大正4年2月 歌舞伎座 初代市川齊入引退公演 東京編 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正4年2月 歌舞伎座

 
 

演目:

一、鵺退治        
二、実録先代萩        
三、妹背門松        
四、桜美多礼        
五、操三番        
六、関寺小町        
七、三人石橋

 

主な配役一覧

 

まずこちらをお読み下さい 

 

大正4年1月の公演が初春公演にも関わらず市村座や帝国劇場に押されてまたもや不入りに終わりこのままでは面目が絶たないと感じたのか2月公演には大阪で引退公演を行ったばかりの市川齊入を招いて東京での引退公演を打つ事になりました。

 

大阪での引退公演の筋書

 

しかし、これには一悶着あった様で配役一覧を見ても分かる様に専属俳優の中から羽左衛門、仁左衛門、段四郎、源之助の4名が抜けている事が分かります。これが噂を呼び「松竹は昨年の直営化で一部の裏方を解雇したように今度は幹部役者のクビを切ろうとしている」という風に尾ひれが付いた話になってしまい、特に仁左衛門に至ってはかつて兄三代目我童が狂死した原因が齊入の襲名公演への不参加が発端であった事から意趣返しに引退公演を持ち前の癇癪が炸裂させてボイコットしたといういかにもありそうな噂まで出回ったそうです。

これに対して松竹は朝日新聞などに

 

齊入引退興行をやることは事実ですがまだ座組も決定おりません。この興行には幹部一人を残して他を使わぬの排斥するのという噂をきいてこちらが吃驚したほどです。

 

と慌てて声明を発表してデマである事を説明しています。

因みに不参加である4人の内、羽左衛門と段四郎に関しては前に紹介した様に齊入出演の交換条件なのか浪花座に出演していて仁左衛門に関しては兄の死云々かんぬんではなく、当初名古屋の劇場への出演予定の話があったのを体調不良を理由に断っていて、後から歌舞伎座の齊入引退公演の話が決まってしまい、本人は歌舞伎座に出演したかったものの片や体調不良で休んでおきながら片や出演するというのは流石に名古屋の関係者に義理が立たないという事でそのまま休みにしたのが真相だそうです。

 

羽左衛門と段四郎が出演した浪花座の筋書

 

 

そして当の仁左衛門本人は兄の一件に関しては「右團次は巻き込まれただけで罪はない」と和解済みで自身が角座の座頭の座を譲られた経緯からむしろ感謝しており出演を希望したものの、上記の件もあって敵わず代わりに今回の公演終了後に大阪へ戻る齊入をわざわざ東京駅まで見送り、

 

引退してもその技芸だけは引退させて下さるな

 

と握手を交わして別れを惜しんだそうです。

 

さて、今回も順番に紹介していきたいと思います。

 

鵺退治

 

序幕の鵺退治については一番目の実録先代萩に絡むのでまとめて説明します。

 

一番目の実録先代萩は前に浪花座で紹介しましたので御殿の場の詳細についてはそちらをご覧ください。

元々明治9年6月に新富座で初演された演目でその時は五代目彦三郎、五代目菊五郎、四代目芝翫、二代目澤村訥升(四代目助高屋高助)らが務めました。

 

実録先代萩の彦三郎の伊達義宗公、訥升の浅岡、菊五郎の片倉小十郎

 

今回は御殿だけでなく、御殿の場で片倉小十郎が持っている原田甲斐の連判状を手に入れるまでの経緯が描かれる仮牢、実録と謳っておきながら徳川光圀が何故か登場する水戸街道の場と御殿、そして大切の評定所の四幕半通しになっています。

更に加えて仮牢で登場する和助が夢に見たという設定で序幕に実際に鵺退治を上演するという前月の市村座の伊賀越道中双六の半通しを意識したのか中々凝った上に珍しい演目となりました。

しかし、劇評では作品そもそもが

 

実録に面白いものなしと昔から言われる通りあまり面白いものではない

 

とのっけから全否定されています…。

そして折角凝って付けた鵺退治も

 

最初から牢屋の場でも無かろうという斟酌であろうが(中略)この場が牢内の和助の夢であるならばいっそ獏でも働かせたら面白かろうにという人もあったほどだ

 

團菊で書卸した物を延二郎と右團次にさせる事が全然無理がありました

 

と全く評価されませんでした。

 

実録先代萩

 

続く水戸街道の場も

 

「(良かったのは)延二郎の神並三右衛門と右團次の朝比奈弥太郎の角力柔術の立ち廻りだけ

 

と素っ気なく、続く御殿の場も

 

「(子役の)八十助の千代松が台詞も形も良く千代麿の亀千代も気が合って良かった

 

と子役しか評価されておらず、政岡役を得意とする歌右衛門も

 

一人光彩を放っていた

 

と二代目秀調から高助の型を聴いたとあって評価されていますが一方で

 

「(1年前の4月に)政岡を務めて間もないのに実録の浅岡は損な役だった

 

と慰められている有様でした。一方で歌右衛門が

 

「(浅岡は)この度は演じ納め(一世一代)の心にて

 

と一世一代で演じると語った事について

 

「(この公演で引退する齊入と比べて)引退気を出すはまだ早し

仕勝手の良い楽な事ばかり引き受けずに一頃淀君で当てた様に新しい役に一骨折って歌右衛門の真価をたまには世に出す工夫が肝要であろう

 

とまるで数年後の歌右衛門の将来を予見するかのような忠告をしています。

この事からも見て取れるように歌右衛門本人も周囲もこの時期芸風や今後の身の振り方について模索していたのが伺えます。

 

その他の役者も

八百蔵「水戸黄門と小十郎の演じ分けが分からず損な役回り」「気の毒なほど役が悪い

左團次「(二役の)原田甲斐を引き受けてまず堂々と演ってのけた

と左團次以外は総崩れの有様でした。

 

因みにこの実録先代萩ですが、同系統の伽羅先代萩は得意役とした六代目中村歌右衛門がいた為に頻繁に上演されたのとは対照的にこの実録先代萩はライバルだった七代目尾上梅幸が演じていたものの戦後に上演されたのは梅幸が演じた以外のを含めても23回と少なく、更に言うと歌舞伎座で上演されたのは僅か4回となっています。

(しかも上記の23回は殆どが御殿の見取りであり、その内水戸街道の場は御殿との組み合わせで2回、仮牢と評定所に至っては戦後一度も上演された事はありません)

梅幸没後は同じ菊五郎劇団にいた七代目中村芝翫が受け継いだものの2010年のさよなら歌舞伎座公演を最後に芝翫が亡くなった事もありかれこれ10年以上も上演されていません。

 

妹背門松

 

そんな散々だった実録先代萩の次に上演されたのが東京での齊入の引退狂言は2つの内の1つ目の妹背門松です。

この作品はこのブログでも紹介している新版歌祭文と同じお染久松物の一つで新版歌祭文よりも古い明和4年に書かれた作品です。

今回上演されたのはその中の質店の場で俗に「革足袋の久作」と言われています。

内容としては大晦日の夜に久松の父久作が現れてお染との仲を破局させようとやって来てお染の母と共に2人に説教をするという物でここで久松とお染は無理やり別れさせられた上に久松はその後土蔵に閉じ込められ心中することになる…という話です。
齊入は年老いた父久作を演じ、実子が右團次が息子久松という親子役を実の親子で扮して母お民を歌右衛門、お染を芝雀がそれぞれ演じています。
東京では明治45年1月に帝国劇場で久松を宗十郎、お染を宗之助、お民を梅幸で演じていましたが、その時と比較しても
 
右團次の久松、芝雀のお染がすっかり大阪式に柔らかく人形出(人形振り)の為に斎入の久作十分に芸が出来て格別の味わいを示したり
 
「(右團次は)頑丈すぎる位逞しい筋骨を所有している身体でいながら和事師のしかも前髪、久松という花若衆に扮しながら徹頭徹尾柔らかみを失わず、且つ色気も乏しくなかった
 
「(芝雀は)歌右衛門を除いてはこの一座中での美しい女形である上に色気のある容姿である(中略、斎入と並び)打ってつけのはまり役
 
と右團次は「気の毒なほど勝手違いな役」と劇評に書かれる程の柄に合わない役を演技力で補い演じ、芝雀は美しい容姿を活かして斎入に並ぶとまで絶賛される程でした。
 
そして肝心の齊入はというと
 
他に類と真似(できる)人はあるまい
 
「(土蔵に入れられた久松が)蔵の二階から声をかけると振り返り「また明日来るぞ」との幕切は情もあり、趣もあり、その声も形も目に残りたり

と息子の不始末に激怒しつつも、見捨てられぬ親の愛情を枯れた味わいぶりで見せて絶賛されています。
そんな中唯一お民役の歌右衛門だけは「この場に調和しない」と不評でしたが退屈であった実録先代萩の後に上演された事で暇を持て余していた見物も食い入るように老優の演技に見つめていたようです。
 
桜美多礼
 
しかし、折角持ち直した雰囲気をぶち壊したのが三番目の桜美多礼で毎度おなじみ榎本虎彦の新作です。
しかし、今回は榎本作品常連の仁左衛門がいない為に左團次、右團次、延二郎、芝雀の4人が主役となっています。
話としては延二郎演じる弥七と芝雀演じるお浦の恋模様と主軸にお浦の父である左團次演じる助兼の打った呪いの刀が絡む榎本版籠釣瓶花街酔醒のような物語となっています。
しかしと言うか、案の定というか劇評では
 
「(作品自体が)まとまらぬものなり
 
と突っ込まれている上にどうやら序幕の部分が上方演目の場面そっくりであったらしく、
 
思い切って見物を馬鹿にしたもの(中略)延二郎や芝雀が仕勝手に持ち込んだのであろう、こっちにしてもこれで色気を見せつけて唸らせようとはやっつけ過ぎ也
 
とそれまで数多くの失敗作はあれど成功した作品もあり作者の書いた通り(心が籠っているかは別として)神妙に務めてきた東京の役者とは違い作者が無知であるのを逆手にとってパロディじみた演出に変えてしまった上方役者とそれを制御できない榎本を痛烈に批判しています。この様に歌舞伎座専属組の出し物は両方とも以前と全く変わらず失敗続きであったのが分かります。
 
操三番、関寺小町、三人石橋
 
そんな酷い有様をまたも救ったのがもう1つの齊入の引退狂言である操三番、関寺小町、三人石橋の舞踊三段返しです。
大阪での引退公演でも採桑老を踊った齊入ですが、ケレン芸ばかり注目されがちな彼のもう1つの得意演目がこの舞踊でした。
舞踊と言えば異母弟の五代目市川小團次も得意としていましたが、齊入の場合は一味違い舞踊にケレンを組み合わせるという斬新なアイディアを実行していて操り三番叟では通常の演出とは異なり人形という態で踊り出した三番叟が最後に宙乗りをして何処かに消えていくという幻想的な演出で幾度となく見物を唸らせていました。そんな得意役とあってか劇評も

操三番叟で見せた宙づりで形も崩れぬとは珍しい役者なり(中略)実弟(実際は異母弟)の小團次が翁を務め、右團次、左團次が後見なり、生き生きと舞台を軽く踏んで面白く見せられたり
 
と高島屋一門総出での演目に惜しみない賛辞を送っています。
 
齊入の操り三番叟
 
 
齊入は続く関寺小町でも主役の関寺小町を務め、
 
「(舞台上にある庵から)面を付けて小町にてよろほひ(装い)出でて、舞の内面を取りて品の良い老女にて渋くしんみりと舞い(中略)作り物(の庵)の中へ入るまで如何にも小町が果てという趣
 
あの老体、あの作りで、踊っている内に、その身体に滴るばかりの色気がある所が得難い物である
 
とこちらもケレン芸だけではない本格的な舞踊の腕前を見せて見物や劇評家を唸らせる出来栄えだったそうです。
そして最後の三人石橋は左團次、右團次、米蔵という次世代の高島屋一門の踊りでこちらも齊入とは違う若さ溢れる踊りで締めたようです。
 
ご覧の様に歌舞伎座専属組の結果は惨憺たるものだったものの、齊入の演目は軒並み好評という名実ともに齊入に救われたと言ってもいい状態で引退公演とあって一目老優の姿を見たいという興味本位もあって22日間の内で札止め5日間、それ以外の8割方の入りと歌舞伎座としては前年7月以来、専属組での公演としては勧進帳の三座競演以来となる約1年ぶりの大入りとなりました。
 
役者生活最後の齊入の談話

 
余談ですがN川とような無知蒙昧はいざ知らず、それなりにきちんとした見識をもつ方が書かれた本に「齊入は歌舞伎座の公演で引退」という記述が書かれている事がありますがそれは誤りです齊入は歌舞伎座に出演した後、6月に南座でも引退公演を行い歌舞伎座と同じ操三番叟と関寺小町を演じ、それが正真正銘彼の最後の舞台となっています。
引退後、彼は大阪の自宅で僅かな余生を過ごしましたが、引退から1年も経たない大正5年3月18日に72歳の波乱万丈の人生を終えました。
 
自分が持っている次の歌舞伎座の筋書は8月公演になりますので持っていない4月と7月の内容について少し紹介したいと思います。
この後歌舞伎座は4月に再び南都炎上と羽左衛門が助六を演じる助六所縁江戸桜を上演して引き続き大当たりを取り、ようやく大正3年から続ていた不入りを払拭する事に成功する事が出来ました。そして7月には3度市村座の引っ越し公演を行い大戦景気による好調な経済もあってこれまた大当たりを取りすっかり気を良くした大谷は歌舞伎座の経営を始めてから初めての若手主体の8月に公演を行う事にしました。
次はこの8月公演から紹介したいと思います。