非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

自分らしい生き方をしている時、「より多くのお金を稼がなければ」「成功しなければ」「無にならなければ」というような拘束的な思考は働いておらず、自己本来の命の働きだけがある。


この時、自分らしく生きている歓び、すなわち幸福がある。


他方、自分らしくない生き方をしている時、自己本来の命の働きはやせ細り(最悪な場合、自己を喪失し)、富の獲得に明け暮れる活動(労働)ばかりの人生となる。


人生の主たる時間が、お金を稼ぐための活動(労働)で占められるようになると、「労働」の対立概念は「余暇」となる。


余暇とは、その文字が示している通り、仕事と仕事の合間の「余った暇な時間」という意味なので、余暇を過ごしている最中の私たちの気分は、「終わってほしくないけれど、必ず終わりがやってきて、また明日がくれば、職場に戻らなくてはいけない」という拘束的な思考に支配されたまま、束の間の余暇を過ごすことになる。


しかし、労働時間の対立概念は、余暇ではなく、自分らしく生きている「自分時間」であることが経験され始めると事態は一変する。


自分時間を過ごしている時、そこには「ねばならない」という拘束的な思考は働いておらず、自己本来の命の活動だけがある。


主従関係でいうなら、「労働時間」の対立概念が「余暇」である時は、労働が主で、余暇が従の関係にあるが、「労働時間」の対立概念が「自分時間」である時、主たる時間は「自分時間」であり、お金を稼ぐための活動(労働)は、主たる自分時間を支えるために必要に応じて為される(従事される)活動となる。


主従の二項が「労働時間ー余暇時間」の関係にある時、私たちの活動は、「労働のために生きている」という奴隷のような状態に置かれたまま一生を過ごすことになるが、主従の二項が「自分時間ー労働時間」になっていることが経験を通じて認識されたなら、「自分らしく生きるために、必要に応じて必要なだけ働き富を得る」生き方こそが、自分らしく有ること、「生きていること」と「幸福」は別物ではなく、一つであることを実感しながら、毎日を過ごせるようになる。

(矢沢大輔)



前回の投稿以来、プライベートセッションのご予約が急増して、今回、3ヶ月ぶりの投稿となってしまいました。

この間に、セッションを受けていただいた女性から、今回のブログの内容にも関連する下記のようなメッセージをお送りいただいたので、ご本人からの許可をいただき、掲載させていただきます。


昨日は大変お世話になりました。

どれもありがたいお話で、疑問にも答えていただき本当に感謝です…!(>人<;)

やりたい仕事があるけど、忙しくなったら嫌だなあ〜というジレンマに悩んでおりましたので、まさに私とってドンピシャなメッセージでした。
ごちゃまぜにするから苦しくなるんですね。

多くの人が引っかかっているトラップを教えていただいて「確かに!」と目が覚める思いでした…!これを知っているだけでスムーズに進んでいけそうです🎵

本当にありがとうございました。
それではまた来月よろしくお願いいたします。


【私の近況と新しい講座のお知らせ】

この3ヶ月の間に、私は京都にある二つの料理教室に通い始め、和食や中華料理の調理の技を少しずつ自分のものにできるようになってきました。

また、5月には京都の三大祭りの一つである葵祭(写真)が開催され、昨年の祇園祭、時代祭に引き続き、今回もまたベルギー人のご夫婦にお招きいただき、観覧席から見学することができました。


また、8月24日(日)にオンラインで開催する講座の受付を開始しました。

「本来の自己とは何か」「自分らしい生き方とはどんな生き方なのか」について考察してみたい方は、下記より内容を確認いただき、ぜひ、ご参加ください。

もっとお金を稼げれば、そのお金と引き換えになんでも買えるようになる。


それこそが幸福な人生。


こんな考えにとらわれ、より多くのお金を求めて働くようになると、たとえ、一時的に収入の額が増えても、その代償として、大切な時間を失うことになる。


そもそも、なぜ、私たちはお金を手に入れたがるのか?


私たちは家族や自分の命の働きを維持するために、時に働き、生活に必要なお金を稼ぐ。


そして、稼いだお金を使って、他の人がつくった生産物を買って、日々暮らしている。


稼ぐ。買う。売る。


このような言葉を使って、物や労働力がお金を介して取り引きされる「貨幣化した社会」の中にいながら、そもそも私たちは、「稼ぐ」「買う」「売る」という魔法のような行為がどのようにして成り立っているのかをよく知らない。


それを知らないまま、自分たちが働いてつくった物を、見ず知らずの人たちに商品として「売り」、お金を「稼ぎ」、見ず知らずの人たちが働いてつくった物(商品)をお金で「買い」、身近な家族や自分の命を支えようと苦心している。


そして、この人間社会で、お金が持つ魔力に飲み込まれたなら、お金はまさに魔物と化し、私たちは「生きるために働く人間」ではなく、「働くために生きる奴隷」のような生活へと容易に転落してしまう。


不幸とは、その名の通り、幸福がないこと。


幸福を見失った者だけが、幸福を求めて、お金さえあれば人生がバラ色になると勘違いして、自分を見失ったまま、幸福を見失ったまま、労働で人生を埋め尽くそうとする。


幸福は、つくりあげるものでも、努力して手に入れられるものでもない。


それは、今も身近にある。


あまりに身近すぎるものだから、人はうっかりそれを見過ごす。


そして、ここにある幸福を享受することなく、その幸福な時間を自らぶっつぶそうとする。


他人は、あなたの幸福を破壊することなどできない。


幸福を破壊できるものが存在するとするなら、それは自分以外にはあり得ない。


本来の自己を見失い、自己欺瞞に陥った偽の自己だけが、幸福を破壊し得る。


それでも、幸福はどこかに行ったりしない。


自分が自分らしくある時、私たちは満ち足りている。


欲しいものが手に入ったから満たされたのではなく、自分として自分らしく生きている時、生命の輝きとして、私たちは幸福に満たされている。



お知らせ

6月22日(日)オンライン開催の講座の受付を開始しました。

ノンデュアリティ・プライベートセッション

今日は、姪(私の妹の娘)の、普通に考えたら「桁外れ」とも思える実践力について、私なりに理解していることを書き記しておこうと思う。


姪は、昨年、大学を卒業して、今、東京に本社がある企業Aの国際部で働いている。


就職してからまだ1年も経っていないのだが、英語を使って、約20カ国の仕入れ先と交渉を行い、ある素材の調達を安定的に保てるよう、時には海外まで出張して調整を行なっている。


彼女は、これまで長期の留学経験もなく、それでいて英語だけでなく、フランス語も話せる。


どのような学習をしたことで、日本にいながら2カ国を話せるようになったのか?


その理由を知りたくて、妹にいろいろ聞いてみたのだが、学校の授業とオンラインでの英会話以外に、特別なことをやっていたわけでもないらしい。


その一方、「お母さんもやってみたら」と姪からすすめられて、2年半前から英会話の練習を始めた妹は、いまだに「単語がなかなか口から出てこない」と言っている。


この親子の言語習得の違いを見て、私の父(姪にとっての祖父)は、「やっぱりもともとの出来が違うんやで。あの子は天才なんやで」という言葉で、全てを片付けようとしてしまう。


確かに、姪がこれまでに成し遂げてきた実績を見ていると、スーパーウーマンのように思えなくもない。


たとえば、小学校の時から、作文を書けば、文科省から表彰されて新聞に掲載されるほどの文才を発揮し、中学受験では、神戸で最も偏差値の高い女子校に合格し、高校では生徒会長を務めながら受験勉強を行い、京都大学に合格。

大学では、学業のほかに、夜間まで演劇の稽古をしていた。


また、私の父が営む釣具店で、釣り道具の制作に必要な材料が手に入らなくて困った時、高校生だった彼女は海外の企業とメールで交渉を行ない材料を調達してくれたり、大学に進学してから釣船を運転できる小型船舶一級免許もとってしまった。


そして、東京の企業に就職してからは、公認会計士の資格をとった方がいいのではないかと考え始めているらしい。


また、YouTubeに自分が描いたアニメを公開すると、1本の動画で30万回視聴を獲得し、A社の上司(ほぼ全員が東大出身)から「どうすれば視聴回数を伸ばせる動画を制作できるのかを教えてほしい」と言われているらしい。


こうやって書き出すと、私の父が「持って生まれた素質が違うからだ」と断定してしまう気持ちもわからなくはない。


でも、私の考えはまったく違う。


何かを学習している場面で、人が「わかった!」という時、いったい何を見出した時に「わかった」と言うのだろうか。


それは「答え」がわかった時だ、と思ったなら、「わかる」とはどういうことかを知らないまま、「わかった!」と言ってしまっている可能性が高い。


これに対して、姪の場合、どのジャンルの学習においても、「わかった」というのは、なんらかの「規則性(ルール)」を見つけた時であり、「よし、これでこのゲーム(遊び)のルールがわかったから、この先もこのゲームを楽しめるぞ」と歓喜しながら、次から次へと規則性が異なるゲームの楽しさを発見しつづけているように、私には見えるのだ。


では、なぜ私にはそう見えるのかというと、20世紀に「天才哲学者」と呼ばれたWに関する本を読んできたからだ。


昨年、Wの本を持って近所のカフェに行った時、隣りの席の男性のテーブルの上にもWに関する本が積み上げらていたので、「大学で哲学の勉強をしているの?」と訊ねると、彼は教育学部で教育工学を学んでいて、大学院に進むためにWの哲学を研究中であることを教えてくれた。


彼とはそれ以来、一緒にコーヒーを飲みに行ったり、LINEでやり取りしたりしながら、哲学者Wに関してお互いにどんな本を読んできて、どんなことを知り得たかを語り合える友達になった。


こうして私は、現在の教育の現場でもWの哲学が活かされていることを知り、それと同時に、姪がスーパーウーマンに見えるのは、彼女が通っていた中学、高校の教師もまた、Wが語っていた「わかる」「理解する」とはどういことかを知っていたからに違いないと確信できるようになったのだ。


ちなみに私は、ここまでの文章を25分ほどで書き上げた。


なぜ、短時間のうちに考え込むことなく書き上げられたかというと、これもまたWの哲学に触れ、「書く」とはどういうことかをわかるようになったからだ。


「書く」とは、頭の中にある考えや思いを言葉にして記す(文章化する)ことではない。

ということが、Wの本を読むうちに私にもわかってきて、「書けそうだ」と思った時、その感覚を合図にして、誰もが読める「文章」となって現れ出てくるのだ。


お知らせ

哲学者Wは、「哲学とは、ハエ取り壺(哲学的な病)に陥り、出口を探してジタバタと動き回るか、探すのをあきらめておとなしくなったハエに、そこからの出方を示してやり、自由に飛び回れるようにしてやること。これが哲学の目的だ」と語っていました。


たとえば、景色を撮影するためのカメラ(主体)が、撮影された写真(被写体)の中に写ることはない」という比喩を用いて、「目の前の景色を見ている主体(私)は、見られている景色の中にはいない」という観念論に陥ったなら、「私は(世界の中に)いない」という新しいものの見方を得たかのような錯誤に陥ります。


このような観念論に陥り、「わかちゃった」という文法的錯誤が起きたなら、今度は、自分が「わかっちゃった人」として、周りの人にも「わかっちゃた人」になることを薦める観念論の連鎖的な活動さえ起こり得るようです。


既に本文でも述べましたが、これが、「わかる」とはどういうことかを知らないまま(無知のまま)、「わかった!」と言ってしまっている一例であり、哲学的な病におかされ(観念論にハマりこみ)自由に飛び回れなくなっている状態にある、ということです。


そこで、3月の講話会では、どのような文法的錯誤から、哲学的な病に陥ってしまうのか?

陥った壺から出る方法は、出口を探すことではなく、どのような錯誤から壺の中に入ったかを自ら知ること、つまり入口に戻ること。

「わかる」「理解する」とはどういうことなのか?

などについて語り、壺から出て自由に飛び回れる生き方(良い意味での哲学的生き方)をお伝えします。

矢沢大輔

ノンデュアリティ・プライベートセッション

「スティーブ・ジョブズが人生の最後に悟った真実」と、今年の夏以降、私の周りで起きているシンクロについて書き留め、今年の投稿を締めくくろうと思います。


そのシンクロは、京都のイタリアンバールPで起き始めました。


今年の夏、私はこの店で、ベルギー出身でイタリアと京都に家を持つPさんと出会い、彼女からのお招きで、「祇園祭」と「時代祭」を観覧席から見学できる幸運に恵まれました。


そして、ある朝、「スティーブ・ジョブズが人生の最後に悟った真実」という動画を見た後、イタリアンバールPに行くと、またPさんと出会い、帰り際、彼女からりんごをもらったのでした。


Appleの創業者の動画を見た日に、イタリアンバールPで、再びPさんと出会い、リンゴをもらった。


このシンクロに気づいた私は、スティーブ・ジョブズが語った以下のようなメッセージを添えて、インスタにアップしました。


「金持ちになるために子供を教育するのではなく、幸せになるために子供を教育するんだ」


すると、その翌日、更にこんなことが…


市川團十郎のお子さんが、二人そろって、Pの文字が入ったこんなセーター着て、テレビに出てきたのです。

(PとPの一致)


しかも、この番組では、市川ぼたん(長女)さんが、人気ドラマへの出演が決まってから、毎日、家で「アップルパイ」を焼いていた、というエピソードが紹介されたのでした。

(アップルのさらなる一致+「パイ」のPがさらに重なる一致)



このようなシンクロが立て続けに起きだしたちょうどその頃、私はウィトゲンシュタインの論理哲学論考を読み、PとPの記号が何を表しているかをようやく読解できだした時期とも重なっていました。


そこで、スティーブ・ジョブズが悟った内容についても、哲学的に考察してみようと思い、次のように考えを巡らせ始めました。


スティーブ・ジョブズは、京都の定宿(旅館)で、日本の器の形状に魅せられ、それをきっかけに自分がつくって欲しい皿の形を陶芸家にリクエストして焼いてもらっていた。


そして、このような感性があったからこそ、それがコンピューターのデザインに活かされるようになり、Appleは世界的なブランドになった。


この事実から、彼が「金持ちになるために教育してはならない」と語った理由を考えてみると…


もし、金持ちになるように子どもを教育したなら、彼らが大人になった時、物の価値を、「値段」でしか判断できない人になり、そうなると「記号(=観念)消費」の悪循環にハマり、物の価値を知る感受性が鈍りだす。


そうなれば、生活に必要な物や道具を買う時にも、それをつくったり、売ったりする時にも、人にそれを見せびらかすためのやり取りしかできない中身が薄っぺらな人生になってしまうから、なのではなかろうか。


私がこのように思えたのは、Pさんご夫妻もまた、日本に来るたびに、日常生活の中で実際に使われている家具や襖絵や器の中に「美」を見出していて、ここにスティーブ・ジョブズとの共通点があるように、私には感じられるのです。


そして、Pさんと出会ってから、なぜ彼女が私をお祭りだけでなく、食事にも誘ってくださるのか、とても不思議に思っていたのですが、ある日、Pさんからこんなメッセージが届き、その謎がとけたのでした。


あなたとどこかに行くのはいつもとても楽しいです。

いつもたくさんのことを学べます。


これを読んだ瞬間、私もまったく同じように感じていることを実感しながら、Pさんと初めて祇園祭を見学した時のことを私は思い出していました。


Pさんは、自分の目の前にやってきた山鉾に掛けられたタペストリーの図柄を見るたびに、「うわぁー」と歓喜しながら、目を輝かせていたのです。


そして、私もまたその頃、ギャラリーを訪れて、絵の前に立った時、意識に現れている色の質感をそのまま感受するようにしていました。


そして、この感受性が複数の間で同調し合うことで、目に見える色や言葉となってシンクロが起き、計画や努力によってもたらされる成功とは別次元の「量子的飛躍」とも呼ばれる変容が人生に起きると、私の確信は深まっています。


今年一年もこのブログをお読みいただき、ありがとうございました。


そして、ここまで、この文章をお読みいただいたあなたにも、このブログやメルマガのフォローをきっかけに、来年があなたの飛躍的な転機の年となることを願い、本年最後の挨拶とさせていただきます。


どうぞ、良い年をお迎えください。


【年末年始のプライベートセッションのご予約について】

年末年始は、12月29日から1月3日までお休みします。


また、1月5日(日)のオンライン講座では、無主体論にとらわれると、なぜ、ぐるぐる思考にハマり、その逆に、「独我論」を極め尽くすと、正反対のように思えた「無我」との一致が起こるのかを語る予定です。


「私はいる」のか、それとも「私はいない」のか?

そのような二項対立にハマり、ぐるぐる思考にハマってしまっている方は、ぜひ、ご参加ください。

忘れたいことを、頭の中から消したいのですが、何かいい方法はありませんか?


このような質問が出たのは、今から10数年前。

私がまだ研修講師として「記憶法」を教えていた頃のことでした。


当時の私は、百貨店でスキンケア商品を販売している方々に、なかなか関連付けて覚えられない「商品名ー成分名ー効能」とを構造化して記憶する方法を教えていました。


また、個人向けには、どういう順序で本を読み、どのように要約すれば、本の内容が記憶に残りやすくなり、かつ人にわかりやすく内容を語れるようになるかを教えていました。



記憶法、読書術のいずれにおいても、覚えたい情報を脳内に入れる際(インプットする時)に、どのような情報処理を行うと、記憶に残りやすくなるかを教えていたわけですが、その反対に、「頭の中にある記憶を消し去る方法はありませんか」と聞かれた時には、正直、何も答えられませんでした。


しかし、このような質問を受けたことで、私の中に、新たな興味が湧き上がってきました。


なかなか覚えられないものを、覚えられるようになる有効な方法があるなら、「忘れるため」の有効な方法も、誰かが研究しているのではないか、と。


それ以来、様々な文献を読み漁るうちに、「そもそも忘れたいのに、忘れられないで人を苦しめような記憶とは、ショッキングな出来事が起こった後に、記憶として中枢神経に残る痛みであり、それは身体的に感じる痛みとは、別のものであることがわかるようになりました。


また、それと同時に、忘れたい記憶を忘れようと努力する度に、その経験の記憶が思い返されてしまうため(反復されてしまうため)、返って記憶に留まりやすくなるけれど、同じ「思い出す」にしても、どのような語り方をすると、その記憶の色合いが薄まり、痛みが静まりだすかも、わかるようになってきました。


「覚える」ことと、「忘れる」こと。


記憶に関するこの真逆の現象の成り立ちを調べれば調べるほど、「エピソード記憶」と「意味記憶」のどちらが優位であるかによって、記憶の濃淡が変わることがわかるようになり、「なるほど!」と膝を打つような発見や驚きも増えてきました。


これからも、「記憶と言葉と世界」の結びつきをどう解明すれば、「幸/不幸」「生/滅」の二項対立を超えた(二ではない)自由に至れるかを、下記の講話会やプライベートセッションを通じて皆さんにお伝えしていきます。

    ↓

少し前まで、菅田将暉が出演している

こんなUSJのCMが流れていた。


インタビュアー

「それって、ゾンビの仮装ですか?」


菅田将暉

「いえ、退屈な毎日を死んだように生きるただの現代人です」


この後、菅田将暉、踊りながら、

「マジ今、生きてる」

と絶叫。


このCMをはじめて観た時、私は、こう感じた。


「現代人の多くが抱えている問題を、

ユーモアを交えながら描きつつ、

突かれると痛いところをチクリと刺している点で、

秀逸なCMだな」と…


ここまでは、かつて広告業界で

コピーライターとして働いていた

私の観点から見た感想。


そして、ここからは、

おそらくこのCMのコンセプト(概念)の

元ネタであろうと考えられる

「哲学的ゾンビ」について、紹介したい。


まず、哲学的ゾンビとは、

「心の哲学」の分野で、

オーストラリアの哲学者

デイヴィット・チャーマーズが

思考実験によって明らかにした概念で、

Wikipediaでは、このように定義されている。


物理的反応としては、

普通の人間と全く同じであるが、

我々の意識にのぼってくる感覚意識や

それにともなう経験(クオリア)を

全く持っていない存在。


では、これが私たちに

どう関係しているのかというと、

生きていながら哲学ゾンビの状態に近づくと

一年が過ぎ去るのが年々速くなり、

気づいたら

「今年ももう10月か〜」という

感じになる。


まるで時間が早送りされたような

この時間感覚はどのようにして

生み出されるのだろう?


私たち人間は、心の安定をもたらす

一定の生活パターンを望みながら、

それでいて、パターン(安定)からの逸脱を

望んでいる。


なぜなら、日々、

同じような道を往復し、

知っている人とばかりおしゃべりし、

いつも通りの日常が繰り返されると

人生から「新鮮さ」が失われ、

意識が薄ぼんやりしてくるからだ。


自分の人生に何が欠けているのか、

よくわからないのだけど、

なんとなく退屈。


だから、退屈の気晴らしになる

何かが欲しい。


そう感じていると、企業はCMを通して、

こうささやいてくる。


「ここに来れば(これを手に入れれば)、

こんなに楽しくなるよ」


そして、なんとなく退屈な私は、

それを買う。


しかし、しばらくするとまた、

なんとなく退屈な毎日に逆戻りしてしまう。


この

なんとなく退屈→消費による気晴らし→

なんとなく退屈→消費による気晴らし…

の終わりなき循環から

抜け出る方法はあるのだろうか?


私たち人間は、心の安定を求めながら、

その一方で未知の体験を欲している。


ならば、企業から

「今、楽しいのは、これですよ」と

提案されるがままに

モノやサービスを消費するのではなく、

日々の生活にうるおいをもたらしてくれる

「楽しさ」「おいしさ」を

自ら味わえる人になればいい。


たとえば、私の場合、

近所のギャラリーに行って、

日本画を眺めていると、

鑑賞している「私」と鑑賞されている「絵」との

区別がなくなり、

ただただ絵に見惚れている状態になる。


これを禅では、主体と客体が

分かれていないという意味で、

「主客未分」という。


主体と客体が分離した主客二元論の世界においては、

「見る私がここにいるから、向こうに絵が見える」

という因果律が成り立っているが、

主客未分の世界には、時間がなく、

それゆえ因果律もなく、

心理学者のユングがいうところの

共時性(シンクロニシティ)のみとなる。


ユングはこのことを「集合的無意識」と

表現しているが、

この「無意識」という言葉から、多くの人は、

「意識が表層で、無意識が深層にある」

という二段構えの二元論にとらわれてしまい、

主客未分の世界を体験できないままとなる。


普通、「意識」というと、

頭蓋骨の中の脳に現れているもの、

と解釈されているが、

この構図にハマると、「意識」の外、

つまり頭蓋骨の外側に「世界」が存在している、

という「意識/世界」「心/物」という

二元論に閉じ込められたままとなる。


意識と世界は別々に存在し得ない。


このことを体験を通して実感できたなら、

意識に、経験としてのクオリア(質感)が

直接生じていることがわかり、

哲学的ゾンビは、消滅する。


お知らせ

主客未分の意識状態(ユングの集合的無意識)が

脳の内部におさまっていないことがわかると、

「楽しいことをやるから、楽しくなる」という

因果律の世界では経験できない、

無時間の共時性(シンクロニシティ)による

出来事に日々、驚きながら

生きられるようになります。


ご興味のある方は、矢沢大輔の

ノンデュアリティ ・プライベートセッション

もしくは、

11月24日開催の下記の講座にご参加ください。
   ↓

9月20日、ホームラン3連発で、大谷翔平選手は、これまでメジャーリーガーの誰もなし得なかった51本塁打51盗塁の大記録を達成した。



大谷選手は、なぜ今年、このような快挙を成し得たのか?


それを考えてみることは、

人生における最大の喜び=「至福」とは何なのか?

「自由」とは何なのか?

を探るための、またとない機会となるだろう。


そこで、今日は、大谷選手の快挙から見出せることを探索していきたいと思う。


まず、昨年の9月に大谷選手は右肘の手術を受けたので、今シーズンはピッチャーとバッターの二刀流が不可能となり、それは大谷選手からすれば、ピッチャーとしてのパフォーマンスを発揮できないというより制約された条件のもとでプレイしなくてはならない年になったと言えるだろう。


また、今シーズンの開幕のタイミングに合わせるかのように、24億円もの大金を銀行詐欺によって騙し取られていたことが発覚し、普通に考えれば、精神面においても相当なダメージを受けて、シーズンの開幕を迎えた年でもあったと言えるだろう。


身体と精神の両面において、これまで経験したこともない厳しい状況におかれながらも、大谷選手は、そのような苦難があったことをまったく忘れさせるかのように、今年も、多くの野球ファンを魅了し、あっけなく50-50の大記録を打ち立ててしまったのだ。


多くの人は、大谷選手のその活躍ぶりを見て、

「マンガみたいだ」

「いやいや、マンガにもならないほど話がうまく展開してすぎている」と感じている。


それほど、大谷選手の活躍は、私たち人間の想像をはるかに超えてしまっているのだ。


しかし、ここで、現実に起きた事実について、もう一度、振り返り、確認しておこう。


なぜ、大谷選手は今年50ー50を達成できたのか?


それは、昨年まで、ピッチャーとし使っていたエネルギーを、今年は、走塁に使えるようになったからだ。


右肘の手術により、「打つ」「投げる」の二刀流が不可能となり、それに代わって、「打つ」「走る」の二刀流にに専念できる機会が訪れたことで、大谷選手は、昨年までとは異なる分野において、新たな二刀流の記録を打ち立てるられるようになったわけだ。


そして、大金を騙し取られたことについても、「取られたお金が返って来るのだろうか?」「返って来なかったらどうしよう」というぐるぐる思考に巻き込まれることなく、大谷選手は、今年も野球のプレイに集中できていた。


では、なぜ、こんなことが可能となったのか?


それは、自らの活動能力を十分に発揮しているとき、人は「至福」にいたれることを、何より大谷選手自身が知っているからだろう、と私には思える。


また、自由とは、一般的には「なんの制約もなくなる状態のことだ」と考えられているが、限られた制約の中において、自己の活動能力を能動的に表現していく行為こそが「自由」であり、「善」であることを、大谷選手は知っていた。


だからこそ、制約の中においても、存分に自らの活動能力を発揮しきれたのではないか、と私には思える。


大谷選手は、高校時代に、原因と結果とが一対一で連結している線形思考ではなく、現実の世界のあり方が多元的な原因によってもたらされていることを一望できる曼荼羅の構図にふれ、それ以来、曼荼羅の世界観を見据えながら、他者を含めた自己の人生を豊かなものにしてきたのではなかろうか。


だからこそ、一般的には、逆境と思えるような状況(制約のもと)に置かれようとも、自らの活動能力を能動的に表現できることに、最高の喜び(至福)を感じ、自由を体現しているように、私には見える。


お知らせ

10月20日(日)から、『生きている「おいしさ」を味わう生き方』と題して、オンライン(zoom)の講話会を始めます。


今日のブログでも触れましたが、私たち人間は、自己の活動能力の増大を実感できているとき、生きている喜び(至福)と「自由」を感じることができます。


そして、重要なことは、何に触れていると、自分の活動能力が増大し、その逆に何に触れていると、活動能力が低下してしまうか、それは一人一人与えられた力の性質によって異なります。


生きている「おいしさ」を味わいながら生きるには、それを自分自身で知ることが、何よりも大切なことだと、私は今、思っていて、10月から、毎月一回のベースで、あなたに備わっている力の性質があなた自身で理解できるようになるよう、話をしていきたいと考えています。


自分の力の性質を理解し、等身大の自分で生きている「おいしさ」を味わう生き方をしてみたいと思われた方は、一度、この講話会にご参加ください。

今日から8月になりました。


私が暮らす京都では、今日の最高気温は39度に達すると予想され、暑さが少し和らぐ夕方までの間、久々にブログを書くことにしました。


先週、京都では、祇園祭(後祭)が行われ、私は幸運にも、観覧席の最前列から山鉾巡行を観ることができました。


私をこの先に招待してくださったのは、ベルギー人の女性Pさんで、一緒に山鉾巡行を見るはずだったご主人が、急遽、お仕事の都合でイタリアに帰国されたため、私にそのチケットが巡ってきました。


Pさんは私より一歳年上の62歳で、イタリアと京都の2箇所に持ち家を所有されていて、季節が変わる3ヶ月ごとに居住地をかえ、自分の価値観に沿った生活を楽しまれています。


Pさんは、京都ては毎朝5時に起床。

時には20キロ離れた伏見まで自転車で遠出することもあるそうで、私がまだ行ったことのないお寺や避暑地の神社のことにも詳しく、「この時期、ここに行けば、こんな景色が見えるよ」とiPhoneの写真を見せながら教えてくださいます。


また、Pさんは、ベルギー人なので、母国語はフランス語ですが、イタリアにいる時はイタリア語を会話し、日本では日本語で会話できるようになろうと、日本語学校にも通っておられます。


60代になっても、アクティブに両国を行き来し、それぞれの文化や言語を学んでいるPさんに出会ってから、私自身も大いに触発され、言語の働きに関する論文や解説書を毎日欠かさず読むようになりました。


もし、言語の働きを学んでいなければ、数年前から言われだした「老後の資金が足りない」という仮説の根拠が自分にも当てはまるのかを検証しないまま、横ならび意識で投資をはじめ、今頃、株価の乱高下に右往左往していただろうと思うと、見せかけの根拠に惑わされない論理の力を鍛えておいて、本当に良かったと感じています。


また、同時に思うのは、人の価値観というものは、内面的に隠されてはおらず、その人の暮らしぶりに全て現れ出ているなと、強く感じています。


たとえば、Pさんの場合は、アートや建築に関心があるので、山鉾巡行のタペストリーの紋様を間近に見るために、なんの迷いもなく最前列のチケットを購入しています。


また、安藤忠雄の建築物にも興味があるので、イタリアのご自宅はコンクリートの打ちっぱなしだし、日本では、安藤忠雄が設計した香川県直島の美術館にも足を運ばれています。


一方、私の価値観は、どうなっているかというと、私は、今、このブログを書いていますが、その動きを止め、顔を上げると、目の前に東山連峰の眺望が広がっています。


お盆の8月16日には、我が家のベランダから五山の送り火(大文字焼き)を眺めることができ、私の価値観も日々の暮らしぶりにそのまま現れ出ている、といえます。


同じ一つの山鉾巡行を見るにしても、同じ一つの東山を見るにしても、それをどの視点から眺めるかによって目の前に広がる眺望はまったく変わります。


また、同じものを同じ視点から見ていても、その人が何に興味を持っているかによって、見えるものの価値(意味)も変わります。


そして、私たち人間は、他の動物とは異なり、言葉を持っていて、「あなたもここに来れば、こんな素敵な景色が見えるよ」「あなたもここに来れば、こんなに涼しく過ごせるよ」「あなたもここに来れば、こんな味覚に出会えるよ」…このようなことを自分以外の誰かに伝えたくて、一緒に同じものを見て、触れて、感動したくて、私たちは日々、言葉を使って人々と共に生きています。


そして、私たちには、その場所へと自由に動ける身体が備わっています。


私は今、地球上の京都という場所にいて、ここから、時折、東山を眺め、冷たい蒟蒻ゼリーを頬張りながら、まもなくこのブログを書き終えようとしています。


まだまだ暑い日が続きますが、お身体ご自愛の上、素敵な夏をお過ごしください。


追伸

今日は、「私はここにいる」というテーマでブログを書きました。

これに対して、「非二元=私はいない」と解釈している人もいるようです。


なぜ、このような正反対の見解が生まれるかというと、観念論に陥ると、「私は(ここに)いない」という結論に至ることになるからです。


観念論というのは、日常の中で私たちに見えているもの(対象)を、映画館の中で観ているスクリーン上の映像にたとえ、こんなふうに語ります。


見えている映像の内部には、その映像を観ている私(観客)はおらず、映像の外から私は映画を観て楽しんでいる。


このようなアナロジー(たとえ話し)を鵜呑みにしてしまうと、「私は(見えている世界の中には)いない」という実感が強まり、実際に目の前で起きている出来事や物事のリアリティが希薄化され、「見えているもの(対象)は、見ている私(主体)とは別次元にあるもので、私とは関係なく、ただひとりでに展開している映画のようなものだ」という傍観者的な見方で世の中を眺めるようになってしまいます。


しかし、私たちが生きているこの世界のあり様は、映画館のたとえで説明されるような形式にはなっていません。


自分の目の前から、こちらに向かって猛スピードで車が近寄ってきているなら、私の身体は、車との衝突を避けようとして咄嗟に飛びのくことでしょう。

そうでなければ、死に至ることがわかっているからです。


一方、映画館の中で、同じように車がこちらに向かってきても、観客である私は、車を避けようとはしません。身体が反射的にビクッと反応することはあるでしょうが、椅子から立ち上がって逃げるような観客はいません。

なぜなら、見えている車は、現実の車ではなく、スクリーン上に映し出されている車の映像だと、誰もが了解して観ている(楽しんでいる)からです。


映画館の中での映画(バーチャルリアリティ)の楽しみ方は、誰もが経験済みですが、現実の世界(リアリティ)においては、どうなっているでしょう。


楽しめるのは、バーチャルリアリティの世界だけであって、リアルな現実は、同じ職場においても、生き残りをかけた足の引っ張りあいや、パワハラ、モラハラが横行する生きづらい世界。


こんな現実のあり方を目の当たりにすると、誰もがバーチャルリアルな「観念論」に逃げ込みたくなる気持ちもわからなくはありません。


しかし、私たちが現実に生きているのは、バーチャルではなく、リアルな世界。


目の前に見えているのは、意識のスクリーンに投影された映像ではなく、実物そのもの。


だから、見えるだけでなく、そこに手を伸ばせば感触があり、それが食べ物であるなら、舌の上に運べば、味がして、身体には栄養を与え、空腹を満たしてもくれます。


この現実の世界を楽しむ秘訣は、「縁起」と呼ばれる意味のネットワークによってこの世界が成り立っていることを知り、縁起(の理法)に則った言葉を使って、人と関わり合い、この世界の素晴らしさを一緒に共有し合う経験を積み重ねることだ、と私は感じています。


このような生き方に興味がある方は、矢沢大輔のプライベートセッション、または講話会に参加してみてください。

対面であれ、zoomを介してであれ、お会いしてお話しできるのを楽しみにおります。

梅雨に入ってからも、雨が降らない時間帯があれば、私は自転車を走らせ、御所近くのバールにアイスコーヒーを飲みに行く。


この店の常連客である30代後半のAさんは、イタリアンのシェフで、いつもランチタイムとディナータイムの合間の休憩時間にここにやってくる。

Aさんは、エスプレッソに砂糖をたっぷり注ぎ入れ、3、4口で一気に飲み干すと、3分を経たないうちに自らの職場に戻っていく。

そのAさんの様子を眺めていると、往復のタイムを競う水泳選手が壁タッチして素早くターンし、元の場所(Aさんの職場)に戻っていくように、見えてくる。

さらに先日、Aさんは
「今日はこれから全力で寝ます!」
と告げ、仮眠を取るために、職場に戻っていった。


この発言を聞いて、私はこんなことを思った。


なぜ、Aさんは、これからやろうとしていることについて、わざわざ言葉にして表明しているのだろう?


おそらく、その理由は、やろうと思ったけれど、実際にはやらずじまいで終ったことがあり、その意志と行為とのギャップをどうにかなくそうと思い、まずは、自分の意志を固めるために、このように宣言するようになったのではなかろうか。


そこで、今日は、意志と行為の関係について、二元論と非二元の違いを述べてみたいと思う。


Aさんの場合、「意志」と「行為」の関係が、行為に先立って、まず意志が起こり(一)、その意思にうながされて行為が起こる(二)、という二段構になっている。


心的な「意志」と身体的な「行為」は別物。


このように考える二元論では、両者の間に時間差が生じ、そのため二段構えとなる。


これに対して、非二元では、行為から独立した「意志」などなく、意志と行為が一体となった「行為」がただあるだけ、の一段構えになる。


私の一日を振り返ってみると、コーヒーを飲んだり、本を読んだり、会話したり、音楽を聞いたり、食事をしたり、自転車に乗ったり、散歩したり、洗濯したり、風呂に入ったり、歯を磨いたり…と様々な行為が起きている。


このどの行為においても、その直前に「これから〇〇をしよう」と身体に向かって命じるような司令官的な存在はどこにも見当たらない。


行為があるなら、その行為には意志が含まれいる。


意志と行為は、分離不可能。


意志的である行為のみが、その都度、自由に立ち現れてくる。


ところが、二段構えの二元論に陥ると、行為から独立してある「意志」、意志から独立してある「行為」が別々にあるかのように実感されてしまう。


そして、この事実誤認から、意志と行為を意識的につなごうとする作為的な努力が生じることになる。


お知らせ

8月4日(日)オンライン開催の「ブッダが悟った縁起の理法」では、「意志」と「行為」の不可分さだけでなく、私たちが見ている世界は、意識のスクリーンに映し出された「像」に過ぎない、という「実物」と「像」を切り分け、私たちを二元論に誘いこむ「映画館モデル」の巧妙な罠の構造をも解き明かし、解毒していきます。

「いつの間にか二元論にはまっているかも」と思われた方は、矢沢大輔のプライベート・セッション、または講話会にふらりとご参加ください。

たとえば、今、目の前に「水車が回っている」風景が見えている、とします。



この場合、「水車」がモノで、「回っている」がコト(状態)になります。


モノとコトとは、それぞれ別々のものである、と思っている人は、二元論にハマっていますが、なかなかこの事実にきづけません。


たとえば、私がまだコピーライターの仕事をしていた頃、「モノ消費からコト消費へ」ということが語られ出しましたが、これも「モノとコトとが別々のものである」という二元論にとらわれたままの一例と言えるでしょう。


そもそもモノ(物)とコト(事象や状態)とが、別々に切り離されてあることなど、あり得るでしょうか?


水車が静止している。

水車が勢いよく回っている。

水車がゆっくり回っている。


このどれもが、モノ(水車)あってのコト(状態)であり、コトあってのモノです。


回りも、止まりもしない「水車」があるわけでもなく、水車のない「回転」も「静止」もありません。


これが、私たちが生きているこの世界の物事(ものごと)のあり方です。


「コト(状態)だけがある」と思っている人は、モノとコトとが別々にある、という二元論にハマっています。


「おいしい」というコト(経験や状態)が、食べ物なくあり得ないように、モノとコトとは切り離されてはいません。


「歯が痛む」なら、歯(モノ)と痛む(コト)は、別々にあるのではなく、一つです。


「歯が痛む」から、「歯医者に行く」という行動が起こり、そして、歯科医師から「どこが痛みますか?」と聞かれたなら、私たちは「昨日から、上の右奥歯がズキズキ痛みます」というように、モノとコトとを分裂させることなく、ちゃんと伝えています。


モノとコトとがセットになって発言されることで、歯科医師に、どの歯が傷んでいるかを伝えることができ、治療してもらえる。


これが私たちが実際に生きている現実の世界での、言葉と物事との関係です。


モノだけが消費される買い物など、あり得ないように、コトだけが消費される買い物もない。


「モノ」にスポットライトを当てた見方と、「コト」にスポットライトを当てた見方の違いはあれど、「モノ消費」があるわけでも、「コト消費」があるわけでもない。


では何があるのか?


水車が回っているなら、水車を回しているのは、川の流れ(自然)です。


川の流れなくして、水車は回りません。


しかし、水車が、川の流れに浸り切ったら、水車は回りません。


水車が、川の流れから離れても、水車は回りません。


ちょうど良い塩梅(浸かり過ぎず、離れ過ぎず)に、川の流れ(自然)とともにあるとき、水車は苦もなく回り続けます。


この良い塩梅(あんばい)のことを、仏教では「中道」といいます。


そして、これは、長く回り続ける商い(仕事)の極意にも通じています。


追記

モノがどのような状態にあるのかを、相手に伝えるために、私たちは普段、言葉を使っています。

モノを主語におき、そのモノの状態(コト)を述語にして、ものごとの様子や状況などを伝え合っている。

これが人間ならではの「言葉」の役目です。

主語と述語あっての、「ものごと」です。

主語と述語をバラバラに切り離したら、言葉の意味は成り立たなくなり、死んだ言葉になります。

述語のない主語だけを切り出し、たとえば「わたし」とは何だろうと問うなら、それは文字通り意味のない(ナンセンス)な問いとなります。


歩いている私。

座っている私。

寝ている私。

食事をしている私。


歩いてもいなければ、座っても、寝てもいない、ないないづくしの「わたし」など、どこにも存在していないからです。


モノとコトとが、切り離されて別々に存在していないように、「わたし」と「行為」とが、別々にあることなどあり得ない。


でも、人は、二元論にハマったとき、「わたし」と「行為」、「主語」と「述語」とをバラバラに切り離し、「〈わたし〉とは何か」を問うてしまう。


「行為」あっての「わたし」であり、「わたし」あっての「行為」。


それが今まさに、生きている〈わたし〉。


このようなことに興味がある方は、矢沢大輔のプライベートセッションもしくは講話会へのご参加をお待ちしております。