鐘と金にまつわる愚かな錯覚 | 非二元|目覚めを生きる

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「迷悟」「苦楽」「生死」の相対を超えた「身体・宇宙」一如の絶対的あり様とは?
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「ゴーン」という音が聞こえて、朝、目が覚める。

↑これ、事実。


さっき聞こえたゴーンという音は、すぐ近くの六角堂の鐘の音。

鐘の音が鳴るには、お寺の和尚さんが鐘をついているに違いない。

これ、考えによるつくり話。

このつくり話を事実だと取り違えた瞬間、無明(事実ではないことを事実だと錯覚してしまっている状態)が始まる。


そして、ある日、貯金通帳の金額を見た時に、「お預かり金額 14800円」という文字が目に触れた

↑これ、事実。


その途端、事実を事実のまま見れない錯覚が起きたままなので、「通帳の金額が増えたのだから、振り込んだ人がいるはず」とまたもや思い込み、錯覚が続いてしまう。


鐘の音が鳴っているのは、鐘をつく人がいるからだ、という程度の勘違いなら、それほど問題にもならないでしょうが、通帳の預金額が変わったら、お金を振り込んだ人がいるはず、お金を使った自分がいるはず、と信じこんだままでは、それは事実ではないので、大問題。


預金通帳の数字の動きに振り回され、お金に使いまわされる人生になってしまいます。


通帳の金額の動きは、宇宙の活動(仏法)によるもので、法のあり様は人間の考えでどうこうできるものではないので、この事実に頷けるようになれば、お金に使われるのではなく、お金を使えるようになります。


また、このようなことを書くと、「そんな馬鹿なことがあるか。世の中を混乱させるつもりか。こんな話を信じたら、働くのが馬鹿らしくなって誰も働かなくなるだろう」と怒る方もいらっしゃるでしょうが、まさにこれが、「働きが起こるなら、それをやっている人がいる」という考え(ただの考え)を事実だと取り違えてしまった状態=錯覚=人間の苦悩です。


人間の苦しみは、例外なく事実に反した錯覚(無明)によるものなので、錯覚から目覚めれば、即、大安楽となる。


この事実を発見されたのがお釈迦様で、ブツダとは「目覚めた人」という意味です。


ちなみに、この前、「ゴーン」という音が鳴っている最中に、六角堂の真向かいの鐘を見に行ったのですが、鐘をつくための撞木だけが揺れていて、和尚さんがいない。


六角堂は、なんとすごい仕掛けで、人の無明を払おうとしているのか、これ、考えたの誰?と考え始めたら、もう、その瞬間、無明にまっしぐら。


お気をつけください。


お知らせ

今日の文章を読んで、そういうことなのかと、頭で理解してしまったら、事実に触れず、考えによるつくり事の範疇(無明)にとどまったままになります。

そこで10月3日(日)の講話会(オンライン開催)では、どのような坐禅を実践すれば、無明が消え、事実(本来の自己の素晴らしさ)に触れられるようになるのかを話します。