ロック古典主義

ロック古典主義

ジミヘンからプリンスまで
ロックミュージックの黄金時代を
西海岸からのランドスケープで描く
70年代古典ロックの物語をはじめ
卑弥呼の古代ロマンを求めて
古墳探訪の巡礼紀行などを
フレックスにお届けします。

 ロック自叙伝その282

 次の日も、その次の日も、俺たちは自然に準備室に集まった。   誰が「行こう」と言ったわけでもない。 ただ、放課後のチャイムが鳴ると、足が勝手にそっちへ向かっていた。 

 目的なんて一切なかった。 文化祭に出ようとか、誰かを見返してやろうとか、そんな色気心は一切なかった。 ただ、誰かがギターを手に取れば、誰かがピアノの椅子を引き、誰かがドラムスティックを握る。 それだけだった。 

 ミチルは相変わらずコードを間違えるし、シンジはベースを弾きながらギターの未練を口にする。 ヨウコのはリズムが走りがちで、俺はそれを抑えるのに必死だった。  俺がドラムをやるとほかの皆もパートを変える。

 でも、不思議と誰もイライラしなかった。 音がズレても、笑ってごまかせた。 大したテクなんて、誰も持っていなかった。 だけど、気持ちだけは、確かに通じ合っていた。 

 そんなある日だった。 

 「ちょっと、これ合わせてみない?」 ミチルが、ノートの切れ端を差し出した。 そこには、彼女が書いた詩が走り書きされていた。 

 「タイトルは?」 「まだない。でも、なんか…帰ってきた感じの歌」  「帰ってきた感じ?」  「うん。どこか遠くに行って、  でも、またここに戻ってきたっていう、そういう感じ」 

 俺はその言葉に、胸の奥底がじんわありと熱くなるのを感じた。 サンフランシスコの霧、ジム・マーシャルの声、そして阿波の山の匂い。 全部が一瞬で蘇った。 

 俺はギターを手に取り、コードを探った。 Amから始めて、F、C、G。 どこか懐かしくて、でも新しい響き。次のサビに俺はCmaj7の分解3コードを突っ込んだ。 

 

 その瞬間、控室に風が吹いた。シンジがベースで低音を押支え、ヨウコが静かにリズムを刻む。 ミチルのピアノが、少し遅れて割り入ってきた。 最初はバラバラだった音が、その瞬間には、ぴたりと重なった。 

 その瞬間、空気が変わった。 

 誰も言葉を発さなかった。 ただ、音がすべてを語っていた。 まるで、ずっと前からこの4人で演奏していたかのように、音が流れた。 

 それは、うまく言葉にできない感覚だった。 でも、確かに「これだ」と思った。 俺たちの音。俺たちだけの、まだ名前のない音楽。 

 演奏が終わると、しばらく誰も動かなかった。 ミチルが、ぽつりとつぶやいた。 

 「……今の、録っとけばよかったね」 

 「いや、また出せるよ」 俺はそう言った。  

 「だって、もう見つけたんだから。俺たちの音」 

 京阪奈国宝まつり169 2025年6月13日

 京阪奈国宝展も三カ所目ともなると、さすがに体がだんだん重くなり、スツールでしばらく休みます。

 人心地着いたところで次のセクションは、「美の歴史をたどる 2 いにしえ文化きらきらし」です。

 このセクションでは、日本の原初的な文化がもつ 独特な美意識と技巧の結晶 に触れられます。展示された作品群は静寂の中にも強い存在感を放ち、まさに「きらきらと輝く文化」を象徴しています。
 展示された主な国宝
土偶とはにわ - Kajirinhappyのブログ
 土偶(縄文のヴィーナス)(縄文時代中期約5400〜4500年前)
 小さくとも豊かな造形美を湛えた女性像。横顔や後ろ姿まで360度から鑑賞できる設えが印象的です。
国宝・火焔型土器 – WEAVE WORKS
 火焔型土器(縄文時代中期)大胆な装飾文様と躍動感あるフォルムが見る者を圧倒する代表作。縄文の語源。Yahoo!オークション - 国宝金印 漢委奴国王 かんのわのなのこくおう 蛇...
 金印「漢委奴國王」(弥生時代・1世紀)日本と中国の古代交流を語る歴史的重要文化財。ライトアップされた独立ガラスケース内で展示され、間近でじっくり見られます。
 など展示室は照明に変化を持たせ、作品ごとに “華やかな瞬き” を引き出す演出が施されています。

 「いにしえ文化きらきらし」は現代の感性に響く古代美の宝庫。火焔型土器の激しさ、土偶の柔らかさ、金印の神秘。それぞれが、遠い時代から私たちの心に「輝き」をば届ける。 そんな力を感じさせる展示です。
 ズラリと筆者の大好物がエントリーされていますが、またぞろ、たくさんの作品が展示替えで消えています。

 無念の思いを断ち切り、先ずは火焔式土器からスタートします。

縄文時代と火焔型土器のクニ – 十日町市博物館|TOKAMACHI CITY MUSEUM

 火焔型土器を一目見ると、壮大で力強い存在感に心根が惹きつけられます。その燃え盛る炎を模したデザインは、単なる道具以上の神秘性を感じさせます。渦巻き模様や突起の複雑さえも、縄文人の独創性と自然への敬意を表しているようで、まるで当時の熱い情熱が伝わってくるかのようです。火焔型土器 - 縄文時代の美術品

 火焔型土器のサイズ感は、芸術性と実用性を兼ね備えたもので、とても印象的です。その華やかな突起部分も含めて存在感があり、

当時の人々がどのように使っていたか想像するとわくわくします。

笹山遺跡|縄文土器の最高傑作・火焔型土器が産み出された背景とは。 - 史跡ナビ

 火焔型土器は、その燃え上がるような突起部分から、まるで炎のダンスを模しているかのようです。その形状は王冠にも似ていますが、視覚的には自然の力強さや神秘性を感じさせる彫刻作品のようにも見えます。

 また、装飾部分の渦巻きやS字模様は、水の流れや風の動きを彷彿とさせ、生命の動きを表現しているようにも感じられることもありますね  

 火焔土器

 火焔型土器の造形が炎や水や風のエネルギーをまとっているように見えるのは、まさに縄文人の感性が“自然そのもの”と共鳴をしていた証拠ですね。そんな壮大なスケールの話をしておきながらも、最後にひとつだけ付け加えるなら――
 火焔型土器って、もはや「器」というより“縄文時代のテンションが最高潮に達した瞬間の記念碑”なんじゃないかと思えてきます。  
あれを日常使いしていたとしたら、きっと縄文の食卓は毎晩フェス会場のように盛り上がっていたはずですね。
  

 佐川美術館4(守山市)2024年7月25日 
平山郁夫 色彩の世界 | 佐川美術館
 つづいて平山郁夫常設展示に足を踏み入れると、まず目に入るのは穏やかな光に包まれた展示室。壁一面に広がる平山郁夫の絵画はどれも静かでありながら力強く、自然や歴史の息遣いを感じます。 

 特にシルクロードを描いた作品群は、遠い異国の風景が目の前に広がるようで、まるで旅をしているかのような感覚になります。 

 『アンコール遺跡』では、石造建築の陰影や夕日の光が繊細に描かれ、古代文明の壮麗さと儚さが同時に伝わってきます。『南京城壁』や『比叡山延暦寺』では、日本の歴史的建造物に対する平山の深い敬意と、光の表現に込められた祈りのようなものが胸に迫ります。 

 展示室を進むたび、壁に添えられた解説文からは平山がただ風景を描いただけではなく、文化財保護や平和への想いも同時に込めていたことが伝わってきます。まるで画家自身がそばに立ち、作品の

背景や思いを語ってくれているかのような臨場感です。 
Yahoo!オークション - 有名画家 平山郁夫 直筆色紙 書 修道学園内被曝...
 そして、平山郁夫の書にも心惹かれます。平山郁夫の書は絵画作品と同じく「光」と「空間の余白」を大切にした表現が特徴です。

 筆の勢いや墨の濃淡には、絵画と同様のリズム感があり、静謐でありながら力強さを感じさせます。書体は主に行書や草書が中心で、柔らかさと躍動感のバランスが絶妙です。 
Yahoo!オークション - 【GINZA絵画館】平山郁夫 書3号「鬨会」文化勲...
 例えば、展覧会や美術館で書を目にすると、文字そのものがまるで風景の一部のように空間に溶け込み、深い余韻を残します。

「平和」「祈」「道」などの一字一字には、彼が画家として追い求めた精神性や哲学が込められており、単なる文字以上の存在感を持っています。 
平山郁夫10号エジプト王家の谷 東京美術倶楽部鑑定証付名鑑2250万画家 文化勲章レジオンドヌール勲章 日本最高峰画家名品(山水、風月)|売買 ...
 書を前に立つと、墨の濃淡や筆の流れからは作者の呼吸や気配が感じられます。強く筆を走らせた痕跡には意志の力が宿り、軽やかに撫でるような線には内面的な静けさが漂います。文字の間の余白も また鑑賞者に考える時間を与え、絵画と同様に「見る」だけでなく「感じる」体験になります。 
Yahoo!オークション - [24060905]平山郁夫色紙「クリン草」清里清泉...
 平山郁夫の書は、絵画のように視覚的な美しさだけでなく、精神的な深みや人生観を伝えてくれるため、鑑賞者は自然と文字と向き合い、心を静めていく感覚を味わえます。 

 鑑賞を終えるころには、目に映る美しい風景だけではなく、平山郁夫の人生観や文化への深い愛情、そして平和への祈りまで、全身で感じ取ったような気持ちになります。静かにしかし心の奥に長く残る体験です。 

 大塚美術館80

 B1Fの近代ギャラリーに足を踏み入れると、空間の空気がふっと変わる。 

『大塚国際美術館⑯ B1F 近代(クリムト、ムンク他)』徳島市(徳島県)の旅行記・ブログ by +mo2さん【フォートラベル】

 それまでの宗教画や古典主義の重厚な世界から一転、壁の色調も照明も、どこか軽やかで、開かれている。 その先に、マネの《笛を吹く少年》が静かに立っているのが見える。
『大塚国際美術館⑬ B1F 印象派(マネ、ルノワール、モネ他)』鳴門(徳島県)の旅行記・ブログ by +mo2さん【フォートラベル】
 少年は、正面をまっすぐに見つめ、鮮やかな赤い制服をまとって笛を構えている。  背景は驚くほど平坦で、影も奥行きもほとんどない。 だが、その平面性がかえって少年の存在を際立たせている。 黒い帽子とズボン、金のボタン、白いベルト。 色彩の対比が鮮やかで、まるでポスターのような現代性を感じさせます。
Edouard Manet (french, 1832 -1883) From Basel Collection, Authentic ...
 近づいて見ると、筆致は意外なほどあっさりとしていて、 写実というよりは、印象の切り取りに近い。 19世紀の中期、パリの空気がこの一枚に凝縮されているようだ。 

 ここが、近代絵画の出発点。 マネは、古典の扉を閉じ、現代の光を描き始めた画家だったのだと実感する。
SandPstudio
 そのまま通路を進むと、空間がやや柔らかくなる。  壁面には、ドガの《舞台の踊り子》が並ぶ。 マネの静的な構図とは対照的に、ここには動きがある。バレリーナたちの身体は今まさに動き出そうとしている。 スカートのひるがえり、つま先の角度、視線の流れ。 一瞬を切り取ったようでいて、そこには緻密な構造がある。
【踊り子の画家】エドガー・ドガの生涯と作風をご紹介します! | 白いキャンバス
 ドガの線は、鋭く、意志的だ。 マネが「光と色」で現代を描いたとすれば、 ドガは「動きと構造」で現代を捉えたのだとわかる。 

 同じ印象派の時代に生きながら、二人の視点はまったく異なる。  マネの少年が静かに立っていた場所から、 ドガの踊り子たちは、軽やかに、しかし張り詰めた緊張感をもって舞い始める。
Yahoo!オークション - ポール・セザンヌ『開いた引き出しのある静物画...
 さらに奥へと進むと空間が再び変わる。 壁の色が落ち着き、照明もやや柔らかくなる。 そこに現れるのはセザンヌの静物や風景画。 果物の載ったテーブル、傾いた皿、重ねられた色面。 一見、穏やかな画面だが、じっと見つめていると、 その奥にある構成の厳しさがじわじわと立ち上がってくる。
【セザンヌ (Paul Cezanne) の魅力】静物と風景画の巨匠│何派・代表作・技法を基本からチェック
 セザンヌは、印象派の「一瞬の光」から離れ、 「形の永続性」へと向かった画家だった。 色を重ね、面を積み上げ、風景や物の存在を再構築しようとした。その筆致はどこか彫刻的で、静物でさえも揺るぎない骨格を持っている。

 マネの現代性、ドガの瞬間性、そしてセザンヌの構成性。 

 この三者を順にたどることで、印象派という一つの時代が、 どのように生まれ、揺れ、そして次の時代へと橋を架けていったのかが身体の中に、静かに積み重なっていく。

 大塚国際美術館のこのルートは、単なる作品の並びではない。 

それは、近代絵画が歩んだ軌跡を、実際に歩いて体感するための、 ひとつの「時間の道筋」なのだ。こうご期待。

  佐川美術館3(守山市)2024年7月25日 

 さっそく、日本画家の髙山辰雄(1912–2007)の画業を紹介する回顧展へお邪魔しました。 

私の好きな日本画家:髙山辰雄(上)

 佐川美術館で開催中の「髙山辰雄展」は、まるで画家の精神世界をそっと覗き込むような体験でした。水庭を渡って展示室に入る高山辰雄、【白い襟のある】、希少な額装用画集より、新品額装付、状態良好、送料込みまず目に飛び込んできたのは《白い襟のある》(1980年)─静かに佇む女性の肖像で、白い襟がまるで光の象徴のように浮かび上がり画面全体に凛とした空気を漂わせていました。 Yahoo!オークション - 高山辰雄「いだく」オフセット複製・木製額付・...

 次に足を止めたのは《いだく》(1977年)。母子像とも見える

構図ですが、抱きしめる腕の力強さと、目を閉じた表情に込められた深い慈しみが、観る者の心にじんわりと染み込んできます。

 絵肌は厚く、色彩は抑えられているのに、そこには確かな「熱」がありました。 高山辰雄生誕100年記念特別展 | その他事業 | 公益財団法人 角川文化振興財団

 そして展示の終盤に現れたのが、髙山辰雄の代表作《聖家族》。モノクロームの世界に沈む三人の人物像は、まるで祈りのような

静けさをまとい、時間が止まったかのような空間を生み出していました。その所在ない手指の不気味さ。色を極限まで抑えたことで、逆に人間の精神性が浮き彫りになっていてその場に立つだけで、心が洗われるような感覚に包まれます。  

 この展覧会は、単なる絵画の鑑賞ではなく、「人間とは何か」、「生きるとはどういうことか」といった問いを静かあに投げかけて

くる時間でした。水庭の静けさと髙山の絵の深さが響き合いまして  美術館全体がひとつの大きな作品のように感じられたのです。
 ところが、そんな深遠な思索に浸っていたはずの私の脳裏には、

ふと「いや、人とはまず“暑さに負けない生き物”であるべきでは」という妙な結論が浮かび、水面を渡る猫の泳ぐ姿に、思わず自分で自分自身にツッコミを入れたくなります。
 水庭に映る自分の姿を見れば、哲学者のように眉間に皺を寄せているつもりが、実際はただの“汗だくの来館者”であり、髙山の絵に問いかけられる前に、まず鏡に問いかけるべきことが山ほどあるのではと苦笑するほかありません。
 それでも、館内の静けさに包まれていると、そんな私の浅い悟りも深い迷いも、すべて丸ごと受け止めてくれるようで、膝に乗ってきた猫に「まあ、生きるとはこういうドタバタ込みのことだぞ」と諭され、どこか達観したような気持ちになったのでございます。