今回は久しぶりに明治座の番付を紹介したいと思います。
大正10年1月 明治座
演目:
一、楠
二、三人片輪
三、傾城阿波の鳴門
四、花相撲め組達入
前に紹介した明治座の番付
前に紹介した時より大分間が空いてしまいましたので本編に入る前に大正8~9年の明治座の概況から入りたいと思います。
大正7年に松竹の所有となった明治座ですが売却した伊井蓉峰への義理もあってか
大正8年
歌舞伎公演:5ヶ月
新派公演:4ヶ月
大正9年
歌舞伎公演:3ヶ月
新派公演:5ヶ月
と新派公演にかなり配慮した割り振りとなっていて、歌舞伎公演はというと書き入れ時の正月や花見月の4月は開くものの、後は左團次一門が当時根城にしていた新富座が鴈治郎の上京公演などで使えない3月や11月に代替えとして使われるのが専らであり、松竹としても手に入れたは良いものの少々持て余し気味という状態でした。
今回の1月公演も左團次一門以外の面子を見ると
・市川猿之助
・市川小太夫
・市川三升
・中村芝鶴
・市村亀蔵
・片岡市蔵
と歌舞伎座と掛け持ち出演している人もいるとは言え、歌舞伎座では大した役が降られない若手、脇役陣を左團次一座にくっ付けてそこに上方から
・中村雀右衛門
・嵐吉三郎
・阪東壽三郎
を加えて体よく俄仕立ての東西歌舞伎大一座にした感がある座組になりました。しかも左團次は掛け持ちで歌舞伎座に出演している関係もあり一番目のみの出演となっていて左團次一座といっても実際は猿之助と雀右衛門一座というのが実情に近い状態でした。
余談ですがこの番付は片岡市蔵の印が押されている事から市蔵の関係者に配られた物の様です。
市蔵の印
楠
さて、一番目の楠は左團次でお馴染み岡本綺堂が書いた時代物テイストの新歌舞伎の演目です。
外題に楠とある様に時代は南北朝時代、楠木正成の三男で南朝と北朝を行き来して南北朝統一に貢献した楠正儀を主人公に時には裏切り者の誹りを受けながらも両朝を取り纏める様子を彼に殺された宇野光連の息子である熊王丸の仇討に絡めて描いています。
これだけ聞くと以前に歌舞伎座の筋書で紹介した吉野拾遺を思い出させる内容ですが榎本虎彦が明治44年に書いたのに対して綺堂は明治40年に書いておりこちらが先行作品に当たります。
吉野拾遺が上演された歌舞伎座の筋書
明治40年という事から鋭い人はピンと来るかも知れませんが明治41年に初めて左團次の為に提供した維新前夜の前に当たる事から綺堂作品としては珍しく左團次に当てて書かれていない演目となります。
維新前夜の後編である奇兵隊を上演した帝国劇場の筋書はこちら
また、極めて初期の作品に当たる事から後の修禅寺物語や鳥辺山心中に比べても書き慣れていない事もあり、科白にも西洋演劇からの影響が見られるなど劇評曰く
「綺堂氏の作としては初期のものだけ、「貞任宗任」に似てそれより生硬な處がある」
と作品としてはまだ煮詰まっていない部分があると指摘されています。
今回は楠正儀を左團次、熊王丸を壽美蔵、和田正武を壽三郎、お村を松蔦、伊賀の局を秀調、雉六を亀蔵、雉郎を猿之助がそれぞれ務めています。
さて、これまで幾度となく綺堂作品を手掛けてきた左團次がこの作品をどうやって料理したのかと言うと一族と反目しながらも平和の為に奔走する似た様な役柄で上記の指摘にも名前が出てる貞任宗任の宗任をベースに演じたらしく
「左團次の正儀は「貞任宗任」の宗任そのままで、本人も見るものも気が替はらぬのが損である、がその代りこの優の役としてはよく嵌ってゐるので、少しも破綻がない」
と役の性根が似てるだけに貞任宗任を見ている人からすればマンネリじみた感じがあったそうですが、前年の9月に巡業で宗任を演じてた事も幸いして演じる分には何の苦もなく演じて寧ろ評価されました。
また、別の劇評にも
「左團次の正儀は風采態度、正成で無く正行で無く、いかにも正儀らしかった。唯例の濁音が民を憐れむ平和論者には鋭過ぎた。これは持前で仕方が無かろうが、練習したら澄む様になるかも知れぬ。」
と彼独特の台詞廻しがミスマッチであった事を除けば概ね評価されているのが分かります。
左團次の正儀と吉三郎の紀六入道
そして正儀に復讐を誓う熊王丸を演じる壽美蔵についても
「壽美蔵の熊王丸はこの劇の一番重要な側役になってゐて、どの場も一人で浚って行くやうな形がある」
「壽美蔵の熊王丸は第一の儲役丈、第一に引立った。自白する所は殊に涙を帯びた調子の緩急、上出来であった。」
とこの演目のキーポイントとなる美味しい役を上手く演じてこちらも高く評価されました。
壽美蔵の熊王丸と三升の村上小平太
また、劇評では左團次、壽美蔵に次ぐ出来として前にも触れた壽三郎について取り上げ
「壽三郎の和田正武の武道一辺の武士らしいのが、一番役柄に嵌ってゐた」
と正儀と図らずとも対立してしまう南朝方の武士を演じて評価されていますが一方で上方役者としては左團次一座が芸風にピッタリ嵌まり過ぎてしまっているあまり、
「壽三郎の和田正武は先代と違って丸で東京式になった。更に洗練した大阪式の濃い情を含蓄する様心がけるが好い。」
と将来を心配される面もありました。
因みに劇評にここまで心配される背景には当時の壽三郎の出演状況がありました。
壽三郎は上記の大正8年12月に上京して以来、
大正9年
1月:明治座
2月:横浜座
3月:新富座
4月:明治座
5月:新富座
6月:新富座
7月:歌舞伎座
8月:名古屋末広座
9月:明治座、麻布南座(掛け持ち)
10月:新富座
11月:明治座
12月:帝国劇場
と見ての通り1年丸々ずっと東京に滞在していて一度も大阪に帰る事がありませんでした。長期滞在と言えば聞こえがいいですが要するに鴈治郎一座が幅を占める当時の大阪では彼に充分な活躍の場が用意されていなかったが故の東京滞在であり、劇評の心配はこうした壽三郎の扱いが良い意味では大阪では振られない大役を左團次一座で演じれるのと引き換えに益々彼を上方役者らしさを失わせてしまうのではという心配から出た模様です。因みに壽三郎はこの大正10年も丸々東京で過ごし、大阪の舞台に再び出るのは2年後の大正11年3月の中座の事となります。
この中座の筋書は所有していますので後程紹介したいと思います。
さて、この様に演目そのものはそれまでの綺堂物と比べると完成度の面で劣る部分はあるものの、幾度となく綺堂物を演じて経験値を積んだ左團次一座の面々からすれば演じやすい部類であったのは間違いなく、出来としては悪くなかったそうです。
三人片輪
中幕の三人片輪は以前に市村座の筋書で紹介した事がある竹柴其水が書いた喜劇テイストの舞踊です。
以前紹介した市村座の筋書
『大正6年1月 市村座 吉右衛門の八陣守護城と菊五郎の神明恵和合取組』今回は歌舞伎座に引き続き市村座の筋書を紹介したいと思います。 大正6年1月 市村座 昨年の筋書と寸分違わない使いまわしぶりが秀逸ですねw 役割番付 演目:一…ameblo.jp
今回は松蔦が出演する関係で次郎助をおまきと女に変更した他、船岡主馬を三升、躄太郎作を猿之助、盲人半之丞を壽美蔵がそれぞれ務めています。
男の役を松蔦の為に女に変える必要があったのかは兎も角、舞踊に関しては定評のある猿之助と舞踊には縁が無い壽美蔵と松蔦という良くも悪くも異色の組み合わせとなったこの演目ですが意外にも
「猿之助の躄、松蔦の唖、壽美蔵の盲の三人が、駭かれるまで車輪になって踊りぬいた」
「猿之助の太郎助、壽美蔵の半之丞、松蔦のおまき、能く踊り、能く笑はせた。猿之助は琴に遺伝を現はして達者であった。」
と猿之助は兎も角、松蔦と壽美蔵は慣れない舞踊を一生懸命に演じた事は評価されています。
猿之助の躄太郎助と三升の船岡主馬
しかし、劇評は続けて
「併し余り車輪過ぎてかういふ所作の悠たりとした余裕と大まかなとした味とを閑却したのは惜しい事である」
と車輪故に余裕のないせこせこした物になってしまったとも書いています。
また、メイン3人はいざ知らず他の役者の出来は良くなかったらしく
「かつみは兎に角小太夫の侍女や三升の大名の如きは形が点でなってゐなかった、何れももっともっと修行を励む必要がある」
と幸四郎の縁戚で舞踊には定評のあった母のしほに教わっていた坂東かつみ以外はかなり厳しい評価をされています。
身も蓋もない事を言ってしまうと左團次一座の弱点の1つがこの舞踊演目の弱さであり、それを一門から舞踊役者を育てて出すのではなくかつみや猿之助といった外部の舞踊の得意な役者を呼んで穴を埋めていた点でした。
この点に関しては自身が舞踊の名手であり、一門からも七代目梅幸、二代目松緑という舞踊の名手を輩出した他、身を寄せていた若手から七代目芝翫と九代目三津五郎を育てた菊五郎劇団や自身は舞踊が苦手で長らく三津五郎の助演で穴埋めしていたものの、一門から勘三郎を輩出した他、初代白鸚、六代目歌右衛門と舞踊が出来る役者に恵まれた吉右衛門劇団とは異なり、猿之助頼みという合わせのまま対策を取らずにズルズル時を過ごした事が左團次の死後に一座が猿之助と壽美蔵に別れた際に壽美蔵側に舞踊が出来る役者が不足し一座としての形を維持できず結果的に一座は戦後に解散状態になり壽美蔵が舞踊をあまり重要視しない上方へと移籍する遠因になったと言えます。
この様に一座にきちんと舞踊が出来るのが猿之助位しかいないという弱点が見事に露呈した形となり、松蔦と壽美蔵の車輪で観れない程ではないものの、及第点ギリギリといった出来でした。
傾城阿波の鳴門
そして二番目の花相撲め組達入の劇中劇のテイストで二番目の間に差し込まれる形で上演された傾城阿波の鳴門は以前に新富座の筋書でも紹介した時代物の演目です。こちらは上方歌舞伎では常連演目と言っていい程よく掛かった演目で歌舞伎では八段目の前半部分を見取演目で上演するのが常となっていました。
前回紹介した新富座の筋書
今回はあくまで花相撲め組達入の中の劇中劇というテイストで演じられる為か普段歌舞伎でも演じられる事が少ない十郎兵衛が実の娘と知らずに金欲しさにおつるを殺める十郎兵衛内の場を含めて一場で全て終わらせる短縮Verでお弓を雀右衛門 、おつるを千代麿、十郎兵衛を吉三郎がそれぞれ務めています。
今回唯一の古典演目となったこの演目ですが役者を上方の雀右衛門と吉三郎という芸達者で固めたのが功を奏したらしく
「雀右衛門のお弓、いかにも上方型の女房振、東京役者とかうも違うものかと、これは地方的特色の遺伝に驚く。吾子と知っての喜、また別れる悲江戸の女の意地より深い情が出てゐた。」
「久し振りの雀右衛門のお弓が、追駈や幕切に歌右衛門式のよちよちした処が目に着くにしてもあの上方式の繊細な技巧と、母としての細い情合と、科が尠からず一日の見物の涙を一度に誘う価値があった。」
と東京の女形には出せない濃厚な芸を絶賛されています。
一方吉三郎は
「(実の娘と知らずおつるが)金を持ってゐると知って儲らうとする所は盗賊を追払って自分が盗賊になる浅ましさ軽かったのはそんな事には馴れてゐるとしたのか、一寸位は良心に咎める思入があって好い。殺したのは吾子と知っての驚きと苦しみは能く現はした。」
「吉三郎の十郎兵衛は調子は気の毒だが、雀右衛門と相並んで、調和の取れた芸風」
と実の娘と知らず金に目が眩んで殺める場面には注文が付いていますが殺めてからの愁嘆は良く表現できていると評価されています。
雀右衛門のお弓と千代麿のおつる
またおつるを演じた千代麿も
「おつるの千代麿がまた可憐で、弱々した者のあはれさ、心細い姿のいぢらしさ、場末の井戸端に啼くこほろぎの様であった。」
と哀れ実の母に会いながらも名乗りを出来ない上に実の父親に殺されてしまう薄幸な少女を演じきれたと高評価されており一幕にギュッと短縮して役者を限った事が功を奏してダレる事なく充実した演技を見れた事もあり、
「案外面白く見られた。」
と劇中劇扱いとは思えない高評価となりました。
花相撲め組達入
二番目の花相撲め組達入は竹柴秀葉が神明恵和合取組を下敷きに新たに書き下ろした世話物系統の新歌舞伎の演目です。
本家の神明恵和合取組を上演した歌舞伎座の筋書
内容としてはに概ね本家と同じですが本家が別名め組の喧嘩と言われる様に火消し側に寄っているのに対してこちらは喜三郎内の場ならぬ四ツ車内の場とするなど力士側の方を重点的に描いている他、火消しの辰五郎は出て来ず代わりに三河屋藤松が火消し側の主役になるなど所々アレンジが加えられているのが特徴でもあります。
今回は三河屋藤松を猿之助、霜屋の弥助を壽三郎、水引の清五郎を壽三郎、おかつを秀調、小勇の然次を市十郎、天狗の平助を小太夫、四ツ車大八と金看板の甚九郎を市蔵がそれぞれ務めています。
一風変わった世話物演目を他ならぬ世話物にはとんと縁のない猿之助が演じるというかなりハイリスクな試みでしたが劇評では出来について
「壽三郎の水引が第一の出来」
とこれまた意外にも壽三郎の水引の清五郎が良かったらしく、肝心の猿之助は
「次は秀調の藤松女房おかつと、猿之助の藤松である」
と二番目に良かったと評価されています。
また猿之助と秀調に就いては個々に言及されていてまず猿之助は
「猿之助の藤松は辰五郎をしても差支の無い位幅が出来て、元気が満ちてゐた。」
と若さから来る溌剌さが変に世話物の様式美に嵌まらない自由奔放な火消しの男っぽさを出せていたとしており、秀調についても
「秀調の女房おかつは老女の気味であったが、それ丈情も見え江戸の下町の女房らしい所は出てゐた。」
と顔が少々老け気味に見える欠点を除いては概ね評価されています。
年配の方には猿之助の晩年の舞台姿を見てる方もいるかと思いますが、どうしても戦後の活動のイメージから世話物の演目を演じるイメージが付きにくいですが実は戦前の猿之助は自身の当たり役となった恋の研立などを演じる傍ら坊ちゃんや西遊記といった大胆な演目に挑戦したり、昭和3年から昭和10年まで2度目の松竹脱退をしていた昭和6年を除き毎年8月に大谷友右衛門と歌舞伎座で弥次喜多道中シリーズを演じる等、菊五郎や羽左衛門が得意する古典演目の世話物で無ければ意外と世話物系統の演目には抵抗感なく演じる役者でもありました。そういう意味ではこの三河屋藤松が高い評価を受けているのもある意味納得いく物があります。
猿之助の三河屋藤松と秀調のおかつ
また秀調に関しても東京の舞台では今回の様に専ら左團次一座に身を寄せているイメージが非常に強いですが帝国劇場の紹介時も触れましたが毎年8月には中車の地方巡業の相手役として時代物、世話物問わず大役を務めており、今回も言わば普段東京の劇場では発揮できない実力を久々に示しただけとも言えます。
そんな隠れた実力を発揮した彼ですが東京の女形役者の厚い壁に阻まれた事もあり本家め組の喧嘩で羽左衛門の辰五郎相手に女房を演じれるのは晩年になった昭和初期まで待たなければなりませんでした。
他にも久々に大きな役と言える金看板の甚九郎と四ツ車大八を務めた市蔵も
「市蔵の四ツ車、正に関取の貫目は十分」
と四ツ車の方は力士らしさが出てると評価されており、歌舞伎座などでは大きな役に恵まれていない実力者達が存分に実力を揮える事もあって主脇ともども充実した演目となり、本家のめ組の喧嘩にも劣らぬ出来栄えになった様です。
この様に頼みの左團次も殆どいない面子ながら中幕の三人片輪こそ不評でしたが一番目、二番目の新作はそれなりの評価を得た他、雀右衛門の阿波の鳴門の高評価もあり、残念ながら詳しい客入りの情報はありませんが内容としては充実した物になったそうです。
この後左團次一門と上方勢は場所を横浜座に移して2月公演を行い、左團次は単身歌舞伎座との掛け持ちを続ける等忙しくも充実した日々を送り、猿之助と小太夫は単身帝国劇場へと出演します。横浜座の筋書は所有していませんが、帝国劇場の筋書は持っていますのでまたすぐに紹介したいと思います。