最近、観た映画の本数が5000を超えた。
そこで、そのささいな記録を眺めながら、すこし雑感を記したい。
とくに意味はないのだが、記念すべき5000本目は『フラットライナーズ』(2017)だった。
5050本目あたりのタイトルを記録しながら、ふと見返して気づいただけなので、まったくの偶然である。
私にとって映画は「通り過ぎる」こと(鑑賞自体)に意義がある。
データとして「積み上げる」こと(詳細な記録)は重視していない。
記録しているデータは、タイトルと制作年と国のみ。
なのでタイトルだけ見返しても、どういう映画だったか思い出すのはちょっとむずかしい。
とはいえ最近観た映画なので、上記の作品についてはすこしおぼえている。
これいいアイデアだな、と思いながら観て、あとで検索して確認した。
臨死体験をテーマにしたSF映画で、リメイクらしい。
そもそもいい着眼点の映画だったということだ。
たしかにおすすめしてもいい程度には、おもしろかった。
SFホラーは私のホームグラウンドなので、そのあたりのひいき目はあることを付け加えておく。
リメイクという時点で、そもそもおもしろい作品の証左ではある。
オリジナルを超えられるかは別なので、まずはオリジナルから観てみる、というのはひとつの方法かもしれない。
おもしろい映画教えてよ、と言われるとちょっと困る。
そのひとが、どんな映画を観たいか、というのがいちばん重要だからだ。
恋愛映画を観たいひとに戦争映画を勧めても、まったく響かないだろう。
好み、気分、状況によっても、おすすめは異なってくる。
「戦争恋愛映画」と呼ぶべき作品もある。
ジャンルをまたいでいるような場合、すすめていいのか迷うところだ。
もともと男性向けのアクション映画に、女性客を引っ張り込もうという画策から生まれたのが恋愛アクション映画で、それなりに成功しているジャンルらしい。
たとえばハリウッドのブロックバスター系(大金をかけた娯楽映画)で『ナイト&デイ』(2010)という作品があった。
大金をかければおもしろくなる、というわけではもちろんない。
ただ、大失敗をする可能性が低くなることはたしかだ。
例のごとくトム・クルーズ主演のアクションスパイ映画で、私はけっこうおもしろいと思ってしまった。
しかしあらためて検索して感じたのは、信頼できるレビュアーたちの評価には(低評価というわけではないが)苦言がそれなりにあることだった。
その中身を分析して意訳すると、こういうことになる。
この作品は、女向けに激・調整されている。
とくに信頼できるマッチョなレビュアーは、明確にそれを提示してくれていた。
アクション映画は男の世界と思われがちだが、それを女も楽しめるように「少女漫画化した」のが、この作品だと。
トムはいつものトムで、あいかわらずのイケメン最強っぷりを発揮している。
そういうキャラなので、もはやどうでもいい、不可能な作戦やっててくれ。
問題は相方のジェニファー・ロペスに、どれだけ感情移入できるかだ。
最初その足手まといっぷりにイラつくのだが、イメケンが彼女を守って超人的になんとかする……という展開は、なるほど少女漫画だ。
どこにでもいるダメ(個性的)な女の子が、超絶イケメンと出会って守られ、愛され、成長していく。
後半、ジェニファーは「ふさわしい女」となり大活躍、トムとの恋愛を成就……という予定調和の様式美。
少女の理想を、2時間で完全に満たしている。
なるほど、これがハリウッド式か。
私がたいへん苦手とする少女漫画も、じつはうまくすれば折り合いをつけられる、その典型例といっていいかもしれない。
このスクリプト書いたやつすげえな、とあらためて思った。
もちろん類例はあまただが、そのなかでもっとも顕著な例といっていいと思う。
『ナイト&デイ』、おためしあれ。
たまたまタイトル順でソートして、並んでいたので、ついでにもう一作。
2019年の『ナイブズ・アウト』をおすすめしておく。
SF、アクションに次いで、ミステリーを観ておくのは、わるくないセレクトだ。
これはタイトルだけですぐ思い出すくらい、すごくおもしろかった。
名探偵の話だが、まだこういうやり方があったのか、と感心した。
突っ込みどころを探そうとしている自分が、途中から恥ずかしくなった。
これはこれでよい、すばらしい、それでいいのだ。
些細な瑕疵はむしろ味、うそをつくと吐いてしまうキャラがいてもいいじゃないか。
だらだら書いても興をそぐと思うので、これくらいにしておこう。
とにかくおもしろいので、観て損はないですぞ。
ブルース・ウィリスが引退したらしいので、なんとなく『12モンキーズ』を見直した。
ウィリスといえば『ダイハード』だろ、というひとは多いかもしれないが、SF畑に近しい私にとっては『12モンキーズ』だ。
現実世界を描くアクションも、もちろんおもしろい。
しかしSF映画の中2心をくすぐる設定には、逆らえない魅力がある。
95年の作品だが、当時若造だった私の心をとらえたのも致し方ない。
とりあえず二行で物語をまとめよう。
未知のウィルスによって人類のほとんどが死滅した近未来。
タイムトラベルという縦糸を通し、ウイルス拡散の横糸から浮き上がる真相に挑む。
当時から「意味がわからない」という評判はあって、いろいろ考察しているひとは一定数いた。
そして、正直に言おう、私は「わからない」側の人間だった。
まわりのチャラい連中がそうだったので、ものすごく魅力を感じつつも彼らに同調してしまったことを懺悔したい。
一応「音楽はよかった」と褒めてはおいた。
深い話ができる友だちがいなかったという言い訳以前に、それほどきちんと理解している自信もなかった。
冷静に見直せば、本作は古典的ないわゆるタイムループものだ。
あのとき殺された男の記憶は未来からきた自分で、歴史はくりかえす。
しかし「保険屋」の帰る地球の未来には、希望があるのかもしれない、といった余韻を残す感じだろうか。
ともかく映画の「総合芸術」としての表現がうまい、と感心した。
ブラピは、このあたりから一皮むけた、という評価にはうなずける。
さりげないセリフに隠された幾多の暗喩と、映像トリック、時間旅行者の決定論的運命、張り巡らされた伏線。
あらためて音楽もいい。
その後、量産されたタイムループものに慣れた目で見ると、突っ込みどころがないわけではない。
が、20世紀につくられた映画として、これは傑作と呼んでさしつかえないと思われる。
さて、言い換えれば、すごくない、雑な映画が無数にある。
Z級とも表現される数々の駄作たちで、じつのところ私は、こちらを愛でる方向にむかった奇特な人間のひとりだ。
実写版『デビルマン』について、記しておこう。
2004年の作品だが、個人的に、当時はほとんど洋画しか観ていなかったので、邦画の記録がほとんどない。
で、ごく自然にスルーしていたのだが、最近、機会あって拝見させていただいた。
すごい、と思った。
私は星1台の作品のどこか一部分にでも、みるべきものがあればうれしい、という求道者のような見方をする。
認めざるを得ないクソのなかにも、一粒の砂金が眠っている可能性は、ないこともない。
そんな、やさしい目線で眺めた『デビルマン』だが……。
いや……よくゴーサイン出たなこれ。
わるくはない、部分的には。
ただし、ひどい部分も多かった。
そこで、当時の周辺事情を調べてみた。
20年近くも昔、いったいなにがあったのか。
興味をもって調べたくなるほどには、なかなかすごい作品であったことは認めなければならない。
手元に「第一級の資料」をもっている方の記事が見つかったので読んでみたが、あまり要領を得なかった。
突っ込みどころ満載のセリフ回し、陳腐な演出、ショボいCG、学芸会レベルの演技など、全体的に最低、という一般の評価はまちがっていない。
しかし私はストーリーを重視するタイプなので、伝わってくるものさえあればそこは評価したい。
『デビルマン』原作はだいぶ昔に読んだので、ほとんどおぼえてはいないのだが、ストーリーに関しては忠実らしい。
ただしエピソードをつなげる部分がことごとくカットされ、物語として通じないというマイナスは、いかんともしがたいようだ。
倍速で観ても、1時間くらいたったあたりで心が折れてきて、スキップを多用しはじめたことは告白せねばなるまい。
ここ中身ないな、と判断してのスキップ……せざるをえなかった。
かなり省略されているにもかかわらず、120分は長すぎる。
どんな駄作でも90分以内にまとまっていれば評価する私だが、ストーリーを詰め込んだわけですらなく、ただダラダラ引き延ばしたシーンが気になってしまった。
それまでだれも映像化しなかった終盤まで踏み込んでいる、という点は評価できるという意見もある。
デーモンに合体され、滅びた世界から再生を目指す、という設定は私の好きなゲームシリーズにも通じる。
数百万円くらいでつくってくれたなら、じゅうぶんだと思う。
だが、さすがに10億円はまずい……。
ウィキすら酷評にまみれている。
さすがに、そこまで言わんでも、と思ってしまった。
そんなわけで、私の『デビルマン』体験の結論は「倍速上等」で確定だ。
このような見方をすることで、数をこなすことができるのはありがたい。
死ぬまでに1万本、というひそかな目標を立てている。
現在、折り返し地点を過ぎたが、人生もとっくに折り返しているので若干不安だ。
itnという配給会社がある。
冒頭にそのロゴが出た時点で、一部の人々は「察する」。
由来は知らないが、たぶん IT is Not という意味ではないかな、と推察している。
それはない、という作品を数多く日本に紹介してくれて、感謝に耐えない。
時間の無駄、という作品は三倍速で観ても悔いがないからだ。
そうして観た謎の映画が、どこかでなにかの役に立つことがあるかもしれない。
……いや、ないだろう。
なくてもいい。
こんな映画をつくっているひとがいるんだ。
そう思うだけで、なぜか心が慰められるのだ。
私は零細企業で経理の仕事をしている。
レシートについては現物保管1年のルールを守りつつ、写真データから仕訳する方法をとっている。
基本リモート勤務なので、レシート現物を見ることはほぼない。
で、たまにレシートの画像が送られてくる。
さきほど、そのデータを片づけていたところ、はたと手が止まった。
そのなかの一枚に、日付がはいっていない。
経理の基本は、金額と日付、そして仕訳だ。
極端な話、この3つさえそろっていれば決算までできる。
言い換えれば、どれか欠けると進めない。
判読できない領収書や、必要なデータの欠けているレシートに意味はないのだ!
そこで、そのレシートを送り返し、こう問うた。
日付を伝える必要がないと判断した意図を教えてください、と。
すると、キレられた。
日付が写るように撮ってくれと言えばいいのに皮肉な言い方をするな、と。
……待てと。
そもそもキレたいのはこっちなのだ。
レシートに必要な情報が写っていない。
欠くべからざる上記3要素のうち、1つが欠けている。
たぶん撮影のミスだろうな、とは思った。
が、そうではない可能性も微粒子レベルで存在する。
もしかしたら、このレシートを発行した会社は、日付を入れない仕様でやっているのかもしれない。
万一そうだったら、日付を写せと要求した私は、不可能なことを求める無理無体な経理になってしまう。
そうなりたくはないので、そんな珍奇な仕様の可能性や、日付のないレシートでも経費として処理できるかなど、いくつかの可能性についても考慮を進めた。
もしかしたらこのファイルには、なんらかの隠しファイルが隠されていて、そこに日付のデータが仕込まれているのではないか、とか。
だいぶ時間を使って考えた。
すべては経理担当者として、適切な対応をしたいがためだ。
そして、このようなレシートを送ることに、なんらかの意図があるのではないか、それを知りたいと考えた。
他人の気持ちについて忖度するのは苦手なので、質問するのがいちばんだ。
そこで冒頭のように問いかけたわけなのだが、この始末。
怒りのメッセージとともに、日付の写ったレシートが送られてきた。
いや、なんで原因をつくったほうがキレているのか。
私は丁寧に、無視することにした。
単なるミスだ。
べつにキレなくても、そう言ってレシート送り直せば済む話だ。
たとえ皮肉に感じたとしても、原因をつくったのはあなただ。
私が無礼を働いたならともかく、あなたに怒る資格はないのだが、これが老害というものか……。
まあ、ひとことで済む、というのはこちらも同じではある。
日付入れて写してくださいよ、そう伝えればよかった。
しかし私は、物事についていろいろ考えを深めるタチだ。
先述のような珍奇な仕様の会社があるかもしれない、と思いついてしまったら、考えないわけにはいかないのだ。
やがて壮大な陰謀論まで考え至り、もはや当人に取材しないわけにいかない気持ちになった。
だから質問しただけなのだ……。
さて、アスペというものは、数字にとても正確で厳密さを求めるので、仕事としては向いている。
しかし、正しい結果を導くためには、正しい情報を入力しなければならない。
私は皮肉な質問をする程度で済んでいるが、世の中には思考停止して一日中その問題で止まってしまう者もいる。
これは一般的な学力テストで、とても不利だ。
わからない問題で停止してしまい、つぎに進めない。
出題ミスなどあろうものなら、おかしいな、と考え込んでしまってテスト時間が終わる。
このような性格は、じつは数学者には向かないらしい。
数字に厳しいのだから向いていると思われがちだが、なぜか。
わからんものはわからんもの、おかしな部分はおかしな部分として置いといて、つぎに進む。
そういう融通が利かないアスペは、自由な発想を重視する純粋数学の分野では、大成しないらしいのだ。
自由な発想。
たしかに、とても重要だ。
老害に皮肉を言っている場合ではない。
もっと自由な発想で、頭を柔らかく。
おかしなものはおかしなものとして……。
いや、ならぬものはならぬでしょうよ……。
どうやら私の性格は、いろいろなことに向いていないらしい。
残念ながら、つぎの老害予備軍は私だ。
私は現在、地方の零細企業で経理の仕事をやっている。
しょせん雇われなので、重要な判断などはしない。
で、社長に、これでいいですかねとか、このソフト要るんですけどとか、確認お願いしますとか、きちんと仕事をしている……つもりだった。
最近、それらのやりとりで気づいたのは、社長がとても「うざったそうにしている」ことだ。
まあ零細企業で、最近社員が辞めたばかりだし、忙しいのはわかる。
呑気なおかんまで駆り出されて、年寄りすぎて新しい仕事を頼むと前の仕事ができなくなるとか、ぶつぶつ言っていた。
そのうえ経理のアホンダラが、確認しろだの決済しろだの言ってくる、うざってえ!
もう買い物とか申告とか税金とか全部任せるから、いちいち相談しないで!
要するにそういうことだろうな、と最近理解した。
チャットを飛ばす回数も減らし、できるだけ静かに事務処理をしている。
世にあまたおられる「上司」の方々も、うざい「部下」には、はっきり言ってやったほうがよろしかろう。
任せる、と。
さて、しかし世の中には、逆に「きっちり管理したい」上司もいる。
ほうれんそうほうれんそうと、ポパイのように言っている管理職の方々、そう、あなたのことですよ。
いちいち報告だの連絡だの相談だの、いや、もちろん大事だし、上述のとおり私はやっていた。
めんどうではあるが、ある意味、楽でもあるからだ。
ちゃんと相談しましたよね、連絡しましたよね、と「責任を分散」できる。
零細企業の経理が考えていたのは、そんなやくたいもないことだった可能性もある。
いま、すべて任されてしまった私は、自分の行為について全責任を負わなければならない。
あたりまえのことではあるのだが、そういうのを負いたくない部下にとっては、ほうれんそうはむしろ「救い」ではなかろうか。
とはいえ厄介なことに、「相談」して「却下」された場合、おそらく私はイラッとするだろう。
このへん、私が「まっとうな社会人」になれなかった理由でもあるかもしれないと思うので、分析して記録しておく。
言いたいことを言って失敗した人生。
具体例を出すと生々しくなるので、たとえ話で説明してみよう。
上司と私がいる。
ふたりで「トランプタワー」をつくる仕事をしている。
アメリカ大統領とは関係ない。
慎重にカードで三角形をつくり、積み重ねる例のアレだ。
私は上司に、とある「相談」をする。
割り箸で枠をつくって、そこでトランプ組んでから、積み重ねたらどうですかね。
そうすれば効率が上がって、就業時間内に終わる。
しかし上司は、即座に「却下」した。
私はしかたなく、上司とふたり、従来どおりの朴訥なやり方で、作業をつづける。
息を吹きかけないように、手で慎重にトランプのタワーを積み重ねていく。
自分で言うのもなんだが、仕事は早いタイプだ。
当時は若かったので、この手の「作業」でもかなり役に立っていたと思う。
さて、一日が終わる。
トランプタワーは完成しない。
それじゃ、おつかれさまでした。
帰ろうとする私。
上司は言う。
まだ完成していない、残業していってくれ。
私は答える。
お断りします。
ふつうに「用があるので」とでも言えばよかったのだろう。
が、私はつぎのような理由を述べてしまう。
作業を効率化できるように、私は相談したが、あなたは却下した。
労働時間内で終わらせられたかもしれないのに、あなたの判断でできなくなった。
就業時間中は、私はあなたの指揮命令系統にはいっているので、あなたの判断・命令にしたがった。
しかし就業時間は終わったので、残業してもらいたいというあなたの「相談」は「却下」する。
と、もちろんこんなシンプルな状況ではないし、現実の言い回しも異なる。
上司には一定範囲で残業を命令することができるし、私もそれほどかたくなに突っぱねたわけではない。
想像に難くないと思うが、私は大変きらわれていた。
それはもう「ぶっ殺すぞ」レベルに。
無能な上司が部下の創意工夫をつぶし、無駄な残業を生成している現場に居合わせたことは、何度もある。
そのたびに(毎回ではないが)思ったことを言い、きらわれつづけてきた。
とはいえ同僚とは、それなりにうまくやっていた。
私もべつに触るものみな傷つけるわけではないのだ。
よく休憩室では、同僚たちと無能な上司への文句を言い合っていた。
そこである日、直接言ってやろうぜ、みんなで、という流れになった。
たまたま機会があって私から言ってやったところ、いっしょに文句を言っていた同僚たちにそっぽを向かれた。
私だけがクビを切られた、なんてこともある。
思ったことは言ったほうがいいと思うが、言いすぎると自分が損をする。
この事実を思い知るのに、けっこうな時間をついやしてしまったことは残念だ。
いまはもう、黙ってやり過ごす、思いついても言わない、無能のふりをする、というスキルを身に着けた。
いちいち社長に相談して、うざったがられるくらいには、老成している。
じっさい年をとって、体力的にはかなり無能になっている点だけは残念だが、事務仕事くらいならまだできる。
すこし厄介なところもある脳だが、心臓が止まる日までは使い込んでいきたい。
という哀れな男の話から得られる教訓。
こんなやつに、なるな。
以前、撮り鉄を「知障と同じ」みたいな書き方をしてしまった。
申し訳ない、いまは反省している。
あいかわらずネットには、各地で荒ぶっている姿がさらされ、たたかれている。
が、落ち着いてほしい。
新しい地下鉄車両を撮るために脚立を立て、ホームドアから身を乗り出して撮ろうとしているのを止める駅員に、「どんだけ待ったと思ってんだ」とブチ切れる。
お金を払っているのに邪魔されたから、「二度と金払わない」「カスが」と叫びたくなったので、彼は叫んでいる、ただそれだけなのだ。
あらためて擁護したい。
彼らはピーター・パンなのである。
たまたま観ていた映画に、撮り鉄の姿が重なった。
以下、基本的には映画の話だ。
彼は、ネバーランドではヒーローであって、そのコミュニティ内での評価は高い。
外に出てくるから対立した価値観とのあいだでモメるのであって、その内側においては非常に純粋な存在だ。
一応、外からの視点で、ピーター・パンをみてみよう。
いや、まあたしかに……ムカつくやつだ。
そもそも「永遠の少年」であって、おとなのように忖度しない。
わがままで、他人の気持ちを理解しない「こども」だ。
自分の気持ちにまっすぐ、という美点を評価する人々もいる。
その美点だけで突っ走れるネバーランドは、彼がいなければ成立しないと言っていい。
と、そんなことを考えながら、ピーターの「成長」を語る映画を観た。
腐すのでタイトルは出さないが、もう言っているに等しいかもしれない。
世間知らずでクソ生意気、気持ちだけは純粋な、威勢のいいガキンチョ。
いい見方をすれば、悪だくみをしてこちらをだますようなことはしない。
それはそれで貴重な人材ではあるのだが、逆に言うと、彼が悲しみや苦難を乗り越え、仲間と協力して成長する、というプロット自体にそうとうの「無理がある」。
なぜなら「成長する」とは「おとなになる」ことだからだ。
1904年の戯曲のタイトルに、すべてが凝縮されている。
『ピーター・パン:大人にならない少年』
私見だが、ピーター・パンは主人公ではなく、狂言回しでしかない。
だからこそ、もともと「主人公はウェンディ」なのだ。
少年のままじゃないとおかしい、それがピーター・パンだとすれば、なんで成長してんの、という突っ込みは免れない。
そこが映画のむずかしいところだ。
ピーターが、ピーター・パンになる物語。
非常にいい着眼点ではある、引きも強い。
だとしたら、成長物語にしてはいけない。
ファンタジー映画一般で、少年少女がファンタジーな世界観での冒険を通して人間的な成長を遂げる、という基本設定を踏襲した作品群は、ほんとうに腐るほどある。
そのひとつに、ピーター・パンを加える?
考えたやつだれだよ、だいじょうぶか?
彼は「永遠の少年」なのだ、という前提を忘れては困る。
「目的地が少年」なのだから、成長物語にフォーカスすること自体、無理がある。
すくなくとも結末が、もともとあるピーター・パンにつながっていないとおかしい。
原作レイプ、とまでは言わないが、つくったやつちゃんとピーター・パン読んだのかよ、とすら思った。
一応フォローしておくと、「少年の成長物語」としては及第点の出来だった。
一方「ピーター・パンの前日譚」としては、駄作にもほどがある。
よけいな宣伝がつかなければ、映画としてはまあまあ。
しかし評価が「駄作」になるのは、最初に掲げた看板の責任が大きい。
一般に映画の広報担当者に申し上げたいが、「客をだますな」。
単純にいい作品なら、そこを推せばいい。
下手な惹句を打つから「それほどでもない」とか「推すところがおかしい」となる。
売りたいのはわかるが、うそをついてはいけない。
ふつうにかわいい女の子に「今世紀アイドル一位」とか「史上最高の女神」とか、その手のやつだ。
それほどでもねえだろ……と、不幸な突っ込みが出てこざるを得ない。
もちろん主観であればなんでも好きにすればいいが、広告となると客観的事実に準拠する必要がある。
いわゆる「※個人の感想です」を添えなければ広告としてまちがっているように、そこはきちんと「※広報担当者の願望です」と明記してほしい。
事実や数字の裏付けがあるならいい。
主観と願望が渦巻くだけの広告には、ほんとうにヘドが出る。
ともかく言葉は正確に。
それができない「商人」が、私は好きになれない。
その点、件の撮り鉄は、たいへん正確に言葉を使っている。
彼はけっして広告を打っているわけではなく、彼にとっては重要で正しいことを、彼だけに通用する決意として表明したにすぎない。
すべからく指摘しているのは「件の」撮り鉄なので、撮り鉄全体を相手にするつもりはないことを申し添えておく。
全体としての撮り鉄は、ウェンディだろうとも思う。
彼ら、彼女らを相手にビジネスをしている人々も、たくさんいる。
鉄道会社にとっても「いい客」にできるはずだ。
もう「金払わない」ピーター・パンではなく、お財布をもったおとなのウェンディを相手にすればよい。
ウェンディとピーター・パンの関係については……まあ、いずれ語ろう。
最後に言っておく。
「少年の心」は私ももっているが、部屋から出なければなんの問題もない。
彼らの暮らす世界線は、とてつもなく純粋だ。
この純粋なピーター・パンに問題があるとすれば、外に世界に出てきてしまったことだけなのだ……。
うちの娘は情弱でした。
こんなことで死ぬなんてバカです。
仮想通貨の投資詐欺にだまされた女の子が、背負わされた借金を苦に自殺したらしい。
その母親が勇気を出して、啓蒙のためのインタビューに答えていた。
自殺者の親族を利用する、これがマスコミのやり方か。
と、まっさきに思った私の心はゆがんでいる。
内容を読むと、ほんとうに「なんで?」と思うレベルの詐欺だ。
消費者金融で金借りてきて投資しろとか、どう考えてもおかしい。
そんなのにだまされるひといるの?
と感じてしまう私は、おそらくまちがっている。
アホみたいな詐欺メールは事実、延々とネットの海を回遊している。
一万人にひとりでも、引っかかってくれるドアホがいれば、それでじゅうぶんなのだ。
投資詐欺、オレオレ詐欺、さまざまな方法はあるだろうが、現に存在する以上、だまされるひとがまだまだいる(ビジネスになる)、ということなのだろう。
私にも、ある日、電話がかかってきた。
まあ私にかかってきたのは通常よくありそうな「営業」で、何百万もだまされたり溶かされたりしたひとと比べるつもりはない。
が、冷静に考えればこれも一種の詐欺なのではないか、と気づいた。
すくなくとも詐欺の一歩手前だと思う。
その理由を、問題提起と啓蒙──にはならないと思うが、記録のために残しておこう。
情弱をだます勧誘電話というのは、永久に不滅だ。
最近は減ったな、と個人的には思っていたのだが、それは私が社会から距離を置いているからというだけで、21世紀のいまも、えんえんとつづいてはいるらしい。
数撃ちゃ当たる方式なので、社会の辺遠に暮らす私のようなところにも、ごくたまに流れ弾が届く。
けっこうな大企業からだ。
今回は企業名は出さないでおくが、光回線への乗り換えの勧誘だった。
告げられたのは会社名だけで、オペレーター自身は名乗らなかった。
自分の名前も言わない相手から、まずは人定質問をくらった。
正確には、確認だ。
昨今はオレオレ詐欺師ですら相手の情報は知っているので、驚くにはあたらない。
本人確認のうえ、さっそく商談開始。
こちらの使用している光回線の会社の確認と、こだわりがなければ乗り換えませんか、という1点突破。
べつに乗り換えてもいいかな、と思ったので聞くことにした。
せこいなあ、と思ったのは、料金説明だ。
光回線の月額料金など、どこの会社も大差はない。
で、現在こちらが支払っている額は、キリがよく多めに「5500円くらい」などと表現していた。
乗り換えれば「4980円になります」という部分は、キッカリと「税抜き価格」でお伝えいただいた。
ちなみに税込み価格にならすと、乗り換えたほうが「高くつく」。
もうかなりげんなりしていたが、一応、話は聞いた。
キャッシュバックの部分を、やけに押してくる。
それしか切り札がないかのようだ(まあ、ないのだが)。
そして直接、現在契約している会社につないで、乗り換えのための番号をとるように誘導された。
黙って聞いていたら、いまからおつなぎします、と言われたので驚いた。
え、契約内容の説明もないの?
縛りとかは?
思わず問いかけると、しぶしぶ説明をはじめた。
現在契約している会社への違約金についてはキャッシュバックで補填できますとか、新しい契約は3年契約で自動更新ですとか。
それかなり大事な情報だろ、なんで言わなくていいと思ったの?
伝えないと違法じゃないの? どこかでこっそり阻却事由絡めてくるつもり?
さすがにピークに達しつつある苛立ちに、思わず漏れるため息。
都合のわるいことは言わない、なぜなら訊かれなかったから。
まだ20世紀だったころ、よくかかってきた電話に似ている。
21世紀にもなっても、まだやっているんだなあ、という感慨。
あんたこんな仕事、ほんとにやりたくてやってんですか?
と問いかけたい気がしたが、かわいそうなので「けっこうです」と言って切った。
くりかえすが、大企業(の委託先だろう)だ。
だれでも名前を知っている大企業すら、この手の勧誘をまだやっている。
たぶん彼は、マニュアルどおりにやっているだけなのだろうとは思う。
完全違法である「嘘を伝える」オレオレ詐欺よりはマシだが、そこでふと、この「都合のわるいことは伝えない」営業トークとの差異について考えた。
そして逢着した疑問、比較に愕然とした。
大企業の看板を背負ってだますのと、オレオレ詐欺の確信犯、どっちがマシなんだろう、と。
ほどなく心のなかで、ほほえましいものすら感じている自分に気づいた。
こんな人間が平気で電話をかけまくっているポイズンな社会なのだから、情弱が軒並み犠牲になっていくのは、もうしかたないんじゃないかと思う。
こんな世の中じゃ、死んだほうがマシだった。
自殺した彼女について一瞬、そう思ったことを否定はしない。
だが、あえて言おう、逃げるなと。
あんたを追い詰めたクソ野郎は、まだ生きているんだぜ。
死ぬなとは言わない、死ぬ権利は全員にある。
しかしできれば、やらかした相手を道連れに逝ってほしかった。
もちろん彼女は心がやさしいので、そんなことはできなかったんだろう。
だからこそ詐欺師は弱者に食らいつく。
自然淘汰、という言葉が思い浮かんだ。
弱いものから順に、食われていく世界だ。
だまして盗む。
泥棒が得をする。
こんな世の中を見捨てたい気持ちは、よくわかる。
だが生きて訴えていく必要も、またあると思うのだ。
被害が出なければ、警察は動かない。
訴えかたもむずかしく、慣れている詐欺師は平気で逃げきるだろう。
今回マスコミというモンスターが動いたのは、自殺というキャッチーなワードが利用可能だったからだ。
結果的に、彼女の死は無駄にならなかった。
だが別のやりようもあった。
そのやりようのハードルが、意外に高い。
情報強者ではない私には、どうすればよかったのか正解がわからない。
とりあえずいまは、トリガーだけは引いた彼女の冥福を、せめて祈っておこう。
あなたの死には、意味があった。
これが遺族の慰めになれば幸いだ。
成田までいってきた。
個人ではなく会社の仕事なので、ありがたいことに経費が現金ではいる。
ひさしぶりに電車に乗って、信越線から京成線の優雅な片道4時間。
4時間、ということは在来線コースですね、と勘のいい方なら察してくれただろう。
私はアスペ傾向があるので、最適ルート、最短時間、最安価格などを検索・比較すること自体は、べつに苦ではない。
経費で落ちるということは当然、有料特急による最短時間コースを優先的に検討した。
すぐに気づいたのが、在来線でも大差ない、だ。
ここで取り入れるべき重要な考え方は、移動にかかる「平均速度」という概念だろう。
玄関を出てから目的地に着くまで、トータルの距離を時間で割る。
時は金であるとすれば、この数字を比較するのがわかりやすい。
ふつうに乗換検索をすると、3時間強。
有料特急を使わないと4時間弱。
新幹線などの利用で検索すると、平均速度が57km/hくらいになった。
オール在来線だと、平均速度は46km/h(これは計測したので正確)だ。
価格が倍なのに、平均速度の差が2割程度。
これはコスパ的にどうだろう?
問題になったのは、時刻表だった。
ロスなく乗り換えられれば、新幹線のほうが当然、速い。
だが、おおむね5分以内に乗り換えできる在来線と異なり、駅で2~30分も待たされることになると、とたんに怪しくなる。
ぴったりの時間に快速特急が出ているかや、目的地が成田空港なら成田エクスプレスやスカイライナーも検討にはいるが、目的地はその手前なので引き返さなければならない。
大阪とか博多とか、遠距離への移動なら、議論の余地なく新幹線だ。
しかし同じ関東圏内など、ほどほどの距離になると、在来線のほうがよかったりする。
まず信越線という、本線のくせに1時間に1本のローカル線。
あるいは安中榛名という、そもそも駅にたどり着くまでに時間もかかるし本数も少ないという秘境駅。
集合時間も決まっているので、それに合わせなければならない。
高速鉄道を使えば乗車時間は短くなるが、上述のとおり接続のための移動や乗換の問題が発生する。
どの程度、時間を短縮できればよしとするか。
これはすべからく個人の価値観に帰結する。
オール在来線の片道4時間が、新幹線を使うと2時間になるとしたら、価格が倍になってもその価値があると判断して支払っただろう。
しかし、45分短縮するために倍額の料金は、ちょっと気が引けた。
じゃあいいや、というわけで在来線を利用したわけだ。
オール在来線、これはこれで、いろいろ楽しみ方はある。
飛行機にしろ新幹線にしろバスにしろ、私は乗客観察に多くを費やす。
ラッシュ時はラッシュ時、閑散時は閑散時の楽しみ方がある。
車両中に響きわたる大声で話している知障らしき二人組や、目を大きく見開いてノートをシールでデコっている女子。
一人分の座席幅からはみ出して横にだれも座ら(れ)ない巨体女や、うつらうつらしたおっさんから肩にヘッドバットをくらう自分。
一日、いろんなひとを眺めていると飽きない。
最後には、ローカル線のターミナル駅の利用者2名(うち1名は私)、という結論で終わった。
残業だったらしいサラリーマンがひとり。
私がいなかったら、彼の「専用列車」になるところだった。
もう乗客観察どころではない、運営者のほうが心配だ。
6両編成で2名の乗客を運ぶって、JR東さん、あんたの収支計算どうなってんの……。
コロナの初期、フライングホヌ(エアバスA380)の定員520人に乗客が8人だった、などという話を聞いてあきれたことがあるが、これは特殊な事例だ。
一方、日本の鉄道の衰退については、爾来かなりの危険性が指摘されている。
JR各社が輸送密度1000以下の路線について、バス転換などを検討しているという。
データは公開されているので、興味がある方は検索されてみるとおもしろいかもしれない。
鉄道の時代は終わった、のだろうか。
やはりこれからは自動運転かな……。
責任は、この記事をオススメに選んだグーグルにある。
と言いたいところだが、ふつうにニュースサイトの上のほうにあった。
前照灯のついた列車の写真を撮りたいので、こちら側のドアを開けて私を降ろしてから、ライトをつけてほしい。
撮り鉄が、そういう依頼をするため非常用の「通報ボタン」を押したらしい。
あっけにとられる話だ。
ざっと掲示板など徘徊したところ、手ひどくとっちめられていて、かわいそうになるくらいだった。
罵詈雑言をむけたい気持ちもわかる。
これ以上、下がりようがないと思っていた撮り鉄の株に、まだ底値を切り下げる余地があったとは驚きだ、という意見にはうなずいた。
同じ撮り鉄として恥ずかしい、そもそも撮り鉄であることが恥ずかしい、鉄ヲタは発達障害、カメラもってたら逮捕しろ、的ないつもの流れの掲示板。
擁護しづらい行動ではあるので批判する気持ちもわからなくはないが、この手の行動、アスペにはまれによくある。
発達障害の問診で「鉄道が好きか」を問われるのは、けっして偶然ではない。
もちろん鉄道にかぎらないが、鉄道がまっさきに挙げられていることは事実だ。
やっていいことと悪いことの区別をつける以前に、自分がやりたいことをやってしまう。
これは生まれつきの「基本性能」であって、よほど強力なパッチ(修正ファイル)を当てなければ、止めることはできないのだという。
じつは認知症も、似たようなものだ。
さまざまなロジックでその行動を正当化、すくなくとも理解する努力が、周囲には求められるのだという。
認知症の老人の思考を、健常者の視点で考えてはいけない。
たとえば短期記憶が著しく低下しているので、断片的な記憶をつなげた結果、わるいのは自分ではなく、自分を非難する周囲なのだと考えやすい。
脳機能の問題になってくると、まさに「基本性能」だ。
彼らがこちらに合わせることができないなら、こちらが彼らに合わせるしかない。
自分の親や親戚であれば、そのくらいの努力を求められても受け入れざるを得ない部分も、あるかもしれない。
しかし、赤の他人が自分の都合で鉄道を止めたら、それは理解してもらおうというほうがむずかしい。
ただし彼らにも言語は通じるので、それがやってはいけないことだと伝えれば(一応)伝わる。
この件でも、注意を受けた撮り鉄は「はい、はい、はーい」と理解を示していたらしい。
てめえふざけてんのか、と一般人にしてみれば言いたいことは山ほどあるだろうが、身近にアスペを抱える人々にとっては、さもありなんだろう。
彼らは根っからの悪人というわけではなく、ただ「厄介」なだけだ。
私も多少なり厄介な身内を抱えているし、なんなら自分自身がいちばん厄介だったりする。
ふりかえれば失敗ばかりの人生だったし、その失敗のおかげである程度は成長できた。
「ふつう」でいるというのは、意外にむずかしい。
アスペ傾向の男児が、できるだけふつうを目指す、という物語を描いているくらい、ここには膨大なドラマの可能性がある。
たとえば私の趣味は、家のなかで画面に向き合えば完結する。
他人に厄介をかけることは少ない。
ほかにも博物学の分類とか、カレンダーの計算、といったあたりにその趣味がむかっていれば、だれにも迷惑はかからない。
なんならたまに「すごい」と褒められて、テレビに出られたりする。
周囲の人間を排除してでも「美しい自然写真」を撮ったら、褒められる可能性もある。
しかし「公共交通機関を止めて」撮ったら、怒られるのが関の山だ。
体力勝負の実験科学や、耐久試験の現場あたりにはとても有用な人材だと思うのだが、そういうところにはあまり流れ着かない。
趣味嗜好のマッチングというものは、人生にとって重要かつ、むずかしいものだ。
撮り鉄を弾劾するために手段を択ばない人々はいて、燃料が投下されれば瞬時に燃え上がる構造はすでにある。
自分がいい写真を撮影するために非常停止ボタン、というキャプションはとてもいい燃料だ。
一見アホみたいな行為だが、現にあるんだと、ふつうの人々は驚く。
しかし、この程度のことは、じつは「よくある」のだ。
車掌に怒られている動画があがっていたが、あまり健常者っぽくないようにみえる。
つるしあげている側、動画をさらす側も、このまま出すと問題じゃね? という空気すらあった。
電車などで、わけのわからない大声で会話している知障は、たまにいる。
正直、迷惑なオバハンと大差はない。
比較的自由なこの国で、軽い知障は健常者なみに世間に放擲されている。
彼らの趣味がむかう方向によっては、こういうことになるのは必然なのだ。
結論、これをもって「撮り鉄」を弾劾するのは、まちがいだ。
知障の取り扱いをどうするか、という方向にむかったほうがいい。
どっちも同じだろ、という心ない突っ込みが聞こえる気がするが、ちがう。
核心に踏み込もう。
「撮り鉄の問題にしておいたほうが、すこしはマシ」な人々。
アジェンダセッティング的には、問題の核心を逸らす、という合目的行為にあたる。
これを明確化し、截然と切り分けようとするすべての試みに抵抗する、ロビー団体が裏にいる。
知障を「受け入れるのは、社会の義務」だと。
かなり厄介な事案に踏み込む前兆が、ご理解いただけたと思う。
よってこのへんでやめておくが、要するに問題は撮り鉄ではない。
善良な自重の精神だけは保ってもらいたいと思うが、あえて言おう。
撮り鉄は問題ではない()のだ!
うちの近所にも、撮り鉄はよく集まる。
いろいろな意味で、がんばっていただきたい。
ある飲み屋の店主が、事務所で作業をしていて、倒れた。
真夜中、店にはだれもいない。
彼は携帯を取り出し、119番した。
住所と氏名、裏の事務所の鍵が開いていること、サイレンは鳴らさないでほしいと伝えて意識を失った。
十数分後、静かにやってきた救急車は、事務所で倒れている男を収容して病院へ。
搬送先にて死亡が確認された彼の手には、あとのことがいろいろ「わかるよう」に書かれたメモがあった。
事件性のないことが確認され、手続き関係は速やかに執り行われた。
こうしてひとりの男が、きれいに死んだ──。
という夢をみた。
なかなかリアルで、目覚めて数時間よくおぼえていたので、こうして文章にしてみた次第だ。
夢なので詳しい説明はないが、自殺ではなく病気で、だいたい死期を悟っていたというイメージだ。
どこかで読んだ本か、映画のエピソードかもしれない。
そうではないとしたら、文字どおり「夢」なのだと思う。
彼の死に方は、私にとって理想なのだ。
最後まで自分の店でやりたいことをやり、死ぬと理解した瞬間、跡を濁さない。
最期まで好きなように生きて、きれいに死んだ。
このような生と死は、宇宙の秩序にさえ寄与するのではないか。
理想的なエントロピーの回収は、宇宙の終わり(熱的死)を先延ばすからだ。
私でいえば、職場は自宅のパソコンまえだ。
7月決算なので、現在いろいろ書類を整えている。
もし、あと何分かで死ぬとわかったら、この夢の店主と同じことをしたい。
と、最近どうも、自分が死ぬイメージを想起するタイミングが増えてきた。
もちろん私などいてもいなくても、会社も社会もまわる。
ただ、ごく近い周囲にだけは、ちょっとだけ迷惑をかけることになると思うので、その量を最小化したい。
自殺願望が強いわけではない。
死にたいのではなく、消え去りたいだけなのだ。
私は定期的に脳がイカレる。
このブログにも、ときどき書いている。
いわゆる「おばあちゃん子」で、昨年の暮れごろ、祖母が死んだ。
ことしは初盆ということになる。
祖母にはかわいがってもらったので、悲しませるようなことはしたくない。
たぶん私が先に死んだら、そうとう悲しむだろうな、というくらいの予測はついた。
なので祖母が生きているうちは死なないように努力していたが、その理由がなくなった。
お盆のタイミングが関係あるかはわからないが、いやな「波」がやってきていた。
くりかえすが、自殺願望や希死念慮が強いわけではない。
ただ静かに消え去りたいという思いは通奏低音のようにあるので、似たような感じで突然、社会から消える人々の気持ちは、ある程度わかる(かもしれない)。
私の場合、脳がイカレるタイミングに合わせて、危険度が高まる。
今回はちょっといい「夢」もついてきた。
最近増えているらしいが、私もスマホで睡眠記録をつけはじめた。
当初は変態的な寝起きだったが、最近は、夜寝て朝起きる、という理想的なサイクルがつづいている。
それが突然、破壊された。
真夜中の二時だった、唐突に目が覚めたのは。
冒頭のような夢をみた自分、という見当識を再確認する。
明晰夢っぽいところもあって、かなりの連続性を意識していた。
イカレる脳が叫んでいる。
やばいなあ、と思いながら冷蔵庫にむかい、凍らせてあったベッドボトルを手に布団へもどった。
折に触れて書いているが、脳がパニクりはじめたら、放置しておくとまずい。
奇矯な行動に走るリスクが高まるし、なにより「つらい」。
30代のころからときどきはじまって、徐々に頻度が増えてきた。
最近ではもう慣れた感じになっていて、ようやく「対策」もできてきた。
あくまでも私の場合なので、ふつうは病院に行ったほうがいいと思う。
とにかく「脳を冷やす」ことが、私にとっては肝要だ。
首元、わきの下、額に凍ったペットボトルを当て、おとなしくする。
一気に血液が冷えて、脳が生命の危険を誤解するレベルにもっていく。
死因として、凍死はもっとも楽な方法だ。
だから暴れるな、脳。
そういう意図を察したのかどうか、しばらくすると脳の暴走がおさまっていく。
最近はこの方法で、とにかく奇矯な行動からは逃れることができている。
より症状の深刻な方々は、こんなことではどうしようもないと思うので、べつにオススメはしない。
私の場合、前駆症状が起こった瞬間、できるだけ早く「冷やす」と予後はいい。
引きこもりであることも、大事だと思う。
外で仕事をしていたら、急に冷やすというわけにいかないことも多いだろうからだ。
その点、それがしやすい環境にいる私は、みずから「生きることを選んでいる」わけで、当然だがまだ死ぬつもりはない。
祖母のおかげで理由は減ったが、まだやりたいことはいくつかある。
できるだけ片づけてから、きれいに死にたい。
それが、いまの私の望みだ。
中国映画を観た。
作品自体はおもしろかった。
褒めるのでタイトルを書いておく。
『タイガーハンター 水滸外伝』(2020)。
原題は『伏虎武松/Tiger Killer』。
含蓄ある、いいタイトルだと思う。
そこで思ったのが、なぜキラーをハンターに変えたのか、だ。
邦題、この深い闇について、すこし語りたい。
そのまえに、とりあえず感想を。
あらかじめ言っておくが、全体的にはB級だ。
冒頭の虎の出現には一瞬、中島敦を想起した。
3世代くらいまえのコンシューマ機レベルのCGについては、生ぬるく見逃そう。
内容は『水滸伝』の武松を主人公にした、シンプルなアクション映画だ。
展開については子供だましの部分が多いが、いい方向に作用している。
酔えば酔うほど強くなる、まさに古典的、漫画的な設定。
三娘というヒロイン像も、たいへんわかりやすくてよい。
映画は総合芸術なので、探せば突っ込みどころはいくらでもあるのだが、その点、本作はきちんと「割り切って」いる。
たぶん「偏差値の低い人間ほどおもしろく感じる」ように、つくられているのだろう。
古きよき少年漫画。
読者は全員バカだと思って描け、という編集者の伝説的な名台詞が思い出される。
つまり私としては、まあまあ楽しめた。
認めよう、それはいい。
気になったのは邦題だ。
なぜ「キラー」を「ハンター」に変えたのか。
最初から感じていたが、作品を観れば理解できるだろうと思った。
結果、むしろ疑問が募った。
本作は、原作『水滸伝』設定の「武松は虎を素手で殺せる」という一文から発想されたアクション映画だ。
少ない予算のなか、創意工夫でエンターテインメントに育てた佳作だと思う。
製作者がみずから「タイガーキラー」とつけている。
その事実を無視する理由が、あったはずなのだ。
『水滸伝』は北宋末期を舞台にする歴史物語である。
中国人を基本とした世界戦略における文脈では、キラーが適切だと中国人自身考えたし、私もそうだと思う。
一方、邦題『タイガーハンター』をつけた日本人には、事実、キラーをハンターに変える理由があった。
日本人として考える。
まず基本、意味は「狩り」だが、古来その目的は「捕食」だった。
殺して食う、という生命の本質にかかわる言葉だが、狩りの目的はまちがいなく変化している。
私にとっては、アフリカを劫掠したバカ白人の歴史だ。
金持ちがオーバーキルの遠隔攻撃用武器を片手に、安全な物陰に隠れて、めずらしい野生動物を虐殺してトロフィーにした、凄惨な恥ずべき過去。
あるいはキツネ狩りなどという言葉にも代表される、残虐な「ハンティング」の歴史を、現在のイギリス人みずから反省して禁止している。
歴史的な文脈では、あまりいい意味はなさそうだ。
エンターテインメント業界では、武装したプレデターがエイリアンをハントする映画や、100万円を他の回答者から奪うハンターの番組などが思い浮かぶ。
本作との関連性がまったく見えないし、おそらくない。
完全に無責任な予断だが、もしかしたら『ハンターハンター』や『モンスターハンター』の影響があるのかもしれない。
私はどちらもタイトルしか知らないので、申し訳ないがまったく論評できない。
虎殺しの武松。
素手で虎と戦う彼は、シンプルに「タイガーキラー」でいいと思う。
古来「半年ROMれ」という言葉がある。
場にふさわしい態度・知識を身につけてから発言しろ、ということだ。
ナポレオンは言った、最悪の敵は無能な味方だと。
それはそれで戦況を悪化させるので、一応の「変化」はもたらす。
いわゆる「クソ邦題」の多くはこれにあたり、原題に似ても似つかない、ありえないタイトルをつけて多くの突っ込みどころを提供してくれたりする。
今回はそれよりマシなのだが、残念な点は「まさにそこ」だ。
キラーをハンターに変える。
「仕事をしていない」わけではなく、「したフリをしている」のだ。
言い訳の余地を残す加害行為。
イラっとこないだろうか。
たいていのクソ邦題は、相手の顔面に「糞を塗る」行為だ。
レビューをみてもしばしば総スカンを食らっており、むしろ「ツッコミ待ち」でわざとやっている感すらある。
しかし今回のような「チョイ変え」は、だれにも突っ込まれず埋もれている。
だれも得も損もしない──ようにみえるが、じつは相手の顔面に「大腸菌を塗」っているに等しいと思う。
見えづらいが、たいへん不愉快かつ有害だ。
考えすぎだろうか?
もしあなたの周囲に、計画の細部、数値や文言を「ほんのちょっと書き変える」だけで「仕事しました感」を出そうとする同僚や仲間がいれば、私の言いたいことが伝わるかもしれない。
あなた自身がそちらのタイプであれば、むしろ私のような突っ込み野郎を「うざい」と思うだろう。
原題のままでいいのに、よけいなことをやって疑義を増す。
ひさしぶりにムカつき邦題な案件だった。
そのままカタカナにすればいい、と言っているわけではない。
きちんとした翻訳は、もちろん必要だ。
『ブラックフライ』という原題の映画があったとする。
そのまま訳せば「黒い蠅」だが、英語では「ブユ」とか「血を吸う蠅」を意味する。
私は関東に暮らしているので「ブヨ」だと思っていたが、これは方言らしい。
ブラックフライは、ハエ目カ亜目ブユ科に属する昆虫の総称だ。
これを、そのまま「黒い蠅」と訳したら、日本語では異なる意味になってしまう。
蠅が黒いなんて、あたりまえだろ、と。
ドラゴンフライは「トンボ」だし、スーパーフライは「派手なひと」だ。
意味を汲んで訳すことは、当然に必要だろう。
血を吸う蠅のような存在をあつかう映画であることを、伝えなければならない。
ブラックフライのままではダメなのだ。
ちなみに、この映画(ブラックフライ)は実在していて、邦題は『ブラック・レイジ 血を継ぐ者たち』(2014)だった。
正解かどうかはわからない。
ブラックレインやアウトレイジに寄せている感(パッケージなど)はあったが、内容はわるくなかった(B級としては)。
タイトルが足を引っ張っているかどうか、審議案件だろう。
直訳で正解のパターンも、もちろんある。
『私はあなたのニグロではない』は、中学生でもそのまま英訳できるほどシンプルなタイトルで、いい映画だった。
逆に『フロム・ダスク・ティル・ドーン』などは、あのばかばかしさを表現するのに最適解……のような気もする。
夕暮れから夜明けまで営業する店の吸血鬼との戦いは、じつにおもしろかった。
すくなくとも、仕事をしないことで仕事をする、わかりやすい例だ。
キラーをハンターに、不必要に変えて仕事をしたフリをする人間に、ぜひとも見習わせてやりたい。
下手の考え休むに似たり。
いいアイデアがなかったら、下手にいじらず、そのまま使ったほうがよい。
日本の会社には「働かないおじさん問題」があるらしいが、仕事をしたフリをしたがるおじさんのほうも問題だ。
お役所仕事の大半がそうではないだろうか、という気がしたが、お役人さまからの反論は黙して受けたい。
ともかく映画自体はおもしろかった。
タイガーハンター、機会があればぜひ。