「諸行無常」の法 | 非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

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より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

日本人であれば、誰もが知っている「諸行無常」という言葉。



これはお釈迦さまが説かれた法(法則)であり、この法からはずれて存在しているものは、何一つありません。

この世界のあらゆるものは(もちろん、私たち人も含め)、ひと時として同じ状態で固定されていない。

これが仏教でいう「無常の法」です。

「法律」というものは、国によって異なりますが、「法(法則)」というものは万国共通のもの。

たとえば、どの国の人であろうと、舌の上に砂糖を乗せれば、甘みを感じます。

感覚器官の「舌」に「砂糖」が触れると「甘味」が生じる。
これが「因果の法」です。

そして、しばらくすると、「砂糖」が消え、「甘味」も消える。

まさに、諸行無常です。

このように、法は万国共通のもので、例外(法からはずれたもの)はあり得ません。

ところが、人の考え(我見)による定説は、法からはずれます。

代表的な例を一つあげれば、ギリシャの哲学者が語った「万物は流転する」という説が、それです。

では、なぜ、これが「無常の法」からはずれているのでしょうか?

その答えは、「万物が流転する様子」を眺めている人は、どの立場から「流転の様子」を眺めているのか?
それを確かめれば、わかることです。

「万物は流転する」と言いつつ、流転の様子を眺めている人だけ、流転の世界から外に出て、その立場から「流転の様子」を眺めています。
まるで、川岸に座って、向こう側に見える川の流れや星の運行を眺めているかのように。

これが、「動かぬ(中心点)」と「無常(変化し続ける世界)」とが、別々に存在しているかのように錯覚させている自我の働き「我見」です。

人は、この我見を通して、自分の様子のみならず、他人の様子(我見を通して見ているので自と他が別々にあるようにも見えている)を眺め、さらには感情の起伏も眺め、監視しようとしているのですが、西洋の哲学者も見抜けなかったように、人はなかなか自分の我見に気づけません。

自我(中心点)だけが、「無常」の法からはずれ、法に反することで苦しんでいる。

これが、法に目覚めた人(お釈迦さま)の教えで、この道理を理解した上で、日常のあらゆる行いを通して、我見を離れ、その時々の行いになり切る努力をしていけば、自ずと法にかなった生活になっていきます。

でも、難しく考える必要はありません。

お風呂につかれば、温かい。

感覚器官の「身」に「お湯」が触れた途端、「温かさ」が生じる。

これが「縁起(因果)」の法。

「身」と「お湯」と「温かさ」がまるで別々にあるかのように書きましたが、お風呂に入っている時、すべてが一つになっていることは明らかです。

法からはずれて苦しんでる自我の働きなど、どこにありましょう?

お知らせ

5月15日(日)オンライン(zoom)開催の講話会では、「生老病死」の四苦からの解脱についてお話しします。