私はここにいる | 非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

今日から8月になりました。


私が暮らす京都では、今日の最高気温は39度に達すると予想され、暑さが少し和らぐ夕方までの間、久々にブログを書くことにしました。


先週、京都では、祇園祭(後祭)が行われ、私は幸運にも、観覧席の最前列から山鉾巡行を観ることができました。


私をこの先に招待してくださったのは、ベルギー人の女性Pさんで、一緒に山鉾巡行を見るはずだったご主人が、急遽、お仕事の都合でイタリアに帰国されたため、私にそのチケットが巡ってきました。


Pさんは私より一歳年上の62歳で、イタリアと京都の2箇所に持ち家を所有されていて、季節が変わる3ヶ月ごとに居住地をかえ、自分の価値観に沿った生活を楽しまれています。


Pさんは、京都ては毎朝5時に起床。

時には20キロ離れた伏見まで自転車で遠出することもあるそうで、私がまだ行ったことのないお寺や避暑地の神社のことにも詳しく、「この時期、ここに行けば、こんな景色が見えるよ」とiPhoneの写真を見せながら教えてくださいます。


また、Pさんは、ベルギー人なので、母国語はフランス語ですが、イタリアにいる時はイタリア語を会話し、日本では日本語で会話できるようになろうと、日本語学校にも通っておられます。


60代になっても、アクティブに両国を行き来し、それぞれの文化や言語を学んでいるPさんに出会ってから、私自身も大いに触発され、言語の働きに関する論文や解説書を毎日欠かさず読むようになりました。


もし、言語の働きを学んでいなければ、数年前から言われだした「老後の資金が足りない」という仮説の根拠が自分にも当てはまるのかを検証しないまま、横ならび意識で投資をはじめ、今頃、株価の乱高下に右往左往していただろうと思うと、見せかけの根拠に惑わされない論理の力を鍛えておいて、本当に良かったと感じています。


また、同時に思うのは、人の価値観というものは、内面的に隠されてはおらず、その人の暮らしぶりに全て現れ出ているなと、強く感じています。


たとえば、Pさんの場合は、アートや建築に関心があるので、山鉾巡行のタペストリーの紋様を間近に見るために、なんの迷いもなく最前列のチケットを購入しています。


また、安藤忠雄の建築物にも興味があるので、イタリアのご自宅はコンクリートの打ちっぱなしだし、日本では、安藤忠雄が設計した香川県直島の美術館にも足を運ばれています。


一方、私の価値観は、どうなっているかというと、私は、今、このブログを書いていますが、その動きを止め、顔を上げると、目の前に東山連峰の眺望が広がっています。


お盆の8月16日には、我が家のベランダから五山の送り火(大文字焼き)を眺めることができ、私の価値観も日々の暮らしぶりにそのまま現れ出ている、といえます。


同じ一つの山鉾巡行を見るにしても、同じ一つの東山を見るにしても、それをどの視点から眺めるかによって目の前に広がる眺望はまったく変わります。


また、同じものを同じ視点から見ていても、その人が何に興味を持っているかによって、見えるものの価値(意味)も変わります。


そして、私たち人間は、他の動物とは異なり、言葉を持っていて、「あなたもここに来れば、こんな素敵な景色が見えるよ」「あなたもここに来れば、こんなに涼しく過ごせるよ」「あなたもここに来れば、こんな味覚に出会えるよ」…このようなことを自分以外の誰かに伝えたくて、一緒に同じものを見て、触れて、感動したくて、私たちは日々、言葉を使って人々と共に生きています。


そして、私たちには、その場所へと自由に動ける身体が備わっています。


私は今、地球上の京都という場所にいて、ここから、時折、東山を眺め、冷たい蒟蒻ゼリーを頬張りながら、まもなくこのブログを書き終えようとしています。


まだまだ暑い日が続きますが、お身体ご自愛の上、素敵な夏をお過ごしください。


追伸

今日は、「私はここにいる」というテーマでブログを書きました。

これに対して、「非二元=私はいない」と解釈している人もいるようです。


なぜ、このような正反対の見解が生まれるかというと、観念論に陥ると、「私は(ここに)いない」という結論に至ることになるからです。


観念論というのは、日常の中で私たちに見えているもの(対象)を、映画館の中で観ているスクリーン上の映像にたとえ、こんなふうに語ります。


見えている映像の内部には、その映像を観ている私(観客)はおらず、映像の外から私は映画を観て楽しんでいる。


このようなアナロジー(たとえ話し)を鵜呑みにしてしまうと、「私は(見えている世界の中には)いない」という実感が強まり、実際に目の前で起きている出来事や物事のリアリティが希薄化され、「見えているもの(対象)は、見ている私(主体)とは別次元にあるもので、私とは関係なく、ただひとりでに展開している映画のようなものだ」という傍観者的な見方で世の中を眺めるようになってしまいます。


しかし、私たちが生きているこの世界のあり様は、映画館のたとえで説明されるような形式にはなっていません。


自分の目の前から、こちらに向かって猛スピードで車が近寄ってきているなら、私の身体は、車との衝突を避けようとして咄嗟に飛びのくことでしょう。

そうでなければ、死に至ることがわかっているからです。


一方、映画館の中で、同じように車がこちらに向かってきても、観客である私は、車を避けようとはしません。身体が反射的にビクッと反応することはあるでしょうが、椅子から立ち上がって逃げるような観客はいません。

なぜなら、見えている車は、現実の車ではなく、スクリーン上に映し出されている車の映像だと、誰もが了解して観ている(楽しんでいる)からです。


映画館の中での映画(バーチャルリアリティ)の楽しみ方は、誰もが経験済みですが、現実の世界(リアリティ)においては、どうなっているでしょう。


楽しめるのは、バーチャルリアリティの世界だけであって、リアルな現実は、同じ職場においても、生き残りをかけた足の引っ張りあいや、パワハラ、モラハラが横行する生きづらい世界。


こんな現実のあり方を目の当たりにすると、誰もがバーチャルリアルな「観念論」に逃げ込みたくなる気持ちもわからなくはありません。


しかし、私たちが現実に生きているのは、バーチャルではなく、リアルな世界。


目の前に見えているのは、意識のスクリーンに投影された映像ではなく、実物そのもの。


だから、見えるだけでなく、そこに手を伸ばせば感触があり、それが食べ物であるなら、舌の上に運べば、味がして、身体には栄養を与え、空腹を満たしてもくれます。


この現実の世界を楽しむ秘訣は、「縁起」と呼ばれる意味のネットワークによってこの世界が成り立っていることを知り、縁起(の理法)に則った言葉を使って、人と関わり合い、この世界の素晴らしさを一緒に共有し合う経験を積み重ねることだ、と私は感じています。


このような生き方に興味がある方は、矢沢大輔のプライベートセッション、または講話会に参加してみてください。

対面であれ、zoomを介してであれ、お会いしてお話しできるのを楽しみにおります。