こんにちわ。皆さんお元気ですか?コーネリアスです。今回は、テーマに仏教を取り上げてみたいと思います。先日の話ですが、たまたまアインシュタインの動画を見ていたのですが、そこで彼が仏教を大変褒めちぎっていた、高評価していたという事を知りました。最初僕はとても違和感を感じました。だってかたや宗教、かたや世界的ノーベル賞物理学者。科学者です。何処にも共通点が見出せません。とても不思議に思い、彼の語録を調べてみると、あるんです…以下のような言葉です。

★『現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるもの、それこそが仏教である。』

 

 実は、僕がこの事を知ったのは、YouTube動画を見ていての事でした。うちの奥様が、『貴方、宗教と科学、確か仏教と量子力学についての面白い動画が有ったわよ…』がきっかけでした。妻に薦められるままに調べて見てみたら、まさに目から鱗。びっくりするような内容の動画でした。量子力学…量子物理学であったり、素粒子物理学だったりしますが、いずれにしても現代最先端の物理学です。ついこの前のノーベル物理学賞受賞者もこの研究の物理学者だった筈です。量子力学については、現在量子コンピューターの製作も各国で競われており、この次世代コンピューターは世界を制する力もあると言われています。完成したらある意味で、とんでもないコンピューターになるのだそうです。そんな現在進行形の最先端の量子力学がどうしてアジアの宗教、仏教と繋がるのか?一体どうなっているのか?という事ですね…

 これに関しては、有名な話があります。アインシュタインの相対性理論の式、E=mc2と仏教のお経、般若心経中の色即是空空即是色の関係性についての説明です。物理に詳しい方ならよくご存知かと思いますが、この式、E=mc2とは、E(エネルギー)というものは、m(質量、つまり物質、物体)にc(光速)の2乗の速度の影響を与えた場合には両者は等しい状態となる、というものです。因みにエネルギーというものは、我々人間の目には見えませんが、物質、物体は目に見えます。これに対し、色即是空ですが、ここで言う色とは、『目に見えるもの』という意味です。また、空とは、『目に見えないもの』の事を指します。なので、『色即是空空即是色』とは、『(目に見えて)存在しているモノ(色)は、実は存在はしておらず(空)、(目に見えず)存在が無いと思われるモノ(空)は、実はしっかりと存在している(色)のである。』となります…確かにね。例えば、重力も磁力もいわゆるエネルギーですが、我々人間の目には見えませんから。エネルギーが目に見えない存在だとすると、つまりは空という事になり、物体が色って事ですね。両者を当て嵌めてみると、空即是色→エネルギーというものは、確かに我々人間の目には見えないが、そこに確実に存在しており、我々に力の作用という形で影響を与え、その存在をアピールしている、と言えるでしょう。また、色即是空→物体に超高速の力を付与すれば、モノはその時の力の作用に影響され、形を失い、消滅してしまう。この時、形あるものから、形の無いエネルギーに変えられて行く、と言えるのではないでしょうか?私はクリスチャンで、般若心経にはそれほど精通してはいないので、詳細は分かりませんが、こう考えると確かに両者は符合する様に思えます。うん、納得ですね、確かに。でもね、此処で凄いなと思うのが、お釈迦さんって、今から2500年程前の人でしょう。イエスキリストよりも古い時代の人だよね。何でこんな事が分かったというか、悟れたんでしょうね?全く持って謎です。お釈迦さんの頭ん中を調べてみたいものです。

 で、ついでなのでこれに関連してもう一つ仏教と関連が深いモノ、学問があります。これが、心理学特に『ユング心理学』です。カール・ユングは、心理学詳しい方なら誰もが知る心理学界の大物です。かのフロイト、アドラーと並んで心理学界を代表する偉大な心理学者です。この人の発見というか、学説で有名なのが、人間の深層心理、いわゆる『自己(self)と自我(ego)』です。極めて簡単に言うと、我々人間は、通常暮らして行く時は、常に自我の状態なんだそうです。ですが、偶に例えば、普通じゃない状況とか、特殊な状況なんかに遭遇した時、いわゆる『もう一人の自分』である自己が表に顔を出して来るというのです。意識、無意識で分けるなら、意識の領域に居るのが自我、無意識の領域に居るのが自己って事ね。そう考えると我々には、この自己という存在はよく分からないね、多分。だっていわゆるこの『もう一人の自分』には会えないもんね滅多な事では。で、この無意識の領域については、近年も色々と心理学のみならず、脳科学の分野からも研究がなされているようです。一説では、実は我々人間を実支配しているのは、我々の意識では無く、無意識だと説く学者さんも居て、これが世界的にも注目を浴び、その研究は現在も継続中なのだそうです。つまり我々は日々自分の意識の判断で色々と生活をしていると『思っている』んですが、実はそうじゃない。全ては意識が色々決定判断する前に、無意識領域からいわゆる『指令』が出ており、それに従っているのだと言うわけです。おっと、これ以上深堀りすると、本筋外れますね。これについては又次回別のblogで語るとしましょう…で、話戻して、仏教の話ね。

 さて、仏教の中に法相宗という宗派があります。奈良の興福寺、薬師寺なんかで有名な宗派だそうです。日本ではどちらかと言うと、割とマイナーな宗派なので、ご存知の方も少ないのではないかと思います。この法相宗の中に『唯識』という思想というか、考え方があります。一言で簡単に言うと人間の心の在り方、構造を説いたもの、お経です。それに依ると、人間の心と言うのは、多重構造、いわゆるタマネギの皮のようになっていて、一番外側が先程のユング心理学の自我みたいなものと言うわけです。で、段々と内面、内側に行くに従って先程同様、無意識の領域が出て来るわけです。唯識ではこの領域を阿頼耶識と呼ぶそうです。こう見て比較すると、似てるんですよユング心理学と唯識思想が。で、ついでに言うと、その心の一番芯の部分一番奥には『光の部屋』なるものがあるそうで、此処がいわゆる『仏心』なのだそうです。つまり、仏の心ね。なので、仏教では、どんな悪党、悪いヤツでも人には必ず『仏の心』なるものがある。その為、仏教では『性善説』を取っているのだそうです。仏教=性善説の根拠となっているのが、この唯識思想というわけです。これに対し人間=性悪説を取っているのが、ユダヤ・キリスト教です。その根拠は旧約聖書創世記にあります。いわゆるアダムとエバの神への裏切りですね。人間には原罪(欲望)という、神様でも如何しようもないものがルシファー(悪魔)のせいで生来入り込んでいる。これが根拠となり、人間はどうしても悪を働いてしまう。こういうものです。そのせいか、旧約聖書を読むと、神様は大体『〇〇はするな』、『〇〇はダメだ』的な発言が多いです。そうですね…この辺の事は、モーゼの十戒と聖徳太子の十七条憲法を比較するとよく分かりますよ。十戒は全て『〇〇するな』って表現、書き方ですが、十七条憲法は、『〇〇しましょうね』って書き方ですからね。聖徳太子と言えば、仏教伝来時に尽力した方なので、当然仏教徒だったと思うので、そう考えると性善説VS性悪説ってわけですね。ところで、この『〇〇するな』、『〇〇してはならない』って表現を聞いて、何かピンと来る方は居ませんか?そう、この表現方法、現在の憲法や各種法律の方法とピッタリなんです。そう、そもそも現行の法律ってものは大体が欧米発のもの。ヨーロッパには、その昔ローマ帝国があり、そこでの『ローマ法』は大変優れたもので、それが起源となっているようです。そのローマも途中からキリスト教を国教とし、キリスト教国家となりました。当然聖書的影響も当時あった筈。それが各種条文に反映されていると思うのです。読んでみれば分かります。現在の日本国憲法も刑法、その他の法律の条文も皆一様に、『〇〇してはならない。但し〇〇…の場合は除く。』とか言った文言が多く、『〇〇しましょうね』や、『〇〇はしてもよろしい』という表現はあまり見られません。全く持ってそっくりなんですよ…旧約聖書のレビ記や民数記、申命記の表現と。神様から人間への指示書、命令書と。おっと、大変失礼。また例によって脱線してしまいました…そんな話じゃなかったよね。話を戻します。

 つまりは、物理学に次いで心理学にも仏教的な何かを見出せるというわけです。偶然とは考え難い。この辺について、ある種学術的に考察したと言うか、本を出している学者先生が居ます。学者で大学教授でもあった、小室直樹氏です。私コーネリアスは、若い時分氏の『宗教原論』を読みましたが、その中で氏は、仏教について、『…仏教という宗教は、科学の宗教であり、同時に哲学でもある。』と明確に言い切っていました。つまりは、その教義そのものが、大変分かり難いけれども、論理整合性があり、哲学的でもあり、そうした教祖の釈迦のスーパーマン的な存在を後世弟子たちが神格化した事で、極めて宗教的でもあると断言していたのです。私コーネリアスは、これが仏教の本質ではないかと思います。つまり、お釈迦さんは、最初から仏でも何でも無くて、例えばソクラテスと一緒。ネパール出身の哲学者だったと思うのです。人生とは…人とは…と哲学していて、とてつも無い哲学を当時打ち立て、周りの人々から称賛され、尊敬され、それが余りにも凄すぎたので、後世弟子たちから神格化され、最終的に現在のような宗教という形になったんではないでしょうか?その証拠と言っては何ですが、私コーネリアスの住む此処福岡にある九州大学には、古代インド哲学の研究室が今でもある筈です。古代インド哲学…これ要するに仏教の事です。その昔友人の九大生に聞いたので、間違いありません。という事は、少なくとも、九州大学という、旧帝国大学の認識も仏教=(古代インド)哲学だと言う事ですよね。なので、私コーネリアスの中の認識では、お釈迦さん=哲学者なんです。今でも。決していわゆる仏様とは思えない。でもね、確かに凄い哲学者さんですよ…極めて神的なね。それは認めますし、仏でも、神にでもしたければしても良いとさえ思います。丁度私がイエスキリストを神と崇めて居るようにね…それを望む人が居るならね。私コーネリアスは、勝手に人類史上で最高の哲学者を一人挙げろと言われたら、ソクラテスでは無く、お釈迦さんを挙げます。それ位、彼のお経の中の哲学は凄すぎる!もっともっと世に広めても良いとさえ思っています、クリスチャンの私が言うのも何だけど。その昔、かのバチカンのローマ教皇フランシスコは、仏教について聞かれた時に『我々クリスチャンも、仏教からもっと多くの事を学ばねばならない。それ位、仏教という宗教は素晴らしい…私ももっと勉強するよ。』と仏教について語っていました。どんな教えにも為になるもの、役に立つものは多いもの。私コーネリアスも今後もっと聖書の勉強同様お経の勉強をしてみようと思います。先ずは般若心経ね…