非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」 -4ページ目

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

私はほぼ毎日、カフェや喫茶店で、本を読んで過ごしています。


このような読書ライフはもう何十年も続いていて、読書法の講師をしていたときにも、受講生の皆さんに、リアル書店でのハズさない本の選び方から、本の要点のつかみ方(読解力と記憶力の関係)、読書に最適な環境の選び方などをお伝えしていました。

私は自分の職業を「読書家」だと思っているのですが、思い返せば、高校生の頃に、学校に通うのが嫌で嫌で中退し、住み込みで新聞配達をしながら、独学で高校卒業の資格をとった時から、「読書家」としての生活が始まったような気がしています。

学校の先生は選べないけど、自分が学びたい分野の著者(先生)の本であれば、自分で選べる。
それも、時代や国境を超えて、はるか数千年前に生きていた先生とも出会え、教えてもらえる。
ここにこそ、読書の最大な魅力があるのではないかと私は感じています。

そして、去年の夏、30年暮らした東京を離れ、京都で暮らしだしてから気がついたのですが、インド哲学や仏教書を専門に扱う本屋さんが家の近くに2軒あり、何冊かの本を読むうちに、ルパート・スパイラが書いていたメアリーとジェーンのたとえよりも、さらに詳細に「自己と自我意識と世界」の関係性を区分できるようになり、私はもしかしたら、インド哲学の本を徹底的に読みこむために京都にやってきたのかも…と思いはじめるようになりました。

幸い、京都には喫茶店やカフェがたくさんあり、本を読むための環境もばっちり整っています。

そして、心強いことに、ヴェーダにも仏教にも詳しくサンスクリット語も読める親戚が、今、龍谷大学で教授をしているので、わからないことがあれば、聞きに行くこともできます。

また、昨日は、東本願寺の近くの本屋さんまで自転車を走らせ、インド哲学の本を一冊買い求めてから、その帰りにカエル・カフェというお店を発見し、カウンター席で本を読みました。

自分の本性に「帰る」ための本を買った「帰り」に、「カエル」の人形が飾られたカフェ見つけて、そこで本を読んだ。


ちなみに私はこの夏、カエルのプリントが入ったTシャツを買い求め、なんとなくこの歳になって、「ど根性ガエル」になろうとしているのではないかと感じはじめています。

今朝、九州の女性と、Zoomで非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやった。




彼女は、悩み苦しんでいる「私」がいて、その私がいなくなれば、悩み苦しみも消えるものだと思いこんでいた。


そこで、その方向にいったら、彼女が望んでいる「苦しみからの解放」がおこらなくなる理由を先に告げてから、他人でもなければ、私でもない、働きがあることを自覚してもらい、その働きのままで日々を過ごせば、「私がこれをやっている」という誤解が薄れ、どんどん安らげるようになることを伝えた。


そして、セッションの終わりがけに、「劣等感」についての質問がでた。


これについても、私が「劣等感」を感じるにも、「優越感」を感じるにも、私と他人とが別々にあることを認め、比較によって「優/劣」を計っている「自我意識」にもとづく感情であることに違いはないこと。


だから、たとえ、優越感を感じられる瞬間がきても、他人を見下したり、マウントをとるような言葉が出たりするので、自他が分離しているように思える世界観はそのまま維持され、安らぎを感じられるようにならないことを伝えた。


そして、セッションを終わってから、ヤクルト・スワローズの村上宗隆選手が、スイングした直後に驚きの表情を見せたシーンを思い出し、これも伝えておけばよかったなと思ったので記しておきます。


村上選手は、今シーズンの最終打席で56号のホームランを打った時にも「自分でも驚いた」と発言していましたが、それよりもかなり前の試合で(何号のホームランだったかは忘れてしまったのだが)、スイングした直後に、「今のはなんだったんだ!」と驚いたような体の動きと表情を浮かべながら、スタンドに飛んでいく打球を眺めていた時があった。


そして、試合後のインタビューで、「あの表情は、なんだったんですか?」と聞かれた村上選手は、「自分でもびっくりしたから…」と答えていた。


一流のスポーツ選手は、他人でもなければ、私でもないこの働きに、しばしば驚愕させられている。


それゆえ、たとえ「村神様」と崇められようが、村上選手は天狗になることもなく、優越感に酔いしれ浮かれることもなく、今シーズン、歴史に残る数々の記録を打ち立て、私たち野球ファンを大いに驚かせてくれました。

そして、ちょうど今日で、今年の野球も見納めとなりました。


今日は、朝のzoomでのセッションで、カープとホークスの話をして、夜はテレビで26年ぶりのバファローズの胴上げを見て、今日の締めくくりはこうして村上選手のことをブログに書き、どういうわけか、野球尽くめの一日となりました。


お知らせ

ただいま、11月20日(日)にzoomで開催する講話会のお申し込みを受付中です。

先日、SNSを見ていたら、「許せない相手をどうすれば許せるようになるか?」という主旨の投稿を見かけました。

「許せい相手」と、その許せない相手を「許そうとしている私」。

つまり、「相手」と「私」が二つに分かれて別々に存在している。
という二元対立の考えを保ったまま、なんとか解決策を図ろとする内容の投稿でした。

許せない相手を許せるようになれば、もっとラクに軽やかに生きられるようになる。

おそらく、このような意図があっての投稿なのでしょうが、そもそも「許せない」と思える心(感情)も、「許そう」としている心(思い)も、同じ意識(自身の心)の中で起きていること。

この相反する矛盾に気づけないまま、どれだけ解決を試みようとしても、「許せない→許そう→許せない→許そう…」の葛藤が堂々巡りするだけの循環にハマったままとなります。

ところが、自他一如の心(本来の自己)のあり様に目覚めれば、「許せない相手」も「許そうとしている私」も、元より実在しておらず、二元相対の心がつくり出した夢(幻影)を見て、長年うなされていただけだったと気づけるようになります。

ちなみに、夜、眠っている間に見る夢は、朝、目覚めれば、自動的に消えます。
しかし、私たちが現実だと思い込んでいる朝、目覚めてから、夜、眠るまでの間に見ている夢(人が現実だと思い込んでいる二元葛藤の世界)は、自他を分けて物事を認識する心のフィルターを通して意識に投影された幻影(マーヤー)であり、この幻影(夢)から目覚めるには、自他のない本来の心のあり様を説く非二元の教え(大乗仏教や不二一元論)に触れ、解脱に直結する方向性に沿って坐禅や瞑想を実践しない限り、自動的に消えることは、まずあり得ません。

後悔や心配事、漠然とした不安など、心の問題で、長年モヤモヤした状態が続き、苦しみが続いておられる方は、心のどのような働きが苦しみを生む根源になっているかをお伝えしますので、ぜひ一度、ノンデュアリティ(非二元)のプライベートセッションか、矢沢大輔の講話会にご参加ください。

追記
今日の写真は、お経の声を聞いても、太鼓の音が鳴り響いても、心の動揺も葛藤もなく、ひたすら眠り続ける平等寺(因幡堂)の猫、チョビです。


前回の投稿

に続き、今日も、サン=テグジュペリ「星の王子さま」からの引用。

「たいせつなことは、目では見えない……」
「そうだね……」

「花のことと似てるな。どこかの星に咲いてる一輪の花を愛していたら、夜空を見あげるのは、心のなごむことだよ。星という星ぜんぶに、花が咲いてるように見える」
 「そうだね……」 

「水のこととも似てる。きみがぼくに飲ませてくれた水は、音楽みたいだった。滑車が歌って、綱がきしんで……ほら、思い出すでしょ……心にもおいしい水だった」
 「そうだね……」 

※写真の生け花(池坊)は、毎日、本を読んでいるスターバックス京都烏丸六角店で撮影

  ここで語られているたいせつなこととは?

ここで語られている「心」とは、私たちが通常「自分の心」と思っている浮き沈みする「感情」や「気分」、「考え」や「思い」、「願望」や「好み」といった表層的な心の動きのことではありません。

それは、自分の考え(物事を分別する心)を用いてわかろうとしても、絶対に知り得ない自他(主客)が分かれていない心のことです。

私たちは、このような話を聞くまで、物や人や世界を見ている「私(主体)」と、見えている「物や人や世界(客体)」は、それぞれ別々に(バラバラに)存在していると認識しています。

でも、私たちの「本来の心」は、そうなっていません。

そこで、星の王子さまは、自他がわかれていない「心」を一輪の花にたとえ、一つの心と見えている一切の事象(世界)との密接な関係を、こんなふうに伝えてくれています。

ちなみに日本では、弘法大師・空海も、「なぜ、私たちが生きている世界は、四苦八苦が絶えないのか」と問われ、「如実に自らの心(本来の心)を知らないからだ」と応えています。

9月の講話会では、見えない心と見える世界の関係について、また、自他をわける二元相対の心に基づき、なされた発言や行動が、なぜ、業(カルマ)となり、自業自得(禍いをもたらすこと)となるかについても話す予定をしています。

「きみの住んでるとこの人たちったら、おなじ一つの庭で、バラの花を五千も作ってるけど、…じぶんたちがなにがほしいのか、わからずにいるんだ」と、王子さまがいいました。

「うん、わからずにいる…」と、ぼくは答えました。

「だけど、さがしてるものは、たった一つのバラの花のなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなあ…」

「そうだとも」と、ぼくは答えました。

すると、王子さまが、またつづけていいました。
「だけど、目では、なにも見えないよ。心でさがさないとね」

サン=テグジュペリ「星の王子さま」より

お知らせ
9月開催の講話会では、二元相対のこの世界(現象界)で私たちが経験する「生・死」「自・他」「平和・戦争」「愛・憎」「幸・不幸」「美・醜」「成功・失敗」「得・失」の二元性が、いずれも自らの心によって投影されたものであり、日々、どのような道を歩むと、生死の輪廻を超えた涅槃寂静(仏教)、幸不幸を超えた至福(不ニ一元論)の世界に至れるのかをお話しします。

このところ、朝8時半を過ぎると、数軒先のビルの解体工事の音が響きだす。


ド、ド、ド、ド、ドカーン、ドカーン…

かなりけたたましい音ではあるが、環境がどう変わろうとも、毎朝、変わらず坐禅している。

坐禅を終えると、日によっては、少し眠たくなる日もあり、そういう時は、小一時間ほど横になって眠る。

不思議に思うのは、工事の音が鳴り響いていようが、それが子守唄のようになって、眠りに落ちてしまうこと。

坐禅中に音が聞こえてきても、まったく邪魔にならないし、それどころか、「ド、ド、ドカーン」という音には、なんの雑音も混じっておらず、スカッとしていて、その淀みのなさにより、心の中のすべてのモヤモヤや後悔、不安がきれいさっぱり吹き飛ばされてしまう。

10年前の私なら、工事の音が鳴り出しただけで、その場でじっとしておれず、半ば発狂状態になっていたのに、いつの間にか音がしても気にならなくなってしまっていた。

それを思うと、あらためて、不思議さを感じる。

(ちなみに、禅では、竹に石が当たる「カチーン」という音に触れた途端、悟れない苦悩から解脱された香厳禅師、コオロギの鳴き声を縁に、禅病から解脱された白隠禅師などさまざまな例がある)

また、何がなんでも、いつもの場所で坐禅しなくてはならない、というとらわれもなく、その日の天気や気分によっては、禅寺に行き、庭に向かって、鳥の声などを聞きながら坐禅する日もある。

また、歩いて2分ほどのところに、聖徳太子が建立された六角堂があり、毎日、お参りしたあと、隣接のスターバックスのソファに座り、BGM、さまざまなひとの人の話し声、氷を器具で救う音、ミキサーの音…などを聞きながら、椅子坐禅もしている。

聖徳太子は、一度に10人の声を聞き分けられた、という話があるが、これがどういう聞こえ方(聞法)であったかについても、知らず知らずのうちにわかるようになっていた。

そして、六角堂は、生け花発祥の地でもあり、スタバの店内には、池坊の花が飾られいる。


このような草花に、日々、接していると、それが身近な(親密な)ものになるので、華道そのものを行じてみたいという気にもなる。

京都に越してきた一年前まで、生け花になんの興味もなかったのに、いつの間にか、こうなってしまっているのだから、これも不思議に思う。

そして、「不思議」という言葉は、そもそも仏教用語で、「思議できないもの」であるのだから、不思議のまま、仏縁に従い、日々過ごしていこうと思う。

それ以外に、歩むべき道(大道)はないのだから。

お知らせ

このブログでは、文章上、「聞きながら」というように、あたかも「音を聞いている私」が存在しているように書きましたが、実際にはそうなっておらず、その事実に気づいた瞬間、これまでにあれやこれやと悩み苦しんでいた内容もろとも、ロウソクの炎を一息で吹き消すかのようになくなります。

長年、罪悪感や後悔、将来への不安、心配事がつかないという方は、具体的にどのようなことを日々、実践すると、苦悩からの解脱が起きるかを、オンラインの講話会、プライベートセッションでお伝えしていますので、ぜひ、ご活用ください。



昨夜、テレビを見ていたら、日本人の自己肯定感について、このような因果関係が示されていた。

日本人の多くは自己肯定感が低い→積極的に行動を起こせない→成功体験が乏しく実績もできない→自信を持って行動できない→いつまでも自己肯定感が高まらない

ざっくりまとめると、このような論法だった。

他国の人(大抵の場合、欧米人)と比較して、日本人はここが劣っている。

だから、私たちも、欧米の人たちと同じように、自己肯定感を高めれば、もっと積極的に行動を起こせるようになって、成功体験も行動の数にともない、それなりに増えて、自信を持てるようになり、この循環により、ますます積極的に行動できるようになる。

一見、もっともらしく思える論法なので、誰もが「なるほど!」と納得しやすくて、自己肯定感が低いと感じている人たちも、「それじゃあ、自己肯定感を高めるために、私もいっちょ頑張ってみるか」と思わせるような筋書きになっていた。

こうやって人は、観念によってつくりこまれた自己(自我)を自分だと自ら認め、その自己(自我)を立派なものにしよう(自己肯定感を高めよう)と試みようとする。

しかし、今、自己肯定感が低いと感じていようが、自己肯定感が高いと感じていようが、どちらにせよ相対的(二元的)な観念によるつくり事なのだから、高い、低いにとらわれる必要はない。


観念にとらわれ、その中でいくら小細工を重ね、立派そうな自己(自我)をつくりあげても、観念を超える本物の自己の大きさ、自由さには到底及ばない。

茶碗(観念)の内側にいつづけ、その中で立派なものになろうとする私(自我)は、茶碗の底さえ永遠に見ることができず、茶碗の中で地団駄を踏むばかり。

本物の自己は、はじめから茶碗の内側になんて留まっちゃいない。


お知らせ

7月10日(日)オンライン開催の講話会

「比較できる二つがあり得ない世界のあり様」のお申し込み、受付中です。

また、プロフィールを更新しました。



人は本来、迷いようがない。

戸惑いようがない。

狂いようがない。


それほど、きちんと日々、生活できている。


しかし、その確かな事実を見ようとせず、どこか他に、本当のことがあると思い込み、落ち着くことなくさまよい続ける。


探していたのはこれだ!と思えるものが見つかれば、その時、心穏やかな生活ができる。

というような夢を見ながら…。


これが、人の見解によるつくり話。


つくりものは、つくりものである以上、そのうち壊れる。


つくりものでない本物は、壊れたりはしない。


そして、隠れもしない。


いつでも堂々と見えている。

聞こえている。


欠けることも、余ることもなく、いつも満ち満ちている。


では、自分には、なぜ、それが見えないのか?


自分のポケットの中にダイヤモンドが入っているのに、それを知らず、宝物はどこにあるんだ、どこにあるんだ、と探し求めているから…。


このようなたとえ話があるが、「ポケットの中に隠れている」というだけ、余計な話。


「言葉の世界」の話は、それがどれだけわかりやすく語られていたとしても、「言葉の世界」の範疇から出れない。


「事実」は、あからさま。


語る必要もないほど、見えっぱなしで、ぐちゃぐちゃ混じり合うこともなく、きちっと整っている。


だから、迷いようがない。


探し求めていたものは、未来に見つかるのではなく、今、ちゃんとここにある。


お知らせ

7月10日(日)オンライン(zoom)開催。

講話会「比較できる二つがあり得ない世界(非二元)のあり様」の受付を開始しました。

日本人であれば、誰もが知っている「諸行無常」という言葉。



これはお釈迦さまが説かれた法(法則)であり、この法からはずれて存在しているものは、何一つありません。

この世界のあらゆるものは(もちろん、私たち人も含め)、ひと時として同じ状態で固定されていない。

これが仏教でいう「無常の法」です。

「法律」というものは、国によって異なりますが、「法(法則)」というものは万国共通のもの。

たとえば、どの国の人であろうと、舌の上に砂糖を乗せれば、甘みを感じます。

感覚器官の「舌」に「砂糖」が触れると「甘味」が生じる。
これが「因果の法」です。

そして、しばらくすると、「砂糖」が消え、「甘味」も消える。

まさに、諸行無常です。

このように、法は万国共通のもので、例外(法からはずれたもの)はあり得ません。

ところが、人の考え(我見)による定説は、法からはずれます。

代表的な例を一つあげれば、ギリシャの哲学者が語った「万物は流転する」という説が、それです。

では、なぜ、これが「無常の法」からはずれているのでしょうか?

その答えは、「万物が流転する様子」を眺めている人は、どの立場から「流転の様子」を眺めているのか?
それを確かめれば、わかることです。

「万物は流転する」と言いつつ、流転の様子を眺めている人だけ、流転の世界から外に出て、その立場から「流転の様子」を眺めています。
まるで、川岸に座って、向こう側に見える川の流れや星の運行を眺めているかのように。

これが、「動かぬ(中心点)」と「無常(変化し続ける世界)」とが、別々に存在しているかのように錯覚させている自我の働き「我見」です。

人は、この我見を通して、自分の様子のみならず、他人の様子(我見を通して見ているので自と他が別々にあるようにも見えている)を眺め、さらには感情の起伏も眺め、監視しようとしているのですが、西洋の哲学者も見抜けなかったように、人はなかなか自分の我見に気づけません。

自我(中心点)だけが、「無常」の法からはずれ、法に反することで苦しんでいる。

これが、法に目覚めた人(お釈迦さま)の教えで、この道理を理解した上で、日常のあらゆる行いを通して、我見を離れ、その時々の行いになり切る努力をしていけば、自ずと法にかなった生活になっていきます。

でも、難しく考える必要はありません。

お風呂につかれば、温かい。

感覚器官の「身」に「お湯」が触れた途端、「温かさ」が生じる。

これが「縁起(因果)」の法。

「身」と「お湯」と「温かさ」がまるで別々にあるかのように書きましたが、お風呂に入っている時、すべてが一つになっていることは明らかです。

法からはずれて苦しんでる自我の働きなど、どこにありましょう?

お知らせ

5月15日(日)オンライン(zoom)開催の講話会では、「生老病死」の四苦からの解脱についてお話しします。

先日、大阪の実家で、朝、目が覚め、リビングに行くと、80歳の母が、「大輔、ようそんなに眠れるなぁ」と声をかけられた。


ちなみに母は、よく眠る私に対して、このように声をかけるくらいだから、不眠で困っている。


そこで、私はこう答えた。

「そらぁ、毎日、坐禅してるからやで」


「瞑想に耽って、日頃からぼーっとしてるから、眠れるんか?」と母。


「瞑想と坐禅は、見かけ上、おなじように座ってるけど、まったくの別物やで。

坐禅は目を開けて坐ってて、なぜ、目を閉じないかというと、目を閉じるといろんな思いが出てきて、そうなることは別に問題ではないんだけど、出てきた思いに対して、ああでもない、こおでもないと考えに考えを付けたして観念の世界に入り込み、こうなるともう何がなんやら収集がつかなくなり、それによって迷いや悩みが深まってしまうからよ」


母に対しては、この程度の説明にとどめたが、実は、目を閉じて座っていると、ぼーっとしやすくなり、夜、眠っている間に、けったいな夢が現れる時と同じ半睡状態に陥りやすくもなる。


こうなってしまうと、もう坐禅ではなくなる。


人は、目を開けている時と熟睡している時は夢を見ない。

しかし、半睡状態になると、心理学的にいう潜在意識にあった夢が意識上に現れてくるのと同じように、目を閉じて座っていると、意識が朦朧としやすくなり、幻覚や妄想が現れやすくなる。


そして、ヒッピーの時代、この状態を座る目的だと勘違いした西洋人は、精神的な苦しさから逃れようと、手っ取り早く薬物(ドラッグ)などに頼り、幻覚を見ていた(仏性に目覚めるどころか、幻覚に耽るあまり、中毒になっていた)。


こういう時代があったことを、私の母は知っていたので、「坐禅」と聞いた瞬間、「幻覚や妄想に耽るもの」と、今日まで思い込み、冒頭の発言に至ったのだと思う。


では、なぜ、日々、目を開けて坐禅していると、よく眠れるようになるか?

その理由は、熟睡できるようになるために(そのような目的を持って)坐禅をしているわけではないからだ。


どういうことかというと、坐禅中は、無我になろうとか、悟ろうとしている自分が忘じられ、坐禅ひとつになりきっている。


このような姿勢というか態度が身につくと、今度は、座っている時だけでなく、文章を書いている時は書くばかり、食事中は食事を取るばかり、掃除中は掃除するばかり、就寝中は寝るばかり、と日常生活のすべてが「単」を示すと書く「禅」となる。


最後に。

一言に「坐禅」といっても種類があって、その一つに「凡夫禅」がある。


私は、7歳から15歳までの9年間、この凡夫禅(坐禅の要訣や修行の方向性を示されぬまま、ただ姿勢のみを整えて座る坐禅)をやっていたので、足がしびれ、それを耐えるだけの苦行となり、坐禅嫌いになってしまった。


そのため、この身と環境(宇宙)が一如となって働いている様子を体現できる正伝の仏法「最上乗禅」に出会えるまで、坐禅から約40年遠ざかってしまった。


しかし、ここで「遅れた分を取り戻そう」などと結果を急いだなら、本来ひとつのものを二つに見て(「自分と宇宙」「自分と仏」とを分けて距離をつくり)、その距離を縮めるのが修行だと思い込んでいる自我ありきの禅となるので、これは仏法から外れているので「外道禅」となる。


お知らせ

5月15日(日)、オンライン(zoom)開催の講話会のお申し込み受付を開始しました。