弥勒菩薩とiPhoneのお導き | 非二元|目覚めを生きる

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宇宙的自己に目覚める記事を配信。
「迷悟」「苦楽」「生死」の相対を超えた「身体・宇宙」一如の絶対的あり様とは?
迷い、悩み、苦しみのない、日々、生き活きとした生活の実践。

先日、イノダコーヒから家に戻ってくる途中、紙屋さんの店頭に「言の葉大賞」と書かれたポスターが貼ってあった。

内容を読んでみると、今年のテーマは「道」と書いてあり、その瞬間、仏道が、茶道、華道、書道などとどう繋がっているのかを多くの人に知ってもらえる良い機会になるかもと思い、昨夜、iPadで作文を書き上げた。


言の葉大賞の原稿は、「手書き」という規定があったので、今日、どこで作文を仕上げようかと思った時、仏道について書くのだから、弥勒菩薩の鉄筋彫刻(背面の掛軸は白紙)が祀られた「喫茶 葦島」で書こうと思い、弥勒菩薩の真正面のカウンター席に座った。


そして、文章を書き移すために、iPhoneのアプリを開いたら、昨夜、打ち込んだiPad上の原稿との同期がとれておらず、書き移す作業を行えないことがわかった。

原稿を書くために喫茶店に来たのに、書けない。
ならば、坐禅に切り替えようと、坐禅をはじめた途端、弥勒菩薩が目に入ってきて、「目に見えているのは菩薩であって、如来ではない」と諭された。

昨夜、仕上げた原稿には、人間の中にある見えない仏性を、自らの行いを通して見えるように現前させるのが仏道修行の眼目であると書いたのだが、「見えたのなら、それは如来ではなく、菩薩だ」と目の前の弥勒菩薩が教えてくださったのだ。

間違った内容を書いて応募しないように、スティーブ・ジョブズが開発したiPhoneが止めてくれたのだろうか?

そういえば、昨日、非二元のプライベートセッションを受けてくれた女性にこんな話をしたのを思い出した。
彼女は、先日、投稿した私のブログ記事


を読み、その時、自分が選択した結果の愚かさに後悔の念を感じていて、「起こっていることが起こっているだけ」と誰かから言われても、苦しいままだと打ち明けてくれた。

そもそも起きてもいないことを事実だと錯覚したままだから苦しむのであって、苦しんでる最中に事実に触れて錯覚を解かないと苦しみはいつまでも続いてしまう(その逆に既に事実に触れているなら、その瞬間、既にそれ自体になっている(非二元)のだから、「起きていることが起きているだけ」と言語化(二元化)した途端、事実から離れてしまうことになる)。
だから、今日のセッションで「事実」と考えによる「作り事」の違いをきっちり見れるようにしていこう。
そう言ってセッションをはじめ、最後に座禅中の注意点を伝えたら、「永平寺に2年前に行ったことがある」と彼女が言ってくれたので、「スティーブ・ジョブズも坐禅をして、自己の変幻自在さを自覚できるようになり、iPhoneの機能の変幻自在さも、悟りから生まれたことを話したばかりだった。

そして、今、書いているこのブログは、言の葉大賞の原稿を書こうと思ってやってきた喫茶 葦島で書いている。

考えの上では、言の葉大賞のための原稿がここで書き上げられるはずだったのだが、現実はまったく違っていて、このブログの記事の方が先に書き上げられた。

ほらね、考えなんてまったくアテにならないものでしょ。
アテにならない考えをアテにするから、右往左往させられて、クタクタになっちゃうわけでしょ。

私たちの本性は、絶対に狂いようのない仏法そのものなんだから、そして、それを自覚できる方法は坐禅しかないんだから、道元禅師がお示しになった通りに坐禅してください。

追伸
坐禅と瞑想の違いは、何ですか?
と時々、質問を受けます。
瞑想は瞑想をする人がいますが、坐禅は坐禅する人がいません。
頭では「どういうこと?」ってなるでしょうが、言葉にして伝えるなら、これがギリギリの表現かなと思います。
また、見た目には坐禅しているように見えても、坐禅の眼目を知らずに我流で坐禅しても、100年続けたところで何も変わりません。

最後に道元禅師がお示しくださった坐禅の眼目を記して、終わりたいと思います。

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法進みて自己を修証するは悟りなり。