私はものを書くために、よくものを読む。
さまざまな「人間」を知るために、ニュースは最適だ。
そうして読めば読むほど「人間ぎらい」が昂進する。
いくつか、わかりやすい例を述べよう。
まず「政治家」という時点で、ある程度お察しだろう。
とくに彼らの言動でくりかえされている、ブーメランの数々。
検索してもらえれば、さまざまな「傑作選」が出てくる。
昨今の「サル発言」には辟易した。
要するに「おまえが言うな」だ。
彼らは日常的にろくでもないことをやっていて、相手がやったらたたくけど、自分のほうはこっそりやり遂げたい、という正体が透けて見える。
もう政治家ではなくなったが、ガーシー氏もそうだった。
泣きながら「おかんは勘弁してくれ」ときた。
俺は弱点突くけどね、というかつての発言を引用して、ひろゆき氏が突っ込んでいた。
この自分から当たりに行くスタイルには、さすがにすこし笑った。
そう、もはや彼らの行動、言動は、お笑いの域に達しているのだ。
逆に言えば、大阪で「吉本に放り込まれる」ような特殊な性格の持ち主が、まかりまちがって政治家になるのだろう、という諦観すらおぼえる。
自己矛盾にどこまで気づけるかは、論理的な思考ができるかどうかだけだ。
気づいたうえでやっているとしたら、それは確信犯だ。
この件でも感じたのは、「自分は特別」と信じているサイコパスっぽさである。
環境が彼を変えたのだとしたら、ソシオパスでもいい。
そういう「フリ」で得られうる、なんらかのメリットだけを目的にしている。
わかりやすいのは、ただ再生数を稼ぎたいだけの炎上商法だが、それだけだろうか。
社員が他責思考で経営がうまくいかない、どうしたら自責思考に変えられるか。
と、相談している経営者がいた。
自分自身の他責思考を、まずはなんとかしろ。
という回答が寄せられた。
的確だ。
これは経営者がすべき相談ではない。
自分に都合のいいように自責思考を要求する「上の人」こそが、いちばんの他責思考者である。
世の中には、まずは他人のせいにしたがるひとというのが、一定数いる。
本人は無自覚で思考停止、管理職はただのイエスマン、まともな人物から退社していく。
そうして地獄のような会社組織が残る、という死の行進曲は世にあまた、あふれているらしい。
自分のせいにしたくないから、他人のせいにする。
必ず一定数いるのだが、こういうひとは「社員」であるべきで、けっして「上司」になってはいけない。
プリンシパルとエージェントの利害は、しばしば対立する。
いわゆる「エージェンシー問題」は、社会の基層を成すとさえいっていい。
言われたことをやって時給を受け取るだけというバイトの考えと、能力のかぎりを尽くして最大限利益に貢献しろ、という経営者の考えの落差だ。
「どうすればできるのか考える」ことを従業員に求める経営者は、自分の会社が思い通りにならない理由を探している。
あなた自身がまず「どうすればできるのか考え」なさい。
よしんば「社員がちゃんと考えないから」だとして、あなたは社員に考えさせるために、なにをしましたか?
まずは上の人間に意識改革を求める、コンサルの指摘は的確である。
そんなことは言われるまでもないのだが、その程度すらできない経営者や上司というものが意外に多いということだ。
そうして行き着くところが、犯罪者だ。
おしなべて犯罪者の集団が、最近悪目立ちしている。
ロシアのえらいひとが言っていた。
(自分たちが侵攻した)責任はすべてウクライナが負う、と。
いや侵攻したのおまえじゃん、なんで相手のせいにしてんの。
みんなそう突っ込みたがるが、犯罪者が相手だと一筋縄ではいかない。
もちろんロシアにはロシアの理屈がある。
彼らはとりあえずそれで仲間たちさえ納得させられれば、他国民が納得するかどうかはあまり関係ない。
そういえば大日本帝国が真珠湾を攻撃した理由も、アメリカが石油を止めたからだった。
言うまでもない、わるいのはアメリカだ。
そのアメリカは、歴史上、他の追随を許さないレベルで……すさまじい。
テロリストがいるだけで他国を攻撃する、というアクロバットに打って出たときは、さすがの私も正気を疑った。
俺のせいじゃねえよ、テロリストのせいだよ、と。
それ通用したら、もうなんでもアリでは?
もう意味がわからないレベルの大悪党どもが築き上げたのが、近代史だ。
悪事を重ねたヨーロッパ勢に、ポッと出の小悪党たる日本が挑んだところで勝てるわけもない。
そのアメリカも、今回の侵攻に対して全責任はロシアが負うと言明した。
すべての政治家はヤクザなのだから、それはそうなるだろう。
たとえ自分の側の問題であろうと、とりあえず相手にせいにしておくところから関係をはじめたい人々が、蔓延している世の中。
わるいのはだまされたほう、わるいのは殴られるようなことをしたほう、わるいのはウクライナ……。
個々の案件で、その主張が正しいかどうかを精査するつもりはない。
すくなくとも、そういう考え方の人々が、この世には蔓延していること自体を問題視したい。
自分の側の問題については、あまり考えたくない種類の人間というのは、たしかに一定数いる。
彼らの選択肢として、不可避的に残るのが「相手のせい」だ。
むしろ、この手の人間が「目立つ」ということ自体、それを「おかしいでしょ」と思っている人々がそれなりに多い証左──と考えれば、まだ希望はある。
それにしても、まだ私には人間が「信頼するに足る生物」だとは思えない。
契約に縛られる悪魔のほうが、よほど信用できるのではないかとさえ思う。
そんな小説を、長く書いている。