ようやく選挙が終わったらしい。
たいへん不愉快な時期が通り過ぎたことに、ホッとしている。
私は投票しない人間なので、結果についてなにも言う資格はない(らしい)。
が、一応は知見として何件かのニュースに目を通した。
そのなかで数少ない同意できる記事は、選挙カーで名前を連呼しない、という選択をとった立候補者の多くが当選したことだ。
まともな結果に安堵した。
私は投票権を半ば放棄したような人間ではあるが、もしどうしても投票しなければならないという局面に陥ったら、まず最初にやることがある。
昼間寝ていることの多いこの耳に、クソみたいな名前を注ぎ込んだ立候補者には、けっして投票「しない」ことだ。
大音量でひたすら名前を……候補者名「だけ」を連呼する。
ド田舎のうちの近所にも、何度かやってきた。
そんな選挙カーを眺めながら、度し難い候補者自身はどうでもよいが、有権者諸氏に言いたいことがひとつある。
あんたらバカにされてますよ!
当然、政治家が無駄なことをするはずがない。
彼らがやっていることには、それなりの理由がある。
街宣車の文化は、おそらく昭和までは絶大な威力を発揮した。
現在より愚かな人間が多かっただろう時代においては、かなり有効な「宣伝」のひとつだったのだ。
べつに昭和の民を見下すつもりはないが、全体として選挙の認知度や教育水準は低かった。
事実、一部の低能は、脳に刷り込まれた名前を、機械的に書いてしまう。
冒頭の記事から推し量れば、その効果はかつてほどではなくなっていると思われるが、それでもまだ無視はできない。
残念ながら、強制的に候補者名を伝える「音出し連呼」は、集票効果が高いのだ。
という事実まで理解して眺めると、選挙カーはこう言っているように聞こえないか?
「聞こえた名前くらい書けるだろうバカどもが」。
そうして、われわれを罵倒している当事者の名前が、えんえん連呼されている。
だれが投票するんだよ、そんなやつに……まあするんだよね、だからやってるんだよ……。
すくなくとも投票しない私のようなタイプの人間にどう思われようが、この政治家どもにはなんの痛痒もない。
残念だが認めざるを得ない、彼らは合理的な選択をしている。
社会心理学的にいえば、単純接触効果とかザイアンス効果といったものに近い。
好感度とは関係ないが、得票には結びつく、という研究もある。
あらゆる手段を駆使しても当選しなければ、彼らは「ただの人」になってしまう。
目的に対して手段を択ばない、そういうタイプが政治家には向いている。
こいつらサイコパスなんじゃないの、と思うこともある。
人口の数%はサイコパスらしいので、べつに悪口ではない。
脳のどこかが「ぶっ壊れ」ていて、まともな人間にはできないことも平気でやる。
経営者や政治家などでは、この特性が有利に働くこともある……。
さて、話は変わるが、私は小説を書いている。
東京を舞台にしたファンタジーSFホラーが、最近のメインだ。
群馬というド田舎に暮らしているので、東京の雰囲気にはほど遠い。
そこで取材がてら、よく「お散歩動画」を観ている。
作業用動画としても汎用しすぎたおかげで、東京の景色を見ただけで、だいたいどのあたりかわかるようになってきた。
変な売り子がいる時点でもう秋葉原だし、傾斜とか入り組んだ路地裏などで渋谷原宿あたりだなとわかる。
あの特徴的な施設の並びは鶯谷だねとか、いい季節だね目黒川とか、死ね死ねィ(シネシティ広場のこと)怖いね!
と、住んでも通ってもいないのに、やたら詳しかったりする。
で、いつものように秋葉原を眺めていると、新人アイドルらしき十把一絡げの女子数人が路上ライブをしていた。
痛々しい踊りと音程を外した変な歌……私は目をそむけた。
分析しよう。
おそらくこの男、共感性羞恥が強い。
女ではないし若くもない、アイドル予備軍に共感する要素はほとんどないが、それでも目をそむける。
他人の失敗にすら、忸怩たるものがあるのだ。
田舎に引きこもっている現実を説明するのに、このロジックはきわめて適切と思える。
私は「静かに暮らしたい」。
神経がこまやか、感受性が強い、というHPS(Highly Sensitive Person)には、人口の15~30%(文献による)が該当するらしい。
これはサイコパス(数%)よりも多いので、その点では安心材料ではある。
なかには極端にセンシティブ、自滅的に繊細なタイプもいるので、私は軽いほうではあるだろう。
しかし恥ずかしい思いをするリスクの高い場面を避ける傾向は、たしかにあると認める。
そんな私にとって、他者の生活空間に強制介入して平然と自分の名前を連呼できる政治家は、異星人だ。
とうてい理解し合える気がしない。
彼らと宇宙戦争が勃発したら、たぶん負けるだろう。
HPSも数では勝てるはずなのだが、血も涙もないサイコパスが相手では、やはり恐怖が募る。
そこかしこにあるそれぞれの世界が、できればかち合いませんように。
選挙のニュースと秋葉原のお散歩を眺めながら、そんなことを思った。