「自分の思い通りに結果をコントロールしようとする我欲の愚かさ」について、今日、Facebookに投稿した内容を、加筆修正してこのブログにも記しておきます。
食パンをくり抜いた部分にカレーが注がれているのだが、どうやって食べれば、カレーをこぼさずに食べ切れるのか、しばし考えさせられる。
私が試みた方法は、パンの防波堤(カレーの水面より高い部分)を水平にナイフで切り取りながら、その切り取った部分をカレーに浸し、カレーとパンをスプーンですくって食べる方法。
こうすると、最初はシャバシャバ状のカレーも後半に近づくにつれ、カレーの量が減ってくるので、普通のカレーパンのように手で千切って食べてもカレーが皿にこぼれず、綺麗に食べ切ることができる。
そして、食べ終えてから気づいたこと。
たとえカレーがこぼれたって、テーブルにこぼしたわけでもなく皿の上なのだから、パンで拭い取って食べれば、何の問題もなかったじゃないか。
皿の上にこぼれたら、こぼれたで、それに応じた食べ方をすればいいだけの話。
なのに、人間は、「こぼさないように食べ切らなければ」と、結果をコントロールしたがる。
だから、食べている最中、「こぼすか、こぼさないか」という考えにとらわれ(執着して)、自ら窮屈になり、肝心かなめの料理の味そのものを存分に楽しめなくなる。
これでは結果にとらわれた自分の考えによって自らの首を絞め、苦しんでいるようなもの。
誠にもって愚かなことだ。
お知らせ
本文でも書いた通り、人は、自分の考えで自分を苦しめているだけです。
でも、実際にはそうは思えず、自分を苦しめる相手がいて、その人が自分を苦しめているんだ、と錯覚してしまっています。
この錯覚が続いている限り、人は苦しみ続けます。
なぜなら、常に、自分以外の「相手」というものがいて、その人が自分を苦しめているんだと錯覚したままだからです。
「物事はこうあるべきだ」という自分のとらわれ、こだわり(我欲)によって、自分を窮屈にしているだけ。
自分の考えで自分の首を絞めて、苦しんでいただけ。
この事実に気づければ、錯覚(貪瞋痴)は消え、自分の考えで理想を求めなくても、初めから完璧さしかなかったこと=本来の自己を自覚できるようになります。
このような話を10月3日(日)の講話会(オンライン開催)で詳しく話しますので、興味のある方はご参加ください。