ロック古典主義

ロック古典主義

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フレックスにお届けします。

 ナニワのリハビリ道31 2026年8月28日

 1977年、万博記念公園にあった旧万国博美術館を譲り受けて産声をあげた国立国際美術館。

旧 万国博美術館 | 太陽の塔, 未来都市, ダリ

 まさに“万博のDNA”をサラブレッド並みに引き継いだ美術館だが2004年には都会の風を求めて中之島へお引越し。そして気づけば2027年、ついに開館50周年を迎えるという。

 「え、そんなベテランやったん!?」と思わず二度見してしまう

貫禄だが、節目の2026年度はさすが国立、コレクション展を二期に分けて“美術の歩みをきっちり振り返る”という、誠実の塊のような企画で攻めてきている。

 ただ、展示の説明を読んでいてふと引っかかった。ここ現代美術メインの美術館のはずなのに、なぜか19世紀1890年代のセザンヌまでしっかり抱え込んでいるのだ。

「現代美術やのにセザンヌって。まぁ、当時の人からしたら“なう”やったんやろうけども」

と、心の中で軽快なツッコミを入れかけた…が、よくよく考えたらその通りなのだ。

 いま私たちが「古典」と呼ぶものも、かつては誰かが命を削って生み出した「最先端のナウ」。その「ナウ」が幾重にも積み重なってできたのが、今の美術史なのだろう。

 美術館のコレクションとは、まさしく人間の表現が刻み込まれた“地層”そのものなのだと、妙に深く納得してしまった。

 今回の「コレクション1:私/行為」では、くだんのセザンヌから1960年代半ばまでの作品を一挙に開放。 「私」という気まぐれな主体がどう揺らぎ、描くという「行為」がどう語られてきたのかをたどる内容らしい。

 文字だけ追うと卒論のテーマくらい学術的で身構えてしまうが、いざ展示室に足を踏み入れると「あ、これが国立の本気スイッチか」と圧倒される重厚なラインナップ。

 フェルメールの熱狂的な大渋滞を脱出し、笹本晃氏がつくり出すトリッキーな迷路空間をさまよい、最後は歴史が詰まった“美術史の本気モード”に殴られる。なんとも贅沢で脳が心地よく揺さぶられる三段跳びの午後となった。

 ナニワのリハビリ道12 2026年8月28日

 国立国際美術館のB1へ階段をトントン下りていくと、開館50周年記念プレ企画「コレクション1:私/行為」がいよいよスタート。

 さっきまでの笹本晃さんの“迷路空間”のディープな余韻はどこへやら、エントランスには女子学生たちの姿がちらほら。「なんや、さっきより一気に人増えてるやん!」っていう土曜の午後らしい

ゆる〜い賑わいが漂っています。

 受付で手渡されたパンフレットを見てみると、これがまさかの四つ折り両面刷り。「いやプレ企画やのに、パンフだけ急に気合い入りすぎやろ!」と思わず心の中でツッコミ。

 で、中をめくって腰を抜かした。いきなりセザンヌにピカソ。

そのあともレオナール・フジタ、マックス・エルンスト、ヘンリームーア、ジュアン・ミロ……って、錚々たるレジェンド連が渋滞を起こしてる! 「え、これホンマにプレ企画? 本番隠し玉出し惜しみなしやん!」とツッコミが追いつかない豪華ラインナップ。

 しかもですよ、それが約200点もずらりと並ぶ大盤振る舞い。

さっきまで“生活の断片迷路”で知恵熱を出しかけていた身としてはこの急な“美術史の本気モード”への急ハンドルに脳みそがちょっと追いつきません。

 でも、周りの女子学生たちがパンフを片手に真剣な眼差しで作品と向き合っている姿を見ていると、「まあ、こういう王道の空気もたまには悪くないか」となんだかしみじみ。

 国立美術館が背負う“節目の重み”と、土曜午後のゆ~るい空気がいい塩梅で混ざり合って、じわじわと体に染みていくのでした。

 ナニワのリハビリ道12 2026年8月28日

 国立国際美術館の広いフロアをひと回りし、ふと頭に浮かぶ。
 「これ…国立施設として、7月から11月までこの“ゆる〜い空気”でダラダラ続けてええんやろか?」

 いや、もちろん立派な美術館やし、笹本晃も有名なアーティストやし、展示の意図もちゃんとあるんやろけど——それにしてもこの静けさ、この“人が来てるんか来てへんのかわからん”感じ、なんとも言えんゆるさが漂っている。

 無料の日やのに、館内はまるで「今日は定休日ですか?」みたいな落ち着き。スタッフさんも、観客も、作品も、空間も、みんなでゆっくり昼寝してるようなテンポ。
 「国立やし、もっとこう……“文化の炎を燃やしてます!”みたいな勢いがあってもええんちゃう?」と心の中で軽くツッコミを入れつつ、でもこのゆるさが妙に心地よいのも事実。
 フェルメール展の大渋滞をくぐり抜けてきた身としては、こんな“国立のダラダラ感”がむしろありがたい。リハビリ場のように広いフロアを歩きながら、「まあ、これも文化の形やな」と勝手に納得してしまう。

 ただ、フェルメールの行列で疲れた身体には、この静けさと広さがちょうどええ。「これはもうリハビリの一環やな」と思いながら
広いフロアをひと廻りして常設展へ向かう。

 アート鑑賞というより、広い空間を歩くことで整う心と身体。
そんな午後のひとコマやった。 

 ナニワのリハビリ道12 2026年8月28日

 フェルメールの静けさから一転、笹本晃の展示フロアに足を踏み入れた瞬間、まず思ったのは——
 「いや、これ……有名アーティストやのに、なんでこんな“生活の断片”が巨大フロアに散らばってるん?」
 キッチンの気配、リビングの名残、日用品の影。 それらが意味ありげに吊られているようで、実際には意味があるのかどうかすら判別不能。

 進むたびに、
 「ここ、入ってええん?」
 「これ、触ったら怒られるやつ?」
 「いや、そもそもこれ作品なん?」
と心の中でツッコミが止まらん。


 観客たちも同じで、
 みんな うろうろ、きょろきょろ、そわそわ。
 まるで迷路の中で出口を探しているみたいに、ゆっくり歩いては立ち止まり、また歩き出す。
 その姿は、現代アートの鑑賞というより“迷路の参加者”に近い。

 「笹本晃 ラボラトリー」展示の意図としては、
「思考や感情が行き交う回路を体験する空間」なんやろうけど、
門外漢からしたら、正直こうなる。
 「いやいや、これ……生活の切れ端を巨大フロアに散らしただけちゃうん?」でも、その“よくわからん感じ”が逆におもしろい。
 フェルメールの静けさでぎゅっと集中していた心が、この迷路でふっと緩む。

 広い空間を歩く間に身体のこわばりがほどけていくのがわかる。まるで、リハビリのために設計された迷路みたい。
 アートに詳しいお人なら「空間性が〜」とか「身体性が〜」とか語るんやろうけど、門外漢のせいさくからしたら、正直こうなる。
 「……いや、これ、ただの生活の切れ端ちゃうん?」

 だだっ広いフロアに散らばる“日常の断片”。その前で観客がうろうろ、きょろきょろ、そわそわ。 誰もが「どこまでが作品?どこまでが通路?」と心の中で確認しながら歩いている。
 その戸惑いっぷりが、逆におもろい。まるで巨大な“生活迷路”に迷い込んだみたいで、自分もその一部としてうろうろしてしまう。

 ナニワのリハビリ道12 2026年8月28日

 フェルメール展のあの「密ですわ!」と言わんばかりの人混みと

行列のざわめき、ありますよね。 あれとは真逆で、ここではもう

「静けさ」そのものがVIP待遇で展示されている空間です。

音はないわ、人は少ないわ、どこからどこまでが作品かすら曖昧。 

 気づけばあなた自身の呼吸までが”展示の一部”にカウントされてしまっているような、そんな不思議な場所。

 フェルメールの静けさ = 「お静かに!」と絵の中から語りかけてくるような静けさ

 笹本晃(ささもと あきら)の静けさは = 「この空間ごと、吸い込まれてみませんか?」と足音や呼吸のリズムまでも変えてしまう静けさ。 歩きながら思わず「静けさって、こういう方向の贅沢もあったんやな……」と、遠い目をしてしまいました。

 難しげな能書きをサクッと噛み砕くと、こんな感じです:

 マッド・サイエンティスト風の空間づくり 糸、管、そこらへんの日用品、音、言葉をごちゃまぜにして「思考や感情が流れる回路」みたいな空間を構築。                        

 完成品なし!その場のノリと変化がすべて 作者本人がその空間に入り込んで、語ったり動いたりするパフォーマンスを展開。つまり「出来上がったものを見る」のではなく「現在進行形で育っている事件」に立ち会う感じ。                     

 今回の展覧会「ラボラトリー」の醍醐味とは 関心領域が個人の「変な癖」から「自然現象」までも壮大に広がった結果、置かれているオブジェはすべて「鑑賞者を引っ掛けにかかる仕掛け」として機能。

 結論、結果オーライを楽しむ場所ではなく「試行錯誤のプロセスで迷子になる」体験型のアミューズメントパークらしい。

 ふらっと歩くだけで音や気配に五感がピリッと刺激されるかも。