な戦法でもある。


 『ヨナ書』はかなり独特だ。
 ここに登場する預言者に仮託しうるものは、とても多いと思う。

 おまえの考えは、ほんとうに正しいのか?
 と、神がひねくれ者の預言者ヨナに自己批判をうながす物語、というとらえ方が一般的だ。

 たいそう個性的な預言者ヨナは、徹底的に神に逆らい、自分を殺せとわめきたてる。
 神にとっても厄介な男だが、彼を通してわれわれ信者一同あるべき信仰を問い直す、という文脈で読まれることが多い。

 信者ではない私の読み方は、若干異なる。
 この物語はある意味、神が神自身を否定する自己批判ではないか、と。

 神のやり方を疑う預言者ヨナ。
 その疑いが正しいのかと問う神。

 罪深いニネヴェは滅ぼすべきだという主戦論のヨナ。
 全員が罪人ではないのだから彼らを憐れんではいけないのだろうかと問う神。

 もちろん聖書的には神が正しいと言いたいのだろうが、結果的には疑ったほうが正しいようにも読める。
 すでに滅びたソドムやゴモラは神の罰を受け、まだ滅びていないニネヴェは憐れむべきという、ダブルスタンダードを説明しきれていないからだ。

 愚かな民は神が決めたことを守ればいいのであって、自分で善悪を判断するな、むしろそれは罪、という書き方は創世記以来、連綿と維持されている。
 しかしヨナは、徹底的に(というほどではないが)神に抗った。

 「自分で考える力」をもった人々に対して、強い印象を与える小預言書だと思う。
 一神教は「自分で考えるな」と指示しているにもかかわらず。

 一応言い訳をしておくと、これはあくまで諧謔の『ヨナ書』に対する、独自解釈にすぎない。
 すくなくともいえるのは、キリスト教の源流であるユダヤ教、その聖典である『旧約』の一書には、強烈な「自分自身に対する疑義」が含まれていることだ。


 ユダヤ教のすばらしいところは、その偏執的な「教義」のなかにも、ときにヨナのように皮肉で童話的な「物語」が挿入されることだろう。
 成立年代、ニネヴェの陥落、預言書そのものの位置づけなど、いわゆる聖書考古学が示しているのは「知識人の限界」だと思う。

 聖書の執筆者が、その当時、最高レベルの知識人であったことは疑いがない。
 注目すべきは、神からの啓示を受けて執筆している彼ら自身が、その時点で知りうること以上は知らない、という事実だ。

 いかに神という権威をでっちあげるためとはいえ、知りうる限界は越えられないという悟達と諦念。
 この一書は、そういう「無知の知」に到達した、極度に頭のいい執筆者たちによる自己批判の物語だ、と私は考える。

 なぜ神は自分を助けてくれないのか?
 相手も正しいからだ。

 皮肉と暗喩と諧謔の殻に包み込まれていて理解しづらいのだが、ヨナ書の要諦はここにある。
 だから神はアッシリアを憐れんだし、それを「大洪水」や「天の火」によって滅ぼされ「なかった」(ヨナ書時点では)。

 行きつくところ「神はいない」という自己否定だ。
 が、さすがにそこまで書くと怒られるので自重した結果、ヨナ書のおもしろい部分だけが残されたのだろう。



 さて、話を現代にもどそう。
 キリスト教は弱者を守ったり愛が大事と解くが、やっていることは事実、真反対のことが多かった。

 神との契約は『新約』へと切り替わり、発展したキリスト教は、その文化圏のなかで「仲間たち」に対する「愛」を育んだ。
 仲間ではない人々を虐殺する、という暗い側面もあるが、その話はもっと長くなるのではしょる。

 ここでは、とあるSDGs信奉者が理想とする「ヨーロッパ」とやらに注目したい。
 障碍者を社会に受け入れていっしょに学ぶ、という理想社会を目指しているらしい先進国家は、キリスト教的な「愛」が高度に行きついた形態の側面をもつ。

 人類みな兄弟、共生は不可避、という耳障りのいい言説は想像しやすい。
 が、彼らにとっての「愛」(の一部)が、障碍者を社会に取り入れて育めと解釈したところで、反対の考え方はたくさんある。

 それはただの彼らの「解釈」であって、べつだん「正解」ではない。
 いや、そもそも正解などないのだ。

 ただ自分の意思を貫く手段として、正義や正解という言葉がよく使われるだけだ。
 そう、この「正義」という言葉こそ、この世でもっとも問題の多い言葉だと思う。


 たとえば人類はだれも、大量虐殺など望んでいない。
 しかし往々それが行なわれるのは、なぜか。

 まさにその「正義のため」だ。
 絶対君主や神という便利な「道具」の力を借りて、自分の正しさを主張しはじめる人間を見かけたら、とりあえず眉に唾をつけたほうがよい。

 世にあまたあふれる、扇動の言辞。
 歴史は、教祖や絶対君主というサイコパスが動かしてきた部分も当然あるのだが、そろそろ賞味期限は切れつつある(どこぞの大統領など、まだまだいるが)。

 われわれは自力で考え、変だと思ったらそう言うべきだ。
 絶対君主への批判もそうだが、キリスト教的な「愛」も、どこか変だと思う。


 私は幼少期、自分は正しいと思っている人々に取り囲まれ、つるしあげられた。
 それがほんとうに正しいなら、受け入れるのもやぶさかではない。

 現在、だいぶ長く考えた末、べつに正しくない、と結論している。
 いまは当時を顧みて、彼らが自分と同じように思ってほしいという願望と幻想に駆られて開始したジハードに巻き込まれた犠牲者だ、とすら思っている。

 あなたの考えは、あなたの好きにすればいい。
 だが他人を巻き込んではいけない。

 子どもを取り囲んで、自分たちの正義を洗脳する日教組。
 説明や説得ではない、まさに左翼的な「総括」は依然として根強い。

 もちろん多かれ少なかれ、国家や宗教は洗脳的ではある。
 が、なかでも原始的なレベルに滞留する犠牲者をあまり増やしてくれるな、と思う。

 こうして「宗教2世」が生み出されるリスクこそ、われわれはおそれるべきだ。
 どんなに統一された教会だろうと、その教義を強いられてはならない。

 それを平気でやっている方々に、最後に問いたい。
 おまえの考えは、ほんとうに正しいのか?

 


 最近、映画やドキュメンタリーをよく観ている。
 そこで感じた私見を述べておきたい。

 まず03年のアメリカ映画『僕はラジオ』から。
 昨今かしましいSDGsのはしりの作品のひとつ、といっていい。

 知的障害をもった男を学校に受け入れようとする主人公と、そうしたくない周囲の人々との葛藤の話。
 受け入れるのが「正しく」て、そうせず「施設に入れるべき」などという意見は正しくない……かのように描かれている。

 私には賛同できなかったので、やや醒めた目で眺めてしまった。
 ここに見え隠れするのは、宗教的な「独善」だ。

 もちろん宗教映画ではなく、一般人にも受け入れやすい落としどころを見つけてはいた。
 みんなが「ラジオから学んだ」ことを認め、宗教的な善意に満たされてハッピーエンドだ。


 さて、つぎに短いドキュメンタリー番組を観た。
 とある知障の母親が、子どもを通常学級に通わせたいと活動し、それに成功した経験談を語っていた。

 あなたのような家庭のために特別支援学級があるのに、なぜ普通学級に行かせたがるのですか?
 当初から、体制側はそのような態度だったという。

 母親にとっては「そうしたいから」「それがあたりまえだから」だ。
 彼女の望むことができない社会の圧力、その「高い壁」について訴えていた。

 彼女にとってはそうなんだろう、彼女のなかでは。
 そして、そう思わない学校や体制の側が、まさに「壁」として彼女のまえに立ちはだかっていた。


 この「インクルーシブ教育」は、SDGsのひとつに掲げられている。
 障碍者も適切な支援のもと、通常学級に通うべき、という考え方だ。

 一部、EUなど先進的な福祉国家がそれをやっている。
 ただ「基本的な方向性として」ありうるというだけの話で、専門の支援学級がある以上そちらを利用すべき、という考え方がまちがっているわけではない。

 妹が放課後スクール的なものをやっていて、知障の世話などを仕事にしている。
 彼女らの仕事は、ケアが必要な人々にそれを提供することだ。

 もちろん福祉は重要だが、障碍者なんだから助けてもらって当然、という考え方には疑義がある。
 トランプ、EU離脱、ありえないですよ、と言っていた系統の社会学者たちを筆頭に、そういう煽動をしばしば見かけた。

 彼らの正義はわかる。
 というか、それが彼らの「商売」なので、そういうものだと理解するしかない。

 私も疑義はあるが、否定はしていない。
 助けを必要としている人々を、助けられる人々が助けるのは、しごくまっとうだと思っている。

 問題は、それが唯一の正義で、協力しない人間は敵と言い出す「狂信者」だ。
 同調しない人間を取り囲んでつるし上げる、という方法が、危険な教団や政治結社、主義者どものあいだに蔓延してきた歴史を、ぜひ思い返してほしい。

 私は小学校1年生のときに、そのような「実体験」をした。
 それに基づいて言わせてもらうと、日本のインクルーシブ教育はかなりまちがっている。


 どこかで書いた気がするので、短くまとめる。
 私の体験は以下のようなものだ。

 下校途中、上述のような親が普通学級に押し込んできたのだろう知障A君に、突然タックルを受けた。
 取っ組み合いになり、わけのわからないことを言って私の服に鼻水をこすりつけるA君を、防御のために突き飛ばした。

 はた目には「ケンカ」に見えたかもしれない。
 私にとっては一方的な先制攻撃であり、それに対する専守防衛だったが。

 さて、問題はここからだ。
 それを見ていた周囲の上級生に取り囲まれ、そのまま職員室に連れて行かれた。

 事情を説明したが、相手は知障なんだからやさしくしないとだめだとか、反撃してはいけない、要するに一方的にやられろ、という説教に終始した。
 教師と上級生に取り囲まれ、泣くまで「総括」を受けたことは、猛烈なトラウマになっている。

 彼らにとって、このような「ケンカ」は両成敗ではなかった。
 知障は保護すべきもので、反撃した私が一方的に罪人だった。

 しかし何度思い返しても、私は自分のやったことが「わるいこと」だとは思えない。
 なんなら先制攻撃をしてきたA君に対してさえ、とくにマイナスの印象はない。

 なにより問題なのは、私とA君の問題に介入してきた連中だ。
 小1を泣くまで追い詰め、したり顔で満足している、あの女教師の顔よ……思い出すだに虫唾が走る。

 いいことをしているつもりで、自分たちの正義に合わない行動をした人間を取り囲み、つるし上げる「自称・正義づら」の連中。
 こいつらに対するアレルギーが、私のなかには極まっている。


 さて、このような過去を踏まえ、現在だ。
 いま私は、りっぱな人間ぎらいの懐疑主義者となった。

 SDGsは「いいこと」らしい。
 もちろん私は疑っている。

 それは「彼らにとって」は正しいのだろう。
 だが「自分たちと同じように考えない人間は敵」という思い込みには、ひたすら恐怖をおぼえる。

 私自身、あからさまに敵対的にはならないように、バランスをとるようにはしている。
 自分たちの正義を声高に宣っている人々も、個々人をみれば、けっしてわるいひとではないのだろうとも思う。

 憂慮すべきは、ルボンの『群集心理』にもあるとおり、これが集団になったときだ。
 集団が起こすヒステリーのすさまじさは、歴史を顧みればほんとうに桁外れだ。

 上級生たち、女教師、職員室。
 そういう密室と集団による環境下で、いかなることが引き起こされうるか。

 その行きつくところが「戦争」なのだろうな、と感じる。
 そうして一部の人間は、私が言われたように、ウクライナに対しても「反撃するな」と言い出すのだ。


 まあここで、それほど大きな話をするつもりはない。
 私という個人は、集団のさけぶ独善をつねに懐疑し、呑まれないようにしようという道を選んだ、それだけの話だ。

 自分の意見をもっているので、どこかでだれかと対立することはあると思う。
 そのときに自分を信じて行動できる論理と気概を、これからも保っていきたい。
 


 年末年始、映画100本トライアルを(個人的に)実施中だ。
 「いつか観るリスト」を消化する一週間余、現在折り返し地点を過ぎている。

 いつか観る、と後回しにしていただけあって、古い映画が多い。
 とくに古いところでは、『市民ケーン』や『七人の侍』。

 え、いまごろその名作観たの!?
 と驚かれる方々もいるかと思うが、私の視聴スタイルはけっこう穴だらけだ。

 たしかに名作と呼ばれるだけのことはあるな、と思うこともあれば、うーん、と首をかしげながら観たものもある。
 とりあえず名作枠については、ここでは語らない。

 それ以外から、あえてタイトルを挙げるとすれば、『ビヨンド』『ホテル・ルワンダ』『ツォツィ』などが、まあまあおもしろかった気はする。
 地味な映画を愛するタイプとしては、むしろいまごろB級ゾンビ映画の名作かよ、という突っ込みのほうが刺さる。

 ブロックバスター系の大作はあまり観ていない。
 アメリカ映画はたくさん観たが、評価できるものは比較的少なかった。


 折に触れて書いているが、私は恋愛映画が苦手だ。
 ロマンティック・コメディとかいうジャンルを、まあまあ(勉強のために)観るのだが、突っ込みどころを探すことに終始してしまうきらいが強い。

 「いわゆる女性」が、この手の作品を嗜好する理由について考察し、理解するために観ている。
 もっと「感情」に寄り添わなければならないんだ、と理性で考える。

 そんな正しくない観かたで『ブリジット・ジョーンズの日記』を観た。
 この有名な作品を、いつか観るリストにほりこまざるをえなかった心情を忖度していただければ幸いだ。


 生来、「少女漫画」を苦手としている
 主人公がドジで仕事ができなくて見た目共感しやすい感じ、であったとしてもイケメン上司やハイスペックな幼馴染を相手に、女性上位の恋愛ができる!

 こういうのが女の人は好きなんですかそうですか……。
 いや、まあ知ってはいた。

 これで一定層の女性が元気づけられるならいいんじゃないの、とは思う。
 すくなくとも2000年代には、これがウケた。

 きれいで細い理想的な美人「ではない」主人公。
 役のために体重を13キロ増やしたレネー・ゼルウィガーの「どこにでもいそう」な感じが共感を集めた……らしい。

 美人でスタイル抜群の女優とか、世にありふれた女性自身にとったら「悪女の敵役」でじゅうぶんだ。
 理想像として仮託する種の作品ならともかく、少女漫画ではその手の「美人」や「かわいい子」は、ずるくていじわるで世に定量ある「幸せ」を必要以上にぶんどっていく、厄介なサークルクラッシャーであると相場が決まっている。

 イケメン上司と幼馴染の「ケンカ」のシーンでは、思わず笑ってしまった。
 オスはメスを奪い合ってケンカしないといけない……という、これは「生物」の授業にほかならない。

 一定量の「お約束」を詰め込むことで、それなりの人気作品になる。
 たいへんいい映画だった、といっていいだろう。


 『虚栄のかがり火』。
 90年の作品で、そのうち観ようと思っただけ物好きだな、という程度には評価が低い。

 デ・パルマ監督で、豪華なキャストがそろっている、にもかかわらず大コケした。
 なるほどコケるだろうなと感じるシーンはたしかにあったが、巷間腐されるほどではないと思う理由を、以下にまとめる。

 主人公が愛人もいてろくでなしなのに、偽証して無罪を勝ち取る。
 それはないだろ、と感じる人々の気持ちはわかる。

 聖人君子の物語としてみるならその通りだ。
 が、多かれ少なかれ俗悪な人間の主人公としてみれば、当然の態度ではないか。

 自分にできる善意や善行は施すが、その域を出たら「人間らしく」応じる。
 彼に共感できない(してはならない)のは、そう(浮気をする人間は「悪」と)決めつけるのがポリコレ、という現在的な風潮のせいだろう。

 「文化の変遷」を感じつつ、みずからの「立ち位置」を探ろうとする人間にとっては、示唆的な作品だった。
 おすすめはしないが、歴史の一里塚として観ておいてもいいかもしれない作品だ。


 いちいち感想を述べていると長くなりそうなので、端折っていこう。
 『リプリーズ・ゲーム』──時世的にどんぴしゃだったので記憶に残った。

 ロシアと戦争させるために、ウクライナのマフィアを殺す。
 陰謀論にくみするわけではないが、02年のこの映画から周到に準備は整えられていたのだろう、などと想像してみるのは楽しい。

 天才やサイコパスが主人公(あるいはヴィラン)の映画は無数にあるが、殺人を通して育まれる男の友情、とでも表現すべきめずらしい作品だった。
 アスペ傾向のある私にとって、冷血漢リプリーの行動はほどよく理解できた。


 たったいま観終わったのは『マグノリア』。
 3時間もあるので後回しにしていた。

「おマンを手なずけろ!」(訳:戸田奈津子)
 叫ぶトム・クルーズに、クソ笑った。

 原文は”Respect the cock, tame the cunt!”らしい。
 ちんこを敬え、まんこを飼いならせ。

 群像劇としてはレベルの高い(とくに俳優陣)作品だと思う。
 大事なところでカエルが降ってくるというアイデアも、きらいじゃない。

 途中、冗長さを感じることもあったが、そもそも「時間があるときに観よう」と決めていたので問題ない。
 「いつか観るリスト」は「いつか読む本棚」くらい、人生の保険になる。


 そんなわけで、豊かな年末年始を送っている。
 今年もよろしくお願いします。
 


 前回、私がどんなテレビを観、あるいは観ないかを書いた。
 科学や経済系のドキュメンタリー、スポーツ番組などについて言及したと思う。

 今回は、バラエティやドラマ系の番組について、ひとこと述べておこうと思う。
 結論、ほぼ観ないのだが、わけあって「まったく観なくなった」番組がある。

 『水曜どうでしょう』と『孤独のグルメ』だ。
 前者はたまに復活特番をやっていて、後者はことしも年末特番をやるらしい。

 観なくなったということは、かつては観ていたということだ。
 どちらもおもしろい番組だと思う。

 年末恒例にもなっている『孤独のグルメ』はテレ東らしい編成だし、番組自体を否定するつもりはない。
 ただ個人的な視点から、観ると心が痛むので観なくなった、というだけの話だ。


 どういうことか。
 出演者が「かわいそうすぎ」るのだ。

 そうとうロケがきついのだろう。
 さきほど読んだ記事にも書かれていたが、「松重が食べられなくなってき」ているらしい。

 食欲が落ちているのに、食べなければならない。
 これはほとんど拷問ではないか?

 『水どう』でも、大泉さんは「もう勘弁してくれよ」的なことをよく言っている。
 松重さんはそれほど口数が多くはないが、毎回「そんなに食えねえよ」と、それでも必死に体調管理しながら完食しているらしい。

 それを知った私は、ほんとに、もう勘弁してあげてくれ、と思った。
 そのひとが苦しんでいる、いやがっていると知りながら、無理して番組に参加している姿を楽しむことが、とうていできない。


 当人がやりたくないと思っているものを、まわりの都合でやらせる。
 これは、ほんとうにひどいと思う。

 だからといって番組自体ひどいと決めつけるつもりはないし、前述のとおりおもしろさは理解している。
 ただそれを上回る「不快さ」「居心地のわるさ」を感じてしまう。

 事実、制作側の一部については、ひどい人間がいるのだろうと拝察する。
 出演者がいやがっていることを「やらせる」と決めた何者かだ。

 もちろん程度問題ではあるが、基本的に「やりましょう」と力を合わてつくりあげるのが番組というものだと思う。
 その事業、企画に参加したくないひとは、どうか許してあげてほしい。

 全員が、力を合わせる。
 いやなひとは、参加しなくてよろしい。


 とはいえ、世の中そう単純ではないことも、もちろん知っている。
 なんなら「いやなことをやるのが現実」ですらある。

 じっさいドラマでもよくある設定だ。
 たとえば巨大ロボット系の名作アニメ。

 「もう乗りたくない」。
 そう主人公が泣き言をいったり、逃げ出したりする。

 よろしい、そうしなさい、と思う。
 まわりもそっとしておいてあげればいいのに、と。

 いやなことから逃げ出して、やりたいことだけをやる。
 とても幸せな人生だ。

 しかしそれではドラマにならないので、彼らは乗る。
 その前段で、こっちの気持ちは萎えきっている。


 そんなにいやなら、つらいなら、やめればいいのに。
 とくに優秀な人間なら、たとえば学者や芸能人やアスリートなど、ひたすら自分の好きなことを突き詰めて、なんらかの成果を出すという道はあるはずだ。

 なぜ、いやなことをやらされなければならないのか?
 なぜなら、そういう「成長物語」のフォーマットに載せているからだ。

 好みの問題なので否定はしない、ただ共感できないだけだ。
 この手の主人公に対するイメージが、私と一般的なファンの方々とでは大きく異なるのだろう。

 自分が「頭のおかしいやつら」のひとりだという自覚はあるので、それはそれでよい。
 作品全体としてはおもしろい、という部分まで共有できればじゅうぶんだ。

 そのうえで私は、小学校の先生に教わったことを、ただ朴訥に守っている。
 「ひとのいやがることをしてはいけません」。


 さて、そろそろオチをつけよう。
 私は、多くの女子から相手にされない孤独な男である。

 その価値がないから、という最大の理由はともかく。
 ひとのいやがることをしないから、だと思う。

「やだー」
「了解」

 


 私はテレビを観ない。
 観なくなってからだいぶたつが、不都合を感じたことはあまりない。

 いま住んでいる群馬の奥地に引っ越してきたばかりのころ、しばらくテレビが観られなかったことがある。
 来客がテレビをつけて指摘されるまで、観られないこと自体、気づかなかった。

 それを聞いた近所のおじいさんは、驚いていた。
 彼らにとって、テレビは生活インフラの一部と化している。

 どうしてテレビが観られなくて平気なのだろう、と不思議そうに聞かれた。
 ネットがあるから平気です、と答えた。

 じゃあアンテナいらねえな、とも言われたが、たまに親などが訪ねてきたときには使うので、まったく映らないとそれはそれで困るとも伝えた。
 地域の積立金から手配をして、新しいアンテナを立てた。

 そもそも積立金は祖母の時代からのものだ。
 地域の住人としては、アンテナをつけてもらう権利がある。


 さて、そんなこんなでテレビはあまり観ないのだが、テレビ番組を観ないというわけではない。
 とくに資料的価値が高いものについては、かぶりつきで拝見している。

 番組でいえば、サイエンス系やビジネス系が多い。
 自然科学系のドキュメンタリーは、レコメンドされるものすべて観たといっても過言ではない。

 娯楽番組やドラマも、まったく観ないわけではない。
 かなり少なくはあるが、とくに昔の番組、ドリフとかオールナイトニッポンあたりを、ごくたまに視聴することがある。

 しかしスポーツは、きらいではないが、ほとんど観ない。
 とくに昨今開催中のワールドカップは、観たら負けだとすら思っている。

 元会長が「まちがいだった」と後悔し、LGBTや人権団体などが問題視する、カタール大会。
 外国人労働者問題や、建設工事にまつわるさまざま問題点も指摘されている。

 スポーツをやっている人々に責任はないのだが、まわりがひどすぎる。
 こんな連中に儲けさせていいものか?

 とくに美辞麗句を掲げるオリンピックなど、運営する側にはさらに高い倫理規範が求められて当然だ。
 そのおえらいさんが「汚職」ってなに?

 オリンピックの甘い汁を一生吸って生きるんだ、と決意する薄汚れた人間たちの醜聞を眺めながら、率直に気持ちわるい、と感じてしまう。
 東京五輪の汚職の検証も済まないうちに、札幌冬季五輪の招致もクソもない。

 そんなもん観て感動できるかよ、と思われる方も多かろう。
 欲望とカネにまみれたショービジネスの舞台で、なにが健全なる育成、手本となる教育的価値だよと。


 もちろん私は、人間なんて薄汚いものだと思っている。
 だから汚職自体について、どうこう言っているわけではない。

 じゃあなにが問題なのか?
 彼らの掲げる「看板」だ。

 スポーツマンシップだの環境対応だの、いわゆる意識高い系のことを言う。
 そんな彼ら自身、どっぷりと「汚れた組織」だとしたら。

 どの口が言うんだよ?
 せせら笑うしかない。

 他のメンバーに高い倫理規範を求めながら、自分だけはそのハードルの下をくぐり抜けようとする「議員」。
 自分の利益を第一に求めながら、お客さま第一だのご奉仕だのと「おためごかし」をする「商人」。

 要するに、そういう連中だ、吐き気がするのは。
 低劣なことをする、それ自体はいいとは言わないが、しょせん人間なのでしかたない。

 だったら高潔なこと、えらそうなこと、美辞麗句を並べ立ててはいけない。
 その資格がないからだ。

 薄汚れた人間が、あたかも聖人君子のフリをする。
 私はここに、悪寒をおぼえる。
 


 本記事を書くために、あらためて定義を調べてみた。
 ブリテンとカスの合成語で、イギリスがやってきた歴史的な「汚点」について表現するときに、よく使われる──ブリカス。

 なるほど、すくなくとも世界を巻き込んだ暴虐の「量」において、イギリスは群を抜いている。
 被害の「量」だけなら中国もすごいのだが、おおむね自国内で完結している。

 対抗しうるのは新大陸の国家を「絶滅」させたスペインくらいだが、やはり君臨した「長さ」の分だけイギリスが上だろう。
 奴隷貿易、私掠船、セポイの乱、黒人動物園、ノルマントン号事件、三枚舌外交、アヘン戦争、エトセトラエトセトラ。

 現在まで影響を残す、残虐非道で下劣な行為だったと思う。
 世界史を学んで「イギリスがきらいになる」生徒たちが一定数でてくるのは、ある程度やむをえないといってもいいだろう。

 ただし、いうまでもないが、過去のイギリスがどうあろうと、現在のイギリス人に対してどうこう言う資格は、だれにもない。
 「現在の」価値観で見ればひどいが、「当時として」は比較的当然だったりもする(限度はあるが)。

 むしろ現在の価値観で「ブリカス」などという言葉を使用している人間自身、みずから品性に欠けることを自白しているに等しい。
 言葉を狩るのはきらいなので、文脈を読んで「ネタ」として使っているとあきらかな場合はいいが、この言葉の使い方は正直かなりむずかしいと思う。


 王室や貴族によって支配されてきた、大英帝国。
 その政治体制は、いまやりっぱな民主主義国家のお手本(?)だ。

 みんなで決めたからブレグジットやるし、みんなで決めたからTPPはいる。
 そして、みんなで決めて首相を交代させる!

 ……みんなで?
 このあたりに若干の疑義がある。

 民主主義というより、政治システムの弊害かもしれない。
 昨今の保守党、党首選、首相交代の顛末は、ご存じのとおりだ。

 大型減税をぶち上げたポピュリストの(ようにみえる)トラス氏が、史上最短で辞めた。
 この経過は、じつにおもしろかった。


 総理大臣がころころ変わるで有名な日本の首相、その最短在任期間を調べたところ、1位は羽田孜の64日だった。
 てっきり明鏡止水のひと、宇野宗佑だと思っていたが、彼は3位の69日だった(戦後の混乱期、降伏文書の調印などのために組閣された東久邇宮内閣を除く)。

 その日本の記録すら破ってきたのだから、すさまじい。
 西欧先進国の政治史上、最短の国家指導者として、イギリスの憲政史にその名を遺したリズ・トラス。

 かの女王陛下、エリザベス2世から最後に任命された首相。
 在任期間49日。


 彼女はいったい、なにがわるかったのだろう?
 「既得権層の減税に固執」「大衆を無視」「タイミング」など、さまざまな分析がある。

 減税はどこかでやらなければならなかったかもしれないが、このタイミングではなかった。
 いま以外だったら受け入れられたかもしれない、だが、いまはだめだ。

 そもそも彼女の減税は、彼女に対して投票権がある保守党員にとって都合のいい減税にすぎなかった。
 国民全体に対して示すべき政策の優先順位が低すぎた。

 正直、私も「選対、露骨すぎだろ」と思ってはいた。
 思ってはいたが、ここまで経済が怒り狂うとは、さすがに想像を超えていた。


 ポンドのボラティリティが高いのはいつものことだが、トラス首相就任直後の乱高下はなかなか見ものだった。
 そんなアホなことマジでやるならこうだよ、と狂ったように下げて、すいません反省しましたやめます、という情報が伝わった瞬間にもどした。

 減税とか耳障りのいい主張だけで選んだらダメじゃん、やっぱスナクにしとこ。
 で、新しい首相はスナク氏になった。

 もともと彼は、このタイミングでの大型減税は完全におかしい、と言っていた。
 やっぱりスナクでいいじゃん、とすんなり決まりやすい地合いだった。

 人間はおバカさんなので、それが全体として正しいのかどうかより、自分に都合がいいかどうかを、まずは優先する。
 トラス氏が選ばれた理由は、つまりそういうことだ。

 やってみてダメだったので、乗り換えた。
 わかりやすいトライ&エラーである。

 それができるのは結局「だれがやっても同じ」という、安定・成熟した国の証拠ともいえるかもしれない。
 非常に親近感をおぼえる。


 上述のとおり、私も経済がここまで怒り狂うとは思っていなかった。
 よって在任期間49日には、すなおに驚いた。

 岡目八目の外野にすら見えなかったのだから、目のかすんだ当事者に見えなくてもしかたない。
 自分の利益が絡んだら、それにしたがうのは本能ですらある。

 そして彼らは、盛大にまちがった。
 まちがったのはトラス氏というよりも、保守党の多数派だ。

 頭を寄せ集めるとよけいバカになる、という民主主義の弊害といってもいい。
 保守党員の個々人はまともなのかもしれないが、全体としては愚かだった。

 結局、選挙や民主主義などというもの自体が「最悪の制度」なのだろう。
 それでも「既存の制度のなかではいちばんマシ」と、かのチャーチルも言っている。

 もうすこしブラッシュアップした制度が、そろそろ出てきていいころだ。
 それ、すなわち人間以上のもの──。

 われわれはその誕生に接しうる、幸福な時代に生きている。
 新たな「神」の誕生を、朴訥に喜ぼうではないか。

 


 私は「直前の変更」というやつが、たいへん苦手だ。
 この特徴は、発達障碍者によくあるらしい。

 急に予定を変えられてしまうことで、見通しが立たなくなりパニックになる。
 決められたルーティンにこだわりが強く、結果として行動範囲や選択肢がかぎられてくる。

 子どもの場合、けっこういるらしい。
 成長につれて、たいていは正常の範囲に収まる。

 成人しても病的なレベルを保っていれば、ASD(自閉症スペクトラム症候群)やADHD(注意欠如・多動症)などと診断される。
 よって診断を受けていない私は、病気ではない。

 じっさい正常の範囲に収まっている(はずな)のだが、苦手であることは事実だ。
 立てた計画は意地でも遂行する反面、想定外のトラブルには弱い。

 想定の範囲を広げておく、という処世術は学んできた。
 さいわい病的レベルではない(はずな)ので、すこしくらいの変化には対応できる。


 風に吹かれて、流れで生きている、というタイプの方には、なかなか理解しづらいかもしれない。
 わかりやすく説明してみよう。

 たとえば天気。
 どれほど事前に計画していようが、その日に雨が降るかどうかはわからない。

 降ったら中止、という「変更」なら当然に受け入れやすい。
 典型的な「予測可能性」の高い事案だ。

 しかし病的なアスペになると、この日にやるって言ってるんだからやるんだろう、と雨のグラウンドで立ち尽くしていたりするらしい。 
 なんとなく気持ちがわかるだけに、やりきれない。


 天気・天災のレベルはわかりやすいが、人事・人災のレベルになると厄介だ。
 しょせん人間が決めることなので、予測が立てづらい。

 病的ではない(はずの)私でも、受け入れがたい変更はけっこうある。
 それが個人的な理由であればあるほど、地味に腹が立つ。

 事故で入院とか、死んだとか、緊急事態は別だ。
 予測困難ではあるが「天災」のようなもので、どうしようもなく起こるときは起こる。

 しかし個人が「気が向いたから」これから〇〇しよう、というのはイラっとくる。
 何日後の何時何分にどこどこでなになにをするために集まろう、という計画を提示してほしい。

 自分だけに関係があることなら、自分が決めてやればいい。
 が、他人を巻き込んだ時点で、相手の同意はどうしても必要になる。

 自分勝手な人間というのは、このへんのことが理解できない。
 俺様が決めたんだから従え、というタイプとは、正直まともに付き合える気がしない。



 さて、うちの裏には畑があって、父親が野菜をつくっている。
 私は農業になんの興味もないので、手出しをしていない。

 両親が農作業のため、定期的にやってくる。
 それはいいのだが、何月何日に行く、と事前(最低3日まえ)に告げてほしい。

 その旨、母親には何度も言っておいた。
 ところが、最近スマホにしてラインをおぼえた父親。

 臆面もなく「明日行く」とか言い出す。
 ひどいときは早朝「これから行く」ときた。

 べつにうち来るのはいいけど、直前に決めんなや。
 なかば切れ気味に伝えたところ、その日は来なくなった。

 どうやら、言えば伝わるらしい。
 ということは、母親は彼に上記の旨、伝えなかったのだろうか?

 つぎに来たとき、母親に訊いた。
 なんで直前に言うなと伝えなかったの?

 すると母親、伝えたという。
 なんと、伝えたにもかかわらず「無視された」らしいのだ。

 なかなか理解しがたいことが起こっている。
 年寄り夫婦の関係性を掘り下げるのも気が引けるのでやらないが、結論からいえば、私は独身でよかったなと思った。



 気まぐれな行動自体、責めているわけではない。
 むしろ私自身、気まぐれに行動する自由を求めて、現状を築いた。

 仕事をしたければするし、映画を観たければ観るし、もちろん読みたい本を読む。
 当然の権利だ、私は自由なのだ。

 「自分で」好きなことをやる。
 だれも「巻き込まない」。

 ここまでは完全、盤石、ゆるぎない「権利」だ。
 この自由を侵害するような輩が現れたら、全力で戦うだろう。

 じっさい、このような状況を築くのはなかなか骨が折れる。
 引きこもっても生活できるだけの資力や仕事や適性が必要だからだ。

 それでもがんばれば、なんとかならないこともない。
 さて、しかしだ。

 それ以上を求めてしまったら、それは求めすぎではないか?
 「他人を巻き込む」権利を、私もあなたももってはいない。


 俺様の気が向いたので、いまからパーティしよう!
 ……お断りだよ。

 パリピがどういう属性の人間か、まあ遠い彼方の世界として眺めて知ってはいる。
 いうまでもなく、とうてい噛み合わない。

 そういう世界から逃れ逃れて、田舎の一軒家に引きこもる生活にたどり着いた。
 ここで死ぬまで、静かに暮らしたい。

 そしてあるとき突然、冒険の人生を選びたくなったら、だれにも相談しないで旅立つだろう。
 好き勝手に決めていいのは、自分の人生だけだ。