幸せって なんだっけ なんだっけ〜
ぽん酢しょうゆのある家(うち)さ〜
明石家さんまさんが歌うこのCMが流行したのは、1986年。
ちょうど私が百貨店の宣伝部でコピーライターの仕事をスタートさせた頃のヒットCMだった。
「幸せってなんだっけ?」と問われたなら、人はあらためて、「幸せってなんだ?」と考えさせられるものだ。
そして、このCMの秀逸なところは、
モノ(商品)を手に入れること=幸せ
誰もが疑うことなく信じきっているこの前提を、あからさまに、あっけらかんと歌いあげて、商品名と企業名の知名度を上け、売れ行きを伸ばすことに成功した点にあったと、当時の私は思っていた。
しかし、これはあくまで、商品を売る側の観点から見た見解であって、生活者の観点から、あらためて幸せとは何か?を考えてみたなら…もうこの時点で、幸せは消え失せてしまう、というのが、今日のブログでお伝えしたい本題です。
Don’t think. feel !
考えるな。感じろ!
これは、ブルース・リーが映画「燃えよドラゴン」の中で語った有名なセリフ。
この続きは、どうなっているかというと、
It’s like a finger pointing away to the moon.
Don’t concentrate on the finger,or you will miss all the heavenly glory.
この部分を私なりに訳してみます。
考えることは、「月」をさし示す人差し指のようなものだ。
指=「月」という言葉に、とらわれるな。
言葉にとらわれたら、天(月)の輝きのすべてを見失うだろう。
ブルース・リーが語ったこの言葉は、アクション映画としての文脈においては、武術の極意について語っているように聞こえるが、実はこの作品で、彼は彼自身の生き方=哲学(仏教の世界観)を師や弟子とのやり取り(セリフ)を通して伝えようと試みていたことは、それほど知られていない。
幸せは、自らの外側にあるものを手に入れることではなく、感じるものだと。
月をさし示す指(考え、言葉)にとらわれるな。
月そのものに、輝きがあるのだから。
ここで語られている月とは、夜空に浮かぶ月のことではない。
あちらにあるものを手に入れようと、精神が身体を離れて、あちらにさまよいでたなら、それは、本来の自己の輝きを見失う道。
精神のあるべき場所は、この身体。
精神と身体は、自己(真髄)の二つの側面。
自らを非難し、嫌悪するなら、精神はあるべき身体を離れ出て、憧れを感じる誰かや何かに近づき、一体化して完全になろうとするが、しょせん、それは偽りの自己による偽りの幸せ。
何を手に入れたところで、幸せは感じられない。
Enter the Dragon
※「燃えよドラゴン」の原題。
幸せとは何かを考え出した途端、幸せは消えうせる。
Don’t think. feel !
幸せを感じている時、人は「幸せ」という言葉(考え)さえ意識できない。
追伸
心の中に、裁判官のような観察者がいて、自分の行いや考えの良し悪しを判定し、理想の自分に近づこうとしているなら、その観察者は、幼少期に知らず知らずのうちに自分のものとして受け入れた外部(主に親)からの目線であり、それは本来の自己ではありません。
しかし、私たちは多くは、この事実に気づかず、無意識のうちに自分のなかに取り入れた外部(親)の目線から、自分の思いや感情を俯瞰して眺め、「こうすれば良い子、こういうのは悪い子」という枠組みにはめこみ、自分の心を自ら縛りつけています。
もし、あなたが、生きづらさを感じてきたなら、その根本原因は、この自縛からきています。
その時々に湧きあがる自然な思いや感情を、裁判官のように厳しく裁き、内面を制御しようとするこの自己否定(自己嫌悪)が続く限り、心の安らぎは感じられず、何かが欠けているような感覚が続き、その空洞を埋めようと、自分の外側から様々なモノや知識を手に入れ、内面を満たそうとしますが、何を手に入れても、空虚さは消えません。
なぜなら、本来の自己のあり方を封じ込めるようにフタをかぶせ、そのフタの上で、親や世間から自分がどう見えているかばかりを気にして(偽りの自己の目線に立って)、より良い人生をつくり出そうと、もがき続けてきたからです。
では、何に意識を向けると、本来の自己のあり様を抑圧していたフタがはずれ、自己の独自性、独創性をしなやかに発揮しながら、生きられるようになるのでしょう?
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