今回も歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。
大正3年10月 歌舞伎座
余談ですが、今回の筋書は中身が一緒なものの、表紙が違うもう1つの筋書も持っています。どうやら販売している売店によって違う模様です。
演目:
前回市村座の役者を借りて大入りを記録した後、8月を芸術座に貸して9月を休みにした後に開かれたのが今回の10月公演となります。
主な配役一覧
榎本作品に限界を感じたのか、それとも7月公演での旧作の大当たりに影響を受けたのかこれまで強気一辺倒であった松竹としては珍しく書き下ろしの新作は無く、比較的新しい作品である鏡山千草錦や大森彦七があるのみでやや守りに入った姿勢が見て取れます。
そして座組も従来の専属組に加えて門之助の追善を兼ねてなのか市村座専属の男寅が出演している他、同じく市村座の岩井粂三郎、更に大阪から久しぶりに中村芝雀を呼ぶなど門之助の死が座組に大きな影響を及ぼしているのが分かります。
鏡山千草錦
一番目の鏡山千草錦は河竹黙阿弥の作品で明治32年11月に歌舞伎座で初演された比較的新しめの作品です。
鏡山とある様に鏡山旧錦絵と同じく加賀騒動を題材に取り上げた作品で、尾上と岩藤の女の争いが主題である鏡山旧錦絵とは違いこの作品に登場する玉笹と政尾のやり取りは一幕のみで、大半は小田大炊と大月蔵人のやり取りが中心となります。
初演が明治32年なので歌右衛門は演じた事があると思いきやこれが初役であり、お貞の方と左枝佐渡守の二役を演じています。
お貞の役は歌右衛門自身「取り立てて見せ場はございません」と解説で述べている様に付き合いで演じているような役で本役は左枝佐渡守となります。お貞の方は劇評でも「持ち味の品の良さでお嬢様らしいが(不義密通するような)色気は無い」とバッサリ切り捨てられていて、本役の左枝佐渡守は早くも後年歌右衛門のお定まりポジションになった座役で一幕だけ踊りを披露する場面はありますが基本的に座わりっぱなしの役でこの頃はまだ座役での演技を評価されていなかったのかこの役に付いては評価すらされていません
その他の役者については普段立役の八百蔵が安宅郷右衛門と中老政尾を演じています。彼は明治32年の初演時も全く同じ役を務めていて九代目團十郎から事細かに演技指導を受けていた事も相まって好評で劇評でも
「(政尾は)岩藤の上を行く出来」
「二役がしっかりしてそれで綴目を付けたるは八百蔵の技力、この優ならば小田大炊でも大月蔵人でも務めて第一位になるべし」
と歌右衛門の不評を他所に高評価されています。
そして初演時五代目菊五郎が演じた大月蔵人を演じたのが甥の羽左衛門でこちらも初演時に久松三五郎役で出演しており毎日伯父の演技を見て覚えていたらしく、劇評にも「思ったより立派。身体の位も相応」と下馬評に反して好評だったそうです。
一方小田大炊役の仁左衛門だけは
「磊落した老人とは見ゆれど織田信長の一族で加州家客分として世に拗ねている大技量の人物には受け取れない」
「(謀反をたくらむ)大月の成り上がりを嗜める態度も地主の隠居が俄身上の店子の所へ来て嫌がらせを言う様で下品」
とどうにも役と仁左衛門のニンが合わず不評でした。
大森彦七
羽左衛門の大森彦七と歌右衛門の千早姫
そして二番目は新歌舞伎十八番の一つ、大森彦七です。
九代目團十郎が初演した後は専ら弟子で帝国劇場にいる七代目松本幸四郎が得意役として何度も演じていましたが、今回は羽左衛門と歌右衛門がそれぞれ初役で務めています。
千早姫との立廻りなどを含めて終始動き回る激しい演目であり元気な羽左衛門はいざ知らず、鉛毒の影響で満足に動けない歌右衛門に立廻りのある演目をさせるのは流石に無理があったらしく、歌右衛門も解説で「工夫をした」と書いていますが芳しい出来では無かった様で劇評には「最後の別れの場は良かった」と良かった所を短く述べているにとどまっています。
新版歌祭文
三番目が新版歌祭文です。
物語の概要は市村座の記事に書いてありますのでここでは省略します。
市村座で上演した時の筋書
今回の配役はお光を歌右衛門、久松を羽左衛門、お染を芝雀、お光の父久作を仁左衛門、そして後家お高を八百蔵がそれぞれ演じています。
歌右衛門のお光は演じるのが年々難しくなりつつある生娘役を演じきり劇評から「十六、七のおぼこ娘になれるのは偉い」と褒められています。そしてこちらも40を越して10代の青年を演じる羽左衛門も「久松の前髪が好いのは恐ろしい役者というべし」と劇評を唸らせる出来栄えだったそうです。こちらは歌右衛門とは異なり、40どころか亡くなる70歳直前まで前髪役を演じるなど初代中村鴈治郎と並んで「永遠の前髪役者」の称号で呼ばれるほどでした。
そして中でも異彩を放つのがお高役の八百蔵で一番目で政尾を演じた様に長い役者生活の経験もあって女形役を演じた事も0ではないものの数々の実績がある立役とは違い女形役、しかも花車役は八百蔵のニンから外れた役だったのですがこれは本人の言葉を借りれば
「門之助の死んだ飛沫ですよ」
との事で本来適役であった門之助の死に伴い歌右衛門から直々に指名がありこの役を演じる事になったそうです。
とは言え、長年の経験を活かして上手く演じたらしく劇評でも「満更悪くない」と書かれています。
以前も女形不足で段四郎が加役で花車役を務めた事があったように、立役に恵まれている歌舞伎座の最大の弱点が女形の不足でした。
今回大阪で出番に恵まれない芝雀を呼んだのも門之助の後釜という意味合いが強く、若手の女形が育つまでの暫くの間は芝雀が若女形役を務める事になり、芝雀もその抜擢に応えて数々の役を演じて腕を上げていく事になりました。
しかし、門之助のもう1つの領域である花車役は中々適役が見つからず、松竹も悩んだ挙句に当時小芝居で活動していた歌右衛門の門弟歌女之丞や七代目市川團蔵の門弟だった市川紅若をその時々に応じて使い分ける事を選び、更に今まで歌右衛門が演じたもののどうしても向かなかった世話物狂言の女房役に関しては次回の筋書紹介でも詳しく述べますが多くの役者の反対を押し切って決断を下し小芝居界の大物を呼ぶという理外の策で凌ぐ事になりました。
さて、専属組にとっては3ヶ月ぶりとなった今回の公演ですが上記の様にそれぞれの演目の評価はそれほど悪くはありませんでしたが、どうしようもない不可抗力が原因で不入りとなってしまいました。それは世界情勢で休場中だった8月に第一次世界大戦が開戦した事です。歴史の教科書などでは第一次世界大戦というと戦争成金の風刺絵が思い浮かばれる様に前代未聞の好景気のイメージがありますが、それは大正4年に入ってからの話で大正3年はというと勃発した前代未聞の複数国間による大規模な戦争とあって為替相場の暴落とそれに伴う海外の輸出産業の打撃を受けた事により日本も輸入していた原材料が高騰し一時的に日本全体が恐慌状態の真っ只中にありました。
その為、芝居見物どころの話ではなくなったのが成績に直結する形となってしまいました。
これまで歌舞伎は明治時代に入り海外の戦争で日清・日露戦争を経験していていずれも新派などが戦争の様子を舞台化して上演して大入りを取るなど余裕がありましたが、今回の場合はそんな余裕もなく歌舞伎界全体に大きな影響を及ぼす事になりました。
そしてこの公演の終了後、相次ぐ公演の不入りを見かねて役員会議が行われたそうです。その場で重役から意見が出たのは「これまでの株式会社歌舞伎座の直営興行を終了させる」という物でした。分かりにくいですがそれまでは興行主が株式会社歌舞伎座であり、直接会社が経営と興行の両方を行っていました。明治44年以降の田村成義や大正2~3年の松竹はあくまで大株主兼興行主任という立場で興行の実権をにぎっていました。この提案はその興行に関する部分を会社から切り離して歌舞伎座は小屋の経営に専念するという案でした。
これは暗に公演の赤字により無配になる事もあった株主の配当金を安定化させると共にそれまで公演を取り仕切っていた大株主である松竹の大谷竹次郎の支配力を弱めるという意味合いもあったそうですが、すぐさま重役であるミツワ石鹸の社長でもあった三輪善兵衛が「劇場を貸すなら、今までの縁故もあるから松竹の大谷さんにかりてもらひたい」と発言し、すぐさま大谷も「諸君に異議が無ければ、私が借りて興行して見ませう(見ましょう)」それを承諾した事で大谷を外すという目論見は失敗し次の11月公演からは松竹の直営による公演に変わる事になりました。