このところ、朝8時半を過ぎると、数軒先のビルの解体工事の音が響きだす。
ド、ド、ド、ド、ドカーン、ドカーン…
かなりけたたましい音ではあるが、環境がどう変わろうとも、毎朝、変わらず坐禅している。
坐禅を終えると、日によっては、少し眠たくなる日もあり、そういう時は、小一時間ほど横になって眠る。
不思議に思うのは、工事の音が鳴り響いていようが、それが子守唄のようになって、眠りに落ちてしまうこと。
坐禅中に音が聞こえてきても、まったく邪魔にならないし、それどころか、「ド、ド、ドカーン」という音には、なんの雑音も混じっておらず、スカッとしていて、その淀みのなさにより、心の中のすべてのモヤモヤや後悔、不安がきれいさっぱり吹き飛ばされてしまう。
10年前の私なら、工事の音が鳴り出しただけで、その場でじっとしておれず、半ば発狂状態になっていたのに、いつの間にか音がしても気にならなくなってしまっていた。
それを思うと、あらためて、不思議さを感じる。
(ちなみに、禅では、竹に石が当たる「カチーン」という音に触れた途端、悟れない苦悩から解脱された香厳禅師、コオロギの鳴き声を縁に、禅病から解脱された白隠禅師などさまざまな例がある)
また、何がなんでも、いつもの場所で坐禅しなくてはならない、というとらわれもなく、その日の天気や気分によっては、禅寺に行き、庭に向かって、鳥の声などを聞きながら坐禅する日もある。
また、歩いて2分ほどのところに、聖徳太子が建立された六角堂があり、毎日、お参りしたあと、隣接のスターバックスのソファに座り、BGM、さまざまなひとの人の話し声、氷を器具で救う音、ミキサーの音…などを聞きながら、椅子坐禅もしている。
聖徳太子は、一度に10人の声を聞き分けられた、という話があるが、これがどういう聞こえ方(聞法)であったかについても、知らず知らずのうちにわかるようになっていた。
そして、六角堂は、生け花発祥の地でもあり、スタバの店内には、池坊の花が飾られいる。
このような草花に、日々、接していると、それが身近な(親密な)ものになるので、華道そのものを行じてみたいという気にもなる。
京都に越してきた一年前まで、生け花になんの興味もなかったのに、いつの間にか、こうなってしまっているのだから、これも不思議に思う。
そして、「不思議」という言葉は、そもそも仏教用語で、「思議できないもの」であるのだから、不思議のまま、仏縁に従い、日々過ごしていこうと思う。
それ以外に、歩むべき道(大道)はないのだから。
お知らせ
このブログでは、文章上、「聞きながら」というように、あたかも「音を聞いている私」が存在しているように書きましたが、実際にはそうなっておらず、その事実に気づいた瞬間、これまでにあれやこれやと悩み苦しんでいた内容もろとも、ロウソクの炎を一息で吹き消すかのようになくなります。
長年、罪悪感や後悔、将来への不安、心配事がつかないという方は、具体的にどのようなことを日々、実践すると、苦悩からの解脱が起きるかを、オンラインの講話会、プライベートセッションでお伝えしていますので、ぜひ、ご活用ください。