人は本来、迷いようがない。
戸惑いようがない。
狂いようがない。
それほど、きちんと日々、生活できている。
しかし、その確かな事実を見ようとせず、どこか他に、本当のことがあると思い込み、落ち着くことなくさまよい続ける。
探していたのはこれだ!と思えるものが見つかれば、その時、心穏やかな生活ができる。
というような夢を見ながら…。
これが、人の見解によるつくり話。
つくりものは、つくりものである以上、そのうち壊れる。
つくりものでない本物は、壊れたりはしない。
そして、隠れもしない。
いつでも堂々と見えている。
聞こえている。
欠けることも、余ることもなく、いつも満ち満ちている。
では、自分には、なぜ、それが見えないのか?
自分のポケットの中にダイヤモンドが入っているのに、それを知らず、宝物はどこにあるんだ、どこにあるんだ、と探し求めているから…。
このようなたとえ話があるが、「ポケットの中に隠れている」というだけ、余計な話。
「言葉の世界」の話は、それがどれだけわかりやすく語られていたとしても、「言葉の世界」の範疇から出れない。
「事実」は、あからさま。
語る必要もないほど、見えっぱなしで、ぐちゃぐちゃ混じり合うこともなく、きちっと整っている。
だから、迷いようがない。
探し求めていたものは、未来に見つかるのではなく、今、ちゃんとここにある。
お知らせ
7月10日(日)オンライン(zoom)開催。
講話会「比較できる二つがあり得ない世界(非二元)のあり様」の受付を開始しました。