皆さんご機嫌いかがですか?コーネリアスです。

今回は、聖書、キリスト教思想と武士道精神について語りたいと思います。先ず、この武士道ですが、これはもう、日本オリジナルのものです。世界の中で日本にしかありました。そして、長い事不文律でした。文書、テキストなどは存在していませんでした。江戸時代に入り、『葉隠』という書物が著され史上初めて言葉として説明される事となりました。しかしこれも、当時門外不出のものでしたので、あまり普及しませんでした。明治に入り、この葉隠を参考に新渡戸稲造先生により『武士道』なる本が刊行され、初めて世に出て来たと言って良いでしょう。それまでは何も存在していませんでした。武士道は武士達が色々な事を経験する中で醸し出され、練られて、武士達の間で語り継がれて、継承されてきたもの、精神、思想、哲学のようなものでした。命懸けで戦う男達の間でです…つまり、彼等は絶えず『死』と隣り合わせの状況であったわけです。時代が経つにつれ、武士道精神なるものは、次第に武士階級のみの専売特許から、他の日本人にも浸透して行きました。特に、明治になり上述の新渡戸先生の偉業のお陰で、広く明らかにされる事となりました。その浸透は大きく、一般庶民から果ては天皇陛下にまで至ったと私は確信します。そう考えると、この武士道なるものは、我々の先祖達、先人達がその人生を通じて感じた事、考えた事、思った事を時空を超えて継承してきたもの、偉大な精神文化と言えると思います。そして、何故これが廃れる事も無く、現代まで残っているかと考えると、ズバリ中味が良いものだからだと思います。良くないものであれば、どこかの時代で無くなっているはずだからです。そう考えると、この武士道は、とても伝統的な宗教と似ていると思うのです。伝統的宗教といえば、ユダヤ教、仏教、キリスト教、イスラームが挙げられますが、これらも長く続いている宗教です。それは何故か?やはり、それを信じる人達にとって『良い教え』だからでしょう。つまり、ジャンルは違っても『本当に良いもの』は時代が経っても廃れないという事だと思うのです…

★キリスト教と武士道の類似点

 先ず最初に、武士道というものをポイントを絞って説明すると以下のようになります。

●武士道とは→武士が持っておくべき心得、思想、哲学。

●武士道が持つ7つの徳

①義→正義、常に正しい考えを持つ事。

②勇→義を実行に移す為の勇気。

③仁→他者に対する思いやり、愛。

④礼→他者に対する礼儀(仁の心に由来する)。

⑤誠→常に誠実である事。他者を偽らない事。

⑥忠義→自分が仕える者に対する、忠義、忠誠。

⑦名誉→己の持つ、誇り、プライド。

●武士道成立に影響を与えたもの

仏教→死生観、人生とは何か?何の為に生きるのか(哲学的側面)

神道→忠誠心、礼節(心構え、心の置き方)

儒教→正義、思いやりの心、礼儀(道徳的側面)

以上になります。ここで注目すべきが、上記の『武士道7つの徳』なのですが、これら7つは全て聖書の教えと合致しています。何の矛盾もありません。特に新約聖書、主イエスの事が書かれている福音書にどれも著されています。ちょっと違うのは、キリスト教の場合、仕える方=神、であるのに対し、武士道の場合、仕える方=主君、殿様という点です。ですが、共に『自分が信じ、仕える方』を持つという点では共通点があると言えます。その対象が違っているだけです。

 

★死という不可避なものを前にして…どう生きるか?→ここに見られる類似点

そもそも『宗教』というものは、キリスト教に限らずですが、何故存在しているのでしょうか?これについては、自身がクリスチャンで作家の佐藤優さんが、ある哲学者の言葉を引用して説明されていました。それによると、『そもそも宗教は、我々人間が作った。別にイエスや釈迦が弟子達に宗教として伝授したという形跡もないし、作れと命じたわけでもない。その死後、弟子達がイエスや釈迦の功績を残す為に作ったものである。そして、そうしたかった最大の動機は死に対する恐怖からであった。人間は死ぬのが怖い。死後自分がどの様になるもかも分からない…不安は増すばかりである。こうした不安にある一定の答えをくれるもの、それが宗教である。特に、仏教、キリスト教は、人間の死生観に対し明確なメッセージを発している…』というものです。私もプロテスタントで、聖書の神を信じる者ですが、この点は私も納得する者です。確かに宗教というものは、ある種の『死に対する緩衝材』的な役割も果たしている様に思えます。では、我々は、人生というものをどう考えたら良いでしょうか?放って置いてもいつかは皆死ぬわけです…じゃ、どういう人生を送れば良いのか?限られた時間の中で…私のキリスト教的理解では、ごく簡単に言えば、『神から与えられた命(人生)をとにかく日々精一杯出来るだけ正しい事を行なって、周りの兄弟姉妹達(自分以外の他者)と協力し合いながら、共に生きる!』です。どこかで聞いた話ですが、伝統的スペイン人は、明日や未来の事を考える人は少なく、今、目の前の事に全神経を集中し頑張る人が多いのだそうです。時としては、そういう生き方は、計画性が無いとかの批判にも晒されそうですが、個人的には正しいように思えます。というのも、似たような御言葉を主イエスが福音書の中で言われているからです…マタイによる福音書6章34節『…だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。』まさに、今全力を尽くす。今日を燃え尽きる。これを毎日繰り返せば、いずれ点が線となり、あなたの人生を後年振り返った時、『我ながら、良くやった』となるのでは、と説いている様に思います。また、旧約聖書『コヘレトの言葉』も、この点の人生観は同様です。コヘレトもなんだかんだ色々語っていますが、最終的に言わんとするところは、『神を崇め、神から与えられたお前の人生を精一杯生きろ!』と言っています…これが、私なりに聖書から学んだ人生訓です。

 実は、これと全く同じ思想が武士道の中に存在します。それが、佐賀鍋島藩の山本常朝著『葉隠』の中の一説、『武士道とは、死ぬ事と見つけたり』です…こんな風に表現されると、一般的には、『えっ、死ねって事?自殺しろと言うのか?』となるのは、現代に生きる私たちなら当然でしょう。なので、この部分は過去にも多く誤解を生んできたようです。しかしながら、最新の研究によれば、これは単に『死ね』という意味では無く、全く逆で、『人生全ての事に死んだ気になって取り組め』だそうです。つまり、『人生何事も全力(必死になって)でやれ!』という極めて肯定的な意味合いなのです。どうでしょうか?上記の聖書の思想と似ていませんか?

 

★利他的生き方に見出せる類似点

キリスト教の根本にある考え方に、この利他的精神があります。そもそも主イエスは、何故十字架に架かられたのか?これをキリスト教神学的に几帳面に話すと、とてもながーくなりますので、ごく簡単に分かり易く言いますと、『我々人間を悪から切り離して、我々が死後神様の居られる天国に行ける様にする為』です。我々に天国行きの『片道切符』を与える為、とでも言いましょうか…その為に、ご自分の『人としての命』を捧げられたのです。そうしなければ、この貴重な『片道切符』は手に入れられなかったからです。つまり、我々を救う為に代償として命を差し出された訳です。ここから、キリスト教の自己犠牲の精神が生まれています。利他的人生観とでも言いましょうか。そもそもが、キリスト教の教祖様ご自身が、我々に対し、この自己犠牲の精神を体現してくださっており、我々は、いわば『救われた存在』なわけです。なので、教会では、『主イエスに倣って、私たちもこの様に生きましょう』的に教わるわけです。利他的人生のススメです。

 一方で武士道はどうでしょうか?武士には仕える存在として、主君がいます。例えば戦国時代を見ていても分かりますが、武士達は、自分の主君を守る為なら、死も厭いませんでした。何故そこまでするのか?それは、当時、武士達にとって『名誉』というものがかけがえのないものだったからです。自分の主君をお守りする為に、命懸けで戦う。それが万が一守れなかった場合、不名誉な事、無念な事となるわけです。名誉を重んじる武士にとって、これがどれほど口惜しい事であったか…現代人である私には、心の底から理解出来るものではありませんが、とにかく相当なショックであったろうと思います。現代でも日本人が一般に利他的な人が多いのは、おそらくこの辺から来ているのではないかと、私は思います。『この一命、殿の為に』が、極めて利他的と言うわけです。現代では、ここで言う主君、殿が、例えば、奥さんや子供、もしくは自分の愛する彼女なんかに置き換えられて引き継がれているのではないかと思います。で、この『愛する対象』が喜ぶ姿に、自分の『名誉』が保たれるのを心の中で感じたりもするのではないでしょうか?言い換えれば、自分が『愛する者』の喜びが、自分自身の喜びになる様に…その為なら、少々なしんどい事(戦い)も頑張るゾ!というわけです。

 このように、両者その思想の背景に差異は見られるものの、結果的に『利他的生き方』に繋がっていると言う点では、共通点を見出せるようです。最後に、キリスト教と武士道の2つの思想に大きく影響を受けた4人の日本人をご紹介しておきたいと思います…

 

★キリスト教と武士道に影響を受けた人

①西郷隆盛

西郷隆盛といえば、明治維新の立役者として皆さん周知の人物かと思います。武士道と言う点からは、申し分なく、彼は武士でした。この点は全くOKなのですが、キリスト教との接点はどこにあるのかという事になると思います。実は、それは彼の揮毫した書に現れているのです。それが『敬天愛人』と言うものです。そもそもですが、この『敬天愛人』と言う言葉は、西郷さんが自分で作った言葉ではありませんでした。この言葉を作った主は、中村正直という人でした。この人が書いた本、『西国立志編』という本の中にある言葉で、この言葉の意味を知った時、西郷さんは大変感動し、書に残したそうです。この西国立志編という本は、英のサミュエル・スマイルズという牧師が書いた本を中村正直が和訳したものでした。中村は、英国留学経験者で、その帰国時に当時英国でベストセラーだったこの本を入手。帰国後翻訳したのだそうです。日本でも当時大ベストセラーだったそうです。おそらくは、この本を鹿児島にいる時何処からか入手したのでしょう。一説によると、晩年西郷さんは、この本を弟子や後輩たちに、ためになるから読めと、しきりに貸し出していたそうです。西南戦争での彼の姿を見ていると、何となく、その生き様に聖書思想に影響を受けていた様に感じます…

 

 

 

②新渡戸稲造

新渡戸稲造という人は、幕末の生まれで武家の出身でした。なので、当然ながら幼い頃より親から武士道なるものを叩き込まれて育った人です。時代が明治に変わり、武士という身分は無くなりましたが、その心の奥底には親から教わった武士道なるものがあったものと思います。学者の道を志し、見事に成功し、名を上げ、やがて世界へ活躍の場を移し、何と日本人初の国際連盟事務次長に就任した人です。個人的には、クラーク博士で有名な札幌農学校時代に洗礼を受けクリスチャンになった人(クエーカー教)でもあります。奥さんも同じクエーカー教徒のアメリカ人女性でした。国際結婚なんです…後年、『武士道』という本を著すのですが、これは元々英語で書かれました。というのも、日本の事を広く海外に知らしめたいというのが目的だった為でした。発刊するやこれが売れに売れ、あっという間に世界の大ベストセラーとなり、驚くべきは、時の米大統領、セオドア・ルーズベルトもこれを読み、大変感動し30冊も買い込み、知人、友人にわざわざ配っていたというのです。アメリカ大統領が、ベストセラーの影の立役者とは、驚きです…

 

 

 

③李登輝

李登輝さんについても、ご存知の方は多いと思います。元台湾総統です。この方が生まれた時代、台湾は日本領でした。その為、この方も旧日本の教育を受けられた方です。大学は、京都帝国大学で、農業を学ばれていたそうです。この頃台湾総督府局長であったのが、上記の新渡戸先生だったそうです。李登輝さんは、武士道と出会い、大変興味を持つ様になり、様々な本を読まれたそうです。結果、すっかり武士道思想にハマり、自分の生き方の指針にされたそうです。その後先の大戦を終え、戦後には台湾総統に就任し、12年務められました。この間台湾は大きく発展し、現在の地位を得ました。その間、李登輝さんはクリスチャン(私と同じ長老派)となられ、大変熱心な信者さんであったそうです。その李登輝さんが、総統引退後、晩年こう語られたそうです…『台湾総統という重責にある時、私を支えてくれたのは、キリストへの信仰と武士道でありました』と。李登輝さんは、武士道について大変な名著を出されています。大変良い本だと思いますので、今回ご紹介させて頂きます…

 

 

 

④内村鑑三

内村鑑三さんは、先の新渡戸稲造さんと同様の人です。やはり、武家の家柄の人でした。同じ幕末生まれの人です。おまけに学校も札幌農学校で同期生だったようです。親からは、武士道はもちろん、儒教についても深く教えを受けたとの事。キリスト教については、新渡戸さん同様、札幌農学校時代に一緒に洗礼を受けているようです。非常に熱心なクリスチャンとして、数々の活動を幅広く行った人物でした。この人がその著書で、武士道とキリスト教の事を書いている箇所がありますので、最後にその言葉をご紹介して締め括りたいと思います…

 

『武士道の台木にキリスト教を接(つ)いだもの、それは世界で最高の産物だ。

 それには、日本国だけでなく、全世界を救う力がある。』…AMEN!