非二元|エゴのない真実の自己とは

非二元|エゴのない真実の自己とは

宇宙的自己に目覚める記事を配信。
「迷悟」「苦楽」「生死」の相対を超えた「身体・宇宙」一如の絶対的あり様とは?
迷い、悩み、苦しみのない、日々、生き活きとした生活の実践。



相手のことを思いやってばかりいる人は、自分への気配り、気遣いがおろそかになる。

なぜなら、相手の様子ばかりが気になり、自分が感じている苦悩には意識が向かず、相手を気遣うことはできても、自分のことを気遣えなくなるから。

自分が感じている感情や心の痛みはそっちのけで、相手がラクになることばかり考え、なんとかしてあげたくなる。

でも、人や社会の役に立とうと考えてばかりいる自分は、苦みで増して、身も心もヘトヘトになってしまう。

相手だけがラクになり(本当のところはそうなっているかわからないけど)、自分だけは間違いなくキャパシティオーバーで、もう自分のことを気遣う余力は残されていない。

これが自己犠牲。

そして、苦しんでいる人は、この事実になかなか気づけない。

なぜ、気づけないかというと、感じている苦しみを自覚できず、というよりも、何かに没頭することで気を紛らせてばかりいるから。

そして、この世界には、自分の苦しみをありのままに感じないように(ごまかせるように)、一時的に気を紛らわせてくれる様々なものであふれている。

アルコール、夜遊び、スマホのゲーム、ギャンブル、ドラッグ…

あげればキリがないほどあるが、どれにはまり込んで気を紛らわせたとしても、気晴らしはあくまで一時的なものであって、根本的な苦の解決には至れない。

それどころか、繰り返し、特定の何かに依存するようになると、中毒化してしまうので、それが手放せなくなってしまう。

苦しみは、精神的なものだけれど、それを紛らわせてくれる何かにハマりこむと、今度は身体の調子まで壊してしまうことになる。

もう20年以上前の話だが、私の場合、それはアルコールだった。

そして、中毒から抜けるには、最初に自分が感じている精神的な苦痛を、ありのままに受容する必要がある。

苦の感覚を感覚的に感じ取れる感受性と、その感覚をありのままに受容できる受容性。

毎日、坐禅や瞑想を行う一番の効用は何かと聞かれたなら、「今、心や身体に生じている感覚をありのままに感じ取れる感受性が鋭くなるから」と私なら応える。

そして感受性が鋭くなると、苦の感覚を素早く感じ取れるようになり、どのようなことが苦の感覚をもたらす原因になっているのかに気づける洞察力も鋭くなっていく。

ただし、ここまでいくには、適切な指導者のもとで、指導を受けながら進めていく必要がある。

この世界にはあやしげな指導者もいるし、自己流でやるのも危険極まりない。

そして、苦の感覚を感じ取り、それをありのままに受容すると、苦の感覚が自然にやわらぐことを自覚できるようになる。

そうなれば、もう苦しみはないので、何かに頼って苦しみを紛らわせる必要もなくなるので、やめようと頑張らなくても、自然に中毒も消えます。

このような経験を通じて、苦しみを自ら解毒しきれる自己受容の力も培われていき、心が成熟していきます。

そして、自己受容の有益性を自覚できたなら、自分の苦しみに対してだけでなく、やがて誰かの苦を取り除くサポートのためにも使えるようになるでしょう。

でも、いきなり欲張り過ぎてはいけません。

最初の一歩は、苦悩を解決できるメソッドを学んでから、自ら実践し、受容力を培えることを経験的に知ること。

そのためには、自分の心の状態に合わせて適切なアドバイスを与えてくれる良き指導者に出会うこと。

つまり、何もかも自分一人でやろうとしないこと。

苦しみが今あるということは、もう既に何らかの観念にとらわれ、思考と感情の泥沼にハマってしまっているのだから。

そして最後に。

自分を思いやり、自分を尊重できるようになった分しか(自尊心が育まれた分しか)、本当の意味で、相手を思いやり、尊重できるようにはなれません。

思いやる心に、自他の分離はなく、どちらかが犠牲になることなどあり得ないのだから。

お知らせ
2月5日(日)オンライン開催の「お金のために働く欠乏マインドからの解放」では、自己犠牲によって相手(お客さん)に満足(喜び)を与えようとしても、それは心の世界の法則(仏法)に反した行いなので、双方にとってけっしてうまく機能しない働き方であることをお話しします。
今日、コンビニに行ったら、ダウンジャケットを着た小学生の女の子が棚の上のほうに陳列されたホットカルピスを取ろうと背伸びして手を伸ばしていたのですが、もう少しのところで手が届きませんでした。

そこで、私がカルピスを手に取り、「取りたかったのはこれ?」と聞きながら彼女の目の前に差し出すと、すかさず「ありがとう」という言葉が返ってきました。

ホットカルピスに手を伸ばした彼女の手の動きも、代わりにそれを取って彼女に手渡した動きも、それを受け取った動きも、それと同時に発せられた「ありがとう」の一言も、ひとつの動きであるようにつながっているように感じられ、その瞬間、心が温かくなりました。

彼女は、白い毛糸の手袋をしていたのですが、両手でカルピスのペットボトルを包み込み、その温かい感触を感じながら、今度は、スイーツを選んでいました。

きっとお年玉をもらったから、好きな飲み物とスイーツを買って、いつもより少し贅沢な時間をこれから過ごそうとしているんだろうな。

そんな思いも浮かんできて、彼女が温かそうに飲み物を両手で包む様子を見て、
私は2日前に御所内を散歩した後、中立売(なかだちうり)休憩所前のベンチで、自動販売機で買った温かい缶コーヒーを手で包み込みながら、20分ほど椅子座禅したことを思い出しました。
顔に当たるひんやりとした風の感触を感じながら、手には缶コーヒーの温かさを、そして時折り聞こえてくる、スズメやカラスの鳴き声、私の目の前を通り過ぎていく人の足音(砂利を踏み締める音)などを生じるがままに感じながら、とても安らぎに満ちた時間を過ごしました。

そして帰りに、休憩所の向かい側にある情報館の中にはじめて入ってみると、京都御苑内に生息している植物やキノコ類、鳥やトンボやカエルの写真がたくさん大画面に映し出されていて、試しに可愛らしい鳥の写真をタッチしてみると、「ヤマガラ」という鳥の名やその鳴き声を再生できる画面がホップアップしてきて、京都御苑の中にこんな施設があったのかと今さらながら驚かされ、この一年は、天気がよければ、毎日、御苑内を散歩し、座禅して、四季折々の植物や鳥や昆虫の様子に直接触れながら、帰りに情報館に立ち寄り、その日、触れたものの名前も少しずつ覚えていく一年にしようと思いました。


追伸
冬は寒さによって手がかじかみますが、心がいらだっている時、手と顔の筋肉が緊張してこわばります。
そして、その状態が長く続くと、顔の表情までこわばり、岩のようになっていきます。
心のあり方によって、顔の表情が硬くもなれば、にこやかにもなる。
つまり、心のあり方(原因)→顔の表情(結果)となって現れる。
原因と結果の順番は、決して逆順にはなりませんから、もし今、顔や手に緊張を感じているなら、数十分、何も行わずに、静かに座ってくつろぎ、安らかな時間をお過ごしください。


一昨日まで、大阪の実家で3日間過ごした。


リビングのテーブルの上に、プレジデントとダイヤモンドが置いてあったので、「これ、誰の雑誌?」と聞くと、「私のや」と81歳の母が答えた。

私が知っている母は、経済やビジネスに関する本を読まない人だったのだが、「私のや」の一言を聞いた瞬間、私の記憶の中にあった「母のイメージ」は、あっけなく崩壊した。

また、テレビでケンミンショーを観ていたら、鈴鹿央士が出ていて、「あっ、この人、湊斗や。この名前、なんて読むの?」と聞くので、「すずか おうじ」と私が答えると、「そのまま読むばええんや…想の役やってる目黒蓮はジャニーズなんやろ」と母がいうので、これまた驚かされた。

さらには、手話を交えながら、「おおさかし みなとく」とやり出したので、「え〜、なんで手話できるの?」と驚くと、「習ってたからや」というので、私は、この歳になるまで、母のことを知ってるようで、ほとんど知らなかったんだなと気づかされた。

目から母の顔や姿が、耳から母の声が入ってきた瞬間、記憶の中にある「母のイメージ」が瞬時に意識上に呼び出され、ただそのイメージに自動反応的に受け応えしていただけで、目の前にいる母とは、一度も接していなかったのかも…と思えるようになった。

そして、昨日、4日振りに京都のスターバックスに行ってみると、お店のお姉さんが、こんな寄せ書きを手渡してくれた。


そして、ソファ席でコーヒーを飲んでいると、ストアマネージャーさんが私のところにやってきて、「この店の良いところを教えてください」と訊ねられたので、「それはもう、働く人の喜びと、お客さんとの喜びとが、自他の垣根なく、共に感じ合える接客をされているところでしょ」と答えた。

別の言い方をするなら、自動的に頭に浮かび上がってくる「お客さんにはこう接するべき」という固定観念からの「自由」がここにはある。

自動的に浮かぶ上がってくる「ああしたい」「こうすべき」という想いは、自分が選択した考えではなく、知らず知らずのうちに形成された記憶の束から反応的に想起される「想い」に過ぎない。

「想い」は、記憶から出てくるものなので、過去のもの、つまり、今ではないもの。

だから、想いに従って行動すれば、その行動もまた記憶に取り込まれていくので、どんどん古い記憶がパターン化され、凝り固まっていく。

でも、多くの人は、自分の「想い」どおりに行動できることを「自由だ」と思い込んでいる。

「想い」や「感情」に素直に従うことが自由であるなら、多くの人は、もうすでに自由なはず。

なのに、なぜ、自由を求める必要があるのか?

それは自由という文字のとおり、「自らに由る」のではなく、古い記憶から出てくる想いや感情に縛られ、どんどん窮屈になっているからではなかろうか。

お知らせ
2年ぶりに、「お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放」を開催します。

先日、近所のお茶屋さんで、茶そばを食べた時、お店のお姉さんと、silent(フジテレビのドラマ)の話しになった。


この世界にスマホが出現して、音声認識アプリが開発されたことで、音を聴ける人と聴けない人とが、スマホを介してこんなふうにコミュニケーションをとれる時代に変貌していた現実に触れ、感動したことをお姉さんに告げると、登場人物の「佐倉想(さくら そう)と青羽紬(あおば つむぎ)の名前には、「想い」を言葉にして「つむぎだす」という意味が込められているそうですよ、と教えてくれた。

そのあと、登場人物の湊斗(みなと)も加えてみると、「想い」を「皆と」「つむぎだす」になり、「お〜完全にドラマの内容と一致するではないか」と感心していた。

そして、ネットの方でも名前の由来について検索してみると、佐倉想を演じる目黒蓮さんの誕生日が2月16日で、その誕生花は「さくら草」、花言葉は「初恋」。

「なるほど、ここから佐倉想という役名が決められ、初恋をテーマにしたドラマの内容とも一致していたのか」と感心しつつ、さらにドラマの中で、紬が自分の誕生日を4月28日とつげた直後から、ネット上で、4月28日の誕生花もまた「さくら草」で、これはもう偶然ではないと盛り上がっていることを知った。

でも、私が一番驚いたのは、この情報を知る前の段階。
紬が覚えたばかりの手話を使って、想に向かって「私の誕生日は4月28日です」と告げた瞬間だった。

「僕の誕生日やん」
「このドラマのロケ地、東京で暮らしていた頃、よく散歩していた場所やん」

そういえば、紬を演じている川口春奈さんは九州の五島列島出身で、海釣りが趣味だと言っていたことを思い出し、私の父も海釣りが趣味で、五島列島で食べた魚が一番うまかったと言っていたことも思い出した。

このような誕生日つながりで、私はsilentにどハマりし、さらにネットを調べるうち、私は59歳になってはじめて、自分の誕生花が「さくら草」であることを知った。

そして、このようなシンクロが起きるのは、私たち人間が認識できるこの世界が「言語空間」だからだ。

私は20代から40代まで、言葉を扱うコピーライターの仕事をしていて、映画やドラマの宣伝文をよく書かせてもらっていた。

そして、先日、同世代のHさん(元コピーライター)と京都で飲んだ時、高校生の時に観た松田優作さんの映画に出ていた女優さんが、私のブログに「いいね」をくださって、びっくりしたことを話した。

その後、2件目の店に行ったら、その店の真向かいの家の表札に、Hさんと同じ姓が記されているのを発見し、二人でびっくりした。
そして、2件目の店で飲みだしてから1時間ほど経つと、私たちの方に向かってひとりの男性が近寄ってきた。

「先程はどうも」

私たちにそう声をかけてくれた男性は、1件目に行ったお店の板前さんで、飲み屋さんが何百軒もある先斗町で、こんな偶然が起こり得るのかと、またもやびっくりさせられた。

そして、今、思えば、ここまで強力なシンクロが起きたのは、言葉を扱ってきたコピーライターが2人揃ったからだと、私は思いはじめている。

なぜなら、言語の構造を把握すれば、それはただちに世界の構造を把握することに直結することを、ドラマのsilentが始まる頃、私は哲学書を読んで知りだしたからだ。

そして、今週のsilentの放送終了から約7時間後、ワールドカップのスペイン戦で、同じ青いユニホームをきた幼なじみの三笘薫選手からボールを受けた田中碧(あお)選手がゴールを決め、日本は決勝トーナメントへの進出を決めました。
勝利への「想い」を(サポーターを含めた)「皆と」「つむぐ」の言葉どおり。

青羽紬の青は、サムライブルーの青であり、田中あお選手の名前でもあり、そして、この勝利もまた、VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)というテクノロジーの判定なくしては成立し得ない、まさに時代の変化を表す勝利だった。


そして今日、再び、お茶屋さんで茶粥を食べながら、お姉さんとsilentや言語空間の話をしていたら、店主の息子さん(幼稚園児)が2階の客席に上がってきたので、名前を聞いてみた。

「あお」

この答えを聞いて、「この言語空間、できすぎやろ!」と思うくらい驚いた。

世界(言語空間)は、「青羽紬(青は、むつぎ)」の登場以来、「あお」に染まりつつある。

でも、ほうじ茶で炊いた茶粥だけは、茶色のままでおいしかった。

追伸
このブログを書いた後に、Netflixを観たら今日のテレビドラマ第1位に「First Love 初恋」という宇多田ヒカルの曲をテーマにしたドラマが表示された。
そして、ドラマを観てみると、佐藤健さんが手話を使って会話するシーンが出てきて、silentから始まった諸々のつながりはどこまで続くのかと、またもや驚かされた。

お知らせ
2年ぶりに、お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放を開催します。

私はほぼ毎日、カフェや喫茶店で、本を読んで過ごしています。


このような読書ライフはもう何十年も続いていて、読書法の講師をしていたときにも、受講生の皆さんに、リアル書店でのハズさない本の選び方から、本の要点のつかみ方(読解力と記憶力の関係)、読書に最適な環境の選び方などをお伝えしていました。

私は自分の職業を「読書家」だと思っているのですが、思い返せば、高校生の頃に、学校に通うのが嫌で嫌で中退し、住み込みで新聞配達をしながら、独学で高校卒業の資格をとった時から、「読書家」としての生活が始まったような気がしています。

学校の先生は選べないけど、自分が学びたい分野の著者(先生)の本であれば、自分で選べる。
それも、時代や国境を超えて、はるか数千年前に生きていた先生とも出会え、教えてもらえる。
ここにこそ、読書の最大な魅力があるのではないかと私は感じています。

そして、去年の夏、30年暮らした東京を離れ、京都で暮らしだしてから気がついたのですが、インド哲学や仏教書を専門に扱う本屋さんが家の近くに2軒あり、何冊かの本を読むうちに、ルパート・スパイラが書いていたメアリーとジェーンのたとえよりも、さらに詳細に「自己と自我意識と世界」の関係性を区分できるようになり、私はもしかしたら、インド哲学の本を徹底的に読みこむために京都にやってきたのかも…と思いはじめるようになりました。

幸い、京都には喫茶店やカフェがたくさんあり、本を読むための環境もばっちり整っています。

そして、心強いことに、ヴェーダにも仏教にも詳しくサンスクリット語も読める親戚が、今、龍谷大学で教授をしているので、わからないことがあれば、聞きに行くこともできます。

また、昨日は、東本願寺の近くの本屋さんまで自転車を走らせ、インド哲学の本を一冊買い求めてから、その帰りにカエル・カフェというお店を発見し、カウンター席で本を読みました。

自分の本性に「帰る」ための本を買った「帰り」に、「カエル」の人形が飾られたカフェ見つけて、そこで本を読んだ。


ちなみに私はこの夏、カエルのプリントが入ったTシャツを買い求め、なんとなくこの歳になって、「ど根性ガエル」になろうとしているのではないかと感じはじめています。

今朝、九州の女性と、Zoomで非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやった。




彼女は、悩み苦しんでいる「私」がいて、その私がいなくなれば、悩み苦しみも消えるものだと思いこんでいた。


そこで、その方向にいったら、彼女が望んでいる「苦しみからの解放」がおこらなくなる理由を先に告げてから、他人でもなければ、私でもない、働きがあることを自覚してもらい、その働きのままで日々を過ごせば、「私がこれをやっている」という誤解が薄れ、どんどん安らげるようになることを伝えた。


そして、セッションの終わりがけに、「劣等感」についての質問がでた。


これについても、私が「劣等感」を感じるにも、「優越感」を感じるにも、私と他人とが別々にあることを認め、比較によって「優/劣」を計っている「自我意識」にもとづく感情であることに違いはないこと。


だから、たとえ、優越感を感じられる瞬間がきても、他人を見下したり、マウントをとるような言葉が出たりするので、自他が分離しているように思える世界観はそのまま維持され、安らぎを感じられるようにならないことを伝えた。


そして、セッションを終わってから、ヤクルト・スワローズの村上宗隆選手が、スイングした直後に驚きの表情を見せたシーンを思い出し、これも伝えておけばよかったなと思ったので記しておきます。


村上選手は、今シーズンの最終打席で56号のホームランを打った時にも「自分でも驚いた」と発言していましたが、それよりもかなり前の試合で(何号のホームランだったかは忘れてしまったのだが)、スイングした直後に、「今のはなんだったんだ!」と驚いたような体の動きと表情を浮かべながら、スタンドに飛んでいく打球を眺めていた時があった。


そして、試合後のインタビューで、「あの表情は、なんだったんですか?」と聞かれた村上選手は、「自分でもびっくりしたから…」と答えていた。


一流のスポーツ選手は、他人でもなければ、私でもないこの働きに、しばしば驚愕させられている。


それゆえ、たとえ「村神様」と崇められようが、村上選手は天狗になることもなく、優越感に酔いしれ浮かれることもなく、今シーズン、歴史に残る数々の記録を打ち立て、私たち野球ファンを大いに驚かせてくれました。

そして、ちょうど今日で、今年の野球も見納めとなりました。


今日は、朝のzoomでのセッションで、カープとホークスの話をして、夜はテレビで26年ぶりのバファローズの胴上げを見て、今日の締めくくりはこうして村上選手のことをブログに書き、どういうわけか、野球尽くめの一日となりました。


お知らせ

ただいま、11月20日(日)にzoomで開催する講話会のお申し込みを受付中です。

先日、SNSを見ていたら、「許せない相手をどうすれば許せるようになるか?」という主旨の投稿を見かけました。

「許せい相手」と、その許せない相手を「許そうとしている私」。

つまり、「相手」と「私」が二つに分かれて別々に存在している。
という二元対立の考えを保ったまま、なんとか解決策を図ろとする内容の投稿でした。

許せない相手を許せるようになれば、もっとラクに軽やかに生きられるようになる。

おそらく、このような意図があっての投稿なのでしょうが、そもそも「許せない」と思える心(感情)も、「許そう」としている心(思い)も、同じ意識(自身の心)の中で起きていること。

この相反する矛盾に気づけないまま、どれだけ解決を試みようとしても、「許せない→許そう→許せない→許そう…」の葛藤が堂々巡りするだけの循環にハマったままとなります。

ところが、自他一如の心(本来の自己)のあり様に目覚めれば、「許せない相手」も「許そうとしている私」も、元より実在しておらず、二元相対の心がつくり出した夢(幻影)を見て、長年うなされていただけだったと気づけるようになります。

ちなみに、夜、眠っている間に見る夢は、朝、目覚めれば、自動的に消えます。
しかし、私たちが現実だと思い込んでいる朝、目覚めてから、夜、眠るまでの間に見ている夢(人が現実だと思い込んでいる二元葛藤の世界)は、自他を分けて物事を認識する心のフィルターを通して意識に投影された幻影(マーヤー)であり、この幻影(夢)から目覚めるには、自他のない本来の心のあり様を説く非二元の教え(大乗仏教や不二一元論)に触れ、解脱に直結する方向性に沿って坐禅や瞑想を実践しない限り、自動的に消えることは、まずあり得ません。

後悔や心配事、漠然とした不安など、心の問題で、長年モヤモヤした状態が続き、苦しみが続いておられる方は、心のどのような働きが苦しみを生む根源になっているかをお伝えしますので、ぜひ一度、ノンデュアリティ(非二元)のプライベートセッションか、矢沢大輔の講話会にご参加ください。

追記
今日の写真は、お経の声を聞いても、太鼓の音が鳴り響いても、心の動揺も葛藤もなく、ひたすら眠り続ける平等寺(因幡堂)の猫、チョビです。


前回の投稿

に続き、今日も、サン=テグジュペリ「星の王子さま」からの引用。

「たいせつなことは、目では見えない……」
「そうだね……」

「花のことと似てるな。どこかの星に咲いてる一輪の花を愛していたら、夜空を見あげるのは、心のなごむことだよ。星という星ぜんぶに、花が咲いてるように見える」
 「そうだね……」 

「水のこととも似てる。きみがぼくに飲ませてくれた水は、音楽みたいだった。滑車が歌って、綱がきしんで……ほら、思い出すでしょ……心にもおいしい水だった」
 「そうだね……」 

※写真の生け花(池坊)は、毎日、本を読んでいるスターバックス京都烏丸六角店で撮影

  ここで語られているたいせつなこととは?

ここで語られている「心」とは、私たちが通常「自分の心」と思っている浮き沈みする「感情」や「気分」、「考え」や「思い」、「願望」や「好み」といった表層的な心の動きのことではありません。

それは、自分の考え(物事を分別する心)を用いてわかろうとしても、絶対に知り得ない自他(主客)が分かれていない心のことです。

私たちは、このような話を聞くまで、物や人や世界を見ている「私(主体)」と、見えている「物や人や世界(客体)」は、それぞれ別々に(バラバラに)存在していると認識しています。

でも、私たちの「本来の心」は、そうなっていません。

そこで、星の王子さまは、自他がわかれていない「心」を一輪の花にたとえ、一つの心と見えている一切の事象(世界)との密接な関係を、こんなふうに伝えてくれています。

ちなみに日本では、弘法大師・空海も、「なぜ、私たちが生きている世界は、四苦八苦が絶えないのか」と問われ、「如実に自らの心(本来の心)を知らないからだ」と応えています。

9月の講話会では、見えない心と見える世界の関係について、また、自他をわける二元相対の心に基づき、なされた発言や行動が、なぜ、業(カルマ)となり、自業自得(禍いをもたらすこと)となるかについても話す予定をしています。

「きみの住んでるとこの人たちったら、おなじ一つの庭で、バラの花を五千も作ってるけど、…じぶんたちがなにがほしいのか、わからずにいるんだ」と、王子さまがいいました。

「うん、わからずにいる…」と、ぼくは答えました。

「だけど、さがしてるものは、たった一つのバラの花のなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなあ…」

「そうだとも」と、ぼくは答えました。

すると、王子さまが、またつづけていいました。
「だけど、目では、なにも見えないよ。心でさがさないとね」

サン=テグジュペリ「星の王子さま」より

お知らせ
9月開催の講話会では、二元相対のこの世界(現象界)で私たちが経験する「生・死」「自・他」「平和・戦争」「愛・憎」「幸・不幸」「美・醜」「成功・失敗」「得・失」の二元性が、いずれも自らの心によって投影されたものであり、日々、どのような道を歩むと、生死の輪廻を超えた涅槃寂静(仏教)、幸不幸を超えた至福(不ニ一元論)の世界に至れるのかをお話しします。

このところ、朝8時半を過ぎると、数軒先のビルの解体工事の音が響きだす。


ド、ド、ド、ド、ドカーン、ドカーン…

かなりけたたましい音ではあるが、環境がどう変わろうとも、毎朝、変わらず坐禅している。

坐禅を終えると、日によっては、少し眠たくなる日もあり、そういう時は、小一時間ほど横になって眠る。

不思議に思うのは、工事の音が鳴り響いていようが、それが子守唄のようになって、眠りに落ちてしまうこと。

坐禅中に音が聞こえてきても、まったく邪魔にならないし、それどころか、「ド、ド、ドカーン」という音には、なんの雑音も混じっておらず、スカッとしていて、その淀みのなさにより、心の中のすべてのモヤモヤや後悔、不安がきれいさっぱり吹き飛ばされてしまう。

10年前の私なら、工事の音が鳴り出しただけで、その場でじっとしておれず、半ば発狂状態になっていたのに、いつの間にか音がしても気にならなくなってしまっていた。

それを思うと、あらためて、不思議さを感じる。

(ちなみに、禅では、竹に石が当たる「カチーン」という音に触れた途端、悟れない苦悩から解脱された香厳禅師、コオロギの鳴き声を縁に、禅病から解脱された白隠禅師などさまざまな例がある)

また、何がなんでも、いつもの場所で坐禅しなくてはならない、というとらわれもなく、その日の天気や気分によっては、禅寺に行き、庭に向かって、鳥の声などを聞きながら坐禅する日もある。

また、歩いて2分ほどのところに、聖徳太子が建立された六角堂があり、毎日、お参りしたあと、隣接のスターバックスのソファに座り、BGM、さまざまなひとの人の話し声、氷を器具で救う音、ミキサーの音…などを聞きながら、椅子坐禅もしている。

聖徳太子は、一度に10人の声を聞き分けられた、という話があるが、これがどういう聞こえ方(聞法)であったかについても、知らず知らずのうちにわかるようになっていた。

そして、六角堂は、生け花発祥の地でもあり、スタバの店内には、池坊の花が飾られいる。


このような草花に、日々、接していると、それが身近な(親密な)ものになるので、華道そのものを行じてみたいという気にもなる。

京都に越してきた一年前まで、生け花になんの興味もなかったのに、いつの間にか、こうなってしまっているのだから、これも不思議に思う。

そして、「不思議」という言葉は、そもそも仏教用語で、「思議できないもの」であるのだから、不思議のまま、仏縁に従い、日々過ごしていこうと思う。

それ以外に、歩むべき道(大道)はないのだから。

お知らせ

このブログでは、文章上、「聞きながら」というように、あたかも「音を聞いている私」が存在しているように書きましたが、実際にはそうなっておらず、その事実に気づいた瞬間、これまでにあれやこれやと悩み苦しんでいた内容もろとも、ロウソクの炎を一息で吹き消すかのようになくなります。

長年、罪悪感や後悔、将来への不安、心配事がつかないという方は、具体的にどのようなことを日々、実践すると、苦悩からの解脱が起きるかを、オンラインの講話会、プライベートセッションでお伝えしていますので、ぜひ、ご活用ください。