非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

う私たちが日々経験する時間の質(幸福か不幸か)は、何によって決まるのか?


それは、世界と自分に対して自らが取っている態度(あり方)の違いによって決まる。


たとえば、家族や友人と一緒に食事をしながら会話している時、自分が取っている態度により、満たされた時間を体験できるか、それとは異なる質の時間を体験できるかが決まる。


つまり、自分のあり方(態度)次第で、私たち人間は、幸福にも不幸にもなり得る自由を持っている。


しかし、たいていの人は、この自由があることを知らない。


知らないがゆえに、幸福を感じられない態度を自ら取ったまま、同時に幸福を自ら作りだそうとする自己矛盾に陥ってしまう。


そして、この自己矛盾は、自己のあり方(態度)が変わるまで続く。


幸福は作ることができない。


しかし、この世界には、まるでマニュアル通りにあることを実行すれば、幸福が作れるかのように訴えるメッセージであふれている。


そして、それに従って幸福になろうとしたなら、その時、あなたが取っている態度は、あいかわらず幸福な時間を感じられない態度を取り続けたまま、ただ行動を変えることで手に入る範囲の「幸福」という名で呼ばれているものを次々に手に入れようとする幸福のパロディを演じ続けることになる。


幸福は、何らかの行為の結果としてもたらされる意識の対象ではない。


それは、あなたが、本来のあなたとして有る時、いとも容易に体験できる時間であり、あなたがこれとは異なるあり方(態度)を取っていたなら、あなたは自らの手で幸福を感じられないあり方へと自らの手で自らを追い込み、苦しむことになる。


自分が体験できる時間の質は、自分が取っている態度によって決まる。


もし、あなたが、目の前の相手に対して「私はいない」と発話したなら、それは私たち人間がたとえ相手の名前を知らなくても、「私ーあなた」という人称概念を用いて互いに意思疎通をはかってきた日常言語(母語)における「私」という語の使用(言語規則)に反する非日常的で理解不能な発言であり、目の前の相手との意思疎通を拒む態度を自ら取っていることになる。


私たち人間は、4歳になる頃、「私ーあなた」のあり方の違いをはじめて認識できるようになるが、3歳くらいの幼児はまだこの違いを認識できないので、かくれんぼなどの遊びができない。


そして、私とあなたの違いを認識できるようになった幼児は、文法を学ばずとも、様々な人たちとの会話(実践)を通して、一人称、二人称、三人称を使い分けながら、母語を使って人と語り合える能力を身につけ、自分のものにしてきた。


それゆえ、私たちが日常の会話の中で当たり前に使いこなしている「私ーあなた」の人称概念から「私」という概念のみを切り離し、その存在を否定する発話行為は、私たちが既に自分のものにしてきた母語の言語規則を自己破壊するような行為であるため、そのような態度を取っている限り、幸福とは異なる種類(質)の時間を自ら体験し続けることになる。


【お知らせ】
自己本来のあり方とはどのようなあり方かを知るだけでなく、貨幣の働きが私たちのあり方にどのような影響を及ぼすかを知り、現代社会の中でお金とうまく付き合いながら後半生を自分らしく生き生きと生きたい方は、下記ダイアローグ(対話)の詳細をご確認の上、ご予約ください。
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先週まで満開だった京都御苑の桜も、ここ数日の雨で、葉桜に変わりつつある。


花が散っても、一本一本の桜の木は、自らの活動を停止するわけではない。


それゆえ、また来年も春が来れば、桜の木は花を咲かせる。


とはいえ、桜は、この世に生を受けた成長期の段階から花を咲かせるわけではない。


自らが生きる環境の中で、桜は自らの活動を行うことにより成長し、やがて成熟した桜となることで花を咲かせるようになる。


成熟した桜の木は、自らの命が続く限り、春が来るたびに花を咲かせ続ける。


これが、桜と呼ばれる生き物のあり方であり、桜にとっての一生とは、自らの命を働かせ続け、桜であり続けることに他ならない。


そして、春になると桜が咲く環境で生きてきた私たちは、桜が自らの命を働かせて成長を遂げ、春になると花を咲かせるようになる桜の生のあり方に、命の輝きを感じとり、「花見」と呼ばれる活動を古くから周期的に行い続けてきた。


私たち人間が、花見を行い続けてきた理由は、命ある生き物として同じ地球上に存在する桜が自らの命を働かせ、成熟期を迎えた時に花を咲かせるその姿に、命の輝きを知覚し、魅せられてきたからに他ならない。


春が来るたびに、目の前で咲き誇る桜の生き方に魅了されながら、同時に私たちは、桜からこう問い返される。


「あなたの生き方はどうなんだ?」


「桜と同じ、命ある生き物として、あなたの命は日々生き生きと働き、輝いているだろうか?」


桜は、この地球上に生を受けたなら、自らの命を働かせ続け、桜としてあり続ける。


桜は、桜としての自らの生を送る以外に選択肢はなく、成熟期を迎えれば花を咲かせる。


一方、人間の生には、桜とは異なり、多様な生き方が存在する。


成長期の段階で、各々の命が、自らの活動により異なる能力を身につけ、成熟期を迎えた時、各自の命が完成し、自己本来の生を送れるようになり、自分らしく有る(生きる)喜びを享受できるようになる。


そして、人間は、桜にはない、思考の自由という能力を持っているがゆえに、自己本来の命の働きとは異なる自己のあり方を思い描き、その思考に従って非本来的な生を送り、生きてはいるものの、命の働きとしては枯れ果て、空洞化したような生き方を選ぶこともできる。


本来なら自らの生を楽しめる成熟期に至っても、私たちの多くが自分の生き方に悩むのは、私たちが生きているこの現代社会が完全に貨幣化された社会であり、貨幣の働きが私たちの命の働きにどのような影響を及ぼすのかをよく理解しないまま社会的活動を行い、自己本来の命の活動をやせ細らせてしまっているからだ、といえる。


お知らせ

命の働きが成熟している40代を過ぎても、自分らしく生きている喜びを感じられず、これからより多くのお金を稼ぎ、より多くの物やサービスを買えるようになろうとしているなら(それこそが生きる喜び=幸福だと思っているなら)、その活動は成熟した命の自発的な働きとは異なる非本来的な活動であり、これが際限なく続くと、自己本来の命の活動が空洞化して、自分らしく有る(生きる)喜びをまったく享受できなくなる事態に至りかねません。


そしてなにより、失ってしまった命の働きは、お金では買えません。


自己本来の命の活動とはどのような活動なのかを知るだけでなく、貨幣の働きが私たちの命の働きにどのような影響を及ぼすかを知り、現代社会の中でお金とうまく付き合いながら後半生を自分らしく生き生きと生きたい、そう思われた方は、下記ダイアローグ(対話)の詳細をご確認ください。
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京都での自由な日々を綴ったインスタ
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昨日、スタバから帰ろうとした時、カウンター内のお店のお姉さんたちが手招きしているので行ってみると、こんな寄せ書きのカードをもらえた。

寄せ書きの一つ一つを読むと、自分が普段、どんな態度で人に接しているかがよくわかった。


そして、スタバから家に帰る途中、スーパーに寄ったら、娘さんのヘアカットが上手なお父さん(医師)と4歳になった娘さんにばったりお会いして、立ち話が止まらなくなり、こんな情報を知った。


「今年の司法試験の最年少合格者は、現役の女子高生で、司法試験予備試験→司法試験のルートをたどれば、年齢も学歴も関係なく資格が取れることを知ったんですよ。

これから一緒に勉強して司法試験を受けませんか?」


こんな話を聞きながら、あ〜僕は人と話すのが好きで、僕が話す人もまた人と話すのが好きな人たちばかりで、寄せ書きに書いてあるTop of the worldってこの街のことかも…と思えた。


追伸
このお医者さんからは以前、「医師免許を持っていると、家族以外の人の髪の毛も美容師さんのように切ることができる」ことを教えてもらい、その時も、私はへ〜となったのですが、4歳の娘さんもまたおしゃべりが好きな子で、親が普段からどんな態度で人に接しているかで、子供もまた親と同じ態度で人に接するようになるんだなとつくづく感じました。

お知らせ
非二元・悟りに関する誤解とその束縛から自由になり、自分らしく幸福に生きる「技と知」
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矢沢大輔のインスタ
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年末年始は、12月28日(日)〜1月4日(日)まで、お休みいたします。

自分らしい生き方をしている時、「より多くのお金を稼がなければ」「成功しなければ」「無にならなければ」というような拘束的な思考は働いておらず、自己本来の命の働きだけがある。


この時、自分らしく生きている歓び、すなわち幸福がある。


他方、自分らしくない生き方をしている時、自己本来の命の働きはやせ細り(最悪な場合、自己を喪失し)、富の獲得に明け暮れる活動(労働)ばかりの人生となる。


人生の主たる時間が、お金を稼ぐための活動(労働)で占められるようになると、「労働」の対立概念は「余暇」となる。


余暇とは、その文字が示している通り、仕事と仕事の合間の「余った暇な時間」という意味なので、余暇を過ごしている最中の私たちの気分は、「終わってほしくないけれど、必ず終わりがやってきて、また明日がくれば、職場に戻らなくてはいけない」という拘束的な思考に支配されたまま、束の間の余暇を過ごすことになる。


しかし、労働時間の対立概念は、余暇ではなく、自分らしく生きている「自分時間」であることが経験され始めると事態は一変する。


自分時間を過ごしている時、そこには「ねばならない」という拘束的な思考は働いておらず、自己本来の命の活動だけがある。


主従関係でいうなら、「労働時間」の対立概念が「余暇」である時は、労働が主で、余暇が従の関係にあるが、「労働時間」の対立概念が「自分時間」である時、主たる時間は「自分時間」であり、お金を稼ぐための活動(労働)は、主たる自分時間を支えるために必要に応じて為される(従事される)活動となる。


主従の二項が「労働時間ー余暇時間」の関係にある時、私たちの活動は、「労働のために生きている」という奴隷のような状態に置かれたまま一生を過ごすことになるが、主従の二項が「自分時間ー労働時間」になっていることが経験を通じて認識されたなら、「自分らしく生きるために、必要に応じて必要なだけ働き富を得る」生き方こそが、自分らしく有ること、「生きていること」と「幸福」は別物ではなく、一つであることを実感しながら、毎日を過ごせるようになる。

(矢沢大輔)



前回の投稿以来、プライベートセッションのご予約が急増して、今回、3ヶ月ぶりの投稿となってしまいました。

この間に、セッションを受けていただいた女性から、今回のブログの内容にも関連する下記のようなメッセージをお送りいただいたので、ご本人からの許可をいただき、掲載させていただきます。


昨日は大変お世話になりました。

どれもありがたいお話で、疑問にも答えていただき本当に感謝です…!(>人<;)

やりたい仕事があるけど、忙しくなったら嫌だなあ〜というジレンマに悩んでおりましたので、まさに私とってドンピシャなメッセージでした。
ごちゃまぜにするから苦しくなるんですね。

多くの人が引っかかっているトラップを教えていただいて「確かに!」と目が覚める思いでした…!これを知っているだけでスムーズに進んでいけそうです🎵

本当にありがとうございました。
それではまた来月よろしくお願いいたします。


【私の近況と新しい講座のお知らせ】

この3ヶ月の間に、私は京都にある二つの料理教室に通い始め、和食や中華料理の調理の技を少しずつ自分のものにできるようになってきました。

また、5月には京都の三大祭りの一つである葵祭(写真)が開催され、昨年の祇園祭、時代祭に引き続き、今回もまたベルギー人のご夫婦にお招きいただき、観覧席から見学することができました。


40代・50代からデカルト的自己とは異なる本来の自己を取り戻し、後半生を幸福に生きるダイアローグ



もっとお金を稼げれば、そのお金と引き換えになんでも買えるようになる。


それこそが幸福な人生。


こんな考えにとらわれ、より多くのお金を求めて働くようになると、たとえ、一時的に収入の額が増えても、その代償として、大切な時間を失うことになる。


そもそも、なぜ、私たちはお金を手に入れたがるのか?


私たちは家族や自分の命の働きを維持するために、時に働き、生活に必要なお金を稼ぐ。


そして、稼いだお金を使って、他の人がつくった生産物を買って、日々暮らしている。


稼ぐ。買う。売る。


このような言葉を使って、物や労働力がお金を介して取り引きされる「貨幣化した社会」の中にいながら、そもそも私たちは、「稼ぐ」「買う」「売る」という魔法のような行為がどのようにして成り立っているのかをよく知らない。


それを知らないまま、自分たちが働いてつくった物を、見ず知らずの人たちに商品として「売り」、お金を「稼ぎ」、見ず知らずの人たちが働いてつくった物(商品)をお金で「買い」、身近な家族や自分の命を支えようと苦心している。


そして、この人間社会で、お金が持つ魔力に飲み込まれたなら、お金はまさに魔物と化し、私たちは「生きるために働く人間」ではなく、「働くために生きる奴隷」のような生活へと容易に転落してしまう。


不幸とは、その名の通り、幸福がないこと。


幸福を見失った者だけが、幸福を求めて、お金さえあれば人生がバラ色になると勘違いして、自分を見失ったまま、幸福を見失ったまま、労働で人生を埋め尽くそうとする。


幸福は、つくりあげるものでも、努力して手に入れられるものでもない。


それは、今も身近にある。


あまりに身近すぎるものだから、人はうっかりそれを見過ごす。


そして、ここにある幸福を享受することなく、その幸福な時間を自らぶっつぶそうとする。


他人は、あなたの幸福を破壊することなどできない。


幸福を破壊できるものが存在するとするなら、それは自分以外にはあり得ない。


本来の自己を見失い、自己欺瞞に陥った偽の自己だけが、幸福を破壊し得る。


それでも、幸福はどこかに行ったりしない。


自分が自分らしくある時、私たちは満ち足りている。


欲しいものが手に入ったから満たされたのではなく、自分として自分らしく生きている時、生命の輝きとして、私たちは幸福に満たされている。



お知らせ

6月22日(日)オンライン開催の講座の受付を開始しました。

ノンデュアリティ・プライベートセッション

今日は、姪(私の妹の娘)の、普通に考えたら「桁外れ」とも思える実践力について、私なりに理解していることを書き記しておこうと思う。


姪は、昨年、大学を卒業して、今、東京に本社がある企業Aの国際部で働いている。


就職してからまだ1年も経っていないのだが、英語を使って、約20カ国の仕入れ先と交渉を行い、ある素材の調達を安定的に保てるよう、時には海外まで出張して調整を行なっている。


彼女は、これまで長期の留学経験もなく、それでいて英語だけでなく、フランス語も話せる。


どのような学習をしたことで、日本にいながら2カ国を話せるようになったのか?


その理由を知りたくて、妹にいろいろ聞いてみたのだが、学校の授業とオンラインでの英会話以外に、特別なことをやっていたわけでもないらしい。


その一方、「お母さんもやってみたら」と姪からすすめられて、2年半前から英会話の練習を始めた妹は、いまだに「単語がなかなか口から出てこない」と言っている。


この親子の言語習得の違いを見て、私の父(姪にとっての祖父)は、「やっぱりもともとの出来が違うんやで。あの子は天才なんやで」という言葉で、全てを片付けようとしてしまう。


確かに、姪がこれまでに成し遂げてきた実績を見ていると、スーパーウーマンのように思えなくもない。


たとえば、小学校の時から、作文を書けば、文科省から表彰されて新聞に掲載されるほどの文才を発揮し、中学受験では、神戸で最も偏差値の高い女子校に合格し、高校では生徒会長を務めながら受験勉強を行い、京都大学に合格。

大学では、学業のほかに、夜間まで演劇の稽古をしていた。


また、私の父が営む釣具店で、釣り道具の制作に必要な材料が手に入らなくて困った時、高校生だった彼女は海外の企業とメールで交渉を行ない材料を調達してくれたり、大学に進学してから釣船を運転できる小型船舶一級免許もとってしまった。


そして、東京の企業に就職してからは、公認会計士の資格をとった方がいいのではないかと考え始めているらしい。


また、YouTubeに自分が描いたアニメを公開すると、1本の動画で30万回視聴を獲得し、A社の上司(ほぼ全員が東大出身)から「どうすれば視聴回数を伸ばせる動画を制作できるのかを教えてほしい」と言われているらしい。


こうやって書き出すと、私の父が「持って生まれた素質が違うからだ」と断定してしまう気持ちもわからなくはない。


でも、私の考えはまったく違う。


何かを学習している場面で、人が「わかった!」という時、いったい何を見出した時に「わかった」と言うのだろうか。


それは「答え」がわかった時だ、と思ったなら、「わかる」とはどういうことかを知らないまま、「わかった!」と言ってしまっている可能性が高い。


これに対して、姪の場合、どのジャンルの学習においても、「わかった」というのは、なんらかの「規則性(ルール)」を見つけた時であり、「よし、これでこのゲーム(遊び)のルールがわかったから、この先もこのゲームを楽しめるぞ」と歓喜しながら、次から次へと規則性が異なるゲームの楽しさを発見しつづけているように、私には見えるのだ。


では、なぜ私にはそう見えるのかというと、20世紀に「天才哲学者」と呼ばれたWに関する本を読んできたからだ。


昨年、Wの本を持って近所のカフェに行った時、隣りの席の男性のテーブルの上にもWに関する本が積み上げらていたので、「大学で哲学の勉強をしているの?」と訊ねると、彼は教育学部で教育工学を学んでいて、大学院に進むためにWの哲学を研究中であることを教えてくれた。


彼とはそれ以来、一緒にコーヒーを飲みに行ったり、LINEでやり取りしたりしながら、哲学者Wに関してお互いにどんな本を読んできて、どんなことを知り得たかを語り合える友達になった。


こうして私は、現在の教育の現場でもWの哲学が活かされていることを知り、それと同時に、姪がスーパーウーマンに見えるのは、彼女が通っていた中学、高校の教師もまた、Wが語っていた「わかる」「理解する」とはどういことかを知っていたからに違いないと確信できるようになったのだ。


ちなみに私は、ここまでの文章を25分ほどで書き上げた。


なぜ、短時間のうちに考え込むことなく書き上げられたかというと、これもまたWの哲学に触れ、「書く」とはどういうことかをわかるようになったからだ。


「書く」とは、頭の中にある考えや思いを言葉にして記す(文章化する)ことではない。

ということが、Wの本を読むうちに私にもわかってきて、「書けそうだ」と思った時、その感覚を合図にして、誰もが読める「文章」となって現れ出てくるのだ。


お知らせ

哲学者Wは、「哲学とは、ハエ取り壺(哲学的な病)に陥り、出口を探してジタバタと動き回るか、探すのをあきらめておとなしくなったハエに、そこからの出方を示してやり、自由に飛び回れるようにしてやること。これが哲学の目的だ」と語っていました。


たとえば、景色を撮影するためのカメラ(主体)が、撮影された写真(被写体)の中に写ることはない」という比喩を用いて、「目の前の景色を見ている主体(私)は、見られている景色の中にはいない」という観念論に陥ったなら、「私は(世界の中に)いない」という新しいものの見方を得たかのような錯誤に陥ります。


このような観念論に陥り、「わかちゃった」という文法的錯誤が起きたなら、今度は、自分が「わかっちゃった人」として、周りの人にも「わかっちゃた人」になることを薦める観念論の連鎖的な活動さえ起こり得るようです。


既に本文でも述べましたが、これが、「わかる」とはどういうことかを知らないまま(無知のまま)、「わかった!」と言ってしまっている一例であり、哲学的な病におかされ(観念論にハマりこみ)自由に飛び回れなくなっている状態にある、ということです。


そこで、3月の講話会では、どのような文法的錯誤から、哲学的な病に陥ってしまうのか?

陥った壺から出る方法は、出口を探すことではなく、どのような錯誤から壺の中に入ったかを自ら知ること、つまり入口に戻ること。

「わかる」「理解する」とはどういうことなのか?

などについて語り、壺から出て自由に飛び回れる生き方(良い意味での哲学的生き方)をお伝えします。

矢沢大輔

ノンデュアリティ・プライベートセッション

「スティーブ・ジョブズが人生の最後に悟った真実」と、今年の夏以降、私の周りで起きているシンクロについて書き留め、今年の投稿を締めくくろうと思います。


そのシンクロは、京都のイタリアンバールPで起き始めました。


今年の夏、私はこの店で、ベルギー出身でイタリアと京都に家を持つPさんと出会い、彼女からのお招きで、「祇園祭」と「時代祭」を観覧席から見学できる幸運に恵まれました。


そして、ある朝、「スティーブ・ジョブズが人生の最後に悟った真実」という動画を見た後、イタリアンバールPに行くと、またPさんと出会い、帰り際、彼女からりんごをもらったのでした。


Appleの創業者の動画を見た日に、イタリアンバールPで、再びPさんと出会い、リンゴをもらった。


このシンクロに気づいた私は、スティーブ・ジョブズが語った以下のようなメッセージを添えて、インスタにアップしました。


「金持ちになるために子供を教育するのではなく、幸せになるために子供を教育するんだ」


すると、その翌日、更にこんなことが…


市川團十郎のお子さんが、二人そろって、Pの文字が入ったこんなセーター着て、テレビに出てきたのです。

(PとPの一致)


しかも、この番組では、市川ぼたん(長女)さんが、人気ドラマへの出演が決まってから、毎日、家で「アップルパイ」を焼いていた、というエピソードが紹介されたのでした。

(アップルのさらなる一致+「パイ」のPがさらに重なる一致)



このようなシンクロが立て続けに起きだしたちょうどその頃、私はウィトゲンシュタインの論理哲学論考を読み、PとPの記号が何を表しているかをようやく読解できだした時期とも重なっていました。


そこで、スティーブ・ジョブズが悟った内容についても、哲学的に考察してみようと思い、次のように考えを巡らせ始めました。


スティーブ・ジョブズは、京都の定宿(旅館)で、日本の器の形状に魅せられ、それをきっかけに自分がつくって欲しい皿の形を陶芸家にリクエストして焼いてもらっていた。


そして、このような感性があったからこそ、それがコンピューターのデザインに活かされるようになり、Appleは世界的なブランドになった。


この事実から、彼が「金持ちになるために教育してはならない」と語った理由を考えてみると…


もし、金持ちになるように子どもを教育したなら、彼らが大人になった時、物の価値を、「値段」でしか判断できない人になり、そうなると「記号(=観念)消費」の悪循環にハマり、物の価値を知る感受性が鈍りだす。


そうなれば、生活に必要な物や道具を買う時にも、それをつくったり、売ったりする時にも、人にそれを見せびらかすためのやり取りしかできない中身が薄っぺらな人生になってしまうから、なのではなかろうか。


私がこのように思えたのは、Pさんご夫妻もまた、日本に来るたびに、日常生活の中で実際に使われている家具や襖絵や器の中に「美」を見出していて、ここにスティーブ・ジョブズとの共通点があるように、私には感じられるのです。


そして、Pさんと出会ってから、なぜ彼女が私をお祭りだけでなく、食事にも誘ってくださるのか、とても不思議に思っていたのですが、ある日、Pさんからこんなメッセージが届き、その謎がとけたのでした。


あなたとどこかに行くのはいつもとても楽しいです。

いつもたくさんのことを学べます。


これを読んだ瞬間、私もまったく同じように感じていることを実感しながら、Pさんと初めて祇園祭を見学した時のことを私は思い出していました。


Pさんは、自分の目の前にやってきた山鉾に掛けられたタペストリーの図柄を見るたびに、「うわぁー」と歓喜しながら、目を輝かせていたのです。


そして、私もまたその頃、ギャラリーを訪れて、絵の前に立った時、意識に現れている色の質感をそのまま感受するようにしていました。


そして、この感受性が複数の間で同調し合うことで、目に見える色や言葉となってシンクロが起き、計画や努力によってもたらされる成功とは別次元の「量子的飛躍」とも呼ばれる変容が人生に起きると、私の確信は深まっています。


今年一年もこのブログをお読みいただき、ありがとうございました。


そして、ここまで、この文章をお読みいただいたあなたにも、このブログやメルマガのフォローをきっかけに、来年があなたの飛躍的な転機の年となることを願い、本年最後の挨拶とさせていただきます。


どうぞ、良い年をお迎えください。


【年末年始のプライベートセッションのご予約について】

年末年始は、12月29日から1月3日までお休みします。


また、1月5日(日)のオンライン講座では、無主体論にとらわれると、なぜ、ぐるぐる思考にハマり、その逆に、「独我論」を極め尽くすと、正反対のように思えた「無我」との一致が起こるのかを語る予定です。


「私はいる」のか、それとも「私はいない」のか?

そのような二項対立にハマり、ぐるぐる思考にハマってしまっている方は、ぜひ、ご参加ください。

忘れたいことを、頭の中から消したいのですが、何かいい方法はありませんか?


このような質問が出たのは、今から10数年前。

私がまだ研修講師として「記憶法」を教えていた頃のことでした。


当時の私は、百貨店でスキンケア商品を販売している方々に、なかなか関連付けて覚えられない「商品名ー成分名ー効能」とを構造化して記憶する方法を教えていました。


また、個人向けには、どういう順序で本を読み、どのように要約すれば、本の内容が記憶に残りやすくなり、かつ人にわかりやすく内容を語れるようになるかを教えていました。



記憶法、読書術のいずれにおいても、覚えたい情報を脳内に入れる際(インプットする時)に、どのような情報処理を行うと、記憶に残りやすくなるかを教えていたわけですが、その反対に、「頭の中にある記憶を消し去る方法はありませんか」と聞かれた時には、正直、何も答えられませんでした。


しかし、このような質問を受けたことで、私の中に、新たな興味が湧き上がってきました。


なかなか覚えられないものを、覚えられるようになる有効な方法があるなら、「忘れるため」の有効な方法も、誰かが研究しているのではないか、と。


それ以来、様々な文献を読み漁るうちに、「そもそも忘れたいのに、忘れられないで人を苦しめような記憶とは、ショッキングな出来事が起こった後に、記憶として中枢神経に残る痛みであり、それは身体的に感じる痛みとは、別のものであることがわかるようになりました。


また、それと同時に、忘れたい記憶を忘れようと努力する度に、その経験の記憶が思い返されてしまうため(反復されてしまうため)、返って記憶に留まりやすくなるけれど、同じ「思い出す」にしても、どのような語り方をすると、その記憶の色合いが薄まり、痛みが静まりだすかも、わかるようになってきました。


「覚える」ことと、「忘れる」こと。


記憶に関するこの真逆の現象の成り立ちを調べれば調べるほど、「エピソード記憶」と「意味記憶」のどちらが優位であるかによって、記憶の濃淡が変わることがわかるようになり、「なるほど!」と膝を打つような発見や驚きも増えてきました。


これからも、「記憶と言葉と世界」の結びつきをどう解明すれば、「幸/不幸」「生/滅」の二項対立を超えた(二ではない)自由に至れるかを、下記の講話会やプライベートセッションを通じて皆さんにお伝えしていきます。

    ↓

少し前まで、菅田将暉が出演している

こんなUSJのCMが流れていた。


インタビュアー

「それって、ゾンビの仮装ですか?」


菅田将暉

「いえ、退屈な毎日を死んだように生きるただの現代人です」


この後、菅田将暉、踊りながら、

「マジ今、生きてる」

と絶叫。


このCMをはじめて観た時、私は、こう感じた。


「現代人の多くが抱えている問題を、

ユーモアを交えながら描きつつ、

突かれると痛いところをチクリと刺している点で、

秀逸なCMだな」と…


ここまでは、かつて広告業界で

コピーライターとして働いていた

私の観点から見た感想。


そして、ここからは、

おそらくこのCMのコンセプト(概念)の

元ネタであろうと考えられる

「哲学的ゾンビ」について、紹介したい。


まず、哲学的ゾンビとは、

「心の哲学」の分野で、

オーストラリアの哲学者

デイヴィット・チャーマーズが

思考実験によって明らかにした概念で、

Wikipediaでは、このように定義されている。


物理的反応としては、

普通の人間と全く同じであるが、

我々の意識にのぼってくる感覚意識や

それにともなう経験(クオリア)を

全く持っていない存在。


では、これが私たちに

どう関係しているのかというと、

生きていながら哲学ゾンビの状態に近づくと

一年が過ぎ去るのが年々速くなり、

気づいたら

「今年ももう10月か〜」という

感じになる。


まるで時間が早送りされたような

この時間感覚はどのようにして

生み出されるのだろう?


私たち人間は、心の安定をもたらす

一定の生活パターンを望みながら、

それでいて、パターン(安定)からの逸脱を

望んでいる。


なぜなら、日々、

同じような道を往復し、

知っている人とばかりおしゃべりし、

いつも通りの日常が繰り返されると

人生から「新鮮さ」が失われ、

意識が薄ぼんやりしてくるからだ。


自分の人生に何が欠けているのか、

よくわからないのだけど、

なんとなく退屈。


だから、退屈の気晴らしになる

何かが欲しい。


そう感じていると、企業はCMを通して、

こうささやいてくる。


「ここに来れば(これを手に入れれば)、

こんなに楽しくなるよ」


そして、なんとなく退屈な私は、

それを買う。


しかし、しばらくするとまた、

なんとなく退屈な毎日に逆戻りしてしまう。


この

なんとなく退屈→消費による気晴らし→

なんとなく退屈→消費による気晴らし…

の終わりなき循環から

抜け出る方法はあるのだろうか?


私たち人間は、心の安定を求めながら、

その一方で未知の体験を欲している。


ならば、企業から

「今、楽しいのは、これですよ」と

提案されるがままに

モノやサービスを消費するのではなく、

日々の生活にうるおいをもたらしてくれる

「楽しさ」「おいしさ」を

自ら味わえる人になればいい。


たとえば、私の場合、

近所のギャラリーに行って、

日本画を眺めていると、

鑑賞している「私」と鑑賞されている「絵」との

区別がなくなり、

ただただ絵に見惚れている状態になる。


これを禅では、主体と客体が

分かれていないという意味で、

「主客未分」という。


主体と客体が分離した主客二元論の世界においては、

「見る私がここにいるから、向こうに絵が見える」

という因果律が成り立っているが、

主客未分の世界には、時間がなく、

それゆえ因果律もなく、

心理学者のユングがいうところの

共時性(シンクロニシティ)のみとなる。


ユングはこのことを「集合的無意識」と

表現しているが、

この「無意識」という言葉から、多くの人は、

「意識が表層で、無意識が深層にある」

という二段構えの二元論にとらわれてしまい、

主客未分の世界を体験できないままとなる。


普通、「意識」というと、

頭蓋骨の中の脳に現れているもの、

と解釈されているが、

この構図にハマると、「意識」の外、

つまり頭蓋骨の外側に「世界」が存在している、

という「意識/世界」「心/物」という

二元論に閉じ込められたままとなる。


意識と世界は別々に存在し得ない。


このことを体験を通して実感できたなら、

意識に、経験としてのクオリア(質感)が

直接生じていることがわかり、

哲学的ゾンビは、消滅する。


お知らせ

主客未分の意識状態(ユングの集合的無意識)が

脳の内部におさまっていないことがわかると、

「楽しいことをやるから、楽しくなる」という

因果律の世界では経験できない、

無時間の共時性(シンクロニシティ)による

出来事に日々、驚きながら

生きられるようになります。


ご興味のある方は、矢沢大輔の

ノンデュアリティ ・プライベートセッション

もしくは、

11月24日開催の下記の講座にご参加ください。
   ↓

9月20日、ホームラン3連発で、大谷翔平選手は、これまでメジャーリーガーの誰もなし得なかった51本塁打51盗塁の大記録を達成した。



大谷選手は、なぜ今年、このような快挙を成し得たのか?


それを考えてみることは、

人生における最大の喜び=「至福」とは何なのか?

「自由」とは何なのか?

を探るための、またとない機会となるだろう。


そこで、今日は、大谷選手の快挙から見出せることを探索していきたいと思う。


まず、昨年の9月に大谷選手は右肘の手術を受けたので、今シーズンはピッチャーとバッターの二刀流が不可能となり、それは大谷選手からすれば、ピッチャーとしてのパフォーマンスを発揮できないというより制約された条件のもとでプレイしなくてはならない年になったと言えるだろう。


また、今シーズンの開幕のタイミングに合わせるかのように、24億円もの大金を銀行詐欺によって騙し取られていたことが発覚し、普通に考えれば、精神面においても相当なダメージを受けて、シーズンの開幕を迎えた年でもあったと言えるだろう。


身体と精神の両面において、これまで経験したこともない厳しい状況におかれながらも、大谷選手は、そのような苦難があったことをまったく忘れさせるかのように、今年も、多くの野球ファンを魅了し、あっけなく50-50の大記録を打ち立ててしまったのだ。


多くの人は、大谷選手のその活躍ぶりを見て、

「マンガみたいだ」

「いやいや、マンガにもならないほど話がうまく展開してすぎている」と感じている。


それほど、大谷選手の活躍は、私たち人間の想像をはるかに超えてしまっているのだ。


しかし、ここで、現実に起きた事実について、もう一度、振り返り、確認しておこう。


なぜ、大谷選手は今年50ー50を達成できたのか?


それは、昨年まで、ピッチャーとし使っていたエネルギーを、今年は、走塁に使えるようになったからだ。


右肘の手術により、「打つ」「投げる」の二刀流が不可能となり、それに代わって、「打つ」「走る」の二刀流にに専念できる機会が訪れたことで、大谷選手は、昨年までとは異なる分野において、新たな二刀流の記録を打ち立てるられるようになったわけだ。


そして、大金を騙し取られたことについても、「取られたお金が返って来るのだろうか?」「返って来なかったらどうしよう」というぐるぐる思考に巻き込まれることなく、大谷選手は、今年も野球のプレイに集中できていた。


では、なぜ、こんなことが可能となったのか?


それは、自らの活動能力を十分に発揮しているとき、人は「至福」にいたれることを、何より大谷選手自身が知っているからだろう、と私には思える。


また、自由とは、一般的には「なんの制約もなくなる状態のことだ」と考えられているが、限られた制約の中において、自己の活動能力を能動的に表現していく行為こそが「自由」であり、「善」であることを、大谷選手は知っていた。


だからこそ、制約の中においても、存分に自らの活動能力を発揮しきれたのではないか、と私には思える。


大谷選手は、高校時代に、原因と結果とが一対一で連結している線形思考ではなく、現実の世界のあり方が多元的な原因によってもたらされていることを一望できる曼荼羅の構図にふれ、それ以来、曼荼羅の世界観を見据えながら、他者を含めた自己の人生を豊かなものにしてきたのではなかろうか。


だからこそ、一般的には、逆境と思えるような状況(制約のもと)に置かれようとも、自らの活動能力を能動的に表現できることに、最高の喜び(至福)を感じ、自由を体現しているように、私には見える。


お知らせ

10月20日(日)から、『生きている「おいしさ」を味わう生き方』と題して、オンライン(zoom)の講話会を始めます。


今日のブログでも触れましたが、私たち人間は、自己の活動能力の増大を実感できているとき、生きている喜び(至福)と「自由」を感じることができます。


そして、重要なことは、何に触れていると、自分の活動能力が増大し、その逆に何に触れていると、活動能力が低下してしまうか、それは一人一人与えられた力の性質によって異なります。


生きている「おいしさ」を味わいながら生きるには、それを自分自身で知ることが、何よりも大切なことだと、私は今、思っていて、10月から、毎月一回のベースで、あなたに備わっている力の性質があなた自身で理解できるようになるよう、話をしていきたいと考えています。


自分の力の性質を理解し、等身大の自分で生きている「おいしさ」を味わう生き方をしてみたいと思われた方は、一度、この講話会にご参加ください。