暖かくなるにつれ、花粉やら黄砂やらが飛びはじめ、目のかゆみがおさまらず、目の予防のためにも長時間iPhoneを見ない方がいいなと思い出し、ブログの更新も、随分、久方ぶりとなりました。
今日、2月11日にオープンしたばかりの小川珈琲堺町錦店にランチを食べに行った。
京都に来てから、私はどこかのお店でお茶やコーヒーをいただきながら、良寛さんがお書きになった歌集や詩集を読むことが日課となりました。
とりわけ私が心惹かれたのは、手まりつく長歌のこの下りです。
霞立つ 永き春日に
飯(いい)乞ふ(う)と
里にい行けば 里子ども
いまは春べと うち群れて
み寺の門に 手まりつく
飯(いい)は乞は(わ)ずて
そが中に うちもまじりぬ
その中に 一二三四五六七
汝は歌ひ(い) 我はつき
我は歌ひ(い) 汝はつき
つきて歌ひて
霞立つ 永き春日を 暮らしつるかも
この里に 手まりつきつつ 子どもらと
遊ぶ春日は 暮れずともよし
永くなった春の一日、
托鉢に回ろうと村里に出かけてみると、
子供たちが、春の到来を喜び、
寺の門前で手まりをついて遊んでいる。
私は托鉢をやめ、子供たちに仲間入りし、
子供が歌い、私がまりをつき、
続いて私が歌い、子供がまりをつく。
こうして子供たちと戯れる永き春の一日は、
いつまでも暮れなくていいのになぁ。
良寛さんは、この長歌のとおり、その時々においてこの身が触れたもの(手まり遊びをしていた子供たち)と一つになり、お過ごしになられました。
しかし、残念なことに、今の世においては、公園で遊ぶ子供たちに見ず知らずの大人が声をかけようものなら、怪しい人物と思われ、警察に通報されかねない、ある意味、不自由な世の中となりました。
それでも、私は良寛さんのこの歌から、子供が数え歌を歌って良寛さんがまりをつき、良寛さんが歌を歌って子供らがまりをつく。
聞こえる子供の声も、まりをつく手の動きも、跳ね上がるまりの動きも、バラバラにあるのではなく、一如となって活動している。
この一如の動きのあり様を歌にして表現される以前に、良寛さんご自身、托鉢に出てきたこともお忘れになり、子供らとともに一如の活動そのものをお楽しみになっていたこと。
たとえ良寛さんと異なる時代を我々が生きていようとも、この身体と宇宙(環境)とは、今も変わらず、一如となって働き、一糸乱れず調和し、日常生活となって現成していふことに有り難さを感じております。
また、昨夜、良寛さんの歌集を読んでから寝床についたのですが、しばらくすると、どこからともなくリコーダーの音色が聞こえてきました。
曲名は「あの夏へ」「粉雪(レミオロメン)」「前前前世」「A whole new world」などで、どなたが奏でているのかはわかりませんが、それはそれは見事な演奏でした。
ちなみに、昨日、京都では青空の中、粉雪が舞いました。
良寛さんが村里に出られた時、思いもかけず、手まり歌に出会われ、一緒にお遊びになったように、私にも昨夜、思いがけず、リコーダーの音色が聞こえてきて、自分の思いを超えた、この一如の活動に興じておりますと、リコーダーの演奏も手まり遊び同様、永遠には続かず、その終演とともに一如の活動も静まり始め、いつの間にやら眠りに落ちておりました。
そして、今日の昼も、寺町通りにあるコロンボというお店で、美しい盛りつけのたらこスパゲティ定食を食べた後、瓶入りのかわいらしいティラミスとアイスコーヒーをいただきながら、良寛さんの歌集を読んでのんびり過ごしました。
このお店には、子供のための絵本がたくさん置いてあり、その中には、私が二児の父親になった20数年前に買いもとめた「はらぺこあおむし」などもあり、懐かしく思いつつ、良寛さんがここにいらしたなら、どんなふうに子供たちに絵本を読み聞かせ、一緒にお楽しみになったのだろう?
そんなことを思いながら、まだ寒く、短い冬の一日を過ごした次第です。
そして、今夜は、zoomというシステムを使って、東京の方とお話しをします。
良寛さんが生きた時代には、その場所へ赴かねば、お話ができませんでしたので、たいへんなご苦労があったことと想像しますが、今は世界中の誰とでも家にいながらお話しできる便利な時代となりました。
良寛さんがご自分の足を運んで地道にお伝えになり、引き継がれてきた仏法、仏道のあり様を、私はこの時代の機器を使い、この時代の言葉を使って、お伝えしてまいる所存です。
どうかこれからも、歌となり、詩となって現れ、お供ください。
ご案内
オミクロン株の感染拡大のため、ノンデュアリティ(非二元)プライベートセッションは、当面の間、オンラインでのみ行っております。
今日の午前中、zoomで九州の女性と非二元(ノンデュアリティ )のセッションを行いました。
「ゴーン」という音が聞こえて、朝、目が覚める。
↑これ、事実。
さっき聞こえたゴーンという音は、すぐ近くの六角堂の鐘の音。
鐘の音が鳴るには、お寺の和尚さんが鐘をついているに違いない。
これ、考えによるつくり話。
このつくり話を事実だと取り違えた瞬間、無明(事実ではないことを事実だと錯覚してしまっている状態)が始まる。
そして、ある日、貯金通帳の金額を見た時に、「お預かり金額 14800円」という文字が目に触れた
↑これ、事実。
その途端、事実を事実のまま見れない錯覚が起きたままなので、「通帳の金額が増えたのだから、振り込んだ人がいるはず」とまたもや思い込み、錯覚が続いてしまう。
鐘の音が鳴っているのは、鐘をつく人がいるからだ、という程度の勘違いなら、それほど問題にもならないでしょうが、通帳の預金額が変わったら、お金を振り込んだ人がいるはず、お金を使った自分がいるはず、と信じこんだままでは、それは事実ではないので、大問題。
預金通帳の数字の動きに振り回され、お金に使いまわされる人生になってしまいます。
通帳の金額の動きは、宇宙の活動(仏法)によるもので、法のあり様は人間の考えでどうこうできるものではないので、この事実に頷けるようになれば、お金に使われるのではなく、お金を使えるようになります。
また、このようなことを書くと、「そんな馬鹿なことがあるか。世の中を混乱させるつもりか。こんな話を信じたら、働くのが馬鹿らしくなって誰も働かなくなるだろう」と怒る方もいらっしゃるでしょうが、まさにこれが、「働きが起こるなら、それをやっている人がいる」という考え(ただの考え)を事実だと取り違えてしまった状態=錯覚=人間の苦悩です。
人間の苦しみは、例外なく事実に反した錯覚(無明)によるものなので、錯覚から目覚めれば、即、大安楽となる。
この事実を発見されたのがお釈迦様で、ブツダとは「目覚めた人」という意味です。
ちなみに、この前、「ゴーン」という音が鳴っている最中に、六角堂の真向かいの鐘を見に行ったのですが、鐘をつくための撞木だけが揺れていて、和尚さんがいない。
六角堂は、なんとすごい仕掛けで、人の無明を払おうとしているのか、これ、考えたの誰?と考え始めたら、もう、その瞬間、無明にまっしぐら。
お気をつけください。
お知らせ
今日の文章を読んで、そういうことなのかと、頭で理解してしまったら、事実に触れず、考えによるつくり事の範疇(無明)にとどまったままになります。
そこで10月3日(日)の講話会(オンライン開催)では、どのような坐禅を実践すれば、無明が消え、事実(本来の自己の素晴らしさ)に触れられるようになるのかを話します。
先日、イノダコーヒから家に戻ってくる途中、紙屋さんの店頭に「言の葉大賞」と書かれたポスターが貼ってあった。
内容を読んでみると、今年のテーマは「道」と書いてあり、その瞬間、仏道が、茶道、華道、書道などとどう繋がっているのかを多くの人に知ってもらえる良い機会になるかもと思い、昨夜、iPadで作文を書き上げた。
を読み、その時、自分が選択した結果の愚かさに後悔の念を感じていて、「起こっていることが起こっているだけ」と誰かから言われても、苦しいままだと打ち明けてくれた。
人は、自分以外のことについては、凄まじいほど、いろんなことを知っている。
つまり、「物知り」だ。
でも、「自分」とはどのような存在であるかについては、皆目わかっちゃいない。
それゆえ、人生にうろたえ、迷い続け、スカッと清々しく生きられないでいる。
なぜ、こうなるかというと、多くの人は、なんの疑いもなく、自分のことを肉体だと勘違いしたまま生活しているからだ。
なぜ、このような勘違いが起こるかと言うと、生まれてまもなく、肉体に名前がつけられ、それ以降、あらゆる人々から名前を呼ばれて過ごしてきたからだ。
例えば、私の場合、親からも、親戚からも、友人からも、「大輔」と呼ばれて生きているうちに、「あー私は、この体なんだ」という思い込みが知らず知らずのうちに強化され、疑う余地なく、私は大輔と名付けられたこの体だと勘違いしてしまうわけだ。
そして、この勘違いが起こると、この肉体が「私」であるなら、あっちに見えている体は「他人だ」と言うことになり、あっちに見えている物体は「物だ」ということになる。
この時点で、「自他が別々に存在している」という分裂の思い込みが、まるで真実のように思い込まれてしまう。
さらには、自分のことを肉体だと思い込んでしまっているので、「生老病死」と呼ばれる四苦におびえながら、どうすれば、これらの苦を避けて通れるかを考え続けることになるのだが、どうこうしようともがき続けたところで、四苦を避けることが不可能な人生に失望したりもする。
しかし、これらは、自分とは何かについての勘違いから生じた架空の苦しみに過ぎない。
これらの苦しみが、私たちの勘違いから生じたものであることを、人類史上はじめて見抜かれたのがお釈迦さまであり、どのような修行を行じれば、お釈迦さまと同じように、自他が別々に存在しているというのが思考によるつくりごとに過ぎないことを看破できるようになり、現実に存在しているのは、「不二の法(仏法)」だけであることを自覚できるようになる。
法とは、宇宙の働きそのものであり、この働きに従って、あらゆるものが、生じたと同時に滅するようにできている。
これは宇宙の法則そのものなので、この法則から外れて存在しているものなど、何もない。
つまり、あらゆるものが、この法則に沿って活動しているので(例外が一つもないので)「法(法則)」と読んでいる。
でも、多くの人は、自分を肉体だと勘違いしたままなので(勘違いしていることにさえ気づけないので)、仏道、仏法に反することばかりやり続け、餓鬼道、畜生道、修羅道などに落ち込んだままとなる。
それゆえ、いもしない他人との争いに明け暮れる人生(修羅道)を送り続けることになる。
では、どうすれば、勘違いが解けるようになるのか?
自他を別々になる前の実物(仏法)にダイレクトに触れ続けていればいい。
それが仏道の修行。
修行を続ければ、そのうち、法そのものの働きによって、この体も自然に動いていることに気づけるようになる。
宇宙の動きから、分離して動いているものなど、何もないことを自覚できるようになる。
お知らせ
9月から、非二元ファシリテーター養成講座・実習コースの内容が変わります。
ファシリテーターとして活動する前に、自分が体ではないこと、自他の別ができる前の「法としてのあり様」「本来の自己のあり様」をはっきり自覚できるようになるまで、私がお一人お一人に対してセッションを行うことにしました。
しばらく、参加していなくて、もう一度、不二(非二元)のあり様に触れる修行を再開してみようと思われた方も、ぜひご参加ください。