たとえば、今、目の前に「水車が回っている」風景が見えている、とします。
この場合、「水車」がモノで、「回っている」がコト(状態)になります。
モノとコトとは、それぞれ別々のものである、と思っている人は、二元論にハマっていますが、なかなかこの事実にきづけません。
たとえば、私がまだコピーライターの仕事をしていた頃、「モノ消費からコト消費へ」ということが語られ出しましたが、これも「モノとコトとが別々のものである」という二元論にとらわれたままの一例と言えるでしょう。
そもそもモノ(物)とコト(事象や状態)とが、別々に切り離されてあることなど、あり得るでしょうか?
水車が静止している。
水車が勢いよく回っている。
水車がゆっくり回っている。
このどれもが、モノ(水車)あってのコト(状態)であり、コトあってのモノです。
回りも、止まりもしない「水車」があるわけでもなく、水車のない「回転」も「静止」もありません。
これが、私たちが生きているこの世界の物事(ものごと)のあり方です。
「コト(状態)だけがある」と思っている人は、モノとコトとが別々にある、という二元論にハマっています。
「おいしい」というコト(経験や状態)が、食べ物なくあり得ないように、モノとコトとは切り離されてはいません。
「歯が痛む」なら、歯(モノ)と痛む(コト)は、別々にあるのではなく、一つです。
「歯が痛む」から、「歯医者に行く」という行動が起こり、そして、歯科医師から「どこが痛みますか?」と聞かれたなら、私たちは「昨日から、上の右奥歯がズキズキ痛みます」というように、モノとコトとを分裂させることなく、ちゃんと伝えています。
モノとコトとがセットになって発言されることで、歯科医師に、どの歯が傷んでいるかを伝えることができ、治療してもらえる。
これが私たちが実際に生きている現実の世界での、言葉と物事との関係です。
モノだけが消費される買い物など、あり得ないように、コトだけが消費される買い物もない。
「モノ」にスポットライトを当てた見方と、「コト」にスポットライトを当てた見方の違いはあれど、「モノ消費」があるわけでも、「コト消費」があるわけでもない。
では何があるのか?
水車が回っているなら、水車を回しているのは、川の流れ(自然)です。
川の流れなくして、水車は回りません。
しかし、水車が、川の流れに浸り切ったら、水車は回りません。
水車が、川の流れから離れても、水車は回りません。
ちょうど良い塩梅(浸かり過ぎず、離れ過ぎず)に、川の流れ(自然)とともにあるとき、水車は苦もなく回り続けます。
この良い塩梅(あんばい)のことを、仏教では「中道」といいます。
そして、これは、長く回り続ける商い(仕事)の極意にも通じています。
追記
モノがどのような状態にあるのかを、相手に伝えるために、私たちは普段、言葉を使っています。
モノを主語におき、そのモノの状態(コト)を述語にして、ものごとの様子や状況などを伝え合っている。
これが人間ならではの「言葉」の役目です。
主語と述語あっての、「ものごと」です。
主語と述語をバラバラに切り離したら、言葉の意味は成り立たなくなり、死んだ言葉になります。
述語のない主語だけを切り出し、たとえば「わたし」とは何だろうと問うなら、それは文字通り意味のない(ナンセンス)な問いとなります。
歩いている私。
座っている私。
寝ている私。
食事をしている私。
歩いてもいなければ、座っても、寝てもいない、ないないづくしの「わたし」など、どこにも存在していないからです。
モノとコトとが、切り離されて別々に存在していないように、「わたし」と「行為」とが、別々にあることなどあり得ない。
でも、人は、二元論にハマったとき、「わたし」と「行為」、「主語」と「述語」とをバラバラに切り離し、「〈わたし〉とは何か」を問うてしまう。
「行為」あっての「わたし」であり、「わたし」あっての「行為」。
それが今まさに、生きている〈わたし〉。
このようなことに興味がある方は、矢沢大輔のプライベートセッションもしくは講話会へのご参加をお待ちしております。