カルト映画とクソ映画。
 おんなじでしょ? という意見には、すこしだけ同意する。

 趣味はひとそれぞれなので、好ききらいは、いくらでもあっていい。
 少数の人々に評価されている作品が、多数の人々にとってクソだったりすることは、よくあることだ。

 たとえば私は三半規管が弱いので、画面が無駄に揺れるだけで評価が下がる。
 とはいえPOV全盛当時、揺れない映画を探すほうが困難だったりもした。

 そうして最初から負のバイアスがかかったカルト的作品を、個人的には評価できない。
 逆に世の評価が芳しくない作品も、個人的にツボにハマることは、まれによくある。

 世に駄作と呼ばれている作品群も、じつのところ、それ自体きらいではない。
 すくなくともマーケットというフィルターは通過しているわけだし、さすがにひどいだろという配給会社はあるものの、最初から覚悟しておけば観れないこともない。

 残念な「商人」たちが、いかに詐欺的な宣伝手法を駆使して、われわれにその駄作を届けようとしてくれたとしてもだ。
 そのなかからマシな部分を抽出できたとしたら、それこそ詐欺被害者にとって唯一の勝利ではあるまいか。


 くりかえすが、楽しみ方というのは人それぞれだ。
 いかなる趣味嗜好も、基本的に否定しない。

 たとえば私は、カルト(クソ)映画の多くを倍速で処理する。
 しかし、それらを全部等速で観る、という苦行を自分に課しているマニアさんのことも、なんとなく理解はできる。

 世の中には、ある種のハードルをクリアしないと理解できない不親切な映画というものが、一定数ある。
 相応の向き合い方で、この愛すべき駄作を評価する人々によって、いわゆる「カルト」が結成される。


 映画のレビューサイトは多数あるので参照されるとわかるが、そこからも一定の傾向が汲み取れる。
 ひとことでいえば「毀誉褒貶著しい」のがカルトだが、さらに一段階こじらせていたりするとホンモノだ。

 星は高いがコメントで苦情を縷々述べ連ねているものと、星は低いがコメントで褒めているもの。
 個人の内面ですら、かなり混乱している。

 カルトなので冷静に見てつまらない、よって星2など低評価。
 しかし良い部分はこれだけ見つけているので、低評価も許してほしいというコメント。

 一方、カルト映画で評判が高いので、とりあえず星5は入れておく。
 しかしこのようにつまらなかった、という愚痴めいたコメント。

 どちらの姿勢も理解はするが、共感までいたることは少ない。
 カルト(クソ)映画とは「むずかしい概念」なのだ。

 カルトというバイアスをかけずに観るか、そういうわけにもいかないか、という二択の現状を示すのが、上述のレビュースタイルにあらわれている。
 製作者の姿勢や、マーケットそれ自体も鑑みないわけにいかない。

 シリーズもので固定ファンがついている場合など、顧客同士の乖離も顕著になる。
 続編を出してくれただけでありがたいファンと、厳しくみるアンチ、そして冷静に評価する一般人……いやはや、むずかしい。


 事実「クソ映画」は世界各国で量産されている。
 私も正直、けっこうな割合でムカついてはいるのだが、それなりの価値がないわけではないこともないような気はする。

 『死霊の盆踊り』を観たときに思ったのは、「史上最低」の映画おもしろいなあ、だ。
 うわさの最低映画ということでハードルは低め、というアドバンテージはあるにしろ、「鞭で打たれる猫」にはクソ笑った、認めよう。

 最初から惹句が付与されるような伝説的作品ゆえ、という部分はある。
 同じことを現在の新人監督にやられても、それはダメだろう。

 現在でこそ映画は娯楽の王道だが、最初からそうだったわけではない。
 留意すべきは作者の性根と才覚で、なかでも「制限された条件下でどれだけのことができるか」は重要だ。

 予算がない、政府が介入する、宗教が妨げる、置かれた状況によってさまざまなリスクはあろう。
 見て取るべきは、それにどう立ち向かっているかだ。

 いわゆる「芸術」が内包する「反抗」は、同時にプロパガンダとしても使いやすい。
 とくに総合芸術と呼ばれる映画などは典型だ。


 イスラム法学者に気を使わなければテロ対象になったり、赤い旗を振る政府に逆らったら収容所送りだったり。
 世界には事実、そのような「背景」がある。

 その現実に抗う力の具象もまた、「映画」である。
 たとえばアメリカ、中国、サウジアラビアに、どれだけの「才能」があるか(育てられているか)の指標として眺めると、たいへん示唆に富む。

 そのとき、できることをやった。
 結果、こうなった。

 作品に凝縮されているエッセンスを、できるだけ汲み取って判断する。
 あげくに吐き気を催すこともあるが、それは私の責任だ。

 圧倒的に才能が足りない監督や俳優は、事実いる。
 それをどう味わうかの才能を、こちらが発揮すればいい。

 自分が否定されないかぎり、他人を否定したくない。
 いきなり他人を否定していくスタイルのひともいるだろうが、その場合は否定し返されることだけ覚悟していればいい。

 最低限のルールで、じゅうぶんだ。
 好きなことを、好きなようにやっていこう。