私はほぼ毎日、カフェや喫茶店で、本を読んで過ごしています。
今朝、九州の女性と、Zoomで非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやった。
彼女は、悩み苦しんでいる「私」がいて、その私がいなくなれば、悩み苦しみも消えるものだと思いこんでいた。
そこで、その方向にいったら、彼女が望んでいる「苦しみからの解放」がおこらなくなる理由を先に告げてから、他人でもなければ、私でもない、働きがあることを自覚してもらい、その働きのままで日々を過ごせば、「私がこれをやっている」という誤解が薄れ、どんどん安らげるようになることを伝えた。
そして、セッションの終わりがけに、「劣等感」についての質問がでた。
これについても、私が「劣等感」を感じるにも、「優越感」を感じるにも、私と他人とが別々にあることを認め、比較によって「優/劣」を計っている「自我意識」にもとづく感情であることに違いはないこと。
だから、たとえ、優越感を感じられる瞬間がきても、他人を見下したり、マウントをとるような言葉が出たりするので、自他が分離しているように思える世界観はそのまま維持され、安らぎを感じられるようにならないことを伝えた。
そして、セッションを終わってから、ヤクルト・スワローズの村上宗隆選手が、スイングした直後に驚きの表情を見せたシーンを思い出し、これも伝えておけばよかったなと思ったので記しておきます。
村上選手は、今シーズンの最終打席で56号のホームランを打った時にも「自分でも驚いた」と発言していましたが、それよりもかなり前の試合で(何号のホームランだったかは忘れてしまったのだが)、スイングした直後に、「今のはなんだったんだ!」と驚いたような体の動きと表情を浮かべながら、スタンドに飛んでいく打球を眺めていた時があった。
そして、試合後のインタビューで、「あの表情は、なんだったんですか?」と聞かれた村上選手は、「自分でもびっくりしたから…」と答えていた。
一流のスポーツ選手は、他人でもなければ、私でもないこの働きに、しばしば驚愕させられている。
それゆえ、たとえ「村神様」と崇められようが、村上選手は天狗になることもなく、優越感に酔いしれ浮かれることもなく、今シーズン、歴史に残る数々の記録を打ち立て、私たち野球ファンを大いに驚かせてくれました。
そして、ちょうど今日で、今年の野球も見納めとなりました。
今日は、朝のzoomでのセッションで、カープとホークスの話をして、夜はテレビで26年ぶりのバファローズの胴上げを見て、今日の締めくくりはこうして村上選手のことをブログに書き、どういうわけか、野球尽くめの一日となりました。
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前回の投稿
ここで語られているたいせつなこととは?
「きみの住んでるとこの人たちったら、おなじ一つの庭で、バラの花を五千も作ってるけど、…じぶんたちがなにがほしいのか、わからずにいるんだ」と、王子さまがいいました。
このところ、朝8時半を過ぎると、数軒先のビルの解体工事の音が響きだす。
お知らせ
このブログでは、文章上、「聞きながら」というように、あたかも「音を聞いている私」が存在しているように書きましたが、実際にはそうなっておらず、その事実に気づいた瞬間、これまでにあれやこれやと悩み苦しんでいた内容もろとも、ロウソクの炎を一息で吹き消すかのようになくなります。
長年、罪悪感や後悔、将来への不安、心配事がつかないという方は、具体的にどのようなことを日々、実践すると、苦悩からの解脱が起きるかを、オンラインの講話会、プライベートセッションでお伝えしていますので、ぜひ、ご活用ください。
人は本来、迷いようがない。
戸惑いようがない。
狂いようがない。
それほど、きちんと日々、生活できている。
しかし、その確かな事実を見ようとせず、どこか他に、本当のことがあると思い込み、落ち着くことなくさまよい続ける。
探していたのはこれだ!と思えるものが見つかれば、その時、心穏やかな生活ができる。
というような夢を見ながら…。
これが、人の見解によるつくり話。
つくりものは、つくりものである以上、そのうち壊れる。
つくりものでない本物は、壊れたりはしない。
そして、隠れもしない。
いつでも堂々と見えている。
聞こえている。
欠けることも、余ることもなく、いつも満ち満ちている。
では、自分には、なぜ、それが見えないのか?
自分のポケットの中にダイヤモンドが入っているのに、それを知らず、宝物はどこにあるんだ、どこにあるんだ、と探し求めているから…。
このようなたとえ話があるが、「ポケットの中に隠れている」というだけ、余計な話。
「言葉の世界」の話は、それがどれだけわかりやすく語られていたとしても、「言葉の世界」の範疇から出れない。
「事実」は、あからさま。
語る必要もないほど、見えっぱなしで、ぐちゃぐちゃ混じり合うこともなく、きちっと整っている。
だから、迷いようがない。
探し求めていたものは、未来に見つかるのではなく、今、ちゃんとここにある。
お知らせ
7月10日(日)オンライン(zoom)開催。
講話会「比較できる二つがあり得ない世界(非二元)のあり様」の受付を開始しました。
日本人であれば、誰もが知っている「諸行無常」という言葉。
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5月15日(日)オンライン(zoom)開催の講話会では、「生老病死」の四苦からの解脱についてお話しします。
先日、大阪の実家で、朝、目が覚め、リビングに行くと、80歳の母が、「大輔、ようそんなに眠れるなぁ」と声をかけられた。
ちなみに母は、よく眠る私に対して、このように声をかけるくらいだから、不眠で困っている。
そこで、私はこう答えた。
「そらぁ、毎日、坐禅してるからやで」
「瞑想に耽って、日頃からぼーっとしてるから、眠れるんか?」と母。
「瞑想と坐禅は、見かけ上、おなじように座ってるけど、まったくの別物やで。
坐禅は目を開けて坐ってて、なぜ、目を閉じないかというと、目を閉じるといろんな思いが出てきて、そうなることは別に問題ではないんだけど、出てきた思いに対して、ああでもない、こおでもないと考えに考えを付けたして観念の世界に入り込み、こうなるともう何がなんやら収集がつかなくなり、それによって迷いや悩みが深まってしまうからよ」
母に対しては、この程度の説明にとどめたが、実は、目を閉じて座っていると、ぼーっとしやすくなり、夜、眠っている間に、けったいな夢が現れる時と同じ半睡状態に陥りやすくもなる。
こうなってしまうと、もう坐禅ではなくなる。
人は、目を開けている時と熟睡している時は夢を見ない。
しかし、半睡状態になると、心理学的にいう潜在意識にあった夢が意識上に現れてくるのと同じように、目を閉じて座っていると、意識が朦朧としやすくなり、幻覚や妄想が現れやすくなる。
そして、ヒッピーの時代、この状態を座る目的だと勘違いした西洋人は、精神的な苦しさから逃れようと、手っ取り早く薬物(ドラッグ)などに頼り、幻覚を見ていた(仏性に目覚めるどころか、幻覚に耽るあまり、中毒になっていた)。
こういう時代があったことを、私の母は知っていたので、「坐禅」と聞いた瞬間、「幻覚や妄想に耽るもの」と、今日まで思い込み、冒頭の発言に至ったのだと思う。
では、なぜ、日々、目を開けて坐禅していると、よく眠れるようになるか?
その理由は、熟睡できるようになるために(そのような目的を持って)坐禅をしているわけではないからだ。
どういうことかというと、坐禅中は、無我になろうとか、悟ろうとしている自分が忘じられ、坐禅ひとつになりきっている。
このような姿勢というか態度が身につくと、今度は、座っている時だけでなく、文章を書いている時は書くばかり、食事中は食事を取るばかり、掃除中は掃除するばかり、就寝中は寝るばかり、と日常生活のすべてが「単」を示すと書く「禅」となる。
最後に。
一言に「坐禅」といっても種類があって、その一つに「凡夫禅」がある。
私は、7歳から15歳までの9年間、この凡夫禅(坐禅の要訣や修行の方向性を示されぬまま、ただ姿勢のみを整えて座る坐禅)をやっていたので、足がしびれ、それを耐えるだけの苦行となり、坐禅嫌いになってしまった。
そのため、この身と環境(宇宙)が一如となって働いている様子を体現できる正伝の仏法「最上乗禅」に出会えるまで、坐禅から約40年遠ざかってしまった。
しかし、ここで「遅れた分を取り戻そう」などと結果を急いだなら、本来ひとつのものを二つに見て(「自分と宇宙」「自分と仏」とを分けて距離をつくり)、その距離を縮めるのが修行だと思い込んでいる自我ありきの禅となるので、これは仏法から外れているので「外道禅」となる。
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5月15日(日)、オンライン(zoom)開催の講話会のお申し込み受付を開始しました。