人は、自分以外のことについては、凄まじいほど、いろんなことを知っている。
つまり、「物知り」だ。
でも、「自分」とはどのような存在であるかについては、皆目わかっちゃいない。
それゆえ、人生にうろたえ、迷い続け、スカッと清々しく生きられないでいる。
なぜ、こうなるかというと、多くの人は、なんの疑いもなく、自分のことを肉体だと勘違いしたまま生活しているからだ。
なぜ、このような勘違いが起こるかと言うと、生まれてまもなく、肉体に名前がつけられ、それ以降、あらゆる人々から名前を呼ばれて過ごしてきたからだ。
例えば、私の場合、親からも、親戚からも、友人からも、「大輔」と呼ばれて生きているうちに、「あー私は、この体なんだ」という思い込みが知らず知らずのうちに強化され、疑う余地なく、私は大輔と名付けられたこの体だと勘違いしてしまうわけだ。
そして、この勘違いが起こると、この肉体が「私」であるなら、あっちに見えている体は「他人だ」と言うことになり、あっちに見えている物体は「物だ」ということになる。
この時点で、「自他が別々に存在している」という分裂の思い込みが、まるで真実のように思い込まれてしまう。
さらには、自分のことを肉体だと思い込んでしまっているので、「生老病死」と呼ばれる四苦におびえながら、どうすれば、これらの苦を避けて通れるかを考え続けることになるのだが、どうこうしようともがき続けたところで、四苦を避けることが不可能な人生に失望したりもする。
しかし、これらは、自分とは何かについての勘違いから生じた架空の苦しみに過ぎない。
これらの苦しみが、私たちの勘違いから生じたものであることを、人類史上はじめて見抜かれたのがお釈迦さまであり、どのような修行を行じれば、お釈迦さまと同じように、自他が別々に存在しているというのが思考によるつくりごとに過ぎないことを看破できるようになり、現実に存在しているのは、「不二の法(仏法)」だけであることを自覚できるようになる。
法とは、宇宙の働きそのものであり、この働きに従って、あらゆるものが、生じたと同時に滅するようにできている。
これは宇宙の法則そのものなので、この法則から外れて存在しているものなど、何もない。
つまり、あらゆるものが、この法則に沿って活動しているので(例外が一つもないので)「法(法則)」と読んでいる。
でも、多くの人は、自分を肉体だと勘違いしたままなので(勘違いしていることにさえ気づけないので)、仏道、仏法に反することばかりやり続け、餓鬼道、畜生道、修羅道などに落ち込んだままとなる。
それゆえ、いもしない他人との争いに明け暮れる人生(修羅道)を送り続けることになる。
では、どうすれば、勘違いが解けるようになるのか?
自他を別々になる前の実物(仏法)にダイレクトに触れ続けていればいい。
それが仏道の修行。
修行を続ければ、そのうち、法そのものの働きによって、この体も自然に動いていることに気づけるようになる。
宇宙の動きから、分離して動いているものなど、何もないことを自覚できるようになる。
お知らせ
9月から、非二元ファシリテーター養成講座・実習コースの内容が変わります。
ファシリテーターとして活動する前に、自分が体ではないこと、自他の別ができる前の「法としてのあり様」「本来の自己のあり様」をはっきり自覚できるようになるまで、私がお一人お一人に対してセッションを行うことにしました。
しばらく、参加していなくて、もう一度、不二(非二元)のあり様に触れる修行を再開してみようと思われた方も、ぜひご参加ください。