先日、クローズアップ現代を見ていてびっくりした。

最近の若者は、わざわざ海外に働きに行くらしい。

つまり出稼ぎ。

 

いつから日本はそんなに貧しい国になったのだろう?と感じる。

 

しかし、逆に見れば、そうやって海外に出る若者が多くなるのは悪いことではない。

 

ここ十数年、若者が海外に出て行かないことが気になっていた。

 

私が若い頃は、みんなアメリカ大好き、アメリカ追従思考があり、私も例外なく、アメリカは夢の国だった。

 

芸術系の留学は、相変わらずヨーロッパの方が人気だったけれど。

 

それが、日本が強くなったということなのかもしれないが、

海外に出て行く若者が減った。

それに伴って、相変わらず英語を喋ることが出来ない日本人がたくさんいたり、

海外の人たちとの関係において社交的になれない日本人もたくさんいる。

 

アメリカは就業ビザが降りないので、ほとんどの人は修学ビザで入国し、違法で日本レストランで働いて勉強したり、

そのうち、グリーンカードを取得したりしていた。

 

当時からカナダとオーストラリアにはワーキングホリデーという働けるビザがあったけれど、

当時は、確か1年間しか有効ではなかった。

 

ということで、私は日本でお金を貯めて、ニューヨークに留学という形を取った。

でも、合法的に働きながら勉強が出来るならば、

私は、絶対にそっちを選んだ。

 

クロ現で扱っていたのは、オーストラリアにワーキングホリデーで滞在している人たち。

日本で会社員として働いても仕事はきついし貯金はできない。

ということで、貯金目的でオーストラリアに滞在している人もいてびっくりした。

 

ワーホリについてネットを見てみたら、

今は、他の国もあるらしい。

いいな、いいな。

そしたら私はもっと早く行動に起こせたし、つまり長く滞在できたのに。

 

日本は、先進国と言われている。

つまり日本で働いて、海外旅行をすると、ちょっと得した気分になるはずなのだ。

円の強さと、物価の違い。

バリ島に旅行に行った時、こんな安価にマッサージをしていただくことに、申し訳ない気分になったものだ(だって、単に生まれた国の違いだけの金力の差なのだから)

 

しかし、今はすこーし状況が変わってきているらしい。

 

詳しいことは、私よりも若い人たちの方がご存知だろう。

 

海外に行くことをお勧めします。

チャンスを作って、

最低でも1年以上。

日本という島国の、画一的な価値観を一気に吹き飛ばすことができます。

つまり日本で暮らしていて閉塞感を感じている方は、

海外に行くだけで、楽になれます。

 

ワーホリがあれば、航空券さえ手にいれるお金があれば良いのです!

 

若い方が、動きやすいので、

いいな!と思う人は、行動することで自分のチャンスを作ってください。

友人と知床の旅に行く予定が、コロナでのびのびになり、

今年こそと思っている。

でも、コロナで丸3年籠っている間に年も取り、

どんどん遠出が億劫になっている。

 

しかし一番の理由は、愛猫だ。

 

そもそも若い頃、年に2回は海外に遊びに行っていた私が、

年1回に減り、

仕事以外ではほとんど長期で旅行に行かなくなったのは猫を飼ったから。

その時飼っていた猫は、あまり人になれない子で、留守番できて、気持ち的には楽だったのに、そうなってしまった。

そして、3年前、コロナ禍に来た猫からは、もうちょっと離れられなくなっている。

 

良い季節に北海道旅行に行くためには、そろそろ予定を立てなければ…

と思いつつ、連絡するのが遅くなったのは、ひとえにその愛猫のせい。

毎日横でスヤスヤと眠る於市の方を見ていると、

「この仔を置いて遠出なんてあり得ない。もう一生どこにも出かけなくてもいいや」

という気になってしまう。

これは、まずい。

 

若い人は猫を飼わない方がいい。

特に一人暮らしの若い人は、絶対に猫を飼ってはダメ!

可愛すぎて、どんどん出不精になる。

それは、年を取ってからでいいのだと思う。

 

さて、そんなことを言っていても仕方がないので友人に連絡を取ると、

あれよあれよと、北海道旅行のプランニングが進み始めた。

そしたら、俄然、旅行ムードになってきた!

具体的になってくると、ワクワク感が湧き上がってくる。

そう、旅行はプランニングしている時が、めちゃくちゃ楽しいのだった。

ワクワクしながら、メールのやり取りをしながら、

横で眠る於市の顔を見ても、昨日までほど「この子を残して…」という哀愁は感じない。

私の心はあっという間に、於市の方から北海道に飛んでしまった。

 

それでも長期旅はこれが最後になるのではないかと思うほど猫と離れがたい。

困ったものだ。

成年年齢が18歳に引き下げられた。

確かに肉体的には、以前よりも成長が早く大人に見えるが、

中身の方はどうなのだろう?

そして当事者たちは、以前よりも早く成年になることをどう感じているのだろう?

 

そもそも人はいつ大人になるのだろう?

 

誰でもそれなりに外見は歳をとり、周囲の人たちからは大人として扱われる。

でも、当の本人は、つまり中身は、いつ大人になるのだろう?

 

あくまでも見た目で判断され、

周囲の人々は見た目で、その人を大人か子どもか(必要ならば)を決め対応する。

でも…

 

もしかしたら、親になる人は、

親になった日に大人になるのかもしれない。

子どもの手前?ならざるを得ないから。

しかし、親になれなかった私には、大人になるきっかけがなかった。

 

それなりに歳をとった私の意見は、

「人の心は、子どもの頃から、変わらない」である。

 

鏡に映る私の顔は、子どもの頃だったら、すごーい年上の大人の人。

でも髪はボサボサだし、化粧もしていない、ただの人。

そう、ただの人。

 

私は結構ちゃんとしていて、分別のある人間だと思っているけれど、

自分を総称して、自信を持って、大人だとは言えない。

 

だから、18歳の人も心配しないで、

40歳の人も、60歳の人も、

(90歳になるとある意味本当に子どもに返っていってしまう)

あなたから見たら大人かもしれないけれど、本人は結構大人ではなかったりする。

 

私は、自分で責任を取れる自由を得た時に大人になるのだとずっと思っていて、

それは18歳の時に成し遂げた。

当時は、大人になりたいと言う(自立したいという)気持ちが強かったのだと思う。

でも、心の中にはずーっと子どもの心を持ち続け、

以前よりも遥かに、子どもらしい自由を満喫できていると思う。

 

大人になんてなりたくなければならなくていい。と言いたい。

「私は大人です」は、単に社会で生きていくための方便になっている。

仕事の時だけ大人のふりをしてやり過ごし、

普段はいつまでも子どもの心で日々の時間を愉しめた方がいい。

そう、思っている。

私は何が好きって、人を驚かすことが好き。

驚かせるためのポイントは、なんと言っても、いい事として終わる事。

 

驚かすことが好きという基本があって、日々行動している。

 

病院にお見舞いに行くのが好きだった。

突然病院に会いに行く。

相手は入院しているから逃げることが出来ない(笑)

それなのに、コロナで、病院のお見舞いは全てNGになった。

 

近所の友人宅にも、ちょいちょい出向く。

もちろん、連絡は前もって入れない。

前もって連絡入れると、先方は何かしら準備してしまうかもしれない。

そうでなくても、大なり小なり、待ってしまう。

だから、何も言わないで出向く。

いなかったらいなかったでいいや。

それは運命。

田舎にきて、それがしやすくなった。

とれたての野菜を持って友人宅へ。

いたらしばし立ち話。

いなかったらドアの前に置いて帰る。

必要ならば、あとでLINEをする。

それができる田舎暮らしは最高。

 

そんな私だけれど…

 

土曜日に、北海道の友人に小さな小包を送った。

もちろん、長いお手紙を添えて(←こちらがいつもメイン)

次の日になってちょっと心配になった。

その友人は東京にも家があるので、もしかして長期で留守にしていたらどうしよう。

そうしたら、不在通知にも気づかず、

そういった荷物って郵便局から返送されてきてしまうのかしら?

日月と丸二日間心配していた。

 

今朝になって、友人からLINEが届いた。

「荷物受け取りました」のお礼のメッセージ。

ほっと胸を撫で下ろす。

 

誰かをびっくりさせようと思って、連絡を入れずに色々行動するのだけれど、

タイミングが悪くて失敗することもあるし、

こうやって馬鹿みたいに気を揉むこともある。

 

ホント、馬鹿みたい。

 

でも、多分、続ける。好きだから。

 

私が子どもの頃は、こういうことがたくさんあった。

そもそも子どもの頃は、何時に何処と約束しないで集まっていたし、

友だちの家に学校帰りにお邪魔することもあった。

今の子供たちは、その家の親に了解を得ないと遊びに行けないらしい。

 

私の好きなことがどんどんやりにくくなる世の中。

 

それが現代だ!というのならば、

私は時代に乗り遅れました。ということなのだろう。

【日本政府は、2月10日 気候変動対策として、原発を最大限活用する方針を閣議決定しました】

 

 

原子力に関わる多くの専門家が、人間には扱えないモノと判断して、撤退し、

さらに、2011年以降、多くの原発が停止していたために、運転できる人も減っている。

 

それなのに、政府は次世代革新炉に世論を誘導しようとしている。

これまで日本が新型の原子力の開発で成功したことは一度もないんです!

 

高速増力炉もんじゅも失敗

青森の六ヶ所再処理工場も役に立っていないじゃないですか。

 

そもそも福島の事故で発生した大量の放射性廃棄物の行方も決まらない。

11年経っても、です!!

当たり前です。誰だって、自分の家の庭にそんなものは埋められない。

つまり、どうやったって安全ではないと言うことです。

 

原発に賛成する人の中には、相変わらず、原発の電気は安いと信じている人がいます。

しかし、福島原発の処理にこの10年間で13兆円。

それらのお金は東電が支払う?

もちろん、それは私たちが支払った電気代であり、

どの程度、上乗せされているかなんて、消費者には分からないのです。

 

もうひとつ、原発は二酸化炭素を排出しないと信じている人がいますが、

原発を建設すれば二酸化炭素を排出し、

廃炉にするためには、想像もできない莫大な二酸化炭素を排出し、

そして核廃棄物は行き場がない。

もちろん、発電所の跡地にも住みたくないですよね。

 

この狭い国のどこにそんな余った核のゴミ置き場があるのでしょうか?

そして、地震大国の日本では、どれほどの安全性を確保しても、

将来必ずまた事故は起こります。

福島の時に学ばなかった(後戻りしなかった)馬鹿な日本人と言われるだけならまだしも、

多くの日本人が亡くなり、多くの日本の土地が人の住めない土地になります。

 

そもそもこの11年間なぜ、自然エネルギーのために予算を投じてこなかったのか?

なんか、最近の自民党政権の動きを見ていると、原発再稼働のためとしか思えないです。

そして、しばらく選挙がないこの時期にチャンスとばかり動き始めたのです。

 

ウクライナを見れば分かるように、

原子力発電所は、敵の攻撃対象になります。

小説で書かれたように、新潟の雪深い柏崎刈羽原発が攻撃を受けたら、

あの原発は世界最大の原発なのでその被害は福島の比ではありません。

 

今国民がみんなで反対しないと、この国の将来がなくなるかもしれないし、

少なくとも若い世代に負の遺産を山ほど残していくことになります。

この2つの言葉は、辞書で引く限りにおいて、良い意味しかないのに、最近の会話では殆ど悪い意味でしか使われていない。

哀しい言葉です。

 

何とかしたいと勝手に思っています。

 

「適当だよね」「いい加減だよね」が、どうして悪い意味のみになってしまったのか?

「好い加減」とアクセントを前に持って行って読めば、「好い塩梅」みたいに美しい言葉に聞こえてくるはずなのに、こちらで使われることは殆どなく、「いい加減」と平板に使われることばかり。

 

「適当な人」は、みんな「適当すぎる人」になってしまった。

 

 上司に「ここどうしましょうか?」と聞いて、上司が「適当でいいわ」と答えたとしても、やはり良い音には聞こえてこないですよね。

 

 でも、本来の意味は、「ある性質・状態・要求などに、ちょうどよく合うこと。ふさわしいこと。」「度合いがちょうどよいこと」   

 …めちゃくちゃ優れていることですよね。

 

 書く時は、「適当」という言葉を、カタカナやひらがなで書き換えることで意味の捉え方を変えたりもしてみる。

 例えば「テキトーだよね」って書くと、本当に悪い方の、適当すぎるイメージになる。

 

 でも、とにかく、本来の いい意味の方で使ってみたい。

 

「適当でいいわ」ではなく、「適当がいいわ」と言えばいいのか?

「あの人何をやっても適当なのよ。素敵な人」と語尾に加えるしかないのか?

 

本来のいい意味を取り戻してもらいたい言葉なのです。

いつ頃からだろう? [フードロス]という言葉を聞くようになった。

そして、最近は[フードロスを削減しよう]という言葉をしょっちゅう耳にする。

 

当初、フードロスって何だろう?って思った。

 

飲食店や食品の小売店での売れ残りの商品を廃棄すること?

身近な所では、コンビニの賞味期限切れのおにぎりは何処へ行くのか?っていう話?

 

何だろう?と感じたのは、私の暮らしの中で[フードロス]があまり起きていなかったから。

その理由は、冷蔵庫の中のものを使い切るように心がけているし、作った料理は残さず食べるし、何よりも私は[賞味期限]という、食品に書かれた日付をあまり気にしない。

もちろん、なるだけその期日内に消費しようと思ってはいるけれど、食べきれないことや、うっかりしてしまうことは、誰でもあるものです。

そんな時は、開けてみて、まず匂いをかいで、それで分からなければ、ちょっとだけ味見してみて、大丈夫なら消費している。

 

そもそも[賞味期限]という明記が、あらゆる食品に書かれるようになったのは、いつからなのだろう?

少なくとも、私が子どもの頃にはそういった表記はなく、

親たちは、当たり前に牛乳の匂いを嗅いでチェックしていた気がする。

 

ロスが出ないように暮らしてきたのだと自負している私にも、

最近、少しずつ食品を捨てることが発生している。

 

それは、家族の消費量が減りつつあるのに、私の作る量が、うまく合わせられず、ちょっと作り過ぎてしまったおかずが、時々捨てられてしまうこと。

それと、脳の老化で、買ったことを忘れ、常識外の賞味期限切れの商品が時々どこかから現れること。

 

先日は、封を切っていないホットケーキミックスが出てきて、その賞味期限が2020年だった。小麦粉等が入っているので、さすがにこれは怖いので破棄することになった。

が、食品を破棄すると、本当に心が痛む。

そもそも、何でもモノを捨てることに罪悪感を感じるのだ、私は。

だから必要な分だけ購入する。購入したものは、何としても、頑張って、使い切る、食べる!

 

ご飯粒は一粒たりとも残さない。

醤油差しには、使うだけの醤油を入れるので、皿に醤油が残っていることはない。

 

そんなことを知らず知らずのうちに、きっと子どもの頃、親に教育されて身についていることが、ラッキーだったのだと思う。

そして、年と共に、食べられなくなったり、頭がぼんやりしていて、冷蔵庫の奥からいたんだ食材が出てきて唖然としたり、その程度の食品の廃棄は、許して頂きたい!と思い始めた年齢に差し掛かったら、世の中が[フードロス削減!]と声高らかに言い出した。という印象なのだ。

 

コンビニで賞味期限切れのおにぎりを捨ててしまうという話を随分前に聞いた。(その後、対策は色々取られていると思う)

コンビニでバイトする若者に、「それは貰えないの?」と聞いたことがある。

大きな企業だからなのか、従業員にあげることは許されていない、らしい。

 

私が高校生の頃、家の側のパン屋さんでバイトをしたことがある。

学校が終わってからのバイトだったので、夕方から閉店までバイトしていた。

パンのように保存期間の短い食品を、その日中に完売させることは、どの店にとっても心がけているものの、難しいことだと察する。

当然、毎日のように少しずつ売れ残りのパンがあった。

パンだけではなく、ケーキもあったような気がする。

そして、毎日ではなかったけれど、売れ残りのパンを貰って帰っていた。

チェーン店ではないし、当時は、食べ物を扱う店でバイトすることの特権のようなものだった。

 

今も、小さな店ではそういうことがあるのかしら?

 

そもそも賞味期限というのは、作った側が、食べることを保証している期間であって、

腐り始める日時ではない。

作った側は、それ以降は味が落ちるとか、いたむこともあるとか、つまり責任は取れませんよという日付だと私は理解している。

だから、それが過ぎている場合は、自分の責任において…、食べる。

 

ただ、フードロスを減らすためには、買いためておかず、

毎日、その日その日に食べるモノを買ってきた方が、新鮮なモノを食べられるし絶対に良いと思う。

しかし、田舎暮らしの、若くない私には、毎日スーパーに行くイメージは、もう、ない。

 

家族の消費量が減った分、

私の食欲が圧倒的に落ちてきた分、

少し今までよりも良いモノ、美味しいモノを、ちょこっとだけ頂く。

そういう風に我が家の食生活を変えていこうと、この一年位真剣に心がけているところだ。

先日、友人と話をしていて、突然疑問に思ったことがあったのです。

 

その友人の息子の結婚が決まり、結婚する相手のご家族と面会をした話などを伺っていた。

新郎新婦はもうすぐ30代半ばということもあり、子どもの話になった。

私の友人は、お嫁さんの姑にあたるので、流石に聞けなかったが、

30代半ばなのだから、子どもを持ちたかったら早い方がいい。

そんな話の中で、彼女が言った言葉

「息子は子どもが好きだから、子ども欲しいと思うんだよね」

よく聞くフレーズ。

だけれど、私は突然、疑問、大きなクエスチョンマークが頭の中に浮かび上がってしまった。

 

(子ども好きだから、子どもを作るの?)

 

人間が子どもでいるのは、何年間くらいなのだろう?

人それぞれの考え方があるし、

男女差や、個人差で、子どもらしい時代の年数は変わってくるだろう。

しかし、とにかく、

人生の中で、子ども、でいる時期は長いわけではない。

彼らの子どもも、あっという間に大人になる。

 

つまり子どもを持つと言うことは、

文字通り(子どもを持つ)ということではなく、(一人の大人を育てる)みたいなことだ。

子どもが好きだから子どもを作っても、その子どもはあっという間に、

大好きな(子ども)ではなくなってしまうわけだ。

 

「子ども好きだから、子ども欲しいなあ」

っていうセリフは、よく耳にしている。

でも、それっておかしいですよね。

 

私は、子どもは好きではないが、自分の子どもを持ちたいと思っていた。

時代のせいとか、親のせいとかで、子どもを持つのが当たり前だと思っていただけかもしれない。

でも、今歳をとれば取るほど、自分の子どもがいたらよかったと思うことは多い。

特に話し相手になる女の子が欲しかった。

と、今は思う。

 

私の子どもとして生まれてきた、今は大人になった女性が、

LINEで繋がっているだけでもいいから、存在していたら、どんなに楽しいだろうと想像することがある。

映画を見て2日経ったし、感想を書くつもりで見ていなかったので、細かいセリフとか覚えていないのだけれど、色々思い出すので、自分の頭の中を整理するためにも感想を書いてみようと思いたった。

 

まず、3時間は長い。でも最初から3時間と覚悟していたせいか、長くは感じなかった。面白くはなかったし、感動もしなかったけれど、とてもよく作られていたと思うし、色々考えさせられた。

とても難しい作品だった。

 

最初に感じたのは、チェーホフを読みたいと思った。

チェーホフの作品は、数本は読んでいるし、舞台を見たことも何度かある。でも「ワーニャ伯父さん」は読んでいない。見てもいない。と思う。(演劇鑑賞の記録はいつだったかPCの中から消えてしまったので探せない)

 

チェーホフの印象としては、とても才能のある脚本家だった。そのためか、難しくて私には理解が追いつかない。何作か読んだけれど、その良さがよく分からなかった。けれど、嫌いではなかった。

 

そもそも若い頃に読んだ、世界戯曲全集に出てくるような戯曲は、みんな難しくて面白くなくてよく分からなかった。その中のいくつかの作品は、それから後に何度か読み直す機会があって、その良さを理解できたけれど、読み直す機会がなかった作品はそのまま記憶の片隅に追いやられている(記憶にもないかな?)

 

まずチェーホフを読み返さないと、この映画を理解できないじゃない!と感じたし、ラストの生きていかなければならない苦しみを、「ワーニャ伯父さん」の戯曲を通して感じたいと思った。

 

3時間を長いと書いたが、3時間の映画で大好きだった作品がある。「ディアハンター」という作品で、ロードショウで5回以上は見た。あの作品では、最初の1時間は、結婚式のシーン。これがある意味長い。1時間後に、突然爆音のようにヘリコプターの音が入り、映像がベトナム戦争に移行する。インパクトは凄い。そして、最初の幸せだった結婚式時代のシーンが1時間あったことで、私たち観客の中にしっかりインプットされ、その後の不幸な日々との比較になったのだと理解している。

 

この映画では、(時計は見なかったのでよく分からないけれど)最初の1時間は、妻との幸せな日々を描いているように思われる。が、後で分かるが、幸せな日々だけではなく、妻が別の男と寝ている事実を、見てみぬふりする主人公のそれまでの生き方をも描いていた。

 

ひとつ理解出来なかったのは、妻の愛人の一人であった男(岡田将生演じる)も、亡き妻の創作のストーリーを丸々知っていた。それは、寝物語で語ったという事実を表しているのだろうけれど、分からなかったのは、その愛人の方がストーリーの先を知っていたこと。これは何を意味していたのだろうか?(分かりませんでした🙇)

 

この作品のテーマは、(西島秀俊演じる)主人公が、生きていくことが辛くなっている現実世界で、稽古中に出会った人や起きた事象を超えて、最後、もう一度ワーニャ伯父さんを演じることを可能とする。そのセリフは彼の人生にそのまま重なっている。

 

この映画の中で取られている彼の演出技法。(あらゆる言語で演じることをOKとする)は、見たことがないけれど、ラストのセリフが、韓国手話で語られるくだりは、圧巻だった。素敵な女優だったし。

 

彼女の夫で、演劇祭のスタッフを演じていた韓国人の役者も素敵だった。

当初、呼ばれてやってきた演出家(主人公)は頑なにドライバーを拒絶している。しかし、スタッフが理由を説明して、そこに滞在する間は、運転はすべてそのドライバーに任せて欲しいと言い、納得させるわけだが、その流れの中で、彼でなければできない役だと感じた。もしこれを日本人の役者がやるとしたら誰だろうか? 八嶋智人を思いついた。(敬称略)でも彼の芝居はちょっと煩い。では、勝村政信は…?彼は最近静かな芝居もするし。と考える程度にしか私には思い浮かばなかった。

 

ワーニャ伯父さん役の男優が、警察に捕まって、公演を中止にするか演出家の彼が自ら演じるかの選択を迫られた時、彼は「もうワーニャ伯父さんは演じられない」と言う。なんと言ったか正確な言葉を思い出せないが、あの役をやると自分の心の中から抉り出されるようで辛くて仕方がないのだ。それがよく分かって、辛かった。

 

役者という職業は、ある役を演じる時、魂を揺すぶられることがある。時々、魂を抜き取られるような役に出会うことがある。これは役者という職業にとってはラッキーなことだが、一人の人間としては最悪のことなのかもしれない。役に引っ張られて自分を失っていく時もある。自分に戻るのに時間が掛かることもある。だから、主人公が、あの役は(怖くて)演じられないと言った気持ちがよく伝わってきた。

 

国際色もあり、チェーホフのワーニャ伯父さんとリンクしたこの秀作は、国際的に評価が高かったことは、納得がいくが、果たして、日本人の一般観客のどれほどの人が、面白かったと言うのだろうか…?

以前、作家が好きで読んでいた本の中に、

「一年会わなくても平気な人は、友だちではない」と書かれていた。

それは、友だちならば、一年に一回とか、それ以上、会って一緒に時間を過ごしなさいよ。

ということを言いたかったのだと思う。

そして、私はその通りだと思い、その言葉がインプットされた。

 

今、私は信州に移住して、

それまで付き合っていた友人は、殆ど、東京神奈川千葉埼玉に住んでいて、

更にみんな歳をとって、行動範囲が狭くなり、

一年に一回会うチャンスを作ることが困難になった。

そこで、一年に一回、手紙を書くことにした。

 

人と会うとか、喋るとか、一緒に楽しい時間を過ごすためには、

どちらかが行動を起こさなければならない。

実際、メールとか携帯電話とか便利なツールがあるにも関わらず、

人々は以前よりも(それがなかった頃よりも)用事もないのに連絡することが減ったように感じている。

歳をとっただけかもしれないが。

 

そこで、一年に一回、

その人の誕生日を理由に手紙を書くことにした。

誕生日なので、一応、ささやかなプレゼントも同封する。

ささやかなプレゼントにするのは、お礼の品が届かないように。

つまり相手が、モノを貰って借りが出来たように感じないで済むようにである。

 

今は年間30人位の人の誕生日に手紙を送っている。

そうすると、メールが来たり、電話が来たりして、

つまり会うことは出来ないけれど、少しだけ声が聞けたり、近況が聞けたりする。

 

そもそも働いている頃は、みんな仕事仲間と毎日のように会い、

仕事の後、そのままご飯や飲みに行ったりし、

それで友だちがいると勘違いしている人が多い。

それは、友だちではなく、仕事上の付き合いであり、

仕事がなくなると切れていく人間関係である。

 

その頃から、友だちだと思う人とは(好きな人とは)

仕事以外の付き合いを始めていないと、その後には繋がらない。

 

今はメールやSNSがあるので、ずーっと繋がっていることが簡単にできる。

いつだって連絡が取れる。

だから、かえって不精になるのだろうか?

 

私が若い頃は、住所と家の電話番号で繋がっていたので、

ある日、引っ越しをすると、連絡が取れなくなるものだった。

子どもの頃の大好きだった人に会いたいと思っても連絡の取りようがない。

中学一年の時の親友 立原浩子さん

高校の時の親友 西成美貴さん

養成所時代の親友 林綾子さん

会いたい人がいる。

時々、Facebookで探してみたりするが、

私の年代は、SNSをやっていない人が多いし、

そもそも結婚して名前が変わっていて探すことが困難だったりする。

 

SNSで繋がっているからと安心しないで、

会いたい人には、用事なんかなくても連絡を入れてみてください。

要件なんていくらでも作れます。

心残りのないように、便利な機能はフルに使って、

大切な人と過ごす時間を大切にしてください。