非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」 -5ページ目

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

暖かくなるにつれ、花粉やら黄砂やらが飛びはじめ、目のかゆみがおさまらず、目の予防のためにも長時間iPhoneを見ない方がいいなと思い出し、ブログの更新も、随分、久方ぶりとなりました。


今日は、昨日起こった「仏縁」について書きます。

先日、カフェの店内にあった雑誌を読んで、作詞家の松本隆さんが京都に引っ越されていたことを知りました。

松本さんが引っ越された理由は、東京にいても純喫茶が減ってきてつまらなくなり、京都には古くからの純喫茶がまだまだ残っているから、ということでした。

そして、松本さんは、週2のベースで寺町三条のスマート珈琲店でプリンをお食べになっていることを知りました。

私も京都に越してきてから、日々、あちこちのカフェや喫茶店を巡っていて、徒歩圏内にあるスマート珈琲では、ホットケーキとフレンチトーストを食べたことはあるものの、プリンは食べたことがありませんでした。

そこで昨日、仏教書の専門店で禅の本を買ってから、その斜め向かいにあるスマート珈琲に入店し、プリンを食べながら本を読んでいました。

プリンを食べながら、ふと前を見た時に気づいたのですが、真向かいのテーブル席に座っていた女性もプリンを食べていて、鏡に映った自分を見ているようでした。

そして帰宅後、インスタにプリンの写真を投稿する際、こんなコメントを添えてアップしました。
「プリンは、想像していたよりも大きく、なんとなくそのたたずまいが、蓮の上にどしっと鎮座している大仏のように思えた」

すると投稿したインスタに、こんなコメントが入ってきました。

「たぶん、同じ時間帯に、プリン食べてた気がします」

「もしかして、私の真向かいの席で?」と確認すると、やはり、あの時の女性であることがわかりました。

また、彼女は私のインスタをフォローしてくださり、その時にこんなメッセージが届きました。

「大仏みたいって書いておられたのを読んで、コメントしました。
わたし奈良が地元で、東大寺の二月堂がずっと遊び場だったので」

仏教書の専門店で本を買い、松本隆さんおすすめのプリンを食べていると、こんなご縁が起こるのか。

そう思いながら、彼女のインスタの投稿を見ていると、赤いハーレーダビッドソンで京都を巡っている写真が投稿されていて、その瞬間、「ムーンライダーズ」という言葉が頭に浮かんできました。

ムーンライダーズといえば、確か鈴木慶一さんがいたバンドだったなと思い出し、なんとなく気になり、ネットで検索してみると、私が知っているムーライダーズとは別に、当時、もう一つのムーンライダーズが存在していて、そのメンバーの一人が松本隆さんであることがわかりました。

絶え間なく起き続けている「縁」というものは、人の考えの範疇を超えていて、昨日、今日と雨の日が続き(これも縁)、花粉も少なく目の調子も良くなってきたので、今日は、非二元の中でも、仏教の根本的な教え「縁起(因縁生起)」の不思議さについて書いてみました。

最後に、仏法、仏性とは何かをお伝えして終わります。

買い求めた仏教の本も、プリンも、目の前にいた女性も、赤いハーレーダビッドソンの写真も、その時、その時に、目に映っているものはなんであれ、仏の現成そのものです。
仏はあらゆる姿、形となって現れ続けています。

今、あなたがどこにいようとも、ここ以外の場所に仏を求めて彷徨うなら、あなたと仏は距離を隔てたままの遠い存在となってしまいます。

でも、たとえそのような勘違いが起きていても、仏はあらゆる姿、形となって今も現れ続けています。
そして、この立証を行えるのは、あなた自身であり、他人が肩がわりできるものではありません。

なぜなら、あなたの本性(仏性)を知ることができるのは、あなた以外にあり得ないからです。

その実践が「単を示す」と書き、「禅」といいます。

お知らせ
まん延防止が解除されましたので、対面での非二元のプライベートセッションのご予約を再開しました。
また5月15日(日)の講話会(オンライン)の受付も開始しました。

今日、2月11日にオープンしたばかりの小川珈琲堺町錦店にランチを食べに行った。


前回訪れた時は、入口に近い席で、お客さんや店員さんの行き来が多く、ゆったり本を読めなかったのだが、今日は中庭を通り越した先にあるハナレの席に案内され、


このような中庭を眺めながら、聖護院かぶらのスープやサンドイッチ(炭焼きされたトーストは、京都産小麦でつくったル・プチメックのパン)を味わった。



そして食後に、コーヒーゼリーフロートをいただきながら、ゆっくり禅の本を読んだ。


本を読んでいると、わざわざ耳を傾けて聴こうとせずとも、音楽が聴こえてきて、「耳なくして音が聞こえる」、まさに身心脱落、無我の働き三昧とはこのことだと気づけた。

そして、しばらくすると、私の後方の席に座っていた男性客のもとに、店員さんが近づき、このような声が聞こえてきた。

「お客さまのマスク、やはり店内に落ちていて見つかりました。
汚れていてはいけませんので、新しいものをお持ちしますね。
サイズが合えばよろしいのですが…」

舌なくして生じた声。

ここには自と他を隔てる人間の思いが入る隙間などなく、仏の活動があるばかり。

お知らせ
現在、京都では、まん延防止措置が適用されていますので、当面の間、非二元(ノンデュアリティ )のセッションはオンラインでのみ実施しております。


京都に来てから、私はどこかのお店でお茶やコーヒーをいただきながら、良寛さんがお書きになった歌集や詩集を読むことが日課となりました。


とりわけ私が心惹かれたのは、手まりつく長歌のこの下りです。


霞立つ 永き春日に 

飯(いい)乞ふ(う)と

里にい行けば 里子ども 

いまは春べと うち群れて 

み寺の門に 手まりつく 

飯(いい)は乞は(わ)ずて 

そが中に うちもまじりぬ 

その中に 一二三四五六七 

汝は歌ひ(い) 我はつき 

我は歌ひ(い) 汝はつき 

つきて歌ひて 

霞立つ 永き春日を 暮らしつるかも 

この里に 手まりつきつつ 子どもらと 

遊ぶ春日は 暮れずともよし


永くなった春の一日、

托鉢に回ろうと村里に出かけてみると、

子供たちが、春の到来を喜び、

寺の門前で手まりをついて遊んでいる。


私は托鉢をやめ、子供たちに仲間入りし、

子供が歌い、私がまりをつき、

続いて私が歌い、子供がまりをつく。


こうして子供たちと戯れる永き春の一日は、

いつまでも暮れなくていいのになぁ。


良寛さんは、この長歌のとおり、その時々においてこの身が触れたもの(手まり遊びをしていた子供たち)と一つになり、お過ごしになられました。


しかし、残念なことに、今の世においては、公園で遊ぶ子供たちに見ず知らずの大人が声をかけようものなら、怪しい人物と思われ、警察に通報されかねない、ある意味、不自由な世の中となりました。


それでも、私は良寛さんのこの歌から、子供が数え歌を歌って良寛さんがまりをつき、良寛さんが歌を歌って子供らがまりをつく。


聞こえる子供の声も、まりをつく手の動きも、跳ね上がるまりの動きも、バラバラにあるのではなく、一如となって活動している。


この一如の動きのあり様を歌にして表現される以前に、良寛さんご自身、托鉢に出てきたこともお忘れになり、子供らとともに一如の活動そのものをお楽しみになっていたこと。


たとえ良寛さんと異なる時代を我々が生きていようとも、この身体と宇宙(環境)とは、今も変わらず、一如となって働き、一糸乱れず調和し、日常生活となって現成していふことに有り難さを感じております。


また、昨夜、良寛さんの歌集を読んでから寝床についたのですが、しばらくすると、どこからともなくリコーダーの音色が聞こえてきました。


曲名は「あの夏へ」「粉雪(レミオロメン)」「前前前世」「A whole new world」などで、どなたが奏でているのかはわかりませんが、それはそれは見事な演奏でした。

ちなみに、昨日、京都では青空の中、粉雪が舞いました。


良寛さんが村里に出られた時、思いもかけず、手まり歌に出会われ、一緒にお遊びになったように、私にも昨夜、思いがけず、リコーダーの音色が聞こえてきて、自分の思いを超えた、この一如の活動に興じておりますと、リコーダーの演奏も手まり遊び同様、永遠には続かず、その終演とともに一如の活動も静まり始め、いつの間にやら眠りに落ちておりました。


そして、今日の昼も、寺町通りにあるコロンボというお店で、美しい盛りつけのたらこスパゲティ定食を食べた後、瓶入りのかわいらしいティラミスとアイスコーヒーをいただきながら、良寛さんの歌集を読んでのんびり過ごしました。




このお店には、子供のための絵本がたくさん置いてあり、その中には、私が二児の父親になった20数年前に買いもとめた「はらぺこあおむし」などもあり、懐かしく思いつつ、良寛さんがここにいらしたなら、どんなふうに子供たちに絵本を読み聞かせ、一緒にお楽しみになったのだろう?


そんなことを思いながら、まだ寒く、短い冬の一日を過ごした次第です。


そして、今夜は、zoomというシステムを使って、東京の方とお話しをします。


良寛さんが生きた時代には、その場所へ赴かねば、お話ができませんでしたので、たいへんなご苦労があったことと想像しますが、今は世界中の誰とでも家にいながらお話しできる便利な時代となりました。


良寛さんがご自分の足を運んで地道にお伝えになり、引き継がれてきた仏法、仏道のあり様を、私はこの時代の機器を使い、この時代の言葉を使って、お伝えしてまいる所存です。


どうかこれからも、歌となり、詩となって現れ、お供ください。


ご案内

オミクロン株の感染拡大のため、ノンデュアリティ(非二元)プライベートセッションは、当面の間、オンラインでのみ行っております。

今日、自転車で御所南エリアを走っていると、以前から一度行ってみたかったパティスリーの前に行列がなく、今日、初めて入店することができた。

店内の陳列ケースの中を覗くと、一列だけ同じケーキが並んでいて、他のケーキはすべて売り切れ、ケーキの名前が記されたプレートだけが残っていた。

ケーキを選ぶ選択肢はなかったので、店の奥の
カウンター席で、そのケーキをブルーティーという紅茶と共にいただくことに。

ケーキを口に入れると、ケーキがひとりでに溶けだし、チョコレートやキャラメルやバナナの味が口の中に広がり、最後に清々しい香りが鼻腔を通り抜け消えていった。

なぜ、こんなに美味しいケーキが、誰にも注文されることなく、最後まで残っていたのだろう?

この店で、一番売れているケーキは、どんな味がするんだろう?

今度、この店に来た時には、一番売れているケーキを食べてみたいと思い、お勘定時に、そのケーキの名前を聞いてみた。

「先程お客様がお食べになったものが一番人気のあるケーキです」

あまりに以外な答えが返ってきたので、事情をよく聞いてみると、全てのケーキが早々と売り切れ、遅めの時間に来たお客さんのために、一番売れるケーキのみ追加でつくり、陳列ケースに並べ終えた直後に私が入店してきたという経緯がわかった。

もし、この話を聞かなければ、私は「誰も注文しなかった一番人気のない残り物のケーキを食べた」と勘違いしたまま、帰ってしまうところだった。

陳列ケースの中のケーキはほぼ売り切れで空っぽに近い状態(誰が見ても同意できる事実)。

残っているのはこの一種類だけ(誰が見ても同意できる事実)。

それは誰からも選ばれなかった一番人気のないケーキ(私の勝手な思い込み)

私のこの勝手な思い込みは、事実(食べたのは一番人気のあるケーキ)とは真逆で、まったく当てにならないもの。

さらに言えば、「私が食べたのは一番人気のあるケーキ」というのも、後付けのでっちあげ。

なぜなら、私が実際に食べたのは、たった一つのケーキであり(見たことも食べたこともない他のケーキとの比較のしようもなく)、ただただその色、香、味の華やかさに魅了されていただけだから。

お知らせ
12月19日(日)の講話会では、存在しているのは「仏の活動」のみで、一切合切が既に整ってしまっている完璧さについてお伝えします。

また、12月、1月に矢沢大輔のノンデュアリティ(非二元)プライベートセッションを対面でお受けになりたい方は、京都と大阪を行ったり来たりしていますので、こちらの日程をご確認のうえ、ご予約ください。

最後に、今日、近くのスーパーマーケットに買い物に行ったら、思い違いの起きようがないこんな輝きが…



今日の午前中、zoomで九州の女性と非二元(ノンデュアリティ )のセッションを行いました。


彼女の悩みは、頭痛を感じだしてから大きな病院で検査を受けるようになり、それ以来、身体に関する不安を感じながら、日々を過ごすようになったこと。

また、知人に相談した時に、「ザ・マネーゲームから脱出する法」を薦められ、本を読んでみたものの、相変わらず不安を感じながら日々を過ごしていたこと。

以上のような経緯から私のことを知り、今回、セッションを受けてくれました、

セッションで彼女の望みを聞くと、「不安を感じずに日々、過ごせるようになりたい」ということでした。

そこで、彼女に約2分間、椅子に座ったまま、あることをしてもらいました。

そして2分後、「今こうして過ごしている間に、不安はありましたか?」と聞くと、「ありません」という答えが返ってきました。

この2分間の体験を通じ、彼女は、自分が望んでいたこと、どうすれば不安から解放されるのかを自分で知ることができ、その逆に何が起き始めると不安にさいなまれるようになるのかも自覚できるようになったわけです。

このように一度、体験してしまえば、とてもシンプルな話しなのですが、欧米の人たちにとっては、これがなかなか難しいようで、そう簡単にはいきません。

なぜなら、1960年代頃から、日本の禅師がアメリカやヨーロッパに渡り、本来の自己の真相に触れる道(仏道)をお示しになる中、欧米の人たちは、「自分」のことを「身体」、もしくは「マインド(思考)」と思い込んでいるので、相手と自分が分離しているその思考を使って、どれだけ自己の真相(仏法)に触れようとしても触れられず、逆に頭でわかろうとするほど思考が止まらなくなり、迷い、苦しみが増すこと(道元のお示し)を自覚され、ご指導されていたからです。

そして、私自身も、欧米の人たちと同じように、自他が分かれた思考を用いて、非二元(仏のあり様)に触れよう、わかろう、近づこうとするほど、逆に迷路に落ち込んでしまう悪夢の中にいました。

自己をはこびて万法を修証するを迷とす
万法すすみて自己を修証するは悟りなり

道元のこのお示しがなければ、私は自分で自分を救うどころか、仏教でいう六道輪廻のサイクルに自ら陥り、「この四苦八苦の人生からどうすれば脱出できるのか」「どこにその出口があるのか」と、今なお思考のつくり事(妄想)を事実だと錯覚したまま、迷走し悪戦苦闘の日々を送っていたことでしょう。

これが「法灯明」から離れた「無明」のあり様だとも気づけぬまま。

お知らせ
六道輪廻の迷界をさまよう人について行ったら、どこに連れて行かれるかわからない。
12月の講話会では、「生と死」「悟と迷」「相手と私」のニ極の間で迷う間的存在のあり様について話をしたいと思います。
また、緊急事態宣言の解除に伴い、京都、四条烏丸での対面セッションを再開しました。
遠方の方は、オンラインでのセッションをご活用ください。

今朝、裏寺町通り(お寺が軒を連ねた通り)を自転車で走っていたら、このようなお寺の標語に目が止まった。


標語の文字の見え方は、どなたが見てもほぼ同じ。

ところが、これを読んだご本人が「自己」の意味をどう解釈したかで、まったく異なる意味合いの標語になることに面白さを感じ、まずはそのまま思考を用いて言語的に解釈可能な意味合いを3つか4つほど確認(これに用した時間は2分ぐらい)。
続いて、標語の文字を見ようとも、読もうともせず、門から遠のく方向にゆっくり歩を進めながら、自他が別になっていない法(一如)としてのあり様そのものに。


そして、境内に入ると、本堂の扉の前の廊下と階段を念入りに雑巾掛けされているご老人の姿が目に止まった。
お掃除の邪魔にならないよう、そーっと本堂の前まで進み、おそらく扉の向こうにいらっしゃるであろう仏様に合掌。

すると、お掃除中のご老人の手が止まり、横の方に移動されようとしたので、「お仕事のお邪魔をして申し訳ありません。どうぞ、そのままお続けください」と言うやいなや、「いやいや、これは仕事と言うほどのものではなくて、猫がね、よくやってくるものですから…」とお応えくださった

こちらがお寺ではなく、庭付きの家なら、猫を追っ払うか、入って来れない仕掛けを置く方が人間の手間が省けで済む、と普通、考えるだろう。

ところがこちらでは、猫が行き来するなら行き来するまま、人が参られ帰られるなら参られ帰られるまま、雑巾と手が床の上を行き来するなら行き来するまま、という宇宙の働き(法のあり様)があるだけ。

そして、ご老人から、この辺の方?とお訊ねくださったので、「7月からこの近くに越してきまして、計らずも自分の口からお寺や仏像の名前が出ましたら、実際、そちらに参じますと、その道中で摩訶不思議なことが起こりますので、今日はこちらの前を通りかかった時、門の横の標語に目が止まりまして、それで…」と告げました。

「あー、あれ、書いたの私です」とおっしゃり、「おー、こちらのご住職でしたか」と驚くと、「今は息子が住職を継いでくれてまして、私はこうして掃除しておるんですが、なんせ88のものですから、力も弱ってきて、床がピカピカにならんのが歯がゆうて歯がゆうて…」

「いやいや、住職は毎日お掃除されてますが、たいていの人間は、今日から毎日掃除するぞと決めても、だいたい一日で終わってしまうもんですから」

「それだけ、人間の心は弱いもんやから。人間の内と外は同じもんやから…」

標語にこめられた先代のご住職の思いは、書き言葉、話し言葉となって外に現れるだけでなく、身をかがめながら床を手拭きされている様子となって、同時に、水拭きされてピカピカに輝く床や階段の様子となって見事なまでに外に現れていた。

そして、「お仕事というほどのものではなく」とさらりとおっしゃられたこの行いを、どれほどの年月、お続けになってこられたのか?
その積み重ねの軌跡までもが、すっかり丸くなられたお背中の様子となって現れていた。

「内も外も同じやから…」
合掌。

追記
こちらの宝蔵寺さんは、観光目的の方のためのお寺ではありませんので、ご注意ください。


お知らせ
最近、摩訶不思議なことがあまりに立て続けに起こるもので、写真入りで投稿しやすいインスタ(Facebookと連携)にばかり投稿しているのが現状です。

インスタで矢沢大輔を検索いただき、写真が一覧表示されたら、無花果のサンドイッチの写真から私がピースサインしている写真の方へと時系列順に辿っていただくと、自他が別になっていない宇宙のあり様(非二元ゆえの即時性)の摩訶不思議さをより楽しくお読みいただけると思います。
また、面白ければ、フォローもよろしくお願いします。

「ゴーン」という音が聞こえて、朝、目が覚める。

↑これ、事実。


さっき聞こえたゴーンという音は、すぐ近くの六角堂の鐘の音。

鐘の音が鳴るには、お寺の和尚さんが鐘をついているに違いない。

これ、考えによるつくり話。

このつくり話を事実だと取り違えた瞬間、無明(事実ではないことを事実だと錯覚してしまっている状態)が始まる。


そして、ある日、貯金通帳の金額を見た時に、「お預かり金額 14800円」という文字が目に触れた

↑これ、事実。


その途端、事実を事実のまま見れない錯覚が起きたままなので、「通帳の金額が増えたのだから、振り込んだ人がいるはず」とまたもや思い込み、錯覚が続いてしまう。


鐘の音が鳴っているのは、鐘をつく人がいるからだ、という程度の勘違いなら、それほど問題にもならないでしょうが、通帳の預金額が変わったら、お金を振り込んだ人がいるはず、お金を使った自分がいるはず、と信じこんだままでは、それは事実ではないので、大問題。


預金通帳の数字の動きに振り回され、お金に使いまわされる人生になってしまいます。


通帳の金額の動きは、宇宙の活動(仏法)によるもので、法のあり様は人間の考えでどうこうできるものではないので、この事実に頷けるようになれば、お金に使われるのではなく、お金を使えるようになります。


また、このようなことを書くと、「そんな馬鹿なことがあるか。世の中を混乱させるつもりか。こんな話を信じたら、働くのが馬鹿らしくなって誰も働かなくなるだろう」と怒る方もいらっしゃるでしょうが、まさにこれが、「働きが起こるなら、それをやっている人がいる」という考え(ただの考え)を事実だと取り違えてしまった状態=錯覚=人間の苦悩です。


人間の苦しみは、例外なく事実に反した錯覚(無明)によるものなので、錯覚から目覚めれば、即、大安楽となる。


この事実を発見されたのがお釈迦様で、ブツダとは「目覚めた人」という意味です。


ちなみに、この前、「ゴーン」という音が鳴っている最中に、六角堂の真向かいの鐘を見に行ったのですが、鐘をつくための撞木だけが揺れていて、和尚さんがいない。


六角堂は、なんとすごい仕掛けで、人の無明を払おうとしているのか、これ、考えたの誰?と考え始めたら、もう、その瞬間、無明にまっしぐら。


お気をつけください。


お知らせ

今日の文章を読んで、そういうことなのかと、頭で理解してしまったら、事実に触れず、考えによるつくり事の範疇(無明)にとどまったままになります。

そこで10月3日(日)の講話会(オンライン開催)では、どのような坐禅を実践すれば、無明が消え、事実(本来の自己の素晴らしさ)に触れられるようになるのかを話します。

先日、イノダコーヒから家に戻ってくる途中、紙屋さんの店頭に「言の葉大賞」と書かれたポスターが貼ってあった。

内容を読んでみると、今年のテーマは「道」と書いてあり、その瞬間、仏道が、茶道、華道、書道などとどう繋がっているのかを多くの人に知ってもらえる良い機会になるかもと思い、昨夜、iPadで作文を書き上げた。


言の葉大賞の原稿は、「手書き」という規定があったので、今日、どこで作文を仕上げようかと思った時、仏道について書くのだから、弥勒菩薩の鉄筋彫刻(背面の掛軸は白紙)が祀られた「喫茶 葦島」で書こうと思い、弥勒菩薩の真正面のカウンター席に座った。


そして、文章を書き移すために、iPhoneのアプリを開いたら、昨夜、打ち込んだiPad上の原稿との同期がとれておらず、書き移す作業を行えないことがわかった。

原稿を書くために喫茶店に来たのに、書けない。
ならば、坐禅に切り替えようと、坐禅をはじめた途端、弥勒菩薩が目に入ってきて、「目に見えているのは菩薩であって、如来ではない」と諭された。

昨夜、仕上げた原稿には、人間の中にある見えない仏性を、自らの行いを通して見えるように現前させるのが仏道修行の眼目であると書いたのだが、「見えたのなら、それは如来ではなく、菩薩だ」と目の前の弥勒菩薩が教えてくださったのだ。

間違った内容を書いて応募しないように、スティーブ・ジョブズが開発したiPhoneが止めてくれたのだろうか?

そういえば、昨日、非二元のプライベートセッションを受けてくれた女性にこんな話をしたのを思い出した。
彼女は、先日、投稿した私のブログ記事


を読み、その時、自分が選択した結果の愚かさに後悔の念を感じていて、「起こっていることが起こっているだけ」と誰かから言われても、苦しいままだと打ち明けてくれた。

そもそも起きてもいないことを事実だと錯覚したままだから苦しむのであって、苦しんでる最中に事実に触れて錯覚を解かないと苦しみはいつまでも続いてしまう(その逆に既に事実に触れているなら、その瞬間、既にそれ自体になっている(非二元)のだから、「起きていることが起きているだけ」と言語化(二元化)した途端、事実から離れてしまうことになる)。
だから、今日のセッションで「事実」と考えによる「作り事」の違いをきっちり見れるようにしていこう。
そう言ってセッションをはじめ、最後に座禅中の注意点を伝えたら、「永平寺に2年前に行ったことがある」と彼女が言ってくれたので、「スティーブ・ジョブズも坐禅をして、自己の変幻自在さを自覚できるようになり、iPhoneの機能の変幻自在さも、悟りから生まれたことを話したばかりだった。

そして、今、書いているこのブログは、言の葉大賞の原稿を書こうと思ってやってきた喫茶 葦島で書いている。

考えの上では、言の葉大賞のための原稿がここで書き上げられるはずだったのだが、現実はまったく違っていて、このブログの記事の方が先に書き上げられた。

ほらね、考えなんてまったくアテにならないものでしょ。
アテにならない考えをアテにするから、右往左往させられて、クタクタになっちゃうわけでしょ。

私たちの本性は、絶対に狂いようのない仏法そのものなんだから、そして、それを自覚できる方法は坐禅しかないんだから、道元禅師がお示しになった通りに坐禅してください。

追伸
坐禅と瞑想の違いは、何ですか?
と時々、質問を受けます。
瞑想は瞑想をする人がいますが、坐禅は坐禅する人がいません。
頭では「どういうこと?」ってなるでしょうが、言葉にして伝えるなら、これがギリギリの表現かなと思います。
また、見た目には坐禅しているように見えても、坐禅の眼目を知らずに我流で坐禅しても、100年続けたところで何も変わりません。

最後に道元禅師がお示しくださった坐禅の眼目を記して、終わりたいと思います。

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法進みて自己を修証するは悟りなり。

「自分の思い通りに結果をコントロールしようとする我欲の愚かさ」について、今日、Facebookに投稿した内容を、加筆修正してこのブログにも記しておきます。


京都の喫茶店「マドラグ」といえば、分厚い厚焼き玉子が入ったサンドイッチが有名だが、チーズカレートーストというユニークなメニューもある。

食パンをくり抜いた部分にカレーが注がれているのだが、どうやって食べれば、カレーをこぼさずに食べ切れるのか、しばし考えさせられる。

私が試みた方法は、パンの防波堤(カレーの水面より高い部分)を水平にナイフで切り取りながら、その切り取った部分をカレーに浸し、カレーとパンをスプーンですくって食べる方法。

こうすると、最初はシャバシャバ状のカレーも後半に近づくにつれ、カレーの量が減ってくるので、普通のカレーパンのように手で千切って食べてもカレーが皿にこぼれず、綺麗に食べ切ることができる。

そして、食べ終えてから気づいたこと。

たとえカレーがこぼれたって、テーブルにこぼしたわけでもなく皿の上なのだから、パンで拭い取って食べれば、何の問題もなかったじゃないか。

皿の上にこぼれたら、こぼれたで、それに応じた食べ方をすればいいだけの話。

なのに、人間は、「こぼさないように食べ切らなければ」と、結果をコントロールしたがる。

だから、食べている最中、「こぼすか、こぼさないか」という考えにとらわれ(執着して)、自ら窮屈になり、肝心かなめの料理の味そのものを存分に楽しめなくなる。

これでは結果にとらわれた自分の考えによって自らの首を絞め、苦しんでいるようなもの。

誠にもって愚かなことだ。

お知らせ
本文でも書いた通り、人は、自分の考えで自分を苦しめているだけです。

でも、実際にはそうは思えず、自分を苦しめる相手がいて、その人が自分を苦しめているんだ、と錯覚してしまっています。

この錯覚が続いている限り、人は苦しみ続けます。
なぜなら、常に、自分以外の「相手」というものがいて、その人が自分を苦しめているんだと錯覚したままだからです。

「物事はこうあるべきだ」という自分のとらわれ、こだわり(我欲)によって、自分を窮屈にしているだけ。
自分の考えで自分の首を絞めて、苦しんでいただけ。

この事実に気づければ、錯覚(貪瞋痴)は消え、自分の考えで理想を求めなくても、初めから完璧さしかなかったこと=本来の自己を自覚できるようになります。

このような話を10月3日(日)の講話会(オンライン開催)で詳しく話しますので、興味のある方はご参加ください。

人は、自分以外のことについては、凄まじいほど、いろんなことを知っている。

つまり、「物知り」だ。


でも、「自分」とはどのような存在であるかについては、皆目わかっちゃいない。


それゆえ、人生にうろたえ、迷い続け、スカッと清々しく生きられないでいる。


なぜ、こうなるかというと、多くの人は、なんの疑いもなく、自分のことを肉体だと勘違いしたまま生活しているからだ。


なぜ、このような勘違いが起こるかと言うと、生まれてまもなく、肉体に名前がつけられ、それ以降、あらゆる人々から名前を呼ばれて過ごしてきたからだ。


例えば、私の場合、親からも、親戚からも、友人からも、「大輔」と呼ばれて生きているうちに、「あー私は、この体なんだ」という思い込みが知らず知らずのうちに強化され、疑う余地なく、私は大輔と名付けられたこの体だと勘違いしてしまうわけだ。


そして、この勘違いが起こると、この肉体が「私」であるなら、あっちに見えている体は「他人だ」と言うことになり、あっちに見えている物体は「物だ」ということになる。


この時点で、「自他が別々に存在している」という分裂の思い込みが、まるで真実のように思い込まれてしまう。


さらには、自分のことを肉体だと思い込んでしまっているので、「生老病死」と呼ばれる四苦におびえながら、どうすれば、これらの苦を避けて通れるかを考え続けることになるのだが、どうこうしようともがき続けたところで、四苦を避けることが不可能な人生に失望したりもする。


しかし、これらは、自分とは何かについての勘違いから生じた架空の苦しみに過ぎない。


これらの苦しみが、私たちの勘違いから生じたものであることを、人類史上はじめて見抜かれたのがお釈迦さまであり、どのような修行を行じれば、お釈迦さまと同じように、自他が別々に存在しているというのが思考によるつくりごとに過ぎないことを看破できるようになり、現実に存在しているのは、「不二の法(仏法)」だけであることを自覚できるようになる。


法とは、宇宙の働きそのものであり、この働きに従って、あらゆるものが、生じたと同時に滅するようにできている。

これは宇宙の法則そのものなので、この法則から外れて存在しているものなど、何もない。


つまり、あらゆるものが、この法則に沿って活動しているので(例外が一つもないので)「法(法則)」と読んでいる。


でも、多くの人は、自分を肉体だと勘違いしたままなので(勘違いしていることにさえ気づけないので)、仏道、仏法に反することばかりやり続け、餓鬼道、畜生道、修羅道などに落ち込んだままとなる。


それゆえ、いもしない他人との争いに明け暮れる人生(修羅道)を送り続けることになる。


では、どうすれば、勘違いが解けるようになるのか?


自他を別々になる前の実物(仏法)にダイレクトに触れ続けていればいい。


それが仏道の修行。


修行を続ければ、そのうち、法そのものの働きによって、この体も自然に動いていることに気づけるようになる。


宇宙の動きから、分離して動いているものなど、何もないことを自覚できるようになる。


お知らせ

9月から、非二元ファシリテーター養成講座・実習コースの内容が変わります。

ファシリテーターとして活動する前に、自分が体ではないこと、自他の別ができる前の「法としてのあり様」「本来の自己のあり様」をはっきり自覚できるようになるまで、私がお一人お一人に対してセッションを行うことにしました。

しばらく、参加していなくて、もう一度、不二(非二元)のあり様に触れる修行を再開してみようと思われた方も、ぜひご参加ください。