こんにちわ。皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです。今回は、これからの我々の教育というものについてお話したいと思います。私コーネリアスは、これまでも教育という事について色々自論を語ってきました。正直、今の特に、現代日本の教育については悲観的な見解を持っています。その中でも私が思う最も大きな問題が、知識量に重きを置く、文科省の考え方です。聖書の言葉(旧約聖書:箴言)にもありますが、『知恵は知識にまさる』と言われています。知恵のある子、若者をもっともっと多く輩出すべきではないでしょうか?その為の教育プログラムを立てて実行すべきと、以前から考えています。

 

 そもそも、知識と言うものは、これ誰だってちょっとだけ努力すれば必ず一定ラインまで伸びます。伸びる筈です。何故なら、本来人には好奇心というものがあるからです。『何かを知りたい…』という欲求は人には生来備わっているわけで、そこをほんのちょっと刺激する、何かキッカケを掴ませる。そうすると人は自然に勉強なり、学習は始めるもの。自然自然知識量は増えるわけです。よほど特殊な人を除けば、この知識量も大体皆同程度だと思います。そんなに差はつかないと思っています。これに対し、知恵と言うものは、経験が絶対的に必要です。例えば、何かに成功したとするなら、そうした成功体験をドンドン積ませる事が必要になって来ると思います。知識は頭の中だけの事ですが、知恵と言うのはそうした知識をベースとして、『何かを創り上げる』、『何かを為し遂げる』事です。つまり実行力、行動力が問われるわけです。形として結実させるという事です。なので、古より知恵のある人、存在というのは、例えばイエスキリストにしても、孔子にしても、釈迦にしても必ずある種の行動、活動をしています。これらは共通しています。だから、『知恵=実践を伴うもの』なわけです。私は今後の教育はこの辺を重視すべきではないかと、強く思います。

 何故なら、AIが登場して来た今日、知識のみの人間は存在意義が問われると危惧しているからです。例えば、圧倒的に知識が多い人が、学者でも何でもいいですが、居るとしましょう。ですが、この人は知恵が足りない。若しくは無いとします。皆さんご周知の通り、今ではchatGPTなるものも現れていて、そのデータ量は一学者の知識量など遥かに凌ぐもの。一般人の我々もこれを自由に使えるわけです。そうすると、『何かを知る』という行為自体は、以前より遥かに簡単に出来るわけで、こうなると、学者のようないわゆる『単なるもの知り叔父さん』的な人は必要無くなるわけです。だってそうですよね。スマホで簡単に調べられるんですから。誰だって簡単に情報共有出来ますからね。で、冒頭言ったように、この学者が知恵が無い人だとしたら、これもう悲劇ですよ。この学者のレベルは下手すると、一般人の我々以下という事になります。もの知りではあるが、それを活かして形にする力、何かを創り出す力が無いというわけだから…一体何の為に学習、勉強して多くの知識を身に付けたのか?という事になります。殆ど趣味でやりましたの世界になります。今後は特にね。でも、周りを見渡すと居ませんか?こんな存在…特に現代日本の中に…知識ばかり多い、頭デッカチ…特に屁理屈ばかり捏ねているリベラル派の中にね。私コーネリアスは、こういう人たちは今後淘汰されて行くと思います。

 

 さて、そんな中、今後の学校教育、とりわけ大学教育なるものはどうなるのか?少し私なりに考えてみました。ハッキリ言って現代の大学で教えている内容には疑問を感じる部分が多いです。これは私自身大学で講義を受けて来て感じている事なので間違い無いです。理科系の学部学科については、問題はあまり無いと思います。そもそも科学なんてものは、論理的手法を駆使しての真理の探究なわけですから、変な思想などで捻じ曲げられる影響は無い。問題なのは人文系です。特に経済学部。実は私も経済学部出身ですが、正直、マルクス主義的教授などが存在している為、共産主義思想や社会主義思想を学生に植え付けようとする人が事実います。私は個人的には共産主義には強い抵抗感があります。この点は、かの三島由紀夫大先生と全く同意見です。共産主義は最終人間をダメにする思想だと信じ、確信しています。現代日本の多くの大学の経済学部はこれではないかと危惧しています。共産主義賛同者を世に多く輩出する機関というわけね。当たり前でしょうね。この教授たちの多くが70年代の全共闘世代なわけだから。要は当時の共産主義者が、ちょっと頭が良いものだから、大学教授になったってわけです。そして経済学なるのもを通して現代の若者たちに体良く共産主義思想を刷り込んで行っている。自分たちが成し遂げられなかった事を次世代に期待しているという風に感じられて仕方ありません。個人的には、こんな大学なら、自分の孫世代は絶対に行かせたくありません…こういう点で問題があると言いたいのです。結局教えている教授も所詮は人間なわけで、自分の思想なんかもあるからね…わからんでもない。この辺、何のバイアスも無しに考えるんだったら、いっそchat GPTを家庭教師というか、教授として、個人で学んだ方が良いかもしれない。変な思想に洗脳、誘導されるくらいならね…実際YouTubeなんかではそう訴えている人たちも増えています。この点は私も賛成です。決して全面的にではないですが…部分的にね。これは大学教授だけの問題ではなく、小中学校、高校も含めて、私は変な人に教師をやって欲しく無い!少なくとも、日本国🇯🇵と日本人、そして日本文化を素晴らしいと感じ、それに誇りを持って子供達に指導出来る人に教師をやって欲しい…そう考えます。でも如何かなあ、日教組って真っ赤だからなあ〜行かせたく無いなあ〜自分の孫は、そんな学校には…いっそ自分で作っちゃおうかなあ〜学校というか塾でも良いからさ…麻生太郎のお父さんかお爺ちゃんがやったように。

 また、もう一つ。これは何も大学だけの問題でもないと思いますが、哲学や宗教の扱いです。義務教育ではまずこの2つは殆ど扱いません。特に宗教。先進国でも日本🇯🇵とフランス🇫🇷。皆さんもご存知の通り、日本には『政教分離』の原則があり、フランスには同様の『ライシテ』が存在します。いわゆる政治と宗教は切り離しましょうね、というもの。まあ、それはそれで良いと思いますが…当然ですが学校で教えませんから、子供達は仏教の事もキリスト教の事も、ましてやイスラム教の事なんて知る由もなしです。果たしてこれで良いのか?私コーネリアスは自身クリスチャンの日本人ですが、これには多少不自然さを覚えます。詳しい教義の中身は別として、せめて其々の宗教のアウトラインや概要紹介ぐらいは教えても良いように思います。でないと、困りますよ、大人になって…多分。この辺、参政党という政党の代表を務めておられる神谷宗幣さんが動画で語っておられました…神谷宗幣さんは、若い時分世界約80カ国回ったご経験があるそうですが、アメリカ滞在中にこんな経験があったそうです。『あなたは日本人なんですね…じゃ、当然日本の神話の事知ってますよね!あなたの国の神話について教えて下さい!』『いや〜すいません…僕不勉強でその辺の事はよく分かりません…』『ええ!?日本では学校で自国の神話を教えないのですか?!…そうですか…残念です…』と言われ、それっきり関係は断たれたそうです。また、別の国では、『あなたは日本人なら、仏教徒なんでしょう?』『いや〜別に仏教をそんなに信じているわけではありません。』『はあ?じゃ、クリスチャンなんですか?』『いや〜別に…特に神も仏も信仰はしていません…』『そうなんですか…』と言われ、これまた関係は断たれたそうです。そう、世界には色んな国がありますが、その多くでは今でも多くの人々が神や仏を信仰しているんです。自分の宗教を持って居るんです。個人的には相手が無神論者でも、私は気にしませんが、そうじゃない人々もこの世には多いという事。この辺も絡めて学校では教えておいた方が絶対良いと思います。そうした事も含めた意味での宗教教育ね。世界の常識から外されない為の。

 哲学についても同様です。私は哲学は全ての学問の基礎中の基礎だと思っています。私コーネリアスの亡き父も生前、『何で日本は学校で哲学の授業が無いのか?あんなもの小学校からやって良いよ、絶対。だって大人になって絶対必要になるから…哲学的思考は…』とね。結局、学校では哲学教わりませんでしたが、私コーネリアスはこんな父から哲学について晩飯時間に良く講義を受けたものでした…一応親父殿も某国立大学中退者で、大学では理工学部だったそうですが、哲学が好きで、デカルト、プラトン他多くの哲学書を読んだんだそうです。そう言ってました…そんな父の影響も確かにありますが、私も哲学というものは重要で、これは早い段階から子供に教えて然るべきだと思っているのですが…また、悲しいかな、最近聞いた情報ですが、日本の各大学は、哲学科なるものに予算を削っているのだとか…代わりに理工系の学部、特にノーベル賞受賞者を多く輩出した学問、分野に沢山予算を付けているそうです。でもこれ私に言わせれば、本末転倒ですよ。寧ろ今は哲学科を増やすべきだと思うんだけどね。次世代の子たちを世界に通用する人物に育てたいなら、哲学こそが最も重要な筈なんだけど…そう思わないんだろうね、文科省の官僚さんたちは…一度でいいから彼等と哲学談義、神学談義してみたいもんですよ…面白いですよ…究極その人間の本当の、本物の『知性』見極められますからね。同時に人間観も垣間見られますから…お願いだからしっかりやってね。この国の未来は偏に教育にかかっているんだからさ!ねっ、文科省事務次官様❗️