日本人であれば、誰もが知っている「諸行無常」という言葉。
お知らせ
5月15日(日)オンライン(zoom)開催の講話会では、「生老病死」の四苦からの解脱についてお話しします。
日本人であれば、誰もが知っている「諸行無常」という言葉。
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5月15日(日)オンライン(zoom)開催の講話会では、「生老病死」の四苦からの解脱についてお話しします。
先日、大阪の実家で、朝、目が覚め、リビングに行くと、80歳の母が、「大輔、ようそんなに眠れるなぁ」と声をかけられた。
ちなみに母は、よく眠る私に対して、このように声をかけるくらいだから、不眠で困っている。
そこで、私はこう答えた。
「そらぁ、毎日、坐禅してるからやで」
「瞑想に耽って、日頃からぼーっとしてるから、眠れるんか?」と母。
「瞑想と坐禅は、見かけ上、おなじように座ってるけど、まったくの別物やで。
坐禅は目を開けて坐ってて、なぜ、目を閉じないかというと、目を閉じるといろんな思いが出てきて、そうなることは別に問題ではないんだけど、出てきた思いに対して、ああでもない、こおでもないと考えに考えを付けたして観念の世界に入り込み、こうなるともう何がなんやら収集がつかなくなり、それによって迷いや悩みが深まってしまうからよ」
母に対しては、この程度の説明にとどめたが、実は、目を閉じて座っていると、ぼーっとしやすくなり、夜、眠っている間に、けったいな夢が現れる時と同じ半睡状態に陥りやすくもなる。
こうなってしまうと、もう坐禅ではなくなる。
人は、目を開けている時と熟睡している時は夢を見ない。
しかし、半睡状態になると、心理学的にいう潜在意識にあった夢が意識上に現れてくるのと同じように、目を閉じて座っていると、意識が朦朧としやすくなり、幻覚や妄想が現れやすくなる。
そして、ヒッピーの時代、この状態を座る目的だと勘違いした西洋人は、精神的な苦しさから逃れようと、手っ取り早く薬物(ドラッグ)などに頼り、幻覚を見ていた(仏性に目覚めるどころか、幻覚に耽るあまり、中毒になっていた)。
こういう時代があったことを、私の母は知っていたので、「坐禅」と聞いた瞬間、「幻覚や妄想に耽るもの」と、今日まで思い込み、冒頭の発言に至ったのだと思う。
では、なぜ、日々、目を開けて坐禅していると、よく眠れるようになるか?
その理由は、熟睡できるようになるために(そのような目的を持って)坐禅をしているわけではないからだ。
どういうことかというと、坐禅中は、無我になろうとか、悟ろうとしている自分が忘じられ、坐禅ひとつになりきっている。
このような姿勢というか態度が身につくと、今度は、座っている時だけでなく、文章を書いている時は書くばかり、食事中は食事を取るばかり、掃除中は掃除するばかり、就寝中は寝るばかり、と日常生活のすべてが「単」を示すと書く「禅」となる。
最後に。
一言に「坐禅」といっても種類があって、その一つに「凡夫禅」がある。
私は、7歳から15歳までの9年間、この凡夫禅(坐禅の要訣や修行の方向性を示されぬまま、ただ姿勢のみを整えて座る坐禅)をやっていたので、足がしびれ、それを耐えるだけの苦行となり、坐禅嫌いになってしまった。
そのため、この身と環境(宇宙)が一如となって働いている様子を体現できる正伝の仏法「最上乗禅」に出会えるまで、坐禅から約40年遠ざかってしまった。
しかし、ここで「遅れた分を取り戻そう」などと結果を急いだなら、本来ひとつのものを二つに見て(「自分と宇宙」「自分と仏」とを分けて距離をつくり)、その距離を縮めるのが修行だと思い込んでいる自我ありきの禅となるので、これは仏法から外れているので「外道禅」となる。
お知らせ
5月15日(日)、オンライン(zoom)開催の講話会のお申し込み受付を開始しました。
暖かくなるにつれ、花粉やら黄砂やらが飛びはじめ、目のかゆみがおさまらず、目の予防のためにも長時間iPhoneを見ない方がいいなと思い出し、ブログの更新も、随分、久方ぶりとなりました。
今日、2月11日にオープンしたばかりの小川珈琲堺町錦店にランチを食べに行った。
京都に来てから、私はどこかのお店でお茶やコーヒーをいただきながら、良寛さんがお書きになった歌集や詩集を読むことが日課となりました。
とりわけ私が心惹かれたのは、手まりつく長歌のこの下りです。
霞立つ 永き春日に
飯(いい)乞ふ(う)と
里にい行けば 里子ども
いまは春べと うち群れて
み寺の門に 手まりつく
飯(いい)は乞は(わ)ずて
そが中に うちもまじりぬ
その中に 一二三四五六七
汝は歌ひ(い) 我はつき
我は歌ひ(い) 汝はつき
つきて歌ひて
霞立つ 永き春日を 暮らしつるかも
この里に 手まりつきつつ 子どもらと
遊ぶ春日は 暮れずともよし
永くなった春の一日、
托鉢に回ろうと村里に出かけてみると、
子供たちが、春の到来を喜び、
寺の門前で手まりをついて遊んでいる。
私は托鉢をやめ、子供たちに仲間入りし、
子供が歌い、私がまりをつき、
続いて私が歌い、子供がまりをつく。
こうして子供たちと戯れる永き春の一日は、
いつまでも暮れなくていいのになぁ。
良寛さんは、この長歌のとおり、その時々においてこの身が触れたもの(手まり遊びをしていた子供たち)と一つになり、お過ごしになられました。
しかし、残念なことに、今の世においては、公園で遊ぶ子供たちに見ず知らずの大人が声をかけようものなら、怪しい人物と思われ、警察に通報されかねない、ある意味、不自由な世の中となりました。
それでも、私は良寛さんのこの歌から、子供が数え歌を歌って良寛さんがまりをつき、良寛さんが歌を歌って子供らがまりをつく。
聞こえる子供の声も、まりをつく手の動きも、跳ね上がるまりの動きも、バラバラにあるのではなく、一如となって活動している。
この一如の動きのあり様を歌にして表現される以前に、良寛さんご自身、托鉢に出てきたこともお忘れになり、子供らとともに一如の活動そのものをお楽しみになっていたこと。
たとえ良寛さんと異なる時代を我々が生きていようとも、この身体と宇宙(環境)とは、今も変わらず、一如となって働き、一糸乱れず調和し、日常生活となって現成していふことに有り難さを感じております。
また、昨夜、良寛さんの歌集を読んでから寝床についたのですが、しばらくすると、どこからともなくリコーダーの音色が聞こえてきました。
曲名は「あの夏へ」「粉雪(レミオロメン)」「前前前世」「A whole new world」などで、どなたが奏でているのかはわかりませんが、それはそれは見事な演奏でした。
ちなみに、昨日、京都では青空の中、粉雪が舞いました。
良寛さんが村里に出られた時、思いもかけず、手まり歌に出会われ、一緒にお遊びになったように、私にも昨夜、思いがけず、リコーダーの音色が聞こえてきて、自分の思いを超えた、この一如の活動に興じておりますと、リコーダーの演奏も手まり遊び同様、永遠には続かず、その終演とともに一如の活動も静まり始め、いつの間にやら眠りに落ちておりました。
そして、今日の昼も、寺町通りにあるコロンボというお店で、美しい盛りつけのたらこスパゲティ定食を食べた後、瓶入りのかわいらしいティラミスとアイスコーヒーをいただきながら、良寛さんの歌集を読んでのんびり過ごしました。
そんなことを思いながら、まだ寒く、短い冬の一日を過ごした次第です。
そして、今夜は、zoomというシステムを使って、東京の方とお話しをします。
良寛さんが生きた時代には、その場所へ赴かねば、お話ができませんでしたので、たいへんなご苦労があったことと想像しますが、今は世界中の誰とでも家にいながらお話しできる便利な時代となりました。
良寛さんがご自分の足を運んで地道にお伝えになり、引き継がれてきた仏法、仏道のあり様を、私はこの時代の機器を使い、この時代の言葉を使って、お伝えしてまいる所存です。
どうかこれからも、歌となり、詩となって現れ、お供ください。
ご案内
オミクロン株の感染拡大のため、ノンデュアリティ(非二元)プライベートセッションは、当面の間、オンラインでのみ行っております。
今日の午前中、zoomで九州の女性と非二元(ノンデュアリティ )のセッションを行いました。
「ゴーン」という音が聞こえて、朝、目が覚める。
↑これ、事実。
さっき聞こえたゴーンという音は、すぐ近くの六角堂の鐘の音。
鐘の音が鳴るには、お寺の和尚さんが鐘をついているに違いない。
これ、考えによるつくり話。
このつくり話を事実だと取り違えた瞬間、無明(事実ではないことを事実だと錯覚してしまっている状態)が始まる。
そして、ある日、貯金通帳の金額を見た時に、「お預かり金額 14800円」という文字が目に触れた
↑これ、事実。
その途端、事実を事実のまま見れない錯覚が起きたままなので、「通帳の金額が増えたのだから、振り込んだ人がいるはず」とまたもや思い込み、錯覚が続いてしまう。
鐘の音が鳴っているのは、鐘をつく人がいるからだ、という程度の勘違いなら、それほど問題にもならないでしょうが、通帳の預金額が変わったら、お金を振り込んだ人がいるはず、お金を使った自分がいるはず、と信じこんだままでは、それは事実ではないので、大問題。
預金通帳の数字の動きに振り回され、お金に使いまわされる人生になってしまいます。
通帳の金額の動きは、宇宙の活動(仏法)によるもので、法のあり様は人間の考えでどうこうできるものではないので、この事実に頷けるようになれば、お金に使われるのではなく、お金を使えるようになります。
また、このようなことを書くと、「そんな馬鹿なことがあるか。世の中を混乱させるつもりか。こんな話を信じたら、働くのが馬鹿らしくなって誰も働かなくなるだろう」と怒る方もいらっしゃるでしょうが、まさにこれが、「働きが起こるなら、それをやっている人がいる」という考え(ただの考え)を事実だと取り違えてしまった状態=錯覚=人間の苦悩です。
人間の苦しみは、例外なく事実に反した錯覚(無明)によるものなので、錯覚から目覚めれば、即、大安楽となる。
この事実を発見されたのがお釈迦様で、ブツダとは「目覚めた人」という意味です。
ちなみに、この前、「ゴーン」という音が鳴っている最中に、六角堂の真向かいの鐘を見に行ったのですが、鐘をつくための撞木だけが揺れていて、和尚さんがいない。
六角堂は、なんとすごい仕掛けで、人の無明を払おうとしているのか、これ、考えたの誰?と考え始めたら、もう、その瞬間、無明にまっしぐら。
お気をつけください。
お知らせ
今日の文章を読んで、そういうことなのかと、頭で理解してしまったら、事実に触れず、考えによるつくり事の範疇(無明)にとどまったままになります。
そこで10月3日(日)の講話会(オンライン開催)では、どのような坐禅を実践すれば、無明が消え、事実(本来の自己の素晴らしさ)に触れられるようになるのかを話します。
先日、イノダコーヒから家に戻ってくる途中、紙屋さんの店頭に「言の葉大賞」と書かれたポスターが貼ってあった。
内容を読んでみると、今年のテーマは「道」と書いてあり、その瞬間、仏道が、茶道、華道、書道などとどう繋がっているのかを多くの人に知ってもらえる良い機会になるかもと思い、昨夜、iPadで作文を書き上げた。