大塚美術館81
展示室に足を踏み入れた瞬間、視線が吸い寄せられる。

青い壁紙の前に立つ、ひとりの女性。 彼女の名は《ナナ》。
白いコルセットに身を包み髪を結い上げ、鏡の前に立っている。 その姿は、まるで舞台の幕が上がった直後のようにこちらを真正面から見据えている。

まず感じるのは、その視線の強さやな。 媚びるでもなく、恥じるでもなく、ただ静かに、しかし確固たる意志をもって絵のこちらを見つめている。 背景には黒いシルクハットの男がぼんやりと立っているが、彼の存在はほとんど影のようにしか見えない。
主役はあくまで、ナナ。 彼女の白い肌と衣装が、青い壁紙の中で際立ち、画面全体を支配している。

マネの筆致は、ここでも大胆だ。 細部を描き込むというより、光と色の面で人物を構成している。 ナナの肌は、まるで光を吸い込んでいるかのように柔らかく、その一方で、背景の装飾や家具は、あえて曖昧に処理されている。 この対比が、彼女の存在感をいっそう強くしている。

当時、この作品はスキャンダルを巻き起こした。 娼婦を正面から描きしかもその視線に「見る者を試す」ような力があったからだ。 だが今、こうして目の前に立つと、そこにあるのは単なる挑発ではない。 むしろ、19世紀末のパリに生きた一人の女性の、静かな誇りと孤独が感じられる。

展示空間はやや暗めで、スポットライトが彼女の身体を照らしている。 その光の中で、ナナはまるで舞台の上に立つ女優のように、 一瞬のポーズを永遠に保ち続けている。しかし、ナナは高級娼婦で
古今東西、女優は高級娼婦とシンクロしている。
観る者は、その視線に射抜かれながら、 「見る」という行為そのものを問われているような気持ちになる。

マネはここで、ただ人物を描いたのではない。 社会の視線、女性の存在、そして絵画というメディアの力を、 一枚の画面に凝縮してみせたのだ。
マネが凝縮したのは、「社会の視線」や「女性の存在」だけじゃ
ない。絵の前に立つ私たち自身の“居心地の悪さ”まで、しれっと
作品に組み込んでいるのだ。
だからこそ、鑑賞後にふと背筋を伸ばしたくなる。まるでマネに「さて、あなたはどう見るのかね」と試されているように。

そして最後にひと言。
マネはキャンバスに女性を描いたのではない。キャンバスの前に立つ“あなた”を描いたのやね。

























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