静寂な精神に訪れる聖なるもの | 非二元|目覚めを生きる

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今宵、Silent(静寂)な精神に、Holyな(聖なる)何かが入ってきます。


心の中の絶えざるおしゃべりで、心の中が占拠され、騒がしいままなら、そこに聖なる何かが入りこめる余地はありません。


心の中のおしゃべりが完全に止んだ、静寂な精神にのみ、それは訪れます。


心の中のおしゃべりは、思考の活動ですが、それが静まらないのは、「思考者」と「思考」とが分裂していて、思考を見張っている「思考者」が、その都度、現れ出てくる「思考」をコントロールしようと格闘しているからです。


「思考者」は脳内の思考の活動によって作り出された中心的なもので、それはコンパスで円を描く時の中心のようなものです。


思考の活動により中心が設定されたら、同時に円周が決まり、思考の活動は、中心の杭に繋ぎ止められた犬のように、円周内しか動けなくなります。


思考は自ら中心(思考者)をつくり出し、その中心によって自らの活動が縛られてしまう。


この束縛、ジレンマから、何とか自由になろうと、思考者(中心)は、周辺に現れる思考をより良いものに変え、自己拡大を図ろうと試みます。


これが、思考者と思考の絶え間ない格闘、内面のおしゃべりが繰り返される原因です。


さらに、自己中心的な思考の活動は、「偏見」「決めつけ」「固定観念」を生み、この偏狭さから出てくるリアクション(判断、決意、行動)は、適切さを欠いているため、外面(政治、経済、宗教などの分野)にも混乱と騒動をもたらします。


これが現に起きている事実です。


私たちの人生は、人と人との関係によって成り立ち、健全な関係性なくして、私たちは安全に生存しえません。


そして、人との出会いにおいて、私たちが日々、使っているのが、自己中心的な思考の活動で、言葉の上では「平和」「愛」を願いつつ、実際には「紛争」「分裂」を生みだす不適切な反応(批難、無関心、ごまかしなど)が繰り返されています。


私たちの内面(心理面)に、「理想(平和)」と「事実(批難)」の対極があるなら、そこにあるのは両者の葛藤だけで、この両者の矛盾に気がついている「気づき」はありません。


そして、内面の騒がしさを整えようとして、私たちは瞑想などを試みてきましたが、そこにも内面の葛藤を強めてしまう矛盾が生じ得ます。


内面の騒々しさを無理やり抑えつけようとしたり、特定のイメージや姿勢の保持に精神を集中しようとしたり、瞑想を通じてどこか(悟り、涅槃、モクシャなど)に至ろうとしているなら、そこには瞑想対象(思考や姿勢など)を制御しようとしている「瞑想者」の活動があります。


「瞑想者」と「瞑想対象」の分裂(二元性)があるなら、両者の葛藤の摩擦により、真実を見出すエネルギーは奪われ、思考が作りだす観念(無我、無欲など)の世界に逃げるしかない、知覚の鋭さ(感受性)を失ったまどろんだ精神になります。


しかし、「瞑想者」と「思考」が別々ではない真実(非二元であること)の洞察(気づき)を得たなら、両者の葛藤は終わり、その知恵に目覚めた精神の中で、思考の活動は強制されることなく自然に静まります。


おしゃべりで満杯になった精神の中を空っぽにして今日一日を終えれば、そこに聖なるものが入りこめるスペースが生まれ、これまでとはまったく異なる生活の始まりが贈り物のようにやってきます。




Silent night! Holy night!


※写真は、いつもお世話になっているスターバックス京都烏丸六角店の皆さんからいただいた寄せ書きと、クリスマスイブの昼に食べたものです。

そして、食後にこの文章を書いている間にも、タイミングよく「サイレントナイト」の曲が流れ出しました。


【年末年始のプライベートセッション】

12月30日(土)から1月3日(水)の間、対面、オンラインとも、お休みします。