私は三大欲求の筆頭「食欲」の優先順位が低い。
 死なない程度に食えればいいし、食う目的は脳を動かすためだ。

 メニューを考えるのも面倒なので、毎日、決まったものを食っている。
 準備に時間がかからず、栄養的に過不足なく、特段にまずいわけでもない。

 上記の要件さえ満たしてくれれば、昆虫でも食う。
 完全栄養食のパッケージが販売されているので、もうすこし安くなったら試してみたい。

 そんな私のようなタイプは、おそらく少数派なのだろう。
 世の中には「美食」を重視している人々が、かなり多いようだ。

 その筆頭は、堀江さんに代表される「コオロギなんて食いたくない」派だ。
 一見して「食」への強いこだわりを感じる恰幅の良さは、アメリカ的な飽食の業界を支える重要なファクターであろうと拝察する。

 一方、世界食糧計画をバックにしたSDGs的な主張がある。
 こちらはこちらで、理想論すぎてイラっとくる感じは、私にもなんとなくわかる。


 一時、ゲテモノを食う動画を好んで見ている時期があった。
 ハチ、バッタ、カマキリ、ジョロウグモ、ムカデ、ゴキブリ、あらゆる昆虫が「加熱すれば食える」という信念を貫いている何人かのユーチューバーの思想には、共鳴しないこともない。

 彼らに言わせると、コオロギの味は昆虫のなかでは「中の下」らしい。
 最下級はゴキブリ──(種類にもよるが)人間が口にしちゃいけない味だという。

 最上級は、ハチノコ。
 新鮮な幼虫をバターしょうゆで軽く焼いて食している姿を見ると、ちょっと食べてみたくなる。

 長野にかぎりなく近い群馬で、一定期間育まれた。
 胎児期の私の身体の2%くらいは、イナゴによって育まれている可能性もある。

 そう、この国にも一応、虫を食う文化自体はあるのだ。
 考えてみれば甲殻類に近いし、アレルギーさえなければ虫を食うこと自体に、非合理的なものはない。


 とはいえ、虫なんかぜったい食べたくない、という人々の気持ちもわかる。
 そもそも日常的に接していない食べ物は、食べ物と認識するまでにすら時間がかかるものだ。

 そういう意味で、昆虫食をあつかっているメーカーのおえらいさんの意見は、的確だったように思う。
 基本的にビジネスライクで、感情以外の要素で批判する部分があまり見当たらない。


 ──それに価値があるかどうかは、市場が決める。
 脱毛したいひとがいるならそういうニーズに応える会社が必要であるように、虫を食べたいひとがいるなら供給する会社は必要だ。

 昆虫を重要なたんぱく源として利用しつづけている国はあり、安全性への疑義がジャンクフードよりも高いということはなさそうだ。
 環境負荷や食糧問題の切り札としての意義は、国際機関によっても強調されている。

 現在、それを利用していない国に対して、その新たな価値を訴求するというビジネスを、われわれは選んだ。
 通常の営業に「社会的意義」を絡めることで、ビジネスがやりやすくなるという部分は、たしかにある。


 ある意味「ぶっちゃけ」話のようでもあった。
 しごくまっとうなことを書いている。

 担当者がどんな営業をやっているのかはともかく、ビジネスをビジネスと割り切っているメーカーの「正直さ」は支持したい。
 むしろ「正直すぎる」という文脈での批判もあるようだ。

 これを取り上げて「意識が低い」「自分で言うな」と突っ込む記事を読んだ。
 それはそれで「マスコミらしいな」と思った。

 革命の闘士は信念をもってやらねばならず、ブームに迎合するような中途半端な態度は反革命的である。
 もっと熱烈にSDGsを支持する、意識高い系の活気ある環境保護戦士が必要だ。

 世界の潮流を読み、深い思想と信念をもって、その熱量で時代を動かしていくような社長のほうが、マスコミ的にはありがたい。
 そもそも記事にしやすいのだから、そうだろうとも。


 昆虫食支持と思われる食料新聞も、ちらっと流し読んだ。
 結論としては「安易な批判は避けるべきだ」という論調でシメられていた。

 昆虫食のメーカーを擁護し、世界の人口について憂い、自給率を盾に、個人の趣味嗜好よりも優先すべき未来の「危機感」を説く。
 ──これについては、だからダメなんだろうな、と思った。

 短いコラムとはいえ、「安易な批判を招いた自分たちのやり方は正しかったのか」という検証の姿勢が、皆無だったのだ。
 「自分はいいことをしている」と思い込んでいる連中に、よくある症状だ。

 反省すべきは自分ではない、という信念のひとたちには、いつもゾッとさせられる。
 熱烈な宗教信者から人民の革命解放軍まで、この手の連中はそうとうに度し難い。

 彼らの多くにみられる共通点のひとつとして、ほんとうに自分が正しいのかという「問い合わせは受け付けない」態度がある。
 新興宗教の集会などで、教団関係者と部外者では「議論にならない」状況を考えれば目安になるだろう。


 保守・革新の図式においても同様だ。
 右も左も、底辺の連中はおしなべて同じ症候群を呈しているわけだが、両者には微妙な差異がある。

 そう思うと気持ちいいから、というある種プリミティブな考え方が、右側には多い気がする。
 自分が正しいから、という正体不明の信念に凝り固まった左側の考え方のほうが、どちらかといえば厄介だ。

 個々人がそれぞれ、自分できちんと考えて、その結論に達したならいい。
 一部の人々が考えた結果「これが正解であり正義だ、おまえたちはそれにしたがえ」という方法論の末路に、刻み込まれた歴史的被害がすさまじすぎる。

 疑う余地のない正義。
 そんなものは、そもそも存在しない。


 大きな話になってしまったが、要するに、選択肢があればいいだけなのだ。
 推すのは勝手だし、断るのも勝手、その自由がある現状は、モアベターである。

 宗教的理由での選択肢と同列に、昆虫を加えればいいだけのことだ。
 そもそもこんなことが議論になっている時点で、平和だなと思う。

 好きなものばかり食えば食ったで、勝手に別の問題を引き起こしていたりもする。
 全体的には、そんなレベルの話ではないかなと思った。