先日、大阪の実家で、朝、目が覚め、リビングに行くと、80歳の母が、「大輔、ようそんなに眠れるなぁ」と声をかけられた。
ちなみに母は、よく眠る私に対して、このように声をかけるくらいだから、不眠で困っている。
そこで、私はこう答えた。
「そらぁ、毎日、坐禅してるからやで」
「瞑想に耽って、日頃からぼーっとしてるから、眠れるんか?」と母。
「瞑想と坐禅は、見かけ上、おなじように座ってるけど、まったくの別物やで。
坐禅は目を開けて坐ってて、なぜ、目を閉じないかというと、目を閉じるといろんな思いが出てきて、そうなることは別に問題ではないんだけど、出てきた思いに対して、ああでもない、こおでもないと考えに考えを付けたして観念の世界に入り込み、こうなるともう何がなんやら収集がつかなくなり、それによって迷いや悩みが深まってしまうからよ」
母に対しては、この程度の説明にとどめたが、実は、目を閉じて座っていると、ぼーっとしやすくなり、夜、眠っている間に、けったいな夢が現れる時と同じ半睡状態に陥りやすくもなる。
こうなってしまうと、もう坐禅ではなくなる。
人は、目を開けている時と熟睡している時は夢を見ない。
しかし、半睡状態になると、心理学的にいう潜在意識にあった夢が意識上に現れてくるのと同じように、目を閉じて座っていると、意識が朦朧としやすくなり、幻覚や妄想が現れやすくなる。
そして、ヒッピーの時代、この状態を座る目的だと勘違いした西洋人は、精神的な苦しさから逃れようと、手っ取り早く薬物(ドラッグ)などに頼り、幻覚を見ていた(仏性に目覚めるどころか、幻覚に耽るあまり、中毒になっていた)。
こういう時代があったことを、私の母は知っていたので、「坐禅」と聞いた瞬間、「幻覚や妄想に耽るもの」と、今日まで思い込み、冒頭の発言に至ったのだと思う。
では、なぜ、日々、目を開けて坐禅していると、よく眠れるようになるか?
その理由は、熟睡できるようになるために(そのような目的を持って)坐禅をしているわけではないからだ。
どういうことかというと、坐禅中は、無我になろうとか、悟ろうとしている自分が忘じられ、坐禅ひとつになりきっている。
このような姿勢というか態度が身につくと、今度は、座っている時だけでなく、文章を書いている時は書くばかり、食事中は食事を取るばかり、掃除中は掃除するばかり、就寝中は寝るばかり、と日常生活のすべてが「単」を示すと書く「禅」となる。
最後に。
一言に「坐禅」といっても種類があって、その一つに「凡夫禅」がある。
私は、7歳から15歳までの9年間、この凡夫禅(坐禅の要訣や修行の方向性を示されぬまま、ただ姿勢のみを整えて座る坐禅)をやっていたので、足がしびれ、それを耐えるだけの苦行となり、坐禅嫌いになってしまった。
そのため、この身と環境(宇宙)が一如となって働いている様子を体現できる正伝の仏法「最上乗禅」に出会えるまで、坐禅から約40年遠ざかってしまった。
しかし、ここで「遅れた分を取り戻そう」などと結果を急いだなら、本来ひとつのものを二つに見て(「自分と宇宙」「自分と仏」とを分けて距離をつくり)、その距離を縮めるのが修行だと思い込んでいる自我ありきの禅となるので、これは仏法から外れているので「外道禅」となる。
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