先日、母親が洗濯物をたたんでいるのをみて、無駄なことをしているね、と言った。
 ものすごくいやな顔をされた。

 洗濯物をたたむ、というのは彼女にとっては「あたりまえのこと」らしい。
 しかし残念ながら、私にとっては「特殊なこと」だ。

 私は長く独り暮らしをしているので、もちろん家事は自分でする。
 そのなかで洗濯物をたたんだことが、ほぼない。

 自分で洗濯機をまわし、干し、とりこんだ洗濯物をどうしているのかといえば、いつも肘掛椅子に山積みにしている。
 風呂からあがったら、そこから選んで着る、というルーティンだ。

 冬物がはじまるとか夏物に変わるとかで、数か月寝かせることになる衣類をたたむなら、わかる。
 そのほうが省スペースになるし、しわもつかない。

 しかし毎日の洗濯で、たたむとか意味あんの?
 どうせすぐ着るんだから、そのまま山積みにしとけばいいじゃない。

 そんなことしてる暇があったら、もっと別の有意義なことやればいいのに。
 ──べつに暇だから洗濯物たたんでるわけじゃないですけど!

 という不毛なやり取りがあったので、一応記録しておく。
 ちなみに着る当人がよければいいと思うので、今回の正解は「たたまない」だ。



 さて、話は替わるが、さきほど動画サイトで東海林太郎の『野崎小唄』を聴いていた。
 最近、古い楽曲をよく聴いている。

 字面だけを見たら、まったくなんのことかわからないひとが多いだろう。
 という前提で以下、話を進める。

 まず『野崎小唄』だが、昭和10年の楽曲で、野崎参りをテーマにしている。
 元禄時代から伝わる行事らしく、大阪の慈眼寺(野崎観音)へのお参りのことだ。

 伊勢参りに代表されるこの手のイベントくらいしか、昔のひとはやることがなかった。
 などと言うつもりはないが、そんなことはどうでもいい。


 音読みと訓読みをもつ、日本語の特性にまつわる話をしたい。
 いやそれ以前、さらに根本的な問題かもしれない。

 まず、なんて読むんだよと。
 落語の『平林』に通じる話題だが、一段上だ。

 ちなみに『平林』は、ひらりんか、たいらばやしか、縦に並べればイチハチジュウノモークモク、など読み方がわからないというネタだけで押し通す、古典落語である。
 元ネタは『醒睡笑』(1623)らしい。


 とうかい・りんたろう。
 とうかいりん・たろう。

 たしか小学生のころ、まず、そこでつまづいたことを記憶している。
 私が生まれたときはすでにお亡くなりになっていたが、昭和の「芸能史」の一部なので、語り継ぐこと自体に意味はある。

 現代の小学生も、たぶんここで迷うはずだ。
 ちなみに私は、現在進行形で「とうかいりんたろう」と打ち込んで変換している。

 東海林太郎。
 どちらが正解かといえば、両方不正解だ。

 とうかいりん、ではなく、しょうじ、と読む。
 漢字の知識、当て字の知識、つまるところ当人のことを知らないと、この問題に正解するのは困難だ。


 私は日本語を使用しているので、音読みと訓読みがあるところまでは、所与の前提として受け入れている。
 だが当て字だけは、なかなか違和感がぬぐえない。

 受け入れざるを得ないと理解はしているのだが、毎度イラッとする。
 最初からひらがなで書けばいいのに、と。

 落語で「借りてた半纏は七に置いた」と、文字を学んだばかりの職人が書置きする話がある。
 それを読んだ棟梁、あの野郎、借りものを「質」に入れるたァ何事だ、とご立腹。

 そこへやってきた職人、叱りつける棟梁。
 ここで噛み合わない。

 棟梁は「七」を「質」と読んだが、職人は「七」を「棚」という意味で書いたのだ。
 ──意外に棟梁も字を知らねえね、七ってのは七夕《たなばた》のタナだぜ!


 このように、常用外の読み方があるおかげで広がる文化……という見方もできる。
 しかし無駄にややこしくしているだけ、と思うことが私は多い。

 そもそも「漢字」という体系そのものが、人類の脳に無駄なストレスをかけている、という考え方を私はとっている。
 明治維新前後、列強の圧力にさらされた東洋の当時の知識人たちが、魯迅や孫文など当の中国人も含めて、この件についてはだいぶ掘り下げている。

 長くなるのではしょるが、結果として中国には「簡体字」というものができた。
 歴史は浅く、1950年代の漢字簡略化法案に依拠している。

 画数が多くて、おぼえるのに無駄な労力を強いられる繁字体を排し、日本語の漢字よりも簡略化された簡文字を用いる、という法律だ。
 おもな使用者である中国人自身、こいつのせいで発展が遅れた、と認めているといっていいだろう。


 まあこのへんは結局、バランスの問題で、26文字に集約できればすべて解決というわけではない。
 ある程度の「遊び」を許容する程度には、人間の脳には余力がある。

 そこで、その遊びを許容する「程度の話」になってくる。
 私はめんどくさい当て字に出会うたびに「イラっとする」くらいの器の人間であることは、すでに告白してあるとおりだ。

 東海林太郎。
 本名なので当人に責任はないし、そもそも、いいわるいの話はしていない。

 だれでも読めてほしい、まちがえる余地がないほうがいい、という要求には沿わないという事実の話だ。
 歴史上の人物に、こんなのはいくらでもいる。

 だから私は、自分の名前をかな表記しているのだと思う。
 日本人ならだれでも読める、なんならカナを学んだばかりの外国人にも読んでもらえる、そういうひとに私はなりたい。


 脳は、もっと有意義なことに使うべきだ。
 私が現在やっていることがそれほど有意義かはともかく、当て字にはあまりキャパシティを割きたくない。

 要するに自分の低能をさらけ出しただけの話だが、低能だけにその使い道は重要だ。
 低能でもその力を有用な方面に集約できれば、それなりのことができるかもしれない。

 漢字という無駄な体系は、ある程度厳選されてもいるし、よろしい認めよう。
 音読み訓読み、しかたない文化だ認めよう。

 しかし当て字……やりすぎだろ!
 集約を邪魔する夾雑音、それが当て字だ。

 読めねえよ、というキラキラな名前をつける親御さんには、耳の痛い話かもしれない。
 あくまでも私ごとき低能の話なので、お気になさらず。


 世の中には、洗濯物をたたむことから、漢字の当て字まで、無駄だと考える人々は一定数いる。
 そう思わない人々もいて、みんないい。

 戦中前後の楽曲を聞きながら、そんなことを思った。
 もちろん、さきほど取り込んできた洗濯物は、たたまない。