「自己」の捉え方で意味が変わる標語 | 非二元|目覚めを生きる

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宇宙的自己に目覚める記事を配信。
「迷悟」「苦楽」「生死」の相対を超えた「身体・宇宙」一如の絶対的あり様とは?
迷い、悩み、苦しみのない、日々、生き活きとした生活の実践。

今朝、裏寺町通り(お寺が軒を連ねた通り)を自転車で走っていたら、このようなお寺の標語に目が止まった。


標語の文字の見え方は、どなたが見てもほぼ同じ。

ところが、これを読んだご本人が「自己」の意味をどう解釈したかで、まったく異なる意味合いの標語になることに面白さを感じ、まずはそのまま思考を用いて言語的に解釈可能な意味合いを3つか4つほど確認(これに用した時間は2分ぐらい)。
続いて、標語の文字を見ようとも、読もうともせず、門から遠のく方向にゆっくり歩を進めながら、自他が別になっていない法(一如)としてのあり様そのものに。


そして、境内に入ると、本堂の扉の前の廊下と階段を念入りに雑巾掛けされているご老人の姿が目に止まった。
お掃除の邪魔にならないよう、そーっと本堂の前まで進み、おそらく扉の向こうにいらっしゃるであろう仏様に合掌。

すると、お掃除中のご老人の手が止まり、横の方に移動されようとしたので、「お仕事のお邪魔をして申し訳ありません。どうぞ、そのままお続けください」と言うやいなや、「いやいや、これは仕事と言うほどのものではなくて、猫がね、よくやってくるものですから…」とお応えくださった

こちらがお寺ではなく、庭付きの家なら、猫を追っ払うか、入って来れない仕掛けを置く方が人間の手間が省けで済む、と普通、考えるだろう。

ところがこちらでは、猫が行き来するなら行き来するまま、人が参られ帰られるなら参られ帰られるまま、雑巾と手が床の上を行き来するなら行き来するまま、という宇宙の働き(法のあり様)があるだけ。

そして、ご老人から、この辺の方?とお訊ねくださったので、「7月からこの近くに越してきまして、計らずも自分の口からお寺や仏像の名前が出ましたら、実際、そちらに参じますと、その道中で摩訶不思議なことが起こりますので、今日はこちらの前を通りかかった時、門の横の標語に目が止まりまして、それで…」と告げました。

「あー、あれ、書いたの私です」とおっしゃり、「おー、こちらのご住職でしたか」と驚くと、「今は息子が住職を継いでくれてまして、私はこうして掃除しておるんですが、なんせ88のものですから、力も弱ってきて、床がピカピカにならんのが歯がゆうて歯がゆうて…」

「いやいや、住職は毎日お掃除されてますが、たいていの人間は、今日から毎日掃除するぞと決めても、だいたい一日で終わってしまうもんですから」

「それだけ、人間の心は弱いもんやから。人間の内と外は同じもんやから…」

標語にこめられた先代のご住職の思いは、書き言葉、話し言葉となって外に現れるだけでなく、身をかがめながら床を手拭きされている様子となって、同時に、水拭きされてピカピカに輝く床や階段の様子となって見事なまでに外に現れていた。

そして、「お仕事というほどのものではなく」とさらりとおっしゃられたこの行いを、どれほどの年月、お続けになってこられたのか?
その積み重ねの軌跡までもが、すっかり丸くなられたお背中の様子となって現れていた。

「内も外も同じやから…」
合掌。

追記
こちらの宝蔵寺さんは、観光目的の方のためのお寺ではありませんので、ご注意ください。


お知らせ
最近、摩訶不思議なことがあまりに立て続けに起こるもので、写真入りで投稿しやすいインスタ(Facebookと連携)にばかり投稿しているのが現状です。

インスタで矢沢大輔を検索いただき、写真が一覧表示されたら、無花果のサンドイッチの写真から私がピースサインしている写真の方へと時系列順に辿っていただくと、自他が別になっていない宇宙のあり様(非二元ゆえの即時性)の摩訶不思議さをより楽しくお読みいただけると思います。
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