梅雨に入ってからも、雨が降らない時間帯があれば、私は自転車を走らせ、御所近くのバールにアイスコーヒーを飲みに行く。
この発言を聞いて、私はこんなことを思った。
なぜ、Aさんは、これからやろうとしていることについて、わざわざ言葉にして表明しているのだろう?
おそらく、その理由は、やろうと思ったけれど、実際にはやらずじまいで終ったことがあり、その意志と行為とのギャップをどうにかなくそうと思い、まずは、自分の意志を固めるために、このように宣言するようになったのではなかろうか。
そこで、今日は、意志と行為の関係について、二元論と非二元の違いを述べてみたいと思う。
Aさんの場合、「意志」と「行為」の関係が、行為に先立って、まず意志が起こり(一)、その意思にうながされて行為が起こる(二)、という二段構になっている。
心的な「意志」と身体的な「行為」は別物。
このように考える二元論では、両者の間に時間差が生じ、そのため二段構えとなる。
これに対して、非二元では、行為から独立した「意志」などなく、意志と行為が一体となった「行為」がただあるだけ、の一段構えになる。
私の一日を振り返ってみると、コーヒーを飲んだり、本を読んだり、会話したり、音楽を聞いたり、食事をしたり、自転車に乗ったり、散歩したり、洗濯したり、風呂に入ったり、歯を磨いたり…と様々な行為が起きている。
このどの行為においても、その直前に「これから〇〇をしよう」と身体に向かって命じるような司令官的な存在はどこにも見当たらない。
行為があるなら、その行為には意志が含まれいる。
意志と行為は、分離不可能。
意志的である行為のみが、その都度、自由に立ち現れてくる。
ところが、二段構えの二元論に陥ると、行為から独立してある「意志」、意志から独立してある「行為」が別々にあるかのように実感されてしまう。
そして、この事実誤認から、意志と行為を意識的につなごうとする作為的な努力が生じることになる。
お知らせ
8月4日(日)オンライン開催の「ブッダが悟った縁起の理法」では、「意志」と「行為」の不可分さだけでなく、私たちが見ている世界は、意識のスクリーンに映し出された「像」に過ぎない、という「実物」と「像」を切り分け、私たちを二元論に誘いこむ「映画館モデル」の巧妙な罠の構造をも解き明かし、解毒していきます。
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