今回は大正3年の締めくくりとして歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。
大正3年12月 歌舞伎座
前回の10月公演に続き今回の筋書も中身は同一なものの表紙が違うもう1つの筋書も持っています。
それがこちらです。
演目:
前回の歌舞伎座の筋書で触れた様に大正3年の興行成績及び前回の10月公演の不入りを受けて歌舞伎座の重役からの不満が噴出した結果、歌舞伎座直営から松竹直営になり初めての公演となりました。
とは言っても従来の役者陣にとっては所属が正式に松竹になった以外は大きな変化はなく、ごく普通の公演として行われました。
配役一覧
今回から専属となった従来の顔ぶれから前月の新富座で鴈治郎と共演していた八百蔵と段四郎が京都南座で行われている顔見世興行にも出演している関係から抜けている他は大きな変化はありません。
しかしながら今回の公演から新たに1人だけ注目すべき人物が加わり出演しています。それが四代目澤村源之助です。
彼について知らない方の為にここで少し説明したいと思います。
幕末の安政6年に大阪で生まれた彼は江戸に下り五代目澤村宗十郎の弟に当たる三代目澤村源之助の養子となり澤村清子と名乗り初舞台を踏みました。その後本家筋の三代目澤村田之助に付き従い澤村座で修行していたものの既に手足を失いつつあった田之助一人では澤村座を支える事は出来ず直ぐに他人の手に渡る事になり、出る劇場を失った源之助は伝手を辿って当時一流の劇場であった新富座に入りました。
そこで見せた古風な芸風が中村宗十郎や五代目尾上菊五郎に気に入られて團菊の相手役として初期の歌舞伎座などにも出演するなど八代目岩井半四郎亡き後、五代目中村歌右衛門(当時は四代目中村福助)が台頭してくるまでの間、二代目坂東秀調と共に活躍していました。
この時代が源之助の最初のピークであり、「明治一代女」のモデルとなった有名な毒婦の花井お梅の世話になっていたのもこの頃でした。
そんな彼の役者人生の歯車が狂い始めたのが明治24年6月、三崎三座の一つ三崎座の杮落し公演に依頼を受けて出演してしまった事に端を発します。当時、大劇場と小芝居の劇場には厳格な階級制度が存在し一度小芝居の劇場に出ると「小芝居の鑑札」を受けなければならず、それによって彼は大劇場の公演に出る資格を喪失してしまいました。
余談ですが彼が小芝居落ちした後の明治30年には大劇場と小芝居の鑑札制度は無くなった事もあり、小芝居に出るのをあと少し後にしていれば源之助の役者人生も大きく変わっていなかったであろうだけに不運としか言いようがありません。
四代目澤村源之助
その為、菊五郎に付き従って大阪角座の公演に出演した彼はそのまま東京を離れて大阪に拠点を移しましたがここでも主に朝日座などのニ流の劇場などに出演していました。その後明治30年に上記の様に大芝居と小芝居の出演の縛りが無くなった事もあって5年ぶりに帰京しましたが既に歌舞伎座には福助が團菊の新たな相手役として定着していた事もあり、團十郎直々の御指名で5月の歌舞伎座で侠客春雨傘に出演した以外は声がかかる事はありませんでした。
その後明治32年9月の歌舞伎座に当時團十郎に芸風や声がよく似ていて小芝居で二銭團洲と呼ばれた板東又三郎が主演した際に出演した事で團菊の不興を買ってしまい以後請われて1回だけ明治37年4月に出演した以外は今回の公演に至るまで歌舞伎座に出演する事はありませんでした。
彼はその後初代市川左團次の相手役として明治座などに出演する傍らで主に宮戸座などの小芝居の劇場に出演するようになり、女形としては三代目澤村田之助のお鉢を受け継いで悪婆物において新境地を開拓して絶大な人気を誇る一方で、立役をやれば洗練された五代目とはまた一味違うアウトローの頽廃感漂う「弁天小僧」を上演して絶賛されるなど小芝居の劇場においては大物として扱われていました。
明治40年9月、宮戸座で髪結新三を演じる源之助
前回の筋書で触れた様にそれまで脇の女形役を担っていた門之助の死去により歌舞伎座は深刻な女形不足に陥っており、短いとはいえかつては團菊の相手役を務めた経験があり特に歌右衛門が苦手とする世話物狂言での女房役を演じさせたら右に出る者はいないという実力を買われて明治37年以来、実に10年ぶりの出演となりました。
さて、今回の演目について紹介していくと一番目の都歌舞伎は榎本虎彦の新作で彼にしては珍しく海外作品の翻案ではなく一から書いた新作となっています。内容は安土桃山時代で豊臣秀吉の姪が主人公で徳川家康との和睦の関係で止む無く庶民になり下がり芝居関係者の妻になったものの、ひょんなことから行方を捜す豊臣方の関係に巻き込まれて騒動が起こるという話です。
都歌舞伎
何でも写実にこだわろうと歌右衛門曰く「大道具、衣装、鬘、持物等すべて(松竹の舞台装置家で日本画家の)久保田米斎先生のお指図によりましたる物」と安土桃山時代の風俗に合わせた上に大詰めで劇中劇で演じる「土車」も古式の踊りにするなどかなりお金を掛けた本格的な活歴物として演じたそうです。
しかし、それほどまでに力を入れこんで作った作品ですが劇評では
「歌右衛門演じるおさよ(千代姫)が徐々に偽物になっていく高台寺の場が一番面白い以外は何処に力を入れて良いのかよく分からない作品」
とあまり評価されていません。
役者陣も辛うじて歌右衛門が「其役其柄にはまり其情其身につまされて他優の真似成し得られぬ品位態度有りて大出来」と評価されている以外は「羽左衛門は儲からない役を良く演じていた」と慰められる位で残りの役者には特に言及すらされていません。
何故ここまで力を入れたのにもかかわらず不評なのか?
実はこの作品、時代考証が滅茶苦茶なのです。
自分がぱっと思いついた当たりだけでも
・一幕目の佐治日向守屋敷の場で聚楽第から使者が来るが、旭姫と佐治日向守が離婚したのは聚楽第が建設される1ヶ月前であるので聚楽第が存在するはずがない
・大詰の伏見城中歌舞伎の場は武家閑談に書かれている結城秀康が伏見城代の時に出雲阿国を芝居を見物したとされる故事を基に作られたとされるが、結城秀康が出雲阿国に会ったとされるのが1605年の事とされており辻褄を合わせる為におさよの年齢も20代に設定されているが既にこの時祖母とされている大政所は死去(1592年没)していて会えるはずがない
因みにもしおさよを大政所の生前に会わせるとなるとおさよは5歳になってしまいます
・そもそも三幕目で大政所と会っている場所が高台寺であり、建てられたのは結城秀康が出雲阿国に会ったとされる1605年の翌年の1606年であり、上記の様に大政所がいるはずがなく、また高台寺も存在するはずがないというパラレルワールドと化してしまっている…
これについては劇評でも突っ込まれていて「四条南の芝居の音がするという設定を活かす為に高台寺にしたのであろうが大政所に会わせたいのであればせめて伏見城内の場にするとか無理を生じさせない為に大政所を北政所に変えるとかにすれば良かったのに」(意訳)と書かれています。しょーもない突込みですが大政所は伏見城が建て始めた直後に亡くなっているので伏見城内という設定にも厳密には無理があります
といくら平安時代に江戸時代に誕生した寺小屋が出てくるなど時代設定が荒唐無稽が当たり前の歌舞伎とは言え、わざわざ活歴風に時代考証にこだわっているというアピールをしている割には細かな時代設定が滅茶苦茶である為に不評だったようです。
業平文次
続いて二幕目の業平文次は市村座の粟田口初音一節に対抗してかこちらも三遊亭圓朝の落語の業平文治松達摂を原作に真景累ケ淵などの補綴の経験がある二代目竹柴金作が改作した作品です。
一番目での役とは違い主役であり、伯父菊五郎が得意とした落語作品の歌舞伎化とあってか羽左衛門は大喜びでやる気は十分だったらしいですが、劇評は素っ気なく
「一番目以上に問題にならない(愚作)」
とばっさり切り捨てています。
廓文章
最後は廓文章です。
こちらはそれまで神妙(笑)にしていた片岡仁左衛門の出し物です。
筋書の後ろに乗っている俳優楽屋話に書いているのによれば「(祖父の)七代目仁左衛門の型に文楽の人形の型を折衷して御高覧に供します」と今まで幾度となく「七代目の型だ」といって珍妙な演技をして舞台をぶち壊してきた過去がありますが、今回も矢張りご多分に漏れず珍妙だったらしく、劇評にも
「出の場面では素足で登場し、奥座敷の場面になると足袋を吐く」という写実にこだわった(?)演技をし出し、
「格子先は良いが、奥座敷になったらうるさい」
「前が片岡伊左衛門で後が藤屋仁左衛門だ」
何とも言えない珍妙な演技だったらしく良いとも悪いとも書けないとされています。
一体どういう演技だったか見てみたいですね。
対して夕霧を務めた歌右衛門は新富座で五代目菊五郎と演じて以来2度目という事で
「美しく品があって申し分ないが伊左衛門に対する嫋やかさの所が乏しい」
と一長一短があったようです。
歌右衛門の夕霧
とこんな感じで全演目においてお世辞にも良いとは言えない出来栄えだったそうですが、不思議な事に成績の方は源之助加入の効果もあったのか12月公演としては出来がいいという事で不入りは免れた様です。
10月の歌舞伎座の紹介で触れた様にこの頃日本は第一次世界大戦に伴う恐慌により不景気な状態でしたが、市村座の紹介でも書いたように日本はドイツ領となっていた青島を占領し戦勝を続け、大正4年になると一転して主戦場になっていた欧州の産業が機能しなくなっていた代わりに欧州向けの輸出産業への注文が相次ぎ、戦争成金が誕生するなど日本は大正4年に入ると共に好景気に入りそれまで不況の煽りを食らっていた歌舞伎座も漸く好転の兆しが見え始めるようにあんりました。