先日、母親が洗濯物をたたんでいるのをみて、無駄なことをしているね、と言った。
 ものすごくいやな顔をされた。

 洗濯物をたたむ、というのは彼女にとっては「あたりまえのこと」らしい。
 しかし残念ながら、私にとっては「特殊なこと」だ。

 私は長く独り暮らしをしているので、もちろん家事は自分でする。
 そのなかで洗濯物をたたんだことが、ほぼない。

 自分で洗濯機をまわし、干し、とりこんだ洗濯物をどうしているのかといえば、いつも肘掛椅子に山積みにしている。
 風呂からあがったら、そこから選んで着る、というルーティンだ。

 冬物がはじまるとか夏物に変わるとかで、数か月寝かせることになる衣類をたたむなら、わかる。
 そのほうが省スペースになるし、しわもつかない。

 しかし毎日の洗濯で、たたむとか意味あんの?
 どうせすぐ着るんだから、そのまま山積みにしとけばいいじゃない。

 そんなことしてる暇があったら、もっと別の有意義なことやればいいのに。
 ──べつに暇だから洗濯物たたんでるわけじゃないですけど!

 という不毛なやり取りがあったので、一応記録しておく。
 ちなみに着る当人がよければいいと思うので、今回の正解は「たたまない」だ。



 さて、話は替わるが、さきほど動画サイトで東海林太郎の『野崎小唄』を聴いていた。
 最近、古い楽曲をよく聴いている。

 字面だけを見たら、まったくなんのことかわからないひとが多いだろう。
 という前提で以下、話を進める。

 まず『野崎小唄』だが、昭和10年の楽曲で、野崎参りをテーマにしている。
 元禄時代から伝わる行事らしく、大阪の慈眼寺(野崎観音)へのお参りのことだ。

 伊勢参りに代表されるこの手のイベントくらいしか、昔のひとはやることがなかった。
 などと言うつもりはないが、そんなことはどうでもいい。


 音読みと訓読みをもつ、日本語の特性にまつわる話をしたい。
 いやそれ以前、さらに根本的な問題かもしれない。

 まず、なんて読むんだよと。
 落語の『平林』に通じる話題だが、一段上だ。

 ちなみに『平林』は、ひらりんか、たいらばやしか、縦に並べればイチハチジュウノモークモク、など読み方がわからないというネタだけで押し通す、古典落語である。
 元ネタは『醒睡笑』(1623)らしい。


 とうかい・りんたろう。
 とうかいりん・たろう。

 たしか小学生のころ、まず、そこでつまづいたことを記憶している。
 私が生まれたときはすでにお亡くなりになっていたが、昭和の「芸能史」の一部なので、語り継ぐこと自体に意味はある。

 現代の小学生も、たぶんここで迷うはずだ。
 ちなみに私は、現在進行形で「とうかいりんたろう」と打ち込んで変換している。

 東海林太郎。
 どちらが正解かといえば、両方不正解だ。

 とうかいりん、ではなく、しょうじ、と読む。
 漢字の知識、当て字の知識、つまるところ当人のことを知らないと、この問題に正解するのは困難だ。


 私は日本語を使用しているので、音読みと訓読みがあるところまでは、所与の前提として受け入れている。
 だが当て字だけは、なかなか違和感がぬぐえない。

 受け入れざるを得ないと理解はしているのだが、毎度イラッとする。
 最初からひらがなで書けばいいのに、と。

 落語で「借りてた半纏は七に置いた」と、文字を学んだばかりの職人が書置きする話がある。
 それを読んだ棟梁、あの野郎、借りものを「質」に入れるたァ何事だ、とご立腹。

 そこへやってきた職人、叱りつける棟梁。
 ここで噛み合わない。

 棟梁は「七」を「質」と読んだが、職人は「七」を「棚」という意味で書いたのだ。
 ──意外に棟梁も字を知らねえね、七ってのは七夕《たなばた》のタナだぜ!


 このように、常用外の読み方があるおかげで広がる文化……という見方もできる。
 しかし無駄にややこしくしているだけ、と思うことが私は多い。

 そもそも「漢字」という体系そのものが、人類の脳に無駄なストレスをかけている、という考え方を私はとっている。
 明治維新前後、列強の圧力にさらされた東洋の当時の知識人たちが、魯迅や孫文など当の中国人も含めて、この件についてはだいぶ掘り下げている。

 長くなるのではしょるが、結果として中国には「簡体字」というものができた。
 歴史は浅く、1950年代の漢字簡略化法案に依拠している。

 画数が多くて、おぼえるのに無駄な労力を強いられる繁字体を排し、日本語の漢字よりも簡略化された簡文字を用いる、という法律だ。
 おもな使用者である中国人自身、こいつのせいで発展が遅れた、と認めているといっていいだろう。


 まあこのへんは結局、バランスの問題で、26文字に集約できればすべて解決というわけではない。
 ある程度の「遊び」を許容する程度には、人間の脳には余力がある。

 そこで、その遊びを許容する「程度の話」になってくる。
 私はめんどくさい当て字に出会うたびに「イラっとする」くらいの器の人間であることは、すでに告白してあるとおりだ。

 東海林太郎。
 本名なので当人に責任はないし、そもそも、いいわるいの話はしていない。

 だれでも読めてほしい、まちがえる余地がないほうがいい、という要求には沿わないという事実の話だ。
 歴史上の人物に、こんなのはいくらでもいる。

 だから私は、自分の名前をかな表記しているのだと思う。
 日本人ならだれでも読める、なんならカナを学んだばかりの外国人にも読んでもらえる、そういうひとに私はなりたい。


 脳は、もっと有意義なことに使うべきだ。
 私が現在やっていることがそれほど有意義かはともかく、当て字にはあまりキャパシティを割きたくない。

 要するに自分の低能をさらけ出しただけの話だが、低能だけにその使い道は重要だ。
 低能でもその力を有用な方面に集約できれば、それなりのことができるかもしれない。

 漢字という無駄な体系は、ある程度厳選されてもいるし、よろしい認めよう。
 音読み訓読み、しかたない文化だ認めよう。

 しかし当て字……やりすぎだろ!
 集約を邪魔する夾雑音、それが当て字だ。

 読めねえよ、というキラキラな名前をつける親御さんには、耳の痛い話かもしれない。
 あくまでも私ごとき低能の話なので、お気になさらず。


 世の中には、洗濯物をたたむことから、漢字の当て字まで、無駄だと考える人々は一定数いる。
 そう思わない人々もいて、みんないい。

 戦中前後の楽曲を聞きながら、そんなことを思った。
 もちろん、さきほど取り込んできた洗濯物は、たたまない。
 


 そもそも私は、うそつきがきらいだ。
 好きなひとはあまりいないとは思うが、輪をかけてきらいだ。

 理想的ではないが一般的な家庭で、どうやらキレたらしい主婦が自分探しの旅に出る映画を観た。
 主人公は、うそつきだった。

 わざとそういうキャラにしているんだとしたらタイトルを出してもいいと思うのだが、基本的に腐すのでやはり書かない。
 人々に嫌悪感を催すキャラを、あえて出す、というホラー映画などもあるので製作者の意図の可能性は否定できないものの、だとしたらなおさら書きたくない。


 主人公は、いわゆる「ただの」専業主婦。
 毎日「ハウスキーパー」の仕事をしている。

 家族が4人もいたら、とてもたいへん。
 男の子はよく食べる、食事の支度だけで一苦労、それが日々エンドレスにやってくる!

 よく聞く言い回しだが、生きること自体エンドレスだ。
 私も無理して食事をしているが、自分が生きていることに文句をつけるなんて無駄なことは、あまりしない。


 専業主婦が、とても重要で、たいへんで、すばらしいお仕事である、という主張をべつに否定するつもりはない。
 彼女らがそう思っているなら、そうなんだろう、彼女らのなかでは。

 べつに専業主婦論をするつもりはない。
 ただ疑いもなく、ひとには向き不向きがあり、家事のほうが好きなひともいれば、外で働きたいひとがいてもいい。

 そんなに文句が多い仕事なら、やめればいい。
 もっと自分に向いた仕事を探して、外に出ればいい。

 もちろん協力しあって、喜びも苦労も分かち合う家庭がたくさんあることも事実だ。
 そういう家庭を目指すか、無理なら「やめればいい」のだ。

 無理なのでやめて、新しい人生に踏み出す主婦の話……だとしたら、共感できていいはずだった。
 にもかかわらず、なぜこんなに不愉快なのだろう。


 いままで抑圧されてきた自分がいて、新しい自分を見つけた。
 楽しくて舞い上がって、道を踏み外し、結局、家から飛び出していく。

 それ自体、共感できる要素を多分に含む。
 もちろん彼女は自由に生きてもいいのだが、いかんせん、やり方が問題だった。

 たとえば夫が暴力をふるうとか、子どもたちがそうとうイカレているとか、同情の余地が大きいならまだわかる。
 作中、夫はまじめに働いているし、子どもたちもそれなりにまともだ。

 そこで女主人公は、新しい趣味を見つけて、才能を認められた。
 それに没頭したい、そのために彼女がしたことは……。

 

 家族に嘘をついて、やるべきことをやらず、家を空ける。

 子どもですか、あなたは。

 新しい趣味ができたと正直に言えば、やりくりはついただろうし、浮気の部分以外は応援してくれたかもしれない。
 しかしこの主婦、自分が好きなことをやるために、「嘘八百を並べて家族をだましはじめた」のだ。

 これまで家族のためにがんばってきたのだから、自分にはこれをする権利がある、とでもいわんばかり。
 ここで私は、だいぶげんなりしてしまった。

 たしかにそれまで、彼女は古き良き家庭の主婦としてがんばっていたかもしれない。
 だがそれなら、夫や子どもも同じだ。

 きちんと生活費を稼いでいる父親や、青春の悩みを乗り越えながら、それなりに育ってきた子どもたち。
 彼らに嘘をついてだまし、いよいよ「もとにもどれなく」なっていく主婦に、同情や共感を求めるのは、かなり無理筋ではあるまいか。


 結末は、新しい人生に踏み出したと思われる、元主婦の姿で終わる。
 その後、女が幸せになったのかはどうでもいいが、家族がどうなったかは気になる。

 ひどい女の犠牲になった、かわいそうな家族の幸せを祈りたい。
 ……と、そんな映画ではない、気がするのだ。

 もちろん「悪女」は映画において重要な役割を果たす。
 嘘は女のアクセサリーという名文句があるくらい、魅力的なキャラでありうる。

 ところが、このくたびれた主婦はどうだ。
 家族をだまして好きな趣味に没頭したい、というだけの、どこにでもいそうな中年女。

 こういう「妻」かつ「母」に、世の女性たちは感情移入できるのだろうか。
 だとしたら、仲良くなれる気があまりしない。


 どこにでもいる主婦。
 なんとなく吐いてしまった嘘。

 きっかけは、たしかに感情移入を誘うありふれた設定だ。
 結末も、彼女は自由な世界に飛び立ちました、めでたしめでたし。

 ……まじで?
 まったく、めでたいように思えない。

 なんだろう、この映画。
 ピカレスク(悪漢小説)かな。


 男が家族を犠牲にして夢を追う映画もある。
 女にあってもいいじゃない。

 そういうロジックかもしれないが、だとしたら、とたんに共感がむずかしくなる。
 そもそも極端な天才、英雄が「周囲の犠牲を顧みず」常識の枠をぶっ壊していく映画というのは、特殊なケースだ。

 よほどの天才とか、壮大なロマンがあるならともかく。
 日常の役に立たない趣味の世界で、きみには才能があると褒められただけの、ただの中年女……。

 それは「ゲームうまいね」と褒められたクソガキと同じだ。
 それ以外なにもないクズ野郎が、好き勝手して育っていったとしよう。

 結局、嘘八百を並べる特殊詐欺師になった彼を、多くの人々は批判するだろう。
 そうして十把一絡げの「悪役」が育っていく。

 そう、悪役だったら理解できるのだ。
 ……残念ながら、彼女は主人公なのである。


 もう嘘は聞きたくない。
 終盤、主人公に向けられた旦那からのこの言葉は、私を含めた視聴者の何割かが抱いた感想だと思う。

 日本の有名な漫画に「負い目のなさが勝ち目を呼ぶ」という言葉がある。
 自分はまちがったことはしていない、だから勝ち目はある、という意味らしい。

 正直、現実はそう甘くないのだが、応援したくはなる。
 ところでこの映画の主人公、「負い目が多い」ので、あまり応援したくならない。

 嘘八百並べ立てて、幸せになりましたとさ。
 めでたしめでたし……?

 最初から正直になっていれば、こんなに問題は複雑化しなかった。
 たくさんの嘘をついた彼女は、「ほんとうの自分」を見つけて旅立った。

 冷静にみて、詐欺師が幸せになる話。
 なるほど、やはり悪漢小説だった。
 


 最近、観た映画の本数が5000を超えた。
 そこで、そのささいな記録を眺めながら、すこし雑感を記したい。

 とくに意味はないのだが、記念すべき5000本目は『フラットライナーズ』(2017)だった。
 5050本目あたりのタイトルを記録しながら、ふと見返して気づいただけなので、まったくの偶然である。

 私にとって映画は「通り過ぎる」こと(鑑賞自体)に意義がある。
 データとして「積み上げる」こと(詳細な記録)は重視していない。

 記録しているデータは、タイトルと制作年と国のみ。
 なのでタイトルだけ見返しても、どういう映画だったか思い出すのはちょっとむずかしい。

 とはいえ最近観た映画なので、上記の作品についてはすこしおぼえている。
 これいいアイデアだな、と思いながら観て、あとで検索して確認した。

 臨死体験をテーマにしたSF映画で、リメイクらしい。
 そもそもいい着眼点の映画だったということだ。

 たしかにおすすめしてもいい程度には、おもしろかった。
 SFホラーは私のホームグラウンドなので、そのあたりのひいき目はあることを付け加えておく。


 リメイクという時点で、そもそもおもしろい作品の証左ではある。
 オリジナルを超えられるかは別なので、まずはオリジナルから観てみる、というのはひとつの方法かもしれない。

 おもしろい映画教えてよ、と言われるとちょっと困る。
 そのひとが、どんな映画を観たいか、というのがいちばん重要だからだ。

 恋愛映画を観たいひとに戦争映画を勧めても、まったく響かないだろう。
 好み、気分、状況によっても、おすすめは異なってくる。

 「戦争恋愛映画」と呼ぶべき作品もある。
 ジャンルをまたいでいるような場合、すすめていいのか迷うところだ。

 もともと男性向けのアクション映画に、女性客を引っ張り込もうという画策から生まれたのが恋愛アクション映画で、それなりに成功しているジャンルらしい。
 たとえばハリウッドのブロックバスター系(大金をかけた娯楽映画)で『ナイト&デイ』(2010)という作品があった。

 大金をかければおもしろくなる、というわけではもちろんない。
 ただ、大失敗をする可能性が低くなることはたしかだ。

 例のごとくトム・クルーズ主演のアクションスパイ映画で、私はけっこうおもしろいと思ってしまった。
 しかしあらためて検索して感じたのは、信頼できるレビュアーたちの評価には(低評価というわけではないが)苦言がそれなりにあることだった。


 その中身を分析して意訳すると、こういうことになる。
 この作品は、女向けに激・調整されている。

 とくに信頼できるマッチョなレビュアーは、明確にそれを提示してくれていた。
 アクション映画は男の世界と思われがちだが、それを女も楽しめるように「少女漫画化した」のが、この作品だと。

 トムはいつものトムで、あいかわらずのイケメン最強っぷりを発揮している。
 そういうキャラなので、もはやどうでもいい、不可能な作戦やっててくれ。

 問題は相方のジェニファー・ロペスに、どれだけ感情移入できるかだ。
 最初その足手まといっぷりにイラつくのだが、イメケンが彼女を守って超人的になんとかする……という展開は、なるほど少女漫画だ。

 どこにでもいるダメ(個性的)な女の子が、超絶イケメンと出会って守られ、愛され、成長していく。
 後半、ジェニファーは「ふさわしい女」となり大活躍、トムとの恋愛を成就……という予定調和の様式美。

 少女の理想を、2時間で完全に満たしている。
 なるほど、これがハリウッド式か。

 私がたいへん苦手とする少女漫画も、じつはうまくすれば折り合いをつけられる、その典型例といっていいかもしれない。
 このスクリプト書いたやつすげえな、とあらためて思った。

 もちろん類例はあまただが、そのなかでもっとも顕著な例といっていいと思う。
 『ナイト&デイ』、おためしあれ。


 たまたまタイトル順でソートして、並んでいたので、ついでにもう一作。
 2019年の『ナイブズ・アウト』をおすすめしておく。

 SF、アクションに次いで、ミステリーを観ておくのは、わるくないセレクトだ。
 これはタイトルだけですぐ思い出すくらい、すごくおもしろかった。

 名探偵の話だが、まだこういうやり方があったのか、と感心した。
 突っ込みどころを探そうとしている自分が、途中から恥ずかしくなった。

 これはこれでよい、すばらしい、それでいいのだ。
 些細な瑕疵はむしろ味、うそをつくと吐いてしまうキャラがいてもいいじゃないか。

 だらだら書いても興をそぐと思うので、これくらいにしておこう。
 とにかくおもしろいので、観て損はないですぞ。
 


 ブルース・ウィリスが引退したらしいので、なんとなく『12モンキーズ』を見直した。
 ウィリスといえば『ダイハード』だろ、というひとは多いかもしれないが、SF畑に近しい私にとっては『12モンキーズ』だ。

 現実世界を描くアクションも、もちろんおもしろい。
 しかしSF映画の中2心をくすぐる設定には、逆らえない魅力がある。

 95年の作品だが、当時若造だった私の心をとらえたのも致し方ない。
 とりあえず二行で物語をまとめよう。

 未知のウィルスによって人類のほとんどが死滅した近未来。
 タイムトラベルという縦糸を通し、ウイルス拡散の横糸から浮き上がる真相に挑む。


 当時から「意味がわからない」という評判はあって、いろいろ考察しているひとは一定数いた。
 そして、正直に言おう、私は「わからない」側の人間だった。

 まわりのチャラい連中がそうだったので、ものすごく魅力を感じつつも彼らに同調してしまったことを懺悔したい。
 一応「音楽はよかった」と褒めてはおいた。

 深い話ができる友だちがいなかったという言い訳以前に、それほどきちんと理解している自信もなかった。
 冷静に見直せば、本作は古典的ないわゆるタイムループものだ。

 あのとき殺された男の記憶は未来からきた自分で、歴史はくりかえす。
 しかし「保険屋」の帰る地球の未来には、希望があるのかもしれない、といった余韻を残す感じだろうか。

 ともかく映画の「総合芸術」としての表現がうまい、と感心した。
 ブラピは、このあたりから一皮むけた、という評価にはうなずける。

 さりげないセリフに隠された幾多の暗喩と、映像トリック、時間旅行者の決定論的運命、張り巡らされた伏線。
 あらためて音楽もいい。

 その後、量産されたタイムループものに慣れた目で見ると、突っ込みどころがないわけではない。
 が、20世紀につくられた映画として、これは傑作と呼んでさしつかえないと思われる。



 さて、言い換えれば、すごくない、雑な映画が無数にある。
 Z級とも表現される数々の駄作たちで、じつのところ私は、こちらを愛でる方向にむかった奇特な人間のひとりだ。

 実写版『デビルマン』について、記しておこう。
 2004年の作品だが、個人的に、当時はほとんど洋画しか観ていなかったので、邦画の記録がほとんどない。

 で、ごく自然にスルーしていたのだが、最近、機会あって拝見させていただいた。
 すごい、と思った。


 私は星1台の作品のどこか一部分にでも、みるべきものがあればうれしい、という求道者のような見方をする。
 認めざるを得ないクソのなかにも、一粒の砂金が眠っている可能性は、ないこともない。

 そんな、やさしい目線で眺めた『デビルマン』だが……。
 いや……よくゴーサイン出たなこれ。

 わるくはない、部分的には。
 ただし、ひどい部分も多かった。

 そこで、当時の周辺事情を調べてみた。
 20年近くも昔、いったいなにがあったのか。

 興味をもって調べたくなるほどには、なかなかすごい作品であったことは認めなければならない。
 手元に「第一級の資料」をもっている方の記事が見つかったので読んでみたが、あまり要領を得なかった。


 突っ込みどころ満載のセリフ回し、陳腐な演出、ショボいCG、学芸会レベルの演技など、全体的に最低、という一般の評価はまちがっていない。
 しかし私はストーリーを重視するタイプなので、伝わってくるものさえあればそこは評価したい。

 『デビルマン』原作はだいぶ昔に読んだので、ほとんどおぼえてはいないのだが、ストーリーに関しては忠実らしい。
 ただしエピソードをつなげる部分がことごとくカットされ、物語として通じないというマイナスは、いかんともしがたいようだ。

 倍速で観ても、1時間くらいたったあたりで心が折れてきて、スキップを多用しはじめたことは告白せねばなるまい。
 ここ中身ないな、と判断してのスキップ……せざるをえなかった。


 かなり省略されているにもかかわらず、120分は長すぎる。
 どんな駄作でも90分以内にまとまっていれば評価する私だが、ストーリーを詰め込んだわけですらなく、ただダラダラ引き延ばしたシーンが気になってしまった。

 それまでだれも映像化しなかった終盤まで踏み込んでいる、という点は評価できるという意見もある。
 デーモンに合体され、滅びた世界から再生を目指す、という設定は私の好きなゲームシリーズにも通じる。

 数百万円くらいでつくってくれたなら、じゅうぶんだと思う。
 だが、さすがに10億円はまずい……。

 ウィキすら酷評にまみれている。
 さすがに、そこまで言わんでも、と思ってしまった。



 そんなわけで、私の『デビルマン』体験の結論は「倍速上等」で確定だ。
 このような見方をすることで、数をこなすことができるのはありがたい。

 死ぬまでに1万本、というひそかな目標を立てている。
 現在、折り返し地点を過ぎたが、人生もとっくに折り返しているので若干不安だ。

 itnという配給会社がある。
 冒頭にそのロゴが出た時点で、一部の人々は「察する」。

 由来は知らないが、たぶん IT is Not という意味ではないかな、と推察している。
 それはない、という作品を数多く日本に紹介してくれて、感謝に耐えない。

 時間の無駄、という作品は三倍速で観ても悔いがないからだ。
 そうして観た謎の映画が、どこかでなにかの役に立つことがあるかもしれない。

 ……いや、ないだろう。
 なくてもいい。

 こんな映画をつくっているひとがいるんだ。
 そう思うだけで、なぜか心が慰められるのだ。

 


 私は零細企業で経理の仕事をしている。
 レシートについては現物保管1年のルールを守りつつ、写真データから仕訳する方法をとっている。

 基本リモート勤務なので、レシート現物を見ることはほぼない。
 で、たまにレシートの画像が送られてくる。

 さきほど、そのデータを片づけていたところ、はたと手が止まった。
 そのなかの一枚に、日付がはいっていない。

 経理の基本は、金額と日付、そして仕訳だ。
 極端な話、この3つさえそろっていれば決算までできる。

 言い換えれば、どれか欠けると進めない。
 判読できない領収書や、必要なデータの欠けているレシートに意味はないのだ!

 そこで、そのレシートを送り返し、こう問うた。
 日付を伝える必要がないと判断した意図を教えてください、と。

 すると、キレられた。
 日付が写るように撮ってくれと言えばいいのに皮肉な言い方をするな、と。


 ……待てと。
 そもそもキレたいのはこっちなのだ。

 レシートに必要な情報が写っていない。
 欠くべからざる上記3要素のうち、1つが欠けている。

 たぶん撮影のミスだろうな、とは思った。
 が、そうではない可能性も微粒子レベルで存在する。

 もしかしたら、このレシートを発行した会社は、日付を入れない仕様でやっているのかもしれない。
 万一そうだったら、日付を写せと要求した私は、不可能なことを求める無理無体な経理になってしまう。

 そうなりたくはないので、そんな珍奇な仕様の可能性や、日付のないレシートでも経費として処理できるかなど、いくつかの可能性についても考慮を進めた。
 もしかしたらこのファイルには、なんらかの隠しファイルが隠されていて、そこに日付のデータが仕込まれているのではないか、とか。

 だいぶ時間を使って考えた。
 すべては経理担当者として、適切な対応をしたいがためだ。

 そして、このようなレシートを送ることに、なんらかの意図があるのではないか、それを知りたいと考えた。
 他人の気持ちについて忖度するのは苦手なので、質問するのがいちばんだ。

 そこで冒頭のように問いかけたわけなのだが、この始末。
 怒りのメッセージとともに、日付の写ったレシートが送られてきた。

 いや、なんで原因をつくったほうがキレているのか。
 私は丁寧に、無視することにした。


 単なるミスだ。
 べつにキレなくても、そう言ってレシート送り直せば済む話だ。

 たとえ皮肉に感じたとしても、原因をつくったのはあなただ。
 私が無礼を働いたならともかく、あなたに怒る資格はないのだが、これが老害というものか……。

 まあ、ひとことで済む、というのはこちらも同じではある。
 日付入れて写してくださいよ、そう伝えればよかった。

 しかし私は、物事についていろいろ考えを深めるタチだ。
 先述のような珍奇な仕様の会社があるかもしれない、と思いついてしまったら、考えないわけにはいかないのだ。

 やがて壮大な陰謀論まで考え至り、もはや当人に取材しないわけにいかない気持ちになった。
 だから質問しただけなのだ……。


 さて、アスペというものは、数字にとても正確で厳密さを求めるので、仕事としては向いている。
 しかし、正しい結果を導くためには、正しい情報を入力しなければならない。

 私は皮肉な質問をする程度で済んでいるが、世の中には思考停止して一日中その問題で止まってしまう者もいる。
 これは一般的な学力テストで、とても不利だ。

 わからない問題で停止してしまい、つぎに進めない。
 出題ミスなどあろうものなら、おかしいな、と考え込んでしまってテスト時間が終わる。

 このような性格は、じつは数学者には向かないらしい。
 数字に厳しいのだから向いていると思われがちだが、なぜか。

 わからんものはわからんもの、おかしな部分はおかしな部分として置いといて、つぎに進む。
 そういう融通が利かないアスペは、自由な発想を重視する純粋数学の分野では、大成しないらしいのだ。


 自由な発想。
 たしかに、とても重要だ。

 老害に皮肉を言っている場合ではない。
 もっと自由な発想で、頭を柔らかく。

 おかしなものはおかしなものとして……。
 いや、ならぬものはならぬでしょうよ……。

 どうやら私の性格は、いろいろなことに向いていないらしい。
 残念ながら、つぎの老害予備軍は私だ。
 


 私は現在、地方の零細企業で経理の仕事をやっている。
 しょせん雇われなので、重要な判断などはしない。

 で、社長に、これでいいですかねとか、このソフト要るんですけどとか、確認お願いしますとか、きちんと仕事をしている……つもりだった。
 最近、それらのやりとりで気づいたのは、社長がとても「うざったそうにしている」ことだ。

 まあ零細企業で、最近社員が辞めたばかりだし、忙しいのはわかる。
 呑気なおかんまで駆り出されて、年寄りすぎて新しい仕事を頼むと前の仕事ができなくなるとか、ぶつぶつ言っていた。

 そのうえ経理のアホンダラが、確認しろだの決済しろだの言ってくる、うざってえ!
 もう買い物とか申告とか税金とか全部任せるから、いちいち相談しないで!

 要するにそういうことだろうな、と最近理解した。
 チャットを飛ばす回数も減らし、できるだけ静かに事務処理をしている。

 世にあまたおられる「上司」の方々も、うざい「部下」には、はっきり言ってやったほうがよろしかろう。
 任せる、と。


 さて、しかし世の中には、逆に「きっちり管理したい」上司もいる。
 ほうれんそうほうれんそうと、ポパイのように言っている管理職の方々、そう、あなたのことですよ。

 いちいち報告だの連絡だの相談だの、いや、もちろん大事だし、上述のとおり私はやっていた。
 めんどうではあるが、ある意味、楽でもあるからだ。

 ちゃんと相談しましたよね、連絡しましたよね、と「責任を分散」できる。
 零細企業の経理が考えていたのは、そんなやくたいもないことだった可能性もある。

 いま、すべて任されてしまった私は、自分の行為について全責任を負わなければならない。
 あたりまえのことではあるのだが、そういうのを負いたくない部下にとっては、ほうれんそうはむしろ「救い」ではなかろうか。

 とはいえ厄介なことに、「相談」して「却下」された場合、おそらく私はイラッとするだろう。
 このへん、私が「まっとうな社会人」になれなかった理由でもあるかもしれないと思うので、分析して記録しておく。


 言いたいことを言って失敗した人生。
 具体例を出すと生々しくなるので、たとえ話で説明してみよう。

 上司と私がいる。
 ふたりで「トランプタワー」をつくる仕事をしている。

 アメリカ大統領とは関係ない。
 慎重にカードで三角形をつくり、積み重ねる例のアレだ。

 私は上司に、とある「相談」をする。
 割り箸で枠をつくって、そこでトランプ組んでから、積み重ねたらどうですかね。

 そうすれば効率が上がって、就業時間内に終わる。
 しかし上司は、即座に「却下」した。

 私はしかたなく、上司とふたり、従来どおりの朴訥なやり方で、作業をつづける。
 息を吹きかけないように、手で慎重にトランプのタワーを積み重ねていく。

 自分で言うのもなんだが、仕事は早いタイプだ。
 当時は若かったので、この手の「作業」でもかなり役に立っていたと思う。


 さて、一日が終わる。
 トランプタワーは完成しない。

 それじゃ、おつかれさまでした。
 帰ろうとする私。

 上司は言う。
 まだ完成していない、残業していってくれ。

 私は答える。
 お断りします。

 ふつうに「用があるので」とでも言えばよかったのだろう。
 が、私はつぎのような理由を述べてしまう。


 作業を効率化できるように、私は相談したが、あなたは却下した。
 労働時間内で終わらせられたかもしれないのに、あなたの判断でできなくなった。

 就業時間中は、私はあなたの指揮命令系統にはいっているので、あなたの判断・命令にしたがった。
 しかし就業時間は終わったので、残業してもらいたいというあなたの「相談」は「却下」する。

 と、もちろんこんなシンプルな状況ではないし、現実の言い回しも異なる。
 上司には一定範囲で残業を命令することができるし、私もそれほどかたくなに突っぱねたわけではない。

 想像に難くないと思うが、私は大変きらわれていた。
 それはもう「ぶっ殺すぞ」レベルに。


 無能な上司が部下の創意工夫をつぶし、無駄な残業を生成している現場に居合わせたことは、何度もある。
 そのたびに(毎回ではないが)思ったことを言い、きらわれつづけてきた。

 とはいえ同僚とは、それなりにうまくやっていた。
 私もべつに触るものみな傷つけるわけではないのだ。

 よく休憩室では、同僚たちと無能な上司への文句を言い合っていた。
 そこである日、直接言ってやろうぜ、みんなで、という流れになった。

 たまたま機会があって私から言ってやったところ、いっしょに文句を言っていた同僚たちにそっぽを向かれた。
 私だけがクビを切られた、なんてこともある。


 思ったことは言ったほうがいいと思うが、言いすぎると自分が損をする。
 この事実を思い知るのに、けっこうな時間をついやしてしまったことは残念だ。

 いまはもう、黙ってやり過ごす、思いついても言わない、無能のふりをする、というスキルを身に着けた。
 いちいち社長に相談して、うざったがられるくらいには、老成している。

 じっさい年をとって、体力的にはかなり無能になっている点だけは残念だが、事務仕事くらいならまだできる。
 すこし厄介なところもある脳だが、心臓が止まる日までは使い込んでいきたい。


 という哀れな男の話から得られる教訓。
 こんなやつに、なるな。
 


 以前、撮り鉄を「知障と同じ」みたいな書き方をしてしまった。
 申し訳ない、いまは反省している。

 あいかわらずネットには、各地で荒ぶっている姿がさらされ、たたかれている。
 が、落ち着いてほしい。

 新しい地下鉄車両を撮るために脚立を立て、ホームドアから身を乗り出して撮ろうとしているのを止める駅員に、「どんだけ待ったと思ってんだ」とブチ切れる。
 お金を払っているのに邪魔されたから、「二度と金払わない」「カスが」と叫びたくなったので、彼は叫んでいる、ただそれだけなのだ。

 あらためて擁護したい。
 彼らはピーター・パンなのである。


 たまたま観ていた映画に、撮り鉄の姿が重なった。
 以下、基本的には映画の話だ。

 彼は、ネバーランドではヒーローであって、そのコミュニティ内での評価は高い。
 外に出てくるから対立した価値観とのあいだでモメるのであって、その内側においては非常に純粋な存在だ。

 一応、外からの視点で、ピーター・パンをみてみよう。
 いや、まあたしかに……ムカつくやつだ。

 そもそも「永遠の少年」であって、おとなのように忖度しない。
 わがままで、他人の気持ちを理解しない「こども」だ。

 自分の気持ちにまっすぐ、という美点を評価する人々もいる。
 その美点だけで突っ走れるネバーランドは、彼がいなければ成立しないと言っていい。

 と、そんなことを考えながら、ピーターの「成長」を語る映画を観た。
 腐すのでタイトルは出さないが、もう言っているに等しいかもしれない。


 世間知らずでクソ生意気、気持ちだけは純粋な、威勢のいいガキンチョ。
 いい見方をすれば、悪だくみをしてこちらをだますようなことはしない。

 それはそれで貴重な人材ではあるのだが、逆に言うと、彼が悲しみや苦難を乗り越え、仲間と協力して成長する、というプロット自体にそうとうの「無理がある」。
 なぜなら「成長する」とは「おとなになる」ことだからだ。

 1904年の戯曲のタイトルに、すべてが凝縮されている。
 『ピーター・パン:大人にならない少年』

 私見だが、ピーター・パンは主人公ではなく、狂言回しでしかない。
 だからこそ、もともと「主人公はウェンディ」なのだ。

 少年のままじゃないとおかしい、それがピーター・パンだとすれば、なんで成長してんの、という突っ込みは免れない。
 そこが映画のむずかしいところだ。


 ピーターが、ピーター・パンになる物語。
 非常にいい着眼点ではある、引きも強い。

 だとしたら、成長物語にしてはいけない。
 ファンタジー映画一般で、少年少女がファンタジーな世界観での冒険を通して人間的な成長を遂げる、という基本設定を踏襲した作品群は、ほんとうに腐るほどある。

 そのひとつに、ピーター・パンを加える?
 考えたやつだれだよ、だいじょうぶか?

 彼は「永遠の少年」なのだ、という前提を忘れては困る。
 「目的地が少年」なのだから、成長物語にフォーカスすること自体、無理がある。

 すくなくとも結末が、もともとあるピーター・パンにつながっていないとおかしい。
 原作レイプ、とまでは言わないが、つくったやつちゃんとピーター・パン読んだのかよ、とすら思った。

 一応フォローしておくと、「少年の成長物語」としては及第点の出来だった。
 一方「ピーター・パンの前日譚」としては、駄作にもほどがある。

 よけいな宣伝がつかなければ、映画としてはまあまあ。
 しかし評価が「駄作」になるのは、最初に掲げた看板の責任が大きい。


 一般に映画の広報担当者に申し上げたいが、「客をだますな」。
 単純にいい作品なら、そこを推せばいい。

 下手な惹句を打つから「それほどでもない」とか「推すところがおかしい」となる。
 売りたいのはわかるが、うそをついてはいけない。

 ふつうにかわいい女の子に「今世紀アイドル一位」とか「史上最高の女神」とか、その手のやつだ。
 それほどでもねえだろ……と、不幸な突っ込みが出てこざるを得ない。

 もちろん主観であればなんでも好きにすればいいが、広告となると客観的事実に準拠する必要がある。
 いわゆる「※個人の感想です」を添えなければ広告としてまちがっているように、そこはきちんと「※広報担当者の願望です」と明記してほしい。

 事実や数字の裏付けがあるならいい。
 主観と願望が渦巻くだけの広告には、ほんとうにヘドが出る。

 ともかく言葉は正確に。
 それができない「商人」が、私は好きになれない。


 その点、件の撮り鉄は、たいへん正確に言葉を使っている。
 彼はけっして広告を打っているわけではなく、彼にとっては重要で正しいことを、彼だけに通用する決意として表明したにすぎない。

 すべからく指摘しているのは「件の」撮り鉄なので、撮り鉄全体を相手にするつもりはないことを申し添えておく。
 全体としての撮り鉄は、ウェンディだろうとも思う。

 彼ら、彼女らを相手にビジネスをしている人々も、たくさんいる。
 鉄道会社にとっても「いい客」にできるはずだ。

 もう「金払わない」ピーター・パンではなく、お財布をもったおとなのウェンディを相手にすればよい。
 ウェンディとピーター・パンの関係については……まあ、いずれ語ろう。

 最後に言っておく。
 「少年の心」は私ももっているが、部屋から出なければなんの問題もない。

 彼らの暮らす世界線は、とてつもなく純粋だ。
 この純粋なピーター・パンに問題があるとすれば、外に世界に出てきてしまったことだけなのだ……。
 


 うちの娘は情弱でした。
 こんなことで死ぬなんてバカです。

 仮想通貨の投資詐欺にだまされた女の子が、背負わされた借金を苦に自殺したらしい。
 その母親が勇気を出して、啓蒙のためのインタビューに答えていた。

 自殺者の親族を利用する、これがマスコミのやり方か。
 と、まっさきに思った私の心はゆがんでいる。

 内容を読むと、ほんとうに「なんで?」と思うレベルの詐欺だ。
 消費者金融で金借りてきて投資しろとか、どう考えてもおかしい。

 そんなのにだまされるひといるの?
 と感じてしまう私は、おそらくまちがっている。


 アホみたいな詐欺メールは事実、延々とネットの海を回遊している。
 一万人にひとりでも、引っかかってくれるドアホがいれば、それでじゅうぶんなのだ。

 投資詐欺、オレオレ詐欺、さまざまな方法はあるだろうが、現に存在する以上、だまされるひとがまだまだいる(ビジネスになる)、ということなのだろう。
 私にも、ある日、電話がかかってきた。

 まあ私にかかってきたのは通常よくありそうな「営業」で、何百万もだまされたり溶かされたりしたひとと比べるつもりはない。
 が、冷静に考えればこれも一種の詐欺なのではないか、と気づいた。

 すくなくとも詐欺の一歩手前だと思う。
 その理由を、問題提起と啓蒙──にはならないと思うが、記録のために残しておこう。


 情弱をだます勧誘電話というのは、永久に不滅だ。
 最近は減ったな、と個人的には思っていたのだが、それは私が社会から距離を置いているからというだけで、21世紀のいまも、えんえんとつづいてはいるらしい。

 数撃ちゃ当たる方式なので、社会の辺遠に暮らす私のようなところにも、ごくたまに流れ弾が届く。
 けっこうな大企業からだ。

 今回は企業名は出さないでおくが、光回線への乗り換えの勧誘だった。
 告げられたのは会社名だけで、オペレーター自身は名乗らなかった。

 自分の名前も言わない相手から、まずは人定質問をくらった。
 正確には、確認だ。

 昨今はオレオレ詐欺師ですら相手の情報は知っているので、驚くにはあたらない。
 本人確認のうえ、さっそく商談開始。

 こちらの使用している光回線の会社の確認と、こだわりがなければ乗り換えませんか、という1点突破。
 べつに乗り換えてもいいかな、と思ったので聞くことにした。

 せこいなあ、と思ったのは、料金説明だ。
 光回線の月額料金など、どこの会社も大差はない。

 で、現在こちらが支払っている額は、キリがよく多めに「5500円くらい」などと表現していた。
 乗り換えれば「4980円になります」という部分は、キッカリと「税抜き価格」でお伝えいただいた。

 ちなみに税込み価格にならすと、乗り換えたほうが「高くつく」。
 もうかなりげんなりしていたが、一応、話は聞いた。


 キャッシュバックの部分を、やけに押してくる。
 それしか切り札がないかのようだ(まあ、ないのだが)。

 そして直接、現在契約している会社につないで、乗り換えのための番号をとるように誘導された。
 黙って聞いていたら、いまからおつなぎします、と言われたので驚いた。

 え、契約内容の説明もないの?
 縛りとかは?

 思わず問いかけると、しぶしぶ説明をはじめた。
 現在契約している会社への違約金についてはキャッシュバックで補填できますとか、新しい契約は3年契約で自動更新ですとか。

 それかなり大事な情報だろ、なんで言わなくていいと思ったの?
 伝えないと違法じゃないの? どこかでこっそり阻却事由絡めてくるつもり?

 さすがにピークに達しつつある苛立ちに、思わず漏れるため息。
 都合のわるいことは言わない、なぜなら訊かれなかったから。

 まだ20世紀だったころ、よくかかってきた電話に似ている。
 21世紀にもなっても、まだやっているんだなあ、という感慨。

 あんたこんな仕事、ほんとにやりたくてやってんですか?
 と問いかけたい気がしたが、かわいそうなので「けっこうです」と言って切った。


 くりかえすが、大企業(の委託先だろう)だ。
 だれでも名前を知っている大企業すら、この手の勧誘をまだやっている。

 たぶん彼は、マニュアルどおりにやっているだけなのだろうとは思う。
 完全違法である「嘘を伝える」オレオレ詐欺よりはマシだが、そこでふと、この「都合のわるいことは伝えない」営業トークとの差異について考えた。

 そして逢着した疑問、比較に愕然とした。
 大企業の看板を背負ってだますのと、オレオレ詐欺の確信犯、どっちがマシなんだろう、と。

 ほどなく心のなかで、ほほえましいものすら感じている自分に気づいた。
 こんな人間が平気で電話をかけまくっているポイズンな社会なのだから、情弱が軒並み犠牲になっていくのは、もうしかたないんじゃないかと思う。


 こんな世の中じゃ、死んだほうがマシだった。
 自殺した彼女について一瞬、そう思ったことを否定はしない。

 だが、あえて言おう、逃げるなと。
 あんたを追い詰めたクソ野郎は、まだ生きているんだぜ。

 死ぬなとは言わない、死ぬ権利は全員にある。
 しかしできれば、やらかした相手を道連れに逝ってほしかった。

 もちろん彼女は心がやさしいので、そんなことはできなかったんだろう。
 だからこそ詐欺師は弱者に食らいつく。

 自然淘汰、という言葉が思い浮かんだ。
 弱いものから順に、食われていく世界だ。

 だまして盗む。
 泥棒が得をする。

 こんな世の中を見捨てたい気持ちは、よくわかる。
 だが生きて訴えていく必要も、またあると思うのだ。


 被害が出なければ、警察は動かない。
 訴えかたもむずかしく、慣れている詐欺師は平気で逃げきるだろう。

 今回マスコミというモンスターが動いたのは、自殺というキャッチーなワードが利用可能だったからだ。
 結果的に、彼女の死は無駄にならなかった。

 だが別のやりようもあった。
 そのやりようのハードルが、意外に高い。

 情報強者ではない私には、どうすればよかったのか正解がわからない。
 とりあえずいまは、トリガーだけは引いた彼女の冥福を、せめて祈っておこう。

 あなたの死には、意味があった。
 これが遺族の慰めになれば幸いだ。

 


 成田までいってきた。
 個人ではなく会社の仕事なので、ありがたいことに経費が現金ではいる。

 ひさしぶりに電車に乗って、信越線から京成線の優雅な片道4時間。
 4時間、ということは在来線コースですね、と勘のいい方なら察してくれただろう。

 私はアスペ傾向があるので、最適ルート、最短時間、最安価格などを検索・比較すること自体は、べつに苦ではない。
 経費で落ちるということは当然、有料特急による最短時間コースを優先的に検討した。

 すぐに気づいたのが、在来線でも大差ない、だ。
 ここで取り入れるべき重要な考え方は、移動にかかる「平均速度」という概念だろう。

 玄関を出てから目的地に着くまで、トータルの距離を時間で割る。
 時は金であるとすれば、この数字を比較するのがわかりやすい。

 ふつうに乗換検索をすると、3時間強。
 有料特急を使わないと4時間弱。

 新幹線などの利用で検索すると、平均速度が57km/hくらいになった。
 オール在来線だと、平均速度は46km/h(これは計測したので正確)だ。

 価格が倍なのに、平均速度の差が2割程度。
 これはコスパ的にどうだろう?


 問題になったのは、時刻表だった。
 ロスなく乗り換えられれば、新幹線のほうが当然、速い。

 だが、おおむね5分以内に乗り換えできる在来線と異なり、駅で2~30分も待たされることになると、とたんに怪しくなる。
 ぴったりの時間に快速特急が出ているかや、目的地が成田空港なら成田エクスプレスやスカイライナーも検討にはいるが、目的地はその手前なので引き返さなければならない。

 大阪とか博多とか、遠距離への移動なら、議論の余地なく新幹線だ。
 しかし同じ関東圏内など、ほどほどの距離になると、在来線のほうがよかったりする。


 まず信越線という、本線のくせに1時間に1本のローカル線。
 あるいは安中榛名という、そもそも駅にたどり着くまでに時間もかかるし本数も少ないという秘境駅。

 集合時間も決まっているので、それに合わせなければならない。
 高速鉄道を使えば乗車時間は短くなるが、上述のとおり接続のための移動や乗換の問題が発生する。

 どの程度、時間を短縮できればよしとするか。
 これはすべからく個人の価値観に帰結する。

 オール在来線の片道4時間が、新幹線を使うと2時間になるとしたら、価格が倍になってもその価値があると判断して支払っただろう。
 しかし、45分短縮するために倍額の料金は、ちょっと気が引けた。

 じゃあいいや、というわけで在来線を利用したわけだ。
 オール在来線、これはこれで、いろいろ楽しみ方はある。


 飛行機にしろ新幹線にしろバスにしろ、私は乗客観察に多くを費やす。
 ラッシュ時はラッシュ時、閑散時は閑散時の楽しみ方がある。

 車両中に響きわたる大声で話している知障らしき二人組や、目を大きく見開いてノートをシールでデコっている女子。
 一人分の座席幅からはみ出して横にだれも座ら(れ)ない巨体女や、うつらうつらしたおっさんから肩にヘッドバットをくらう自分。

 一日、いろんなひとを眺めていると飽きない。
 最後には、ローカル線のターミナル駅の利用者2名(うち1名は私)、という結論で終わった。


 残業だったらしいサラリーマンがひとり。
 私がいなかったら、彼の「専用列車」になるところだった。

 もう乗客観察どころではない、運営者のほうが心配だ。
 6両編成で2名の乗客を運ぶって、JR東さん、あんたの収支計算どうなってんの……。

 コロナの初期、フライングホヌ(エアバスA380)の定員520人に乗客が8人だった、などという話を聞いてあきれたことがあるが、これは特殊な事例だ。
 一方、日本の鉄道の衰退については、爾来かなりの危険性が指摘されている。

 JR各社が輸送密度1000以下の路線について、バス転換などを検討しているという。
 データは公開されているので、興味がある方は検索されてみるとおもしろいかもしれない。

 鉄道の時代は終わった、のだろうか。
 やはりこれからは自動運転かな……。
 


 責任は、この記事をオススメに選んだグーグルにある。
 と言いたいところだが、ふつうにニュースサイトの上のほうにあった。

 前照灯のついた列車の写真を撮りたいので、こちら側のドアを開けて私を降ろしてから、ライトをつけてほしい。
 撮り鉄が、そういう依頼をするため非常用の「通報ボタン」を押したらしい。

 あっけにとられる話だ。
 ざっと掲示板など徘徊したところ、手ひどくとっちめられていて、かわいそうになるくらいだった。

 罵詈雑言をむけたい気持ちもわかる。
 これ以上、下がりようがないと思っていた撮り鉄の株に、まだ底値を切り下げる余地があったとは驚きだ、という意見にはうなずいた。

 同じ撮り鉄として恥ずかしい、そもそも撮り鉄であることが恥ずかしい、鉄ヲタは発達障害、カメラもってたら逮捕しろ、的ないつもの流れの掲示板。
 擁護しづらい行動ではあるので批判する気持ちもわからなくはないが、この手の行動、アスペにはまれによくある。

 発達障害の問診で「鉄道が好きか」を問われるのは、けっして偶然ではない。
 もちろん鉄道にかぎらないが、鉄道がまっさきに挙げられていることは事実だ。

 やっていいことと悪いことの区別をつける以前に、自分がやりたいことをやってしまう。
 これは生まれつきの「基本性能」であって、よほど強力なパッチ(修正ファイル)を当てなければ、止めることはできないのだという。


 じつは認知症も、似たようなものだ。
 さまざまなロジックでその行動を正当化、すくなくとも理解する努力が、周囲には求められるのだという。

 認知症の老人の思考を、健常者の視点で考えてはいけない。
 たとえば短期記憶が著しく低下しているので、断片的な記憶をつなげた結果、わるいのは自分ではなく、自分を非難する周囲なのだと考えやすい。

 脳機能の問題になってくると、まさに「基本性能」だ。
 彼らがこちらに合わせることができないなら、こちらが彼らに合わせるしかない。

 自分の親や親戚であれば、そのくらいの努力を求められても受け入れざるを得ない部分も、あるかもしれない。
 しかし、赤の他人が自分の都合で鉄道を止めたら、それは理解してもらおうというほうがむずかしい。


 ただし彼らにも言語は通じるので、それがやってはいけないことだと伝えれば(一応)伝わる。
 この件でも、注意を受けた撮り鉄は「はい、はい、はーい」と理解を示していたらしい。

 てめえふざけてんのか、と一般人にしてみれば言いたいことは山ほどあるだろうが、身近にアスペを抱える人々にとっては、さもありなんだろう。
 彼らは根っからの悪人というわけではなく、ただ「厄介」なだけだ。

 私も多少なり厄介な身内を抱えているし、なんなら自分自身がいちばん厄介だったりする。
 ふりかえれば失敗ばかりの人生だったし、その失敗のおかげである程度は成長できた。

 「ふつう」でいるというのは、意外にむずかしい。
 アスペ傾向の男児が、できるだけふつうを目指す、という物語を描いているくらい、ここには膨大なドラマの可能性がある。


 たとえば私の趣味は、家のなかで画面に向き合えば完結する。
 他人に厄介をかけることは少ない。

 ほかにも博物学の分類とか、カレンダーの計算、といったあたりにその趣味がむかっていれば、だれにも迷惑はかからない。
 なんならたまに「すごい」と褒められて、テレビに出られたりする。

 周囲の人間を排除してでも「美しい自然写真」を撮ったら、褒められる可能性もある。
 しかし「公共交通機関を止めて」撮ったら、怒られるのが関の山だ。

 体力勝負の実験科学や、耐久試験の現場あたりにはとても有用な人材だと思うのだが、そういうところにはあまり流れ着かない。
 趣味嗜好のマッチングというものは、人生にとって重要かつ、むずかしいものだ。


 撮り鉄を弾劾するために手段を択ばない人々はいて、燃料が投下されれば瞬時に燃え上がる構造はすでにある。
 自分がいい写真を撮影するために非常停止ボタン、というキャプションはとてもいい燃料だ。

 一見アホみたいな行為だが、現にあるんだと、ふつうの人々は驚く。
 しかし、この程度のことは、じつは「よくある」のだ。

 車掌に怒られている動画があがっていたが、あまり健常者っぽくないようにみえる。
 つるしあげている側、動画をさらす側も、このまま出すと問題じゃね? という空気すらあった。

 電車などで、わけのわからない大声で会話している知障は、たまにいる。
 正直、迷惑なオバハンと大差はない。

 比較的自由なこの国で、軽い知障は健常者なみに世間に放擲されている。
 彼らの趣味がむかう方向によっては、こういうことになるのは必然なのだ。


 結論、これをもって「撮り鉄」を弾劾するのは、まちがいだ。
 知障の取り扱いをどうするか、という方向にむかったほうがいい。

 どっちも同じだろ、という心ない突っ込みが聞こえる気がするが、ちがう。
 核心に踏み込もう。

 「撮り鉄の問題にしておいたほうが、すこしはマシ」な人々。
 アジェンダセッティング的には、問題の核心を逸らす、という合目的行為にあたる。

 これを明確化し、截然と切り分けようとするすべての試みに抵抗する、ロビー団体が裏にいる。
 知障を「受け入れるのは、社会の義務」だと。

 かなり厄介な事案に踏み込む前兆が、ご理解いただけたと思う。
 よってこのへんでやめておくが、要するに問題は撮り鉄ではない。

 善良な自重の精神だけは保ってもらいたいと思うが、あえて言おう。
 撮り鉄は問題ではない()のだ!

 うちの近所にも、撮り鉄はよく集まる。
 いろいろな意味で、がんばっていただきたい。