私は乳糖不耐症なので、あまり牛乳を飲まない。
牛乳の健康効果については「むしろ害悪」とする意見もある(そのせいで飲まなくなったわけではない)。
将来の飢餓に備えて虫を食うという文脈の一方、膨大な食品ロス、大量に余って廃棄されている牛乳という現実がある。
保存できる加工食品にすればいいという意見もあるが、百も承知でフル稼働しても消費しきれないのだという。
というわけで、政府がホルスタインの殺処分に補助金を、などという話になってくる。
いろんな違和感が押し寄せる現状には、うまく整理がついていない。
卑近な話に引き寄せていえば、冒頭に書いたとおりだ。
牛乳はまったく飲まないが、加工食品ならお腹はゴロゴロしない。
一時ヨーグルトなどをよく食べていたときもあるが、食べるとしたらそれくらいだ。
牛乳を利用した代表的な加工食品であるチーズには、あまりいい印象がない。
アメリカ英語の俗語で、チーズといえば、うそ、まがいもの、ろくでもない。
チーズのふりをしてそうではない商品、劣悪な品質のものが多かったせいだろう。
あくまで個人的意見だが、食品としてのチーズをおいしいと思ったこともあまりない。
写真を撮るときに日本人が「チーズ」と言うのは、もっといやだ。
チーズと言いましょう、と英語圏の人間が言えばアクセントが「チー」にあるので口は「イ」の形になる。
しかし日本語で「チーズ」と言ってしまうと「ズ」、つまり「ウ」の形になる。
とうてい笑顔にはならないのに、外国の猿真似「チーズ」がそのまま使われているという倒錯的状況については、文化として受け入れてはいるがとても苦々しく思っている。
放送の第一線からビデオテープが消えても、アナウンサーがVTR(ビデオ・テープ・レコーダー)という言葉を使いたがるのに似ている。
まあ言葉の問題は些細なことだが、味覚的にもチーズという食品は好きになれない。
まずいとは言わないが、人間の味覚が「カロリー魔王」の多くをおいしいと感じるようになっているだけの話だ。
最近の食生活を顧みると、肉はもちろん乳製品すらほぼない。
タマゴと、めんつゆに使われる魚介だしくらいは食しているが、それ以外はほぼベジタリアンに近い生活といっていいだろう。
自分が殺せない生き物は食べない、というビーガンの根本思想には一定程度同意する。
本物のビーガンは、肉はもちろん乳製品も口にしないという。
狭い小屋に閉じ込められ、奇形的肉体に改造されて、体液を搾取される。
工業製品化された生物、人間のエゴによって生み出された製品。
自分がされていやなことは、家畜にもしてはいけない。
納得のいく理由だ。
とはいえ植物だって、大いに改造されている。
なぜ植物はいいのか? という倫理の問題はさておこう。
植物にとってはむしろ改造され、適応すること自体が生存戦略かもしれない。
人間がいなければこれほど栄えなかった植物種が、どれほどあることか。
植物の気持ちはわからない……が、改造されたホルスタインが幸せに思っているかどうかには、疑問の余地はある。
人間がいなければ生きられないペットと同じで、ある種の「みにくさ」があるのは事実だ。
かといって、需要に応じて供給しているだけの社会そのものを否定するところまで踏み込むつもりもない。
奇形に頼るしかないレベルまで、人類社会が変質を遂げてしまっただけの話だ。
持続可能という視点で分類する「運動」は広がっている。
やり方によっては人口100億くらいならなんとかなる、という見方もあるようだ。
国連の人口動態推計も、かつてはあっという間に100億を超えて破綻する的な危機感をあおっていた時期もあった。
現在は、100億手前で上昇率は鈍化し、ゆるやかに安定傾向になると修正されている。
似たような例で、21世紀には石油がなくなる的な「あおり」は、20世紀後半当時、うんざりするほど流布されていた。
現実にはあと100年はいけそうらしいので、またぞろ化けの皮が剥がされたわけだ。
マスコミは、なにがしたかったのか?
もちろん「あおり」ビジネスだ。
石油業界などの既得権をぶちのめしてやろう、といった個別の目的をともないながら、なんらかのムーブメントを起こすこと自体が利権である。
結果的には、私のような懐疑主義者を増殖させていく効果を発揮したわけだが。
20世紀の浅はかなマスコミのおかげで、私自身まずは疑うという精神を涵養される効果は、たしかにあった。
21世紀のマスコミも似たようなことはやっているが、昔ほどあからさまではなくなったという意味で、成熟した社会は徐々に築かれていくということなのだろう。
中国人にも「政府の発表は信じない」という人々が、一定のボリュームゾーンを形成しているようだ。
昨今のゼロコロナ政策でも、終盤すでに国民の何割かは感染しているだろうという状況のなかで、数人とかいう規模の感染者数を発表している地方政府には、さすがに吹いた。
まあこれは主語が共産党なので、すこし話はちがうかもしれない。
共産党に都合がわるい情報以外の報道の自由は保障する、という「環境に適応」しているのが、現在の中国人という認識が適切だろう。
いわゆる自由主義陣営にも、考察の余地はかなりある。
国民の多くが発信者になれる時代においては、自由の弊害をこそ意識すべきだったりする。
直感で怒鳴り散らす瞬間湯沸かし器のような性格の人間はまれによくいるが、行動するまえに6秒だけ深呼吸しましょう、というアンガーマネジメントはある程度有効だ。
昨今、感情に任せたブログ記事やクソリプなどが炎上している案件にも、この指摘はじゅうぶん援用できる。
目のまえにある情報だけにフォーカスせず、物事を広く見渡すこと。
本ブログでもその点、努めていきたい。