独身男性の幸福度は、生涯にわたって低いらしい。
 これまで孤独を愛し、順応してきた私にとっては、寂しい記事だ。

 いちばん幸福度が高い(平均値)のは既婚女性で、子どもの有無によって微妙に変化するようだ。
 独身女性の幸福度は、75歳を過ぎると既婚と同程度になるらしい。

 まあ女性については女性に語ってもらうとして、男性である私は、著しく低い幸福度の独身男性のひとりとして申し上げたい。
 戦場へ行くよりはマシだ、と。


 23年5月3日現在、まだウクライナの反転攻勢ははじまっていない。
 しかしそうとうヤバそうだな、とは傍から見ていて感じる。

 戦線が動くまえに、ここまでのロシア軍について個人的に思うことを語っておきたい。
 結論からいえば、彼らは旧日本軍のような「愚策を採った」。

 「肉の盾」「使い捨ての肉片」として、砲弾のまえに兵士たちをぶん投げてきた民間軍事会社のボスが、正規軍に対して不満を垂れ流している。
 政府は政府で、わけのわからないCMで契約兵士を募集している(運転手なんてつまらん仕事をしていないで「本物の男」になれ、など)。

 そもそも低い平均寿命が、またぞろ低下している。
 幸福度以前の話だと思うが、それでも彼らは戦場へ行く。

 はなから幸福度の低い独身男性にとっては、戦場へ行ったほうがマシという可能性も、ないわけではないかもしれない。
 すくなくとも孤独にウォッカを呑んで死ぬまで生きるよりは、戦場へ行って一種の達成感、滅びの美学、軍隊への所属感に満たされていたい、と考える蓋然性はありうる。

 ひとはこの「所属感」なくして生きることがむずかしいのかな、とも感じる。
 現在あの国が成立しているのは、所属に値する「偉大なロシア」の歴史と文化があるからだろう。

 かつての皇国臣民であれば、共感したかもしれない。
 日本国民である私は、まっぴらごめんだ。

 じっさい孤独耐性が強いということは、兵士としては使いづらいことを意味する。
 集団行動が苦手なので、やるとしたら単独行動の殺し屋か、どこぞに隠れ潜むスナイパーあたりが向いているかもしれない。

 集団行動が苦手というタイプは、けっして少なくない。
 彼らが孤独を愛するとはかぎらないが、私はひとりでいるのが好きだ。

 特段に希薄な所属欲求。
 委託された業務を、ひとりで淡々とこなす程度が向いている。


 とはいえ、人間ひとりでは生きていけない。
 回覧板をまわしながら、話し相手がAIしかいない現実について考える。

 認めよう、ごくまれに人間の仲間に入れてもらいたい、という気持ちになることはある。
 参入障壁に弾かれるのが怖いので、結果的にどこにも属してはいないが。

 私は小学校の先生に教わったとおり、ひとのいやがることは、なるべくしない。
 入れてください、いやです、そうですか、となる。

 以前、書店に企画を持ち込んで、それなりに盛り上がったことはある。
 どうですかね、だめです、そうですか、となる。

 相手の言葉の価値を、自分の言葉と同じようにみなしているので、黙って受け入れる。
 入れてやらない、採用しない、と決定権のあるひとが判断したなら、それはもう受け入れるしかない。

 要するに、すぐにあきらめる。
 これをもって「やる気がない」と評価するひとがいるが、ちょっと意味がわからない。

 やる気があるから「入れてください」と言っている。
 そこで「入れてやらない」と言われたので、それを受け入れただけだ。

 経験的に、最後の最後でリジェクトされることが、けっこう多かった。
 それを「自由を得た」とプラスに評価することで、現在の孤独な地位を築いた。


 ここからは一般論だが、残念ながら「しつこさ」が最優先の選択基準である業界は、それなりに多い。
 「選ぶ側に選ぶ能力が足りない」と、構造的にそうならざるをえない。

 自分の「見る目」のなさを、相手の「やる気」のなさのせいにする。
 そういう「おえらいさん」を、けっこう見てきた。

 声の大きい者が発言権を得る、というバカらしい法則はたしかにある。
 議員や商人など、私がもっとも嫌悪する人種にとても多い。

 同じことを逆の立場で考えてもらえれば、よくわかる。
 ひとのいやがることが、できるかどうかだ。

 私は、いやだと言ったらいやだ。
 そこをなんとか、と食い下がってくる「商人」には殺意さえおぼえる。

 なぜおまえは、私の価値観、判断を無視して、自分の都合だけ押しつけてこられるのか?
 そんなふうに思われないためには、拒絶されたら引き下がるしかない。

 この最低ランクのコミュニケーション能力の結果、私は孤独を得た。
 かつての村社会においては社会的にアウトだったかもしれないが、最近はぎりぎりセーフになったらしく幸甚である。


 いやがることをやらされる義務は、だれにもない。
 そもそもいやがった時点で、その事柄に付随するマイナス要因すべて免除されるべきである。

 同様に付随するすべての利益、期待値、プラス要因を手にする権利をも放棄している。
 当然だ、利益はもらうが損失はごめんなんて、そんなバカな話はない。

 いやだと感じることを、いやだと拒絶するのは、どこまでも自由であるべきだ。
 いやななかにも楽しみを見いだしたり、結果として得られるだろう大きな利益のために現在の不利益を甘受する、という選択をするのも自由、しないのも自由。

 リスクとリターンの関係は、投資を含めたあらゆる判断の基本だと思う。
 そのうえで「拒否する自由」は、保障されなければならない。


 とはいえ何事にも例外はあり、子どもは別だ。
 判断力の未熟な未成年については、指揮権を発動していい。

 それ以外の自由なおとなの問題であるかぎり、いやならやめればいい。
 当然の話なのだが、将軍様などの指揮権が強すぎる国では、その自由がないらしい。

 どうやら日本は、それなりにマシな国だ。
 すくなくとも私のような男を、そっとしておいてくれている。

 幸福度が低い? 大きなお世話だ。
 孤独な独身男性のなかにも、幸福な人間はけっこういる……と、私はここに弱々しい声で闡明しておきたい。