「私はいない」と「自己をわするる」の差異 | 非二元|目覚めを生きる

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ノンデュアリティ(非二元)のプライベートセッションをやっていると、「私はいないって、どういうことか腑に落ちず、悩んでます」と時々、相談されます。



「非二元ってどういうこと?」と聞かれたなら、「身体の働きなしには、あらゆるものごとが起こり得ないこと(「身体と世界」が別々に存在していないこと)を実感いただけるよう、セッションを進められますが、「私はいない」の意味を訊ねられると、私にもその真意がわからず、答えに窮してしまいます。


それで、「私はいないの意味を知りたいなら、それを語っている本人に聞いてください」とお答えするしかないのですが、もしかすると、仏道とは何かを語った道元禅師の「自己をわするる」の言葉の意味を誤って解釈してしまった可能性が考えられます。


もし、そうなら、まったく真逆の意味になってしまうので、今日は、その誤解を解くために役立つ文章を、大谷大学のウェブページから引用して紹介させていただきます。


道元は「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と述べています。ここでいう「自己をわするる」とは、決して自分を喪失することではありません。

欲望や自己中心的思考に振り回されている自分に目覚め、そのような自分から解放されることをいうのです。それは真の自己の回復を意味します。そして、そのような真の自己が回復されたとき、迷ってきたこの自分は、実は光輝く世界のなかに生きていたことに気付くのです。

(全文は、こちら→大谷大学 教員エッセイ


この文章からもわかるように、「自己をわするる」とは、自分を喪失することではなく、欲望や自己中心的思考に振り回されている自分(=偽りの自己)から解放され、真の自己の回復を意味しています。


仏教には「無我」という言葉もありますが、無我の「我」もまた、欲望や自己中心的思考にとらわれている状態(「我執」「我見」といいます)を指していて、無我とは、このとらわれが無くなること、つまり、道元禅師が語った「自己をわするる」と同義である、といえます。


これで、「私はいない」という思考にとらわれたなら、それもまた「我執」「我見」となり、それに振り回され、真の自己を見失ったままとなることを理解いただけたのではないでしょうか。


では、特定の宗教に属することなく、真実の自己に目覚め、日々、生きる力を発揮しながらイキイキと暮らしていくには、どのように物事を見れるようになればいいのか、これについて理解を深めたい方は、下記のプライベートセッションか、講座にご参加ください。

創造的コミュニケーション(幸せを育む「対話の技法」)