最近、誕生日を迎えた。
そこで思ったのは、女ってすげえな、だ。
私も年なので、ちっともめでたくはないのだが、誕生日おめでとうというメッセージが届いたら、ありがとうくらい返さないと申し訳ないな、くらいの良識はもっている。
こちらから他人の誕生日を祝ったことはほとんどないので、よけいに恐縮する。
そもそも他人の誕生日など、知ろうとも思わない。
最近代わりに手続き関係をすることの多い母親の誕生日だけは、しかたなくおぼえているが、それ以外はまったく存じ上げない。
まあ、どこぞのSNSがおせっかいにも「きょうは〇〇さんの誕生日です!」とか、勝手にリマインダー飛ばしてくれたせいだとは思うが。
そうでなくとも、女がこの手の絡み方をしてくることは、男に比べればおそろしいくらい多いことは事実だ。
一部の方々からお叱りを受けるだろうことは承知しているが、厳然として存在する性差を、あたかもないものであるかのように誘導しようとする向きには疑義がある。
もちろん個人の意見だが、いまのところ変えるつもりはない。
それが著しく非合理でないかぎり、男女には役割分担があってしかるべき、と私は考えている。
性差にグラデーションがあることは認めるが、境界を越えた性格の持ち主に選択肢さえ与えれば、それ以外に変革する理由はない。
そもそも、そのほうがおもしろいと思う。
全員同じ顔の社会なんて、ちっともおもしろくない。
そう、男女は異なる生物であるがゆえに、おもしろいのだ。
よって、これらを同質化させようという議論自体、いかがなものかと思う。
さて、そんな考えのもとにというわけでもないが、私は趣味で小説を書いている。
べつに封建的な物語を書いてはいない。
まちがいなく言えるのは、男女はよりわかりやすく異なっていたほうが、物語はおもしろくなりやすい、ということだ。
男か女かわからないキャラもいていいが、あくまでも男女という枠組みが前提だ。
そこで問題になるのが、自分の脳が男すぎるところ、だったりする。
いわゆる「女の気持ち」なるものが理解しがたいことが、ままあるのだ。
それなりに勉強はしている。
女特有のジャンルについて、努めて観たり読んだり。
しかし映画好きの私が途中リタイアするほど、少女漫画を原作とする映画は苦手だ。
恋愛映画をおもしろいと思う瞬間もないではないし、女を理解するうえで必要だとも思うのだが、なかなか勉強ははかどらない。
たまにネットで見る男女関係のエピソードも、女の気持ちに寄り添うことがむずかしくて困る。
別れたいと切り出して即了解されたら悲しいとか、こうしてくれないなら別れると言っておいていざその局面になると不平たらたらとか。
別れたいと告げて、きれいに別れられたなら、悲しいところ一個もないでしょう。
自分で宣言した状況になっただけなんだから、決めたことをやればいいだけでは?
まあ要するに、彼女らは「引き留めてほしい」とか「心からの謝罪」や「やり直したいと言ってほしい」らしいのだが、ぽかーんとする。
なんだそれ、ウソ前提か、もうウソップの国へ行っちゃえよ……。
私はアスペ傾向があるので、みずから言ったことは淡々とこなす癖がある。
なんなら結果を出してから言いたいタイプなので、あまり言わずにやっていることも多い。
他人についても、言ったことはそのとおりやってもらいたい、と思っている。
よって、駆け引きやビッグマウスは大の苦手だ。
たとえば「ぜったい三冠王になる」「必ず1ラウンドKOする」はずのおっさんが、三冠王でも勝者でもないのを、たまに見かける。
小学校で国語の授業だけ受けなおせばいいのに、と思う。
もちろん理解はしている。
日本語は高文脈言語なので「……ことが目標」という一文が、文末に付随していると解釈すべきなのだと。
この点は、男女というよりは個人差かとも思われる。
言語に対する感覚の隔たりが著しくなると、なかなか「響く物語」というものが書けない。
似たような趣味嗜好の少数派には伝わる(おかげで一定程度選考には残る)のだが、そのさきがない(すべからく多数派に拒否される)。
まあ賞レースには疲れたので、残りの人生、好きに書いて生きるだけなのだが。
いっそアスペしか出てこない物語を書いてみようか。
いや、それはそれできつい……。
私はたまに寄付をする。
それは私が善人だからとか、善人ぶりたいからとかではなく、いつか返ってくると信じているからだ。
つまり「自分のために」寄付をしている。
情けは人のためならず、因果応報、信賞必罰、輪廻転生。
上記のような語彙によって表現される、寄付を含めた一連の行動。
これらを原理的に駆動する動機の根源には、なにがあるか。
結論から言おう。
応報感情だ。
このシステムは、全人類にある程度、内蔵されている。
プラスもマイナスも、受けたものを必ず返すというのは、文化人類学界隈でもよくテーマになっている。
原始的な社会の多くにも、「お返し」という概念は必ずある。
ほとんど社会契約の一部として機能し、近代社会の契約形態にも大きく反映されている。
以下、ハンムラビ法典や韓非子あたりから紐解こうかと思ったが、まだ力不足なのでやめておこう。
今回もいつもどおり、ライトな話をしたい。
母親がふるさと納税をするというので、上限などを計算してやっていた。
ECサイトで返礼品を調べているうちに、ふつふつと「これ寄付なのか」という疑問がわいてきた。
ウィキ先生には、「地方と大都市の格差是正・人口減少地域における税収減少対応・地方創生を主目的とし」ている旨、はっきり明記されている。
ちなみに寄付の定義は「自らの意思で金銭や品物などを無償で提供すること」だ。
なんだかんだおかしい。
支払うべきものの支払先を変更する、手数料らしき2000円が寄付ということか。
返礼品が割高なのは当然だが、うちのアホな父親は去年、還付に必要な手続きをしなかったらしい。
ただ高い買い物をしただけ……そんな彼については、純粋《ボーンヘッド》な寄付になるかもしれない。
ともかく、この手のテキトーな政策は、さすが政治家の言語センスだなと、ある意味感心はした。
私が昔から敬愛している()政治家という連中は、ほんとうに度し難い。
さて、寄付だか納税だかわからない商品を検索しながら、ついでに自分の買い物などしていた。
そしてふと、だったら小銭を寄付させてくんないかな、と思った。
各ECサイトでも社会貢献とかいう面の皮をかぶって、よく募っている。
ポイントなどを寄付して、善人ぶりたい人々の需要を満たす施策だ。
地震とかウクライナとか、ことあるごとに立ち上がる寄付サイト。
正直うざいのだが、必要なものとして認めることやぶさかではない。
そこで、この小銭を集めることが大好きで大得意である、商人さまに申し上げたい。
すべての買い物に「寄付」枠を設けてくれないだろうか。
たとえば楽天。
3980円に達しない買い物だと、送料がかかる。
必要な買い物が、あとちょっとで送料無料になる金額だったりすると、あまり必要でないものを買ってしまう。
みなさん、よくあることだと思う。
その不足分を、寄付させてくれないだろうか。
昔コンビニなんかに置かれていた、お釣りの小銭を入れる募金箱みたいなものだ。
あくまでも寄付なので偽善者的にも喜ばれるだろうし、なにより重要なこととして「無駄が省ける」。
デメリットはせいぜい「必要ないものを買ってもらえなくなる店」側くらいではないか。
送料無料ラインまでの不足分、百円二百円の買い物をわざわざ探すのもおっくうだ。
その額だけ寄付できれば、いろいろな無駄が省けるような気がしないだろうか。
980円の商品ばかりが並んでいる店で、1000円以上で使えるクーポンを発行したり、なんのいやがらせだよと思うこともある。
そこで20円寄付することでクーポンが使えれば、たいへん便利だ。
1000円以上の買い物でポイントが増える、といった施策にも対応できる。
事実上20円高いほうが得とか、そもそも商売のフレームワークそのものがおかしい気はするが、これも寄付という風穴を開けてくれれば事足りる。
私ごときが思いつくくらいなので、どこかですでに実行されていてもおかしくはないと思う。
が、さきほどちょっと探したかぎり、すくなくとも日本でそういうECサイトは見つからなかった。
無駄なものを売りづらくなるから、だろうか?
しかし敬愛する()商人さまにおかれましては、ぜひともご検討いただきたい。
小銭くらいなら私も寄付をする。
もちろん自分のために。
偽善的行為のため、献血に行ってきた。
そこで看護婦さんに言った、椎名林檎のファンなんですね、と。
いくつか用意されている突っ込みどころについては、とくに説明しない。
とにかく献血可能になった瞬間から怒涛のように届くメールによると「血だ、血が足りねぇ」らしい。
もちろん、べつに頼まれたからではなく、自分の健康診断のために行ってきた。
さくっと400抜いたが、毎度問題は待ち時間だ。
予約しているにもかかわらず、都合30分以上は待たされた。
年をとると、いらいらする、南、いらいらする。
1時間以内、できれば30分くらいで終わる、というのが献血のあるべき姿だと思っている。
しかし今回も、駐車場のチケットは2時間コースだ。
問診なども事前にできるようになっていて、時短の努力の跡はみられる。
が、そもそも呼び出されるまでの時間が長い。
血が足りねえ、と呼び集められたゾンビどもの群れが、まあまあ多かったせいもあろう。
客観的には私もその一味だ。
あくまでも健康診断なので、目的は血液の数値だ。
結果、今回はコレステロール値が高かった。
基準値140~259mg/dLのところ、270だった!
要するに、たいしたことはないのだが、上昇していることは事実だ。
思い当たるところはある。
最近の食事を全部、インスタントラーメンにしてみたのだ。
たまにパックご飯も食べるが、基本的にはラーメン。
なかでもヘビロテなのが、トムヤムクンだ。
20年もまえから、業務スーパーには置いてあった気がする。
YumYum というメーカーとは、じつに長いつきあいだ。
田舎暮らしの私にとって、業務は遠いので基本的にはネットで買っているが、その値上がりがまたすごい。
足元を見やがって……と思いながら、日銀いわく「受け入れ」るしかない愚民のひとりとして、しかたなく買っている。
いろいろなフレーバーがあるが、やはり基本のシュリンプが好みだ。
栄養成分をみたところ、たしかに脂質が多かった。
そこで、知的好奇心によって生きている私は、インスタントめんを軒並み調べてみた。
すると当然の話ではあるがノンフライ系の麺は脂質が少なく、上記のトムヤムクンは12gに対して、マルちゃん正麺(醤油)は5g以下、なんと2gという即席めんも存在した。
アブラがうまいのだろうから、極端に振るようなものはどうかとは思う。
ただ3食トムヤムはまずかろう、というわけで、すこし減らしたい。
毎日、二郎系ラーメン(スープまで完食)をアップしていたツイッター民が、生命の危険により現役を引退したという話もある。
さすがにその手のラーメンは、健康にはよろしくないだろう……。
とはいえ、トムヤムうまい。
尊敬する江頭さんが、トムヤム味のラーメンを「人間の食い物じゃねえ」と否定していたが、私は喜んで人間以外の味覚を楽しみたいと思う。
さてオチだが、風邪をひいた。
日々、引きこもってノーウイルス、ノーテンキに生きている人間にとって、世間の風は冷たかった。
トムヤム食って12時間も寝ていれば、ジェット機だって直るだろう。
と思ったが、ルパンほど高性能ではない私は、完治まで三日ほどかかった。
微熱程度だが、くしゃみと鼻水が止まらなかった。
ことしの風邪は鼻から、お気をつけ召され。
政府日銀が10月に、およそ6.4兆円の為替介入を行なったと公表した。
9月からの累計では、9.2兆円。
最初に結論を述べておくと、日銀はただ「仕事をした」だけで、ふつうのサラリーマンと同じように、業務連絡どおり遂行しただけだ。
淡々と積み重ねてきた日銀の歴史の1ページにすぎない。
円高局面で最強の日銀は、これまでも行き過ぎた円高において為替介入をやってきた。
91年以降の円高局面で調達しているドルは、平均101円らしい。
これを150円で売れば、いうまでもなく爆益だ。
10月だけで、およそ2兆円の利益を得ている。
利益が出ることをやるよ、という宣言どおりに実行した。
あたりまえのことなのだが、これが話題になる意味は、外貨準備高というお財布事情をみんなが知っているからだ。
「手持ちのドルは外準なので限度がある、介入では円安の流れを止められない」。
円暴落を主張する人々が、よく引き合いに出す「事実」だ。
たしかに外貨準備がなくなれば売れなくなるが、神田財務官は「原資は無限にある」と言っていた。
この意味が「なんとなく理解」できるようになれば、FXをはじめてもいいかもしれない。
為替介入のタイミングと規模を、チャートを示して分析しているサイトがあった。
まさに「モグラたたき」で、淡々と介入している気配が見て取れる。
原資が無限なら、直近で150円以上はもうかなり危険だ。
神田さんの裁量については、何年後かに、彼がメディアに出てくるようになったら聞いてみたいと思う。
ちなみに、かつてミスター円と呼ばれた榊原さんは、けっこう直前の番組で為替介入について「ない」と言っていた。
そのあたりの意図も含めて、財務官という仕事はとても興味深い。
いうまでもなく、原資は無限ではない。
無限ではないが、彼の言質には相応の意味がある。
たとえば、日本の信用をもってすれば、ドルを借りるのは他国に比べてかなり容易だ。
日銀が政策転換するまで「もたせればいい」のだから、むしろ喜んで貸してくれるかもしれない。
私でも予想できるくらいなので、さすがのヘッジファンドも、ここでの仕掛けはかなりやりづらいだろう。
一般投資家のように、あとは「神田さんに乗っかる」タイミングを待ち受けるくらいだろうか。
円安ラリーが終盤であることは、すでに多くの関係者が認めている。
ただ、ほんとうに終わったかどうかは、だれにもわからない(22/11/6時点)。
もうひとやま、ふたやま、あっていい。
逆張り大好きなミセス・ワタナベ(日本のFX個人投資家)も、最近は順張りに振っているようだが、そろそろ目を覚ましていい、ような気はする。
私も資金があれば、ドルショート仕掛けたいところだ。
いかがなものでしょうな、神田財務官……。
私は落語が趣味で、定期的に聞いている。
ほとんど古典落語で、新作はあまり聞かない。
5人の名人だけを聞いていればいい、という考え方で、とくに志ん生については何度聞いてもおもしろい。
私にとって最高峰の落語家は、永遠に古今亭志ん生だ。
が、たまに気分を変えて聞く名人、残り4人のなかに、三遊亭圓生がいる。
このひとがまた、現在に禍根を残すことをやらかした。
あらためてウィキなど調べたところによると、どうやら人間関係の悶着が絶えなかった人物らしい。
落語家としてはまちがいなく名人だが、人間としてはどうか、という評価は多いようだ。
最近話題になっているのは、この圓生という名跡の襲名問題というやつだろう。
先日お亡くなりになった円楽さんが意欲をもっていて、世間にもそれなりに知られるようになった。
正直私は、その手の問題や騒動になんの興味もない。
感心するような、楽しめるような「芸」を見せてくれたらそれでいいので、周辺の雑音など、できれば耳に入れたくないのだ。
ゆえに、雑音の出ようがない故人の名人芸をくりかえし、静かに楽しむことをもっぱらとしている。
が、たまに若手の芸などを配信で聞くことはある。
古典はどう考えても名人にはかなわないと思うので、聞くときは新作を聞く。
もしくは枕だけで再生を止めたりするが、悪意はない。
さて、私が苦手としているその「雑音」について、ちょっと記しておこう。
長寿番組『笑点』にもかかわる話だ。
現在、落語界にはいくつかの団体がある。
そのきっかけとなったのが、落語協会分裂騒動というものだ。
1978年のことなので、私は生まれていた。
3歳なのでまったくおぼえてはいないが、圓生と小さんが対立して、圓生が協会から出て行ったという話らしい。
どちらが正しかったのかについて、私には判断できない。
当時の状況をよく知らないからだ。
知りもしないのに、したり顔で偉そうなことは言いたくない。
が、重要な歴史でもあるので、ウィキに書いてあることを簡単にまとめてみよう。
会長がすべてを決め、最高顧問に退いても院政を敷く。
前会長の圓生がやりたかったのは、どうやらそういうことらしい。
ところが新会長の小さんは合議制を採用し、真打大量昇進という事態をつくった。
自分が認めなければ真打昇進を許さない、という考えの圓生とまっこうから対立するのは当然だった。
圓生に率いられた落語家が大量脱退し、その多くは落語協会にもどり、談志も弟子を連れて新団体をつくり、大日本落語すみれ会はなんやかやで円楽一門会になった。
それ以外にも、落語芸術協会や、上方落語協会といった団体もある。
こうして現在、プロレスのように団体が乱立するようになって……業界は活性化したのだろうか?
いろいろな評価はあるが、結局はいい方向に転がったのだろうと思いたい。
という記事を書くため、あらためて落語界について調べていて思ったことを、最後にちょっと書いておこう。
女性落語家についてだ。
──女が男にかなわんのは、腕力だけやから。
日本初の女性落語家が、そういうワードを発していた。
まちがってるな、と思った。
あえて言うが、腕力以外も、あらゆる部分で男性優位はある。
逆に、かなりの分野で女性優位もある。
とくに政治とか商売とか、私の大きらいな仕事については、女性のほうが向いている気がする。
そもそも眼球があって機能しているかぎり、性差は見ればわかる。
一定期間、不可避的にさらされるホルモン等の影響を受ける肉体は、その間に得手不得手を精鋭化する蓋然性が非常に高い。
顕著なのは数学や立体把握能力だが、この明確な性差に言及している「団体」はあまり見かけない。
趣味嗜好についても、かなりの幼少期から明確に好みがわかれる。
男女の枠組みを前提として、その差が微妙な分野での差別をなくそうという主張はわかるが、男女には能力の「差がない」ので差別をなくそうと言われると、私は反対する。
なぜなら、まちがっているからだ。
明確に、能力の差はある。
より正確にいえば得意とする能力に差があるのだが、ある種の「活動」や「団体」のイデオロギーに凝り固まった方々には届きづらいワードらしく、採用されることは少ない。
囲碁は女性にも向いているが、将棋はそうでもなかったりする。
落語については、むしろ女性のほうが向いているのではないか、とすら思う。
上述の女性落語家は、露の都という方だ。
74年に露の五郎に入門、落語家としての修行がはじまった。
以下、文春オンラインからの引用。
「女が男にかなわんのは、腕力だけやから。今は東西で50人以上の女性落語家がいますけど、最初の8年間は私ひとり。若い時は競争相手が少なく、正直、ぬるま湯やったと思います。今は上方では桂二葉ちゃんなんかが出てきて、競争があって芸を磨く環境が整ってきました」
奥ゆかしい彼女は、腕力「だけ」しか差がないと主張される。
たいへん謙虚だと思ったが、それでいいのかなとも思う。
史上初、『笑点』のレギュラーに蝶花楼桃花さんという方が出演して話題になった。
とりあえず「年下の落語家」という時点で、もう感心している。
この蝶花楼さんは、女であることは「プラマイゼロ」とおっしゃっていた。
かなり的確だと感心した。
もちろん本記事の文脈に沿った意味ではないのだが、そういうことなのだ。
男性優位もあれば女性優位もある、そういう「前提」なら支持できる。
『笑点』の新加入、蝶花楼さんでいいんじゃないかな、と思った。
多くの支持者の理由とは、おそらく異なるので恐縮だが。
私は宗教について考えることが多い。
ただし研究者ではなく、ただの素人だ。
それでもある程度、歴史を学び、本を読み、考え方を知った。
宗教が、とてもよくできた集金システムであることに、議論の余地はない。
安倍元首相の暗殺以来、元統一教会が俎上にあがることが多い。
新興宗教にはあまり関心がないのだが、たまたま報道番組を見ていて感じたことをメモしておく。
元統一教会の被害者を主軸に据えて、制作されていた。
番組名は出さない。
被害者の言い分は、とてもよくわかる。
が、それに乗っかったマスコミの言い分が、わからない。
まず第一に、教団に家族もお金も奪われて怒り狂っている被害者がいる。
ほとんどブチ切れていて、最後まで戦い抜くと宣言している。
そこへ元統一教会の偉いひとが、アポなしで行ったらしい。
金で黙らせよう、とか考えていたのかなと、まず思った。
被害者は「命の危険を感じた」と言っていたが、さすがにそれはないだろう。
もちろんあの手の教団は暗殺くらいやるが、必ず末端にやらせる。
どうかひとつ穏便に、と交渉に行ったと考えるのがもっともらしい。
しかし被害者は怒り狂っているので、警察と新聞社に連絡。
気持ちはわかるし、それはそうなるだろう。
問題は、ここでマスコミが「ノリすぎ」ていたことだ。
くりかえすが、被害者が怒り狂うのはわかる。
が、マスコミがその怒りをコピーしてどうするんだ?
被害者はあなた方を憎み、恐怖しているのです。
そんなひとのところを訪ねたら相手がどんな気持ちになるか、想像力がないんですか?
会見で、記者が教会のお偉いさんを問い詰めていた。
一般的な視聴者は「もっとやれ」と思うのかもしれないが、私は逆だった。
一応言っておくと、元統一教会を擁護するつもりは1ミリもない。
自分が「攻撃していい側」だと信じている「正義づら」特有の顔つきに、ちょっと吐き気を催しただけだ。
どこまでもノリノリで、「攻撃される側」を問い詰めている記者。
恐怖を感じているひとのところに、アポなしで訪問していいのか、そういうところの善悪がわかっていない、その想像力のなさが、そもそも問題なんじゃないか。
と、「マスコミが」言っている……。
マスコミのことを毛嫌いしている被害者のところに、アポなしで話を聞きに行く代表選手が、なんとそれ自体を否定するような鋭い舌鋒。
ほんとうに驚いた。
おまえら鏡見てからしゃべれよ、と。
もちろん彼らは、やっていいこととわるいことの区別をつける。
やっていいのは「自分たち」、やっていけないのは「それ以外」というわけだ。
被害者に寄り添った結果、とでも言うつもりなのかもしれないが、マスコミは被害者ではない。
あくまでも客観的な報道をしなければならない、と私は考える。
マスコミのいちばん気持ちわるい部分が、よく出ている番組だった。
もちろん元統一教会が「より邪悪」という立ち位置は認めるが、彼らを利用する側にまわったり攻め立てる側にまわったりするたびに、態度が180度変わるのはどうかと思う。
戦前と戦後の豹変ぶり、その後の二股膏薬ぶりは有名だし、べつにいまさらそんなこと言うまでもない、と思われる方々は多いだろう。
たしかにそうなのだが、想像力のない人間が相手の想像力のなさを指摘する映像は、かなりのホラーだった。
私がDなら、問い詰めている記者の顔面にフォーカスして止め、こうキャプションをつける。
「この男、どこまでもノリノリである」。
たいていの炎上始末を眺めていると、それを書き込んでいる人間の表情も、たぶんこんな感じなんだろうな、とは思った。
私自身、この文章を書いているときは、そんな顔をしていたかもしれない。
さいわいブログは、あとで冷静になって書き直す時間がある。
というわけで、初稿のきたない言い回しや文言は修正したが、考えそのものは変わっていない。
自分が正義だと思っている、ペンをもったおまわりさん。
彼らが「敵」と定めたものが「敵」になる。
突然、わけのわからない恐怖に満たされる。
宗教こわい、炎上こわい、マスコミこわい、なにそれこわい……。
ともかく、自分で考えて判断することだ。
この点、肝に銘じなければならない。
私は鉄オタではないのだが、鉄の血は多めだ。
祖父が国鉄の機関士で、横軽を支えていた程度には。
近所には鉄オタの集まるスポットもあり、なんなら徒歩で観光もできる。
とはいえ引きこもりなので、引っ越して以来あまり出かけていない。
大阪に住んでいたころも、その気になれば玄関を出て1時間以内に銀閣寺を観光できた4年間で、一度しか京都観光しなかったくらいには出不精だ。
そもそも観光は遠くに出かけるからいいのであって、近くが観光地でも心は動かない。
とはいえさすがに4年も暮らしているので、そろそろ一度くらいは見てまわってきてもいいだろう、と思った。
気候はいいし、健康のためにも、アプトの道を歩く。
横軽廃線から四半世紀、観光地としてはほぼ定着している。
考えてみればこの道を、祖父は何度も往復していた。
と、センチメンタルな気分になっている自分を戒めるべく、本記事を執筆した。
この鉄オタ(ではないが)の感傷が、非常な悪影響をもたらしている件についてだ。
JR東などが赤字路線のデータについて公開し、廃線の議論が盛り上がってきている。
むしろこれまで、よくこの議論を押さえつけていたものだと感心するくらいの、惨憺たる数字だ。
輸送密度が十数人とか、100円稼ぐのに何万円の経費がかかるとか、すでにおかしい。
あきらかに「民間企業」ではない。
鉄道はただの交通機関ではなく「公共」物だ、という議論はあとにする。
まずは情緒的な理由によって、この議論を圧殺していた勢力、鉄オタについて。
ほんとうはない価値を、あたかもあるかのように誤解させる。
これを、鉄道ファンによる「センチメンタル・バリュー」と呼ぶらしい。
情緒的な価値がある。
だから廃止するな、と。
私は生来の功利主義者なので、役に立つものを大事にする。
食事であれば、栄養のバランスがよく短時間で摂取できれば、味などはわりとどうでもいい。
買い物はあらかじめ買うものを決め、なるべく最短時間で済ます。
洗濯物をたたむくらいなら、その時間、一文字でも多く本を読んでいたい。
ともかく効率的な生活を好む私が鉄道を好きな理由は、最短時間、あるいは最安料金で、目的地へ運んでくれるからだ。
きっちりとした計画を立てれば、きっちりとそれに応えてくれる正確性のゆえだ。
けっしてセンチメンタルで愛好しているわけではない。
ゆえに私は、祖父の仕事だった路線の「廃線を支持」しなければならない。
新幹線へのシフトにより、採算がとれなくなった。
運賃収入の100倍もの経費がかかるとされた横軽を、存続させることは不可能だった。
惜しむ声はけっこうあった。
私もそういう気持ちがないわけではないが、数字は冷徹だ。
鉄道は「利用されるため」「運営によって利益をもたらすため」にあるのであって、鉄道ファンのため、なんなら公益のためにあるわけですらない。
公益を平均値としてとらえるなら別だが、ただ単に「地方の住人」ととらえると、大きなまちがいにつながる。
北海道やそれに準じる地方都市においては、鉄道よりバスのほうが効率的であることは多い。
ローカル路線を廃止せず、いたずらに延命したことを後悔する町長がいる。
駅まで30分かかる「住人」が鉄道ではなく、近くにできたバス停でバスに乗る。
この合理的な選択を、だれも責めることはできない。
鉄道は公益のためにある、沿線自治体は存続を希望する、などの声はいぜんとして根強い。
しかし、これらの声を集めたらしい「政治家」が反対する理由は、驚くほどに肥大化した「エゴ」だ。
明治から昭和初期にかけて、いらんところに鉄道を引いたり奇妙な形に捻じ曲げた、我田引鉄の政治家どもを顧みるとわかりやすい。
政治的バリューがあるので、鉄道を引いたら褒められる時代があった。
だったら鉄道をなくしたら責められるのではないか、という小学生のような理屈で凝り固まっている。
政治家としての「バリュー」の毀損を懸念しているわけだ。
しかしいうまでもなく、重要なのは地域全体、生活そのものを守ることであって、鉄道を守ることではない。
地域にとって、より効率的な運営が可能となる方法は、バス転換かもしれないし自動運転かもしれない。
すくなくとも鉄道ではない。
だったら鉄道を温存しておくリスクとコストを、だれが払うのか。
大富豪がポケットマネーで、あるいは住民が自分のお金を出して、もしくは民間企業が彼ら独自の思惑で、それをやるならかまわない。
だが自治体や国にそれをやれと要求するのは、まちがいだ。
全体の利益ではなく、それで利益を受ける一部のために。
土建屋と政治家の利益のために、無駄な箱モノをつくる議論と、まったく同じだ。
他人の納めた税金を使ってやろう。
まさに「地域エゴ」の典型といえる。
そろそろ認めるべきだ。
「鉄道は決められたところしか走らないため、不便きわまりない」と。
決められたこと、決められた場所を無限往復することが大好きで、大得意な人々にとって、希望の星である鉄道。
センチメンタルな人々は、できるだけ廃線しないよう働きかける。
メディアにも相当数いる、センチメンタルな記者は、できるだけ廃止を先延ばしにしようとする筆致が多い。
これは私見だが、以下の三段論法が成り立つかもしれない。
決められたテストで点数をとればいいだけのことを得意とする人々が、偏差値の高い集団にはそれなりに多い。
記者という職業はバカではできないので、そういう人々が記者になる蓋然性はそれなりに高い。
彼らは自分たちが影響力をもたらせる範囲を知っていて、自分の趣味のために全力を尽くす。
そうしてセンチメンタルな記事が増えるのではないかな、と。
彼らはその行為によってもたらされる被害については、あまり検証しない傾向がある。
なぜなら「センチメンタル」だからだ。
彼らの筆致を逆の立場から分析した記事を読むと、悲しげな気配がとてもよく伝わってくる。
彼自身も鉄道ファンなのだが、無理やり存続させようとする「仲間たち」の一言一句が、地域をよけいに疲弊させている事実が「いとあはれ」だ。
いや、ふつうにおもしろい。
自分の足元を掘り崩す鉄オタの代表格はいうまでもなく撮り鉄だが、いとをかし、さもありなん。
鉄道存続を願うなら、観光鉄道に切り替えてどの程度の収支が見込めるか、きちんと計算してからにしたほうがよい。
地域の足としての役割は、もう終わったのだ。
これから、さらに終わりこそすれ、はじまる理屈はほぼない。
地域の首長においては、愚かなセンチメンタリズムに流されることなく、一刻も早く転換されることをお勧めする。
最後に、すこし宣伝をしておこう。
うちの近所の廃線ウォークは、なかなかいい。
並走する旧中山道のほうも歩いてみたが、完全な山道で即座に疲弊した。
しかし廃線は、鉄道の性質上、それほどの坂道にはなりようがない。
まったりと歩くには、ほんとうに最適の道だった。
4年に1回くらいは、私もまた歩きたいと思う。
年老いた親などの買い物を、代わりにネットでしてやるときがある。
その希望などを聞いていると、だいぶイライラする。
以下、基本的には事実、あったままを書く。
具体的な商品名などは伏せておく。
「かつお節」がほしい、と言われた。
枕崎とれとれのワケアリ品1kgが安いので、これでいいかと問う。
私はかつお節と言われたので、かつお節で検索した。
棒のような、伝統的かつお節が出てくる。
こういうのが欲しいんだな、と思う。
するとこの年寄り、削り器がない、という。
たしかに、このままでは食えない。
……じゃあ最初から「削り節」とか「パックの」とか言えよ!
ここでまずイライラ1。
まあこのくらいなら、年寄り相手にはよくあることだ。
適当な削り節を選んで提案する。
こういうんじゃなくて……。
情報を正確に伝えないくせに、具体的な提案に対してはわがまま。
イライラ2。
しばらくして写真を送ってくる。
こういうやつです、と。
商品名わかってるなら、最初から言えよ! つきあってらんねえな!
ごく短時間のうちに、イライラ3達成だ。
おかげで他人の買い物をしてやるというのが、苦手になってきた。
やはり自分がほしいものは自分で買うにかぎる。
私は心に決めた買い物を、秒でして顧みないタイプだ。
当然、ウィンドウショッピングとか、何時間も店で見まわっている客の気持ちが、ミリもわからない。
考えるなと言っているわけではない。
商品の質や量、コスパ、クチコミなど比較検討することは非常に重要だ。
できるだけ、それにかける「時間を最短に」したい。
私にとっての買い物上手とは、そういう意味だ。
必要なものを、必要な場所に、必要なだけ。
ジャストインタイム。
そんな私にとっては必要なもの、バリカンを買った。
私はハゲなのだが、ナチュラルハゲではなく、剃っている。
以前のやつは20年くらい使っていて、べつにまだ使えるので使っているが、予備は必要だ。
まあ正直、新しいものも、たまには使ってみたい。
というわけで、20年間のうち、何度か予備として買ったバリカンもあって、たまに使っていたのだが、けっこうすぐに壊れたり使えなくなったりした。
なぜか最初のバリカンだけが、現役で使えている。
で、アマゾンで3000円くらいの、ふつうのバリカンを買った。
クーポンとキャッシュバックで実質1000円以下になった。
「レビューで星5をつければ2000円ギフト券プレゼント、などという商売が私は大きらいだが、それがあると圧倒的にコスパが高くなるので、この価格なら買いだと思う(コスパ最高)」
と正直に書いたところ、リジェクトされた。
商品の感想を書いてください、このままでは掲載できません、という。
しかたなく「コスパ最高です」とだけ書いたところ、ふつうに採用された。
……おい、なんだこれ?
同じ結論に導く過程を書くとダメで、結論だけならいいのか?
購入の決め手になるのは、当然価格だ。
コストパフォーマンスという重要な部分への「参考意見」は、どう考えても有用だと思うのだが、アマゾン氏はそうは思わないらしい。
この件から鑑みるに、購入を促進する書き込みはOKで、ためらわせる書き込みはNGということなのかもしれない。
どれくらいの恣意性が働いているのかは、自慢のAIと検証の担当者に訊いてみないとわからない。
まあ、それはそうだろう。
なにしろ彼らは「商人」だ。
売れなければ儲からない、という前提への執念がすさまじい。
思い出すまでもなく、彼らは私がきらいな人種のトップランカーなのだった。
有害レビューを削除するのはけっこうだが、あなた方の判断基準も有害ではないかな、と感じた。
私は私を拒絶する者を、できるだけ拒絶し返すことにしているので、しばらくアマゾンは使わないことにした。
ちなみに「結論だけのレビューは、商品の価値を誤解させるだけ」だと思うので、即座に消去した。
このような「商人」が、できるだけダメージを受けますように。
先日、母親が洗濯物をたたんでいるのをみて、無駄なことをしているね、と言った。
ものすごくいやな顔をされた。
洗濯物をたたむ、というのは彼女にとっては「あたりまえのこと」らしい。
しかし残念ながら、私にとっては「特殊なこと」だ。
私は長く独り暮らしをしているので、もちろん家事は自分でする。
そのなかで洗濯物をたたんだことが、ほぼない。
自分で洗濯機をまわし、干し、とりこんだ洗濯物をどうしているのかといえば、いつも肘掛椅子に山積みにしている。
風呂からあがったら、そこから選んで着る、というルーティンだ。
冬物がはじまるとか夏物に変わるとかで、数か月寝かせることになる衣類をたたむなら、わかる。
そのほうが省スペースになるし、しわもつかない。
しかし毎日の洗濯で、たたむとか意味あんの?
どうせすぐ着るんだから、そのまま山積みにしとけばいいじゃない。
そんなことしてる暇があったら、もっと別の有意義なことやればいいのに。
──べつに暇だから洗濯物たたんでるわけじゃないですけど!
という不毛なやり取りがあったので、一応記録しておく。
ちなみに着る当人がよければいいと思うので、今回の正解は「たたまない」だ。
さて、話は替わるが、さきほど動画サイトで東海林太郎の『野崎小唄』を聴いていた。
最近、古い楽曲をよく聴いている。
字面だけを見たら、まったくなんのことかわからないひとが多いだろう。
という前提で以下、話を進める。
まず『野崎小唄』だが、昭和10年の楽曲で、野崎参りをテーマにしている。
元禄時代から伝わる行事らしく、大阪の慈眼寺(野崎観音)へのお参りのことだ。
伊勢参りに代表されるこの手のイベントくらいしか、昔のひとはやることがなかった。
などと言うつもりはないが、そんなことはどうでもいい。
音読みと訓読みをもつ、日本語の特性にまつわる話をしたい。
いやそれ以前、さらに根本的な問題かもしれない。
まず、なんて読むんだよと。
落語の『平林』に通じる話題だが、一段上だ。
ちなみに『平林』は、ひらりんか、たいらばやしか、縦に並べればイチハチジュウノモークモク、など読み方がわからないというネタだけで押し通す、古典落語である。
元ネタは『醒睡笑』(1623)らしい。
とうかい・りんたろう。
とうかいりん・たろう。
たしか小学生のころ、まず、そこでつまづいたことを記憶している。
私が生まれたときはすでにお亡くなりになっていたが、昭和の「芸能史」の一部なので、語り継ぐこと自体に意味はある。
現代の小学生も、たぶんここで迷うはずだ。
ちなみに私は、現在進行形で「とうかいりんたろう」と打ち込んで変換している。
東海林太郎。
どちらが正解かといえば、両方不正解だ。
とうかいりん、ではなく、しょうじ、と読む。
漢字の知識、当て字の知識、つまるところ当人のことを知らないと、この問題に正解するのは困難だ。
私は日本語を使用しているので、音読みと訓読みがあるところまでは、所与の前提として受け入れている。
だが当て字だけは、なかなか違和感がぬぐえない。
受け入れざるを得ないと理解はしているのだが、毎度イラッとする。
最初からひらがなで書けばいいのに、と。
落語で「借りてた半纏は七に置いた」と、文字を学んだばかりの職人が書置きする話がある。
それを読んだ棟梁、あの野郎、借りものを「質」に入れるたァ何事だ、とご立腹。
そこへやってきた職人、叱りつける棟梁。
ここで噛み合わない。
棟梁は「七」を「質」と読んだが、職人は「七」を「棚」という意味で書いたのだ。
──意外に棟梁も字を知らねえね、七ってのは七夕《たなばた》のタナだぜ!
このように、常用外の読み方があるおかげで広がる文化……という見方もできる。
しかし無駄にややこしくしているだけ、と思うことが私は多い。
そもそも「漢字」という体系そのものが、人類の脳に無駄なストレスをかけている、という考え方を私はとっている。
明治維新前後、列強の圧力にさらされた東洋の当時の知識人たちが、魯迅や孫文など当の中国人も含めて、この件についてはだいぶ掘り下げている。
長くなるのではしょるが、結果として中国には「簡体字」というものができた。
歴史は浅く、1950年代の漢字簡略化法案に依拠している。
画数が多くて、おぼえるのに無駄な労力を強いられる繁字体を排し、日本語の漢字よりも簡略化された簡文字を用いる、という法律だ。
おもな使用者である中国人自身、こいつのせいで発展が遅れた、と認めているといっていいだろう。
まあこのへんは結局、バランスの問題で、26文字に集約できればすべて解決というわけではない。
ある程度の「遊び」を許容する程度には、人間の脳には余力がある。
そこで、その遊びを許容する「程度の話」になってくる。
私はめんどくさい当て字に出会うたびに「イラっとする」くらいの器の人間であることは、すでに告白してあるとおりだ。
東海林太郎。
本名なので当人に責任はないし、そもそも、いいわるいの話はしていない。
だれでも読めてほしい、まちがえる余地がないほうがいい、という要求には沿わないという事実の話だ。
歴史上の人物に、こんなのはいくらでもいる。
だから私は、自分の名前をかな表記しているのだと思う。
日本人ならだれでも読める、なんならカナを学んだばかりの外国人にも読んでもらえる、そういうひとに私はなりたい。
脳は、もっと有意義なことに使うべきだ。
私が現在やっていることがそれほど有意義かはともかく、当て字にはあまりキャパシティを割きたくない。
要するに自分の低能をさらけ出しただけの話だが、低能だけにその使い道は重要だ。
低能でもその力を有用な方面に集約できれば、それなりのことができるかもしれない。
漢字という無駄な体系は、ある程度厳選されてもいるし、よろしい認めよう。
音読み訓読み、しかたない文化だ認めよう。
しかし当て字……やりすぎだろ!
集約を邪魔する夾雑音、それが当て字だ。
読めねえよ、というキラキラな名前をつける親御さんには、耳の痛い話かもしれない。
あくまでも私ごとき低能の話なので、お気になさらず。
世の中には、洗濯物をたたむことから、漢字の当て字まで、無駄だと考える人々は一定数いる。
そう思わない人々もいて、みんないい。
戦中前後の楽曲を聞きながら、そんなことを思った。
もちろん、さきほど取り込んできた洗濯物は、たたまない。
そもそも私は、うそつきがきらいだ。
好きなひとはあまりいないとは思うが、輪をかけてきらいだ。
理想的ではないが一般的な家庭で、どうやらキレたらしい主婦が自分探しの旅に出る映画を観た。
主人公は、うそつきだった。
わざとそういうキャラにしているんだとしたらタイトルを出してもいいと思うのだが、基本的に腐すのでやはり書かない。
人々に嫌悪感を催すキャラを、あえて出す、というホラー映画などもあるので製作者の意図の可能性は否定できないものの、だとしたらなおさら書きたくない。
主人公は、いわゆる「ただの」専業主婦。
毎日「ハウスキーパー」の仕事をしている。
家族が4人もいたら、とてもたいへん。
男の子はよく食べる、食事の支度だけで一苦労、それが日々エンドレスにやってくる!
よく聞く言い回しだが、生きること自体エンドレスだ。
私も無理して食事をしているが、自分が生きていることに文句をつけるなんて無駄なことは、あまりしない。
専業主婦が、とても重要で、たいへんで、すばらしいお仕事である、という主張をべつに否定するつもりはない。
彼女らがそう思っているなら、そうなんだろう、彼女らのなかでは。
べつに専業主婦論をするつもりはない。
ただ疑いもなく、ひとには向き不向きがあり、家事のほうが好きなひともいれば、外で働きたいひとがいてもいい。
そんなに文句が多い仕事なら、やめればいい。
もっと自分に向いた仕事を探して、外に出ればいい。
もちろん協力しあって、喜びも苦労も分かち合う家庭がたくさんあることも事実だ。
そういう家庭を目指すか、無理なら「やめればいい」のだ。
無理なのでやめて、新しい人生に踏み出す主婦の話……だとしたら、共感できていいはずだった。
にもかかわらず、なぜこんなに不愉快なのだろう。
いままで抑圧されてきた自分がいて、新しい自分を見つけた。
楽しくて舞い上がって、道を踏み外し、結局、家から飛び出していく。
それ自体、共感できる要素を多分に含む。
もちろん彼女は自由に生きてもいいのだが、いかんせん、やり方が問題だった。
たとえば夫が暴力をふるうとか、子どもたちがそうとうイカレているとか、同情の余地が大きいならまだわかる。
作中、夫はまじめに働いているし、子どもたちもそれなりにまともだ。
そこで女主人公は、新しい趣味を見つけて、才能を認められた。
それに没頭したい、そのために彼女がしたことは……。
家族に嘘をついて、やるべきことをやらず、家を空ける。
子どもですか、あなたは。
新しい趣味ができたと正直に言えば、やりくりはついただろうし、浮気の部分以外は応援してくれたかもしれない。
しかしこの主婦、自分が好きなことをやるために、「嘘八百を並べて家族をだましはじめた」のだ。
これまで家族のためにがんばってきたのだから、自分にはこれをする権利がある、とでもいわんばかり。
ここで私は、だいぶげんなりしてしまった。
たしかにそれまで、彼女は古き良き家庭の主婦としてがんばっていたかもしれない。
だがそれなら、夫や子どもも同じだ。
きちんと生活費を稼いでいる父親や、青春の悩みを乗り越えながら、それなりに育ってきた子どもたち。
彼らに嘘をついてだまし、いよいよ「もとにもどれなく」なっていく主婦に、同情や共感を求めるのは、かなり無理筋ではあるまいか。
結末は、新しい人生に踏み出したと思われる、元主婦の姿で終わる。
その後、女が幸せになったのかはどうでもいいが、家族がどうなったかは気になる。
ひどい女の犠牲になった、かわいそうな家族の幸せを祈りたい。
……と、そんな映画ではない、気がするのだ。
もちろん「悪女」は映画において重要な役割を果たす。
嘘は女のアクセサリーという名文句があるくらい、魅力的なキャラでありうる。
ところが、このくたびれた主婦はどうだ。
家族をだまして好きな趣味に没頭したい、というだけの、どこにでもいそうな中年女。
こういう「妻」かつ「母」に、世の女性たちは感情移入できるのだろうか。
だとしたら、仲良くなれる気があまりしない。
どこにでもいる主婦。
なんとなく吐いてしまった嘘。
きっかけは、たしかに感情移入を誘うありふれた設定だ。
結末も、彼女は自由な世界に飛び立ちました、めでたしめでたし。
……まじで?
まったく、めでたいように思えない。
なんだろう、この映画。
ピカレスク(悪漢小説)かな。
男が家族を犠牲にして夢を追う映画もある。
女にあってもいいじゃない。
そういうロジックかもしれないが、だとしたら、とたんに共感がむずかしくなる。
そもそも極端な天才、英雄が「周囲の犠牲を顧みず」常識の枠をぶっ壊していく映画というのは、特殊なケースだ。
よほどの天才とか、壮大なロマンがあるならともかく。
日常の役に立たない趣味の世界で、きみには才能があると褒められただけの、ただの中年女……。
それは「ゲームうまいね」と褒められたクソガキと同じだ。
それ以外なにもないクズ野郎が、好き勝手して育っていったとしよう。
結局、嘘八百を並べる特殊詐欺師になった彼を、多くの人々は批判するだろう。
そうして十把一絡げの「悪役」が育っていく。
そう、悪役だったら理解できるのだ。
……残念ながら、彼女は主人公なのである。
もう嘘は聞きたくない。
終盤、主人公に向けられた旦那からのこの言葉は、私を含めた視聴者の何割かが抱いた感想だと思う。
日本の有名な漫画に「負い目のなさが勝ち目を呼ぶ」という言葉がある。
自分はまちがったことはしていない、だから勝ち目はある、という意味らしい。
正直、現実はそう甘くないのだが、応援したくはなる。
ところでこの映画の主人公、「負い目が多い」ので、あまり応援したくならない。
嘘八百並べ立てて、幸せになりましたとさ。
めでたしめでたし……?
最初から正直になっていれば、こんなに問題は複雑化しなかった。
たくさんの嘘をついた彼女は、「ほんとうの自分」を見つけて旅立った。
冷静にみて、詐欺師が幸せになる話。
なるほど、やはり悪漢小説だった。