今回は再び中座の筋書を紹介したいと思います。
大正11年3月 中座 初代市川齊入七回忌追善

演目:
一、操三番叟
二、当的中源家鏑箭
三、鷺の森
四、猩々
五、駕丁
六、いつつ雁金
七、蔦絲蜘振舞
前月の中座と演芸画報の記事でも書いた通り、2月公演終了後に鴈治郎一座は地方巡業へと出かけて代わりに前年の9月公演以来ずっと道頓堀を離れていた延若が戻り同じく巡業帰りの市川右團次と共に大正5年3月に亡くなった初代市川齊入の七回忌追善公演を開きました。
初代齊入の引退公演の筋書
亡くなった時に右團次が参加していた名古屋末広座の筋書
追善とあって一座には右團次の義弟(右團次の妹と結婚)でもある壽三郎、齊入の異母弟である小團次などの身内が顔を揃えた他、中村嘉七や中村紫香といった腕利きに加えて数日前に羽衣会の出演を終えたばかりの三津五郎も八十助と共に駆け付けるなど地味ながらも実力はある面子が揃った座組となりました。
主な配役一覧

余談ですが、三津五郎は市村座に長らく籍を置いていた関係もあり、1月に松嶋八千代座には出演していたものの道頓堀への出演は明治43年9月の弁天座出演以来実に12年ぶり、中座には初出演でもありました。
また、壽三郎についてはこれまで東京滞在中の様子を度々紹介していましたが彼が道頓堀の劇場に出演するのは大正8年9月の浪花座に出演して以来、2年半ぶりの出演であり、身内の追善でも無いと道頓堀に出る事すら叶わないという当時の彼に対する松竹の冷遇ぶりが見て取れます。
上京して帝国劇場に出演した時の筋書
明治座に出演した時の番付
操三番叟

序幕の操三番叟は故人齊入が得意とし歌舞伎座での引退公演でも演じた事もある舞踊演目になります。
歌舞伎座での引退公演の筋書はこちら
今回は翁を右團次、千歳を紫香、三番叟を三津五郎がそれぞれ務めています。
さて、初となる中座出演となった舞踊を得意とする三津五郎が出た三番叟はどうだったか気になる所ですが、劇評は
「右團次、三津五郎の三番叟があって」
と出ていた事しか触れておらず、どんな出来だったかについては不明となっています。
当的中源家鏑箭

続いて一番目に上演された当的中源家鏑箭は元の外題を弓張月源家鏑箭といい、曲亭馬琴の書いた椿説弓張月を三代目河竹新七が脚色し明治14年3月に市村座で初演された時代物の演目になります。
この演目は久松座から市村座へと移籍してきた四代目助高屋高助の為に書かれた物で、原作の内史実に忠実な部分である源為朝が保元の乱で破れ八丈島(史実では伊豆大島)で反乱の兵を挙げ、追討にやってきた朝廷方の舟を一矢で沈没させた所までを描いています。
初演時の高助の鎮西八郎為朝

今回は鎮西八郎為朝を壽三郎、白縫姫を紫香、武藤太を鴈蔵、右源太を荒太郎、佐太夫を嘉七、八丁礫喜平次を延若がそれぞれ務めています。
壽三郎の鎮西八郎為朝と紫香の白縫姫

さて、明治時代ならいざ知らず大正時代には既に珍しい演目扱いとなっていたこの演目ですが案の定劇評は
「久振で帰った壽三郎の出物、もともと言葉は明瞭だが東上後は更に演ることもしっかりな延若の八丁礫喜平次も達者であるが狂言が狂言で一向に感動を引かぬ」
と延若の八丁礫喜平次については一定の評価をしていますが肝心の演目そのものが大した物ではないと身も蓋も無い評価を受けてしまいました。
主役でも無いのに何故か評価された延若の八丁礫喜平次
この様に壽三郎の為朝の出来とかについては全く触れていない為、序幕の操り三番叟の様な無視程酷くないものの、こちらもどの様な出来であったかは今一つ不明なままとなっています。
鷺の森

そして中幕に上演されたのが齊入追善演目である鷺の森でした。
この演目について少し説明すると元の外題を御文章石山軍記といい、三代目勝諺蔵が書き下ろし、顕如上人三百年忌の年に当たる明治13年10月の角座で初演された時代物系統の新作演目であり、内容は浄土真宗本願寺派第11世宗主である顕如を主人公とし石山合戦で熾烈な戦いを繰り広げる織田信長との戦いを天才軍師(?)楠(木)正具の軍略や鈴木孫一の華麗な活躍を描くと共に鷺森御坊への退去などの本能寺の変も描き信長の死により無事浄土真宗を守り抜いた事を皆で祝う所で終わるという宗教劇らしさ満載の演目であり、敬虔な浄土真宗の信者であった齊入が顕如上人、雑賀孫一、楠正具の三役を演じて大切では顕如上人と孫市の早替わりと舞踊を見せるという齊入らしいケレン味もたっぷり入れた物で初演の角座は元より、明治16年に東京に上京し春木座で出した時も西本願寺派の築地本願寺と東本願寺派の浅草本願寺の宗徒の団体観劇の御陰もあり大入りを記録した事から齊入の当たり役の1つとして認知されていました。
今回は上記の大切のみの見取上演となり顕如上人を小團次、教如上人と鈴木孫一を右團次、杉浦民部太夫を小文治、春日局を玉之助、志摩与四郎を巌笑、鈴木孫六を壽三郎、片桐且元を延若がそれぞれ務めています。
さて右團次と小團次も揃ったこの追善演目ですが劇評は身内である右團次と小團次について
「小團次の顕如上人はこの役には恰好の優」
小團次の顕如上人と右團次の教如上人
「右團次の斯門教如上人と二役鈴木孫一いづれも無難だが大踊舞があるので後者の方が好い」
右團次の雑賀孫市

と何れも好評でしたが演目としての評価となると矢張り見取り演目にしたのがマイナスに響いたらしく
「死に陥り乍ら不思議な運命に救はれる上人の一門、殊に疾病を患ひ乍ら治るといふ歓ばしさは石山軍記の大詰としてのこの一幕だけでは気乗りが薄いのは仕方がない」
と見所でもある一人三役を兼ねる大車輪ぶりが見ものであるこの物語の全容を一幕だけでは全く掴めず物足りないと少々辛口な評価となりました。
余談ですが小團次はこの後4月になると東京に戻り横浜劇場と横浜座に出演し蘇我入鹿と茜屋半兵衛を元気に演じてましたが続く5月の本郷座の初日を前々日に控えた5月4日、舞台稽古中に脳溢血で倒れてしまい回復する事の出来ないまま5月6日に73歳の生涯を閉じました。
そして先程の配役紹介でも出てきた小文治について軽く紹介したいと思います。彼は一説によると小團次の妾の子であり、若くしてその腕を認められて小團次が養子にした程の人物で市川小満若を名乗り養父と共に左團次一座に籍を置いていました。
大正7年に名題昇進すると共に小文治を襲名し小團次の立役としての後継者として米升と共に高島屋の若手の有望株と見做されていました。
そんな彼ですが戦前の映画に詳しい方ならご存知の通り大正13年に映画界入りして戦後まで長らく映画俳優として活躍していました。本来であれば米升に先立たれた小團次の唯一の後継者としてゆくゆくは小團次の襲名も夢ではないポジションにいましたが上記の通り小團次が2ヶ月後に急逝してしまうとその立場は一転して厳しい物になり、左團次一座ですらも中々役に恵まれない日々が続く様になりました。これは左團次が米升の小文治よりも正妻の子である米升の遺児鯱丸を高島屋の後継者として庇護していた為でもあり、このままでは一生脇役のままで終わるという危惧もあって震災により歌舞伎界が混乱している時に乗じて廃業し映画界へと転向したのでした。
もし小文治が踏み止まりワンポイントリリーフであっても小團次を襲名して居れば衰勢著しい小團次の血統の高島屋も変わっていたかも知れないだけに映画界への流出が惜しまれる人物でもありました。
それはさておき、演目としては少々物足りない部分は否めなかったものの、追善演目としての合格ラインには達していたらしく続く三津五郎の舞踊と共にこの月の演目では評価が良い演目になりました。
猩々
駕丁

続く浄瑠璃と題された猩々、駕丁の舞踊二種も言うまでも無く所作事ですがこちらは舞踊に優れた故人の実子である右團次と異母弟小團次ではなく2つとも今回のゲストである三津五郎と八十助親子が演じました。
舞踊の踊り手としては小團次譲りのケレンを用いて既成の舞踊に囚われない踊りを見せた齊入とはまるで正反対の奇を衒わない楷書的な踊り手である三津五郎の舞踊でしたが劇評もその点について言及し
「道頓堀には珍らしい三津五郎のための出物、ケレンを全く離れたこの優の踊の正確さは「猩々」に、物の割合に淋しいが厭味のない處は「駕丁」に三津五郎の特質が頷かれる」
と又一郎や右團次の上方式の踊り手や幸四郎や宗十郎といった東京の他の踊りの名手とも異なる芸風と技量に対して一定の評価をしています。
三津五郎の猩々

これが追善演目であるならば他のケレンを入れた舞踊にすべきですが 既に操り三番叟を演じている上に大切にも蔦絲蜘振舞が控えている事や三津五郎の芸風や扱いも考慮すると矢張りこの辺りが妥当だと思われたのかと知れません。
いつつ雁金

そして二番目のいつつ雁金は初代竹田出雲が書いた男作五雁金を元に大森痴雪が書き下ろした世話物系統の新作演目となります。
黙阿弥の青砥稿花紅彩画にも影響を与えたとされる「上方の五人男」ですが内容としては花街に身を売った娘を助けようと案平兵衛が布袋市右衛門、雷正九郎、極印平右衛門らと手を組み雁金屋文七と娘を身請けしようとする助平な商人を襲った事で一時は仲間割れの危機になるも和解したのも束の間、通報されて捕手との大立廻りとなるという物になっています。今回は雁金屋文七を延若、案平兵衛を壽三郎、雷正九郎を右團次、国川城右衛門を大吉、極印平右衛門を嘉七、布袋市右衛門を三津五郎がそれぞれ務めています。
ここまで基本的に辛口続きの評価でしたが新作のこちらはどうだったかと言うと
「単に一情話といふ他に深みがないのと情話にしてもその頃の新町の色彩を特に寓視してないのが悪みである」
と話の筋や下調べが単調だとしてこちらも厳しい評価となりました。
ただ、延若の文七については
「強い線を見ているが湊川への恋心など二枚目の情味を強く加味してゐる、この主人公は紙の上でも、所演の上でも極めて線の太い無頼漢である方が延若にとって好い狂言になりはしないか」
と彼にとっては二枚目の要素があるが故に演じ易い役ではなかったのでは無いかとしつつも彼の演技に一定の評価をしています。
延若の雁金屋文七と浅尾大吉の国川城右衛門

御覧の通り演目そのものへの総評と延若への評価しか掲載しておらず、貴重な延若と三津五郎の共演がどんな具合だったのかについては分からず、総評にもある通り演目自体も決して良い出来ではなかった模様です。
蔦絲蜘振舞

大切の蔦絲蜘振舞は再び右團次の出し物で常磐津と長唄による舞踊演目となります。
こちらは俗に「上方の土蜘」と言われ、五代目尾上菊五郎が新古演劇十種の1つに入れた土蜘が能の「土蜘蛛」を能がかりで演じているのに対してこちらは同じ演目を歌舞伎舞踊として演じた物に当たります。右團次はこの演目を好んで巡業でも演じる等得意役であり、父親の追善に出したのですが劇評はこちらの演目に関しても一言も触れておらず残念ながら出来の方は不明となっています。
この様に結果としては齊入追善劇を除けば無視されたり、厳しい評価が並ぶ少々情けない結果となってしまいましたが、入りの方は初日が無事大入り満員だったという広告が新聞に載るなど2月ほどの大入りではなかった無かったものの、不入りにはならなかった様です。
この後中座は曾我廼家劇に貸し出し、延若と右團次、壽三郎は浪花座に移動して大正6年5月に有楽座で新劇団無名会によって初演された西郷と豚姫の歌舞伎初上演に踏み切る等、相変わらず何でも演じてしまう根性を発揮する事になります。
そして東京から参加した三津五郎は公演終了後は東京へと戻り4~5月は何処の劇場に出る訳でもなく静かに時が経つのを待ち、市村座脱退から8ヶ月が経過した6月に入って漸く旗幟を鮮明にする事となります。
次に持っている中座の筋書は翌大正12年になってしまうのでまた暫く間が空きますが演芸画報などで様子は紹介したいと思います。