前回、カルト(クソ)映画について、ゆるい意見を吐いた。
今回は、やや厳しめな見方を残しておきたい。
世の中にはクソ映画というものが、まれによくある。
ほぼ全員が一致して唾棄するだろう映画の一方、とりあえず一般人には向かないが一部好事家には好まれる映画については、「カルト映画」と評価されることもある。
映画は総合芸術であり、自由度の高い創作活動だ。
学芸会レベルの質そのものへの疑義から、思想的にどうなのという「見解の相違」にすぎないクソまで、さまざまあっていい……とは思う。
一部の人々の心にはヒットすることもあるわけだし、全否定はしない。
むしろクソであればあるほど、偏愛する変人も偏在する……ことは認めよう。
とはいえ、いくらなんでもひどいだろ……。
という映画を、最近つづけて観ている。
配給会社が介在し、市場に流通している商業作品でもあるので、あえて言わせてもらう。
──おまえらは限度を知らないのか。
いわゆる星1台の、なぜこの映画の流通が犯罪として立件されないのか、というレベルの作品は一定割合で存在し、私のような好事家たちによって消費されている。
できるだけ「見どころ」は探すが、見つからないこともままある。
たとえば量産された「サメ」とか「心霊」系は、どこぞの層に引っかかったがゆえに量産された。
しかし多くは事故物件で、結局どの層にも引っかからず、まっしぐらにすべり落ちているケースが往々にしてある。
配給会社に言わせれば、好んで地雷を踏みに行くあんたみたいなタイプは、このくらい痛いのに当たらないと感じないんでしょ?
ということなのかもしれないが、あえて言葉を返したい。
私のような無差別悪食家をもってしても、3倍速がなければとうてい最後まで耐えられない質の映画。
これをリリースしようと思った、おまえ、いいかげんにしろよ!
自分自身、記録した再生数1が彼らを「甘やかしている」可能性について、反省する必要性すら感じる。
しかし、観てみなければ判断できないという本質は、いかんともしがたい。
自己省察も含め、分析しよう。
この謎の需要(地雷を踏みに行くタイプ)のなかで、まず考えられるのが「ダメ出ししたい」層だ。
世の中には一定割合で、ただ「文句を言いたいだけ」という人々は実在する。
言われる側ではなく、もっぱら言う側の問題だ。
たとえば激安のトンカツ店を低評価する理由で、「高級店よりまずい」というのを見かけたときは驚いた。
そりゃそうでしょう、だったら高級店はなんのために存在するんですか。
1個15円の激安ぎょうざを売っている店で、「具が少ない」と文句を言っている客もいた。
追い出さんばかりの勢いで、向かいのスーパーをオススメしていた店員は正しいと思う。
いずれの客も、「安い」ことの意味をよく理解していないか、ただ「文句を言いたい」だけだ。
この場合、どちらかといえば被害者は店側だろう。
一方、まがりなりにも映画を批評している層では、そこまでレベルの低い人士はあまり見受けない。
批評という時点で、一定の知識量が求められるせいもある。
自分が被害者だと強弁はしないが、すくなくとも批評を伴って発される苦情は、ある程度まで合理的だと思う。
つまりこの場合、どちらかといえば「わるいのは配給会社」だ。
たとえば、こういうライティングはやったらいけませんとか、こういう編集はダサくて笑われますよ、と映像の専門学校で教わるようなことを全部やっている映画がある。
知識のある人間が見たら突っ込みたくなる典型的な「釣り」にもみえるが、ほんとうに能力が低いだけの可能性もある。
知識がなくても突っ込める映画は、さらに低級といってよい。
いちばんわかりやすいのは、やはり俳優だろう。
視界の外から殴られるシーンで、殴られるまえに目をつむってしまうとか。
脳天を撃ち抜かれて水に沈むシーンで、まばたきしながらついには耐え切れず目を閉じてしまうとか。
俳優の演技力がわるいのか、キャスティングした事務所がわるいのか。
撮り直しの予算がないせいか、OKを出した監督のせいなのか。
ちゃんとつくろうとしていることが伝わってくれば、まだしも。
予算と才能が圧倒的に足りないせいで、とても残念な仕上がりの映画ばかり、最近あまりにもよく引き当てている。
時代考証など完無視で、語尾だけ文語調、衣装だけ平安朝で、顔は茶髪の細眉とか。
役作りもクソもなく、テキトーに演じて雑に編集した、二流アイドルのプロモーション映画とか。
地味に多い謎映画といえば、人気絶頂のグラビアアイドルが、というような惹句で見知らぬ女たちが棒読みしている、学芸会映画。
目的が映画ではなくプロモーション、それもかなりのやっつけ仕事……。
それでもジャケ写だけはりっぱ、というか予算半分これに使ったろ。
写っている美女やモンスターや兵器は、作中にはいっさい出てこない、知ってた。
画像はイメージです。
個人の感想です。
という世界には、それはそれで楽しみ方はあるらしい。
最後まで観ると、謎の達成感があったりもする。
「文句を言ってもらうために作りました」という前提なら、説得力はある。
言い換えれば、作品自体の説得力はない。
あらためて言うまでもないが、「説得力」はとても重要だ。
ヒーローなりヒロインなりが、めちゃくちゃ強い、という設定はきらいじゃないが、その展開に説得力がないとげんなりする。
具体的にいえば、身体づくり。
ある程度の筋肉や、キレのある動きを見せてくれれば、それなりに納得はできる。
たとえばミラ・ジョヴォヴィッチが評価されたのは、一定程度の身体づくり、訓練を受けていたからだろう。
チャンバラ映画の殺陣にしろ、SF的なアクションにしろ、俳優に説得力があるかどうかはキホンの「キ」だ。
設定がトンチキでも、キャラがぶっ飛んでいても、それはそれで魅力的なときもある。
ともかく画面に説得「力」さえあればいいのだ。
しかし原作ありきなのか、スポンサーの意向か、あきらかにアンバランスな武器をふりまわして、大の男がばったばったとやられていく。
あるいは、ただの痩せた女が、屈強な男たちを「ふつうのパンチで倒」している。
まがりなりにもアクション映画で、そのアクションに説得力がないのは、いかがなものか?
おとなの事情でキャスティングされた、ただのアイドルだかモデルだかの女に期待すること自体がまちがい、と言われれば、なるほど、そうかもしれないが……。
説得力のハードルを、どこに置くか。
私が日本のアニメやラノベを苦手としているのは、その基準の置き方に問題があるからかもしれない。
華奢で、変なメガネかけてて、なんかケガしてたりするけど、敵のアジトに乗り込んで悪者を全滅させる。
美少女TUEEEE系という言葉があるのかどうか知らないが、正直、見れば見るほど萎えてくる。
その手の映画ばかりを観ていて、無駄になった一日の雑感として、この記事を残しておきたい。
私はこれらを「仏滅映画」と名づけることにした。