皆さんこんにちわ。ご機嫌いかがですか?コーネリアスです。
今回は、栗林忠道という人の言葉を取り上げてみたいと思います。この栗林さんと言う人は、旧帝国陸軍軍人だった方です。かの有名な激戦、硫黄島の戦いの際の日本陸軍第109師団師団長、海軍も含めた小笠原兵団長兼務の、まさに硫黄島の戦い時の日本軍総司令官だった方です。かの戦いは大変な激戦であったそうです。最近ではこの事はクリントイーストウッド監督が、『硫黄島からの手紙』でハリウッド映画化し有名となったところです。あの映画で渡辺謙が演じたのが、この栗林忠道という人です。
私コーネリアスは、この時期になると、いつも先の大戦の終戦と原爆投下に思いを馳せます。というのも、以前もご紹介しましたが、私の身内に旧帝国陸軍軍人が居たからです。父の叔父さんに当たる方、私から見れば大叔父ですが、この方は旧陸軍少佐として、ガダルカナル島の戦いで戦死なさいました。なんか旧陸軍と言うと、支那大陸でも中国と戦争をしていたり、日米戦も積極的に主導した、戦争好きの悪の権化のようなイメージがあり、逆に旧海軍は、実は山本長官や米内海軍大臣は対米非戦論者で本当は戦争したく無かった、陸軍の暴走に引き回されたのだといった印象があります。しかし、最新の研究ではこの点については、米国政府が公開した資料等によると日本陸軍が積極的に主導したのでは無い事が判明しています。当時東條英機始め陸軍サイドは、石油獲得が最大目的であったので、西方、南方(インドネシア、マレーシア)に強い関心があり、従ってアメリカとは戦う気などさらさら無かった、寧ろアメリカを刺激するなとさえ言っていたのです。じゃ、どうして…となるかと思いますが、こうした事についてはまた別の機会でご紹介したいと思います。ま、こうした因果もあり、日本陸軍と言えば、この方の事も忘れるわけにはいきません。それが栗林忠道陸軍中将です。そもそも、この硫黄島の戦いは終戦末期の戦いでした。日本の敗戦が濃厚となって来た時でした。日本軍と米軍が地上戦を戦ったのは、この硫黄島と沖縄だけでした。当時この島には飛行場もあり、もし此処が米軍に占領されると、此処から東京始め日本本土への空襲が非常に容易になる為、米軍としては何としてでも攻め落としたい要所でした。逆に日本側から見れば、何としてでも死守したい場所でもあったのです。此処に最高司令官として赴任してきたのが、栗林陸軍中将(当時階級)でした。この時既に栗林中将は、『覚悟』が出来ていたようです。この時の日米の戦力比較は以下の通りです。
★総兵員数
日本🇯🇵→22,786名
米国🇺🇸→110,000名
★艦隊・戦闘機数
日本🇯🇵→無し
米国🇺🇸→空母16隻、戦闘機1200機、戦艦8隻、巡洋艦15隻、駆逐艦77隻
★戦死者数
日本🇯🇵→20,129名
米国🇺🇸→6,821名
★負傷者数
日本🇯🇵→詳細不明
米国🇺🇸→21,865名
★捕虜
日本🇯🇵→1,023名
米国🇺🇸→0名
この戦いで、日本はほぼ玉砕状態でしたが、米軍の被害も甚大で、死傷者総数では日本軍を上回っています。戦後米国側での検証によると、第二次世界大戦の中で米軍が最も被害を受けた戦いが、この戦いだったのだそうです。兵力差を見るととても比較になりません。兵員総数では米軍は日本軍の約5倍です。こんな劣悪な状況にも関わらず栗林中将以下、小笠原守備隊の方々は島全体を要塞化し、ゲリラ戦を取り、最後まで徹底抗戦をされました。米軍側は、3、4日で陥落させる予定だったようですが、実際には1ヶ月半もかかってしまい、尚且つ自分らも甚大な被害を被る事となりました。この時の小笠原守備隊の命を捨てた勇敢なる戦い振りについて、戦後米軍側は最大級の敬意を持つに至りました。そして、何度も日米合同慰霊祭が持たれるようになりました。この時彼等日本兵の心に去来していたのは、我々が此処で頑張って1日でも本土空襲を遅らせたい、本土の同胞たちが平安に暮らせるようにしたい、という一念からであったようです…何と言う同胞愛でしょう。これこそが本物の『愛国心』であると強く思います。
そんな栗林中将なのですが、現場指揮官として、また良き家庭として幅広く色々な言葉を残しておられます。彼の熱い言葉、素晴らしい言葉を幾つか以下に記したいと思います。
★栗林忠道中将の言葉
①『国の為 重き努を 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき』
②『仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ』
③『醜草(シコグサ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ』
栗林中将辞世の句です。精一杯戦ったが敗軍の将となった無念さが滲み出ています…因みにご本人は、約400名の部下と共に米軍が占領している飛行場に最後の突撃攻撃を敢行。400名の先頭に立って進み、その際は階級章も外し、抜刀して進撃されたのだそうです。途中足を撃たれ、最早此れまでと最後は銃で自決されたのだそうです。53歳であったそうです。同時に祖国を思う強い愛国心、陛下を心配する心も感じられます。
④『予が諸君よりも先に、先陣に散る事があっても、諸君の今日まで捧げた偉功は決して消えるものではない。いま日本は戦いに敗れたりと云えども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功を讃え、諸君の英霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。
安んじて諸君は国に殉ずべし。天皇陛下万歳!』
最後の突撃前のスピーチ…
⑤『予は常に諸子の先頭に在り』
栗林中将は、この戦闘中頻繁にこの言葉を将兵たちに語り、皆の心を鼓舞しておられました。最後の方は食べるものさえ無くなり、ご自身も満身創痍であったにも拘らず、自分の事は捨て置き、周りの兵たちの事を気がけておられました。多くの将兵たちがこの言葉に勇気付けられたと思います。この姿こそが真のリーダーの姿と言えるでしょう。
⑥『お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になることが出来る人になる事ばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより』
栗林中将は、大変優秀な陸軍軍人であるばかりでなく、同時に大変良き家庭人でもありました。とても筆マメな方であったようで、戦地からも数多くの手紙を家族宛に書き送っておられたようです。この手紙の文面は、次女(たこちゃん)宛に書いた手紙ですが、文面からも良き父親像が滲んでいますね…